第43話 (第17話解説付き)

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 数日後。僕は先日の居住地跡に向かっていた。目的は建築物の解体。居住者が退去した住居を長期間放置すると、何者かが不法にそこに住み着く可能性が出る。解体は限界区域の指定から遅くとも二週間以内に開始する定めだ。

 リサイクル対象資材は既に回収済み。消費エネルギーの節約を優先し、残る作業はかなり荒っぽくなる。ぶっ壊して、その場で穴を掘って埋めるだけ。


 大型の作業機械が三台。キャリアーが八台。周辺が整地されている状況での作業は実に効率的に行われる。家屋七軒の解体完了は三十二時間後の予定だ。

 現場には来たが、僕がやるべきことはほとんどない。作業開始前に人間が居ないことの最終確認担当とされているが、実際には先行したキャリアー群がしっかりとスキャニングを完了している。僕がここにいるのは例によって作業責任者の名前を記録する必要があるという、ただそれだけの理由だ。面倒くさがった班長は同行を渋り、今日の担当は僕一人。


 安全確認の完了をチェックして作業開始を指示すると、それぞれの機械が一斉に動き出した。スムーズで奇妙に有機的な一群の動き。軽い生理的嫌悪感を覚えて視線を外す。僕はどこか力なく見える太陽を見上げた。

 忍び寄る不気味な兆候。観測によれば、太陽の活動は徐々に弱まりつつある。

 この文明を終結させるには、氷期が始まるほどの気候変動など要らない。地球の歴史上何度も発生した、数百年単位の寒冷期。それだけで十分だ。

 人類は今も、破滅の淵に佇んでいる。



 さっさと本庁に戻ろう。どうせ特別なことなんて何もない。

 暗い薄靄に覆われたような僕の意識を、警告音が目覚めさせた。誰かが近づいている。

 安全のため、僕はまずキャリアーを向かわせた。「工事中:接近禁止」の注意を表示させると、その人物は立ち止まった。僕はゆっくりとそちらに向かい、見覚えのある人影に向かって声をかけた。


「どうやって、ここに?」

「歩いてきた。当然だろ」

 そこに居たのは先日の老人だった。GPSは規定通り発信されている。所持品の中にも違法要素は無いようだった。


「ここも潰しちまうんだろ。最後の見納めだ。ちっと見せろよ」

 作業の邪魔にならない範囲でしたら。そう言って僕は老人をエスコートする。崩される住居を見上げ、老人は嘆息した。

「とうとうだな。長年の付き合いだったんだがなぁ」

「熊の肉でも届けていたんですか?」

 軽い皮肉のつもりで言ったのだが、老人は大真面目に頷いた。

「どっちかってぇと鳥、それに鹿肉のほうだけどな。喜ばれたぜ」


 僕は先日の解体作業を思い出して、少し気分が悪くなる。いまだに本物の肉を口にするのは年配の人だけだ。何のためにそんな風習を続けているのかは分からないが、それでも殺すために飼育するよりはまだ理解できた。野生生物の数をコントロールする必要性もあるのだし。そう考えて無理に自分を納得させる。


「もともと、土地なんて誰のものでもねぇ。人間様のものだなんて言っていられるのも一瞬だけだな。結局はこうして、何もかもが消えていきやがる」

「限界区域内に自分の土地を持つ方の言葉とは思えませんね」

 僕のまぜっかえしに、老人は喉を鳴らした。

「確かにそうだな。違ぇねぇ」

 飄々とした笑い。

「あの、こんな質問をするのは失礼かもしれませんが」

「ん? なんでぇ」

「その、大丈夫なんですか。これから先、独りで」

 周辺に居住していた人々は全て退去してしまった。ネット環境も整備されていない中、この老人は孤独の中に取り残されることになる。

 しかし、僕のそんな言葉を老人は笑い飛ばした。

「はん。今更ってもんだぜ」

 愉快そうに付け加える。

「もし心配だってんなら、お前さんが時々顔出せや。そいつが仕事だろ」

 成程。言われてみればまさにその通りだ。

 そうですねと言って笑いながら、しかし、それだけでは済まされなさそうにも思えた。僕は資料を確認してみる。幾つか気になる兆候があった。


「よろしければ、自宅まで送りましょうか」

 僕の提案に、老人は相好を崩す。

「久々のドライブってやつか。悪くねぇな」

「銃はしまって頂く必要がありますが」

「指示には従うさ。難癖を付けられたらたまらねぇからな」

 老人はそう言って担いだ猟銃をしまいこみ、ケースごとそれを僕に手渡した。

「よし、行こうぜ」

 僕は公用車の経路変更を申請した。許可が下りる。

 銃を貨物スペースに収納してから、僕は老人を公用車に招き入れた。

 扉が閉まり、車が動き出す。僕は暑苦しいヘルメットを脱いで老人に相対した。

「独りで猟をするのは、危険じゃないんですか?」

「猟はいつだって危険だ。だけどよ、一番危ないのは同行者の誤射なんだぜ。その意味じゃぁ、独りの方が安全って言ってもいい」

 いかにも長年の経験者らしい回答だった。

「ですが、熊だっているんでしょう? 一人というのはちょっと」


 熊は猛獣だ。本気で襲い掛かられたら人間などひとたまりもない。限界区域に入る職員は、その危険について繰り返し研修を受ける。老人は熊も猟の対象にしていたが、本来は単独で相手にすべき生き物では無い。

 だが老人は、僕の質問にまるで見当外の回答を口にした。


「ああ。あれはとびきりに美しいな」

「美しい?」

「熊は進化的に優れた生物なんだぜ。一対一なら、およそどんな生き物にだって負けない。雑食性の上、温度に対する適応能力も高い。極地から熱帯まで生息可能で常に食物連鎖の上位に君臨できる生き物なんてぇのは、人間を除けば熊ぐらいのモンだ」

 ふん、と老人は鼻を鳴らす。

「人間が居なくなりゃあ、そこは熊の天国になる。当然と言えば当然の話だな」


 僕はその語り口に驚く。何というか、それまで僕が勝手に抱いていたイメージと違う、ひどくアカデミックな考察を感じさせる何かが含まれていた。

 老人は悪戯に成功した子供のような笑みを浮かべる。

「意外か? こんな見てくれだが、元は外科医だ。それなりに学はあるんだぜ」


**************

【解説:外科医】

 今後、外科医がAI技術を活用するようになることは間違いない。ちなみに外科医という職業が駆逐されるかどうかは、「失敗した時の責任を誰が取るのか」という要素に絡んでくるだろう。

 後は、優秀なマニピュレータの開発。人間の手足が有する柔軟な機能を再現するのは大変だと思う。データの蓄積が進めばいずれAIによる執刀の方が優秀になると思うが、しばらくはハイブリッドで行われる可能性が高そうだ。

 作中世界においては、戦争の結果で人命の価値が安くなったことと、誰でも同一レベルの施術を受けられるという利点が勝ったことが原因で、AI医師が優勢になっている。

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 老人の笑みに、苦い何かが加わった。

「お前さんぐらいの年齢だと、人間が執刀するなんてのは違和感があるだろうな」

「ええ。正直に言えば、ちょっと怖いです」

 僕も執刀の練習をしたことはある。災害現場での緊急対応訓練。

 マニピュレータが存在しない状況では、ソフトの支援を受けつつ職員が作業を行うことになる。しかし、僕がこの手で行う手術を受けたいと思う人など、誰もいないだろう。

「昔は全部人間がやったもんだ。そんなに遠い話でもねぇ」

「そうなんですか。僕が生まれる前の話だと思っていました」

 僕が素直に漏らした感想に、老人は意表を突かれたようだった。一瞬動きを止め、そして、カラカラと笑いだす。

「まったくだぜ。こいつぁ訂正しねぇとな」

 そして、ポツリと付け加えた。

「昔の話だ」


 暫くしてから、僕は笑いの意味に気付く。

 そうか。僕にとっては生まれる前のことであっても、この人にとっては「たった二十数年前の話」でしかない。

 考えてみればAIと呼ばれるものが誕生してからの年月は精々五十年。僕の年齢の倍程度でしかない。戦争が約三十年前。

 老人の人生はそれよりもずっと長い。社会がその姿を変える様子を、この人は何度も見続けてきたのだ。

 それは、公務員としてやや軽率な行動だったかもしれない。しかし、僕はつい自分の好奇心を優先させてしまった。


「失礼ですが、少しお話を伺ってもいいですか」

「うん?」

「戦前の時代って、どんな風だったんでしょうか」

 僕の質問に対し老人は首を捻る。

「どんな風、って言われてもなぁ」

 老人はなんとも微妙な表情になった。

「なんでまた、そんなことを聞いてきやがる」

 僅かに滲み出る警戒の気配。

「すみません。あくまでも僕の個人的な興味と言いますか、悩みのようなもので」

 仕事ではなく、あくまでもプライベートな話題であることを、僕は強調した。

「最近、色々な世代の方と話をする機会があって。その中である人に言われました。現代人の生き方はおかしいと」

 老人は腕を組み、顎に手を当てた。

「それまでは特にそんなことを意識してはいなかったのですが、一度考えてしまうと、どうもモヤモヤした気分が晴れなくなってきて」

 僕は自分の感じた疑問を必死にまとめようとする。

「戦後になってから、社会は大きく変わったと思います。基本的にはプラスの変化だったとは思いますが、やっぱり、その中で無くなってしまったものがあるのではないかと」

 しどろもどろだった言葉が、段々と形になっていった。

「AIの活用やレーティングシステムは確かに社会を良くしたのでしょうけれど、同時に人間の生き方を変えてしまったことも間違いないと思います」

 だが、それが何であるのか。僕にはまだ理解できていない。

「その点をどう感じるのか。実際に見てきた方に、何か参考になる話でも聞くことが出来ればと、そう思って」


 老人は首を傾げると視線を宙に上げた。

「そりゃあ、あれか。現代社会における構造的な問題、みたいな話か」

「ええ、そうです」

「人間関係の希薄化と孤独」

「はい。まさにそういった要素と言いますか」

 老人はそこで口調を変えた。何かの文章を読み上げるかのように。

「現代は機械化が進みすぎ、社会はあまりにも効率性を求めすぎてる。その中で疎外され、自分の努力が肯定される機会を無くした人々は、生きている意味を感じ取ることが出来なくなりつつある。失われた人間性を回復するには、かつてあった人間同士の触れ合いを取り戻す必要があるのではないか」

 一度言葉を切り、にやりと笑う。

「言葉で表現すりゃあ、まあ、そんな内容だろ?」

 老人の見事な言い回しに僕は感心した。

「おっしゃる通りです。やはりそう感じますか」

 一瞬の後、老人は笑いを爆発させた。

 混乱する僕を尻目に腹を抱えて笑い転げる。

「はっ、はは。ワリぃ。つい昔を思い出しちまってな」


 笑いの止まらぬまま、老人は言葉を続けた。

「いや、だが確かにお前さんの疑問は尤もだぜ。いつだって、自分の生きている世界ってのはクソったれなもんだ」

 老人はもう一度忍び笑いをしてから、僕に向き直った。

「面白いじゃねぇか。オレは老人だ。感傷ってモンが入るぜ。それで良ければ、話をしてやるよ」

 だが、と老人は一つ注文を付けた。

「こいつは記録に録られたくねぇな。そいつが条件だ」

 ああそうかと僕は気付く。こういった話は、思想に関するレーティングに影響が出る可能性がある。継続居住者の立場では慎重になって当然だ。とは言え僕は公務中で、会話記録を残す義務がある。


「あいつから教わってねぇか」

 頭を掻いた老人は、とんでもないことを言い出した。

「臨時休暇の申請をしろよ」

「今ここで、ですか?」

 僕達は限界区域の中にいる。しかも公用車に乗って移動中だ。

「理由を付けてみろ。住民からの要望だ。会話を残したくないってな。変則的だが、認められるはずだぜ」

 半信半疑のまま、僕は言われたとおりに一時間の申請をしてみた。AIからあっさりと承認の回答が返って僕は驚く。

 後日班長に聞いてみたのだが、対人接触の現場では、記録に残したくないという希望は珍しくないらしい。どこかの職員が強引に休暇扱いで乗り切った事例が噂として広まり、他の職員が真似をし始めた。そして類似件数があまりにも増えたため、いつの間にかAIが一般的な申請として取り扱うようになってしまったらしい。現場仕事ならではの独特の慣習、一種の裏技というわけだ。


「受理されました」

 そう告げてから、僕は老人が申請記録を確認できる端末を持っていないことに気付いた。しかし、それを察した老人は構わないという風に手を振る。

 僕の言葉を信じたのだ。それはちょっとした新鮮な驚きだった。

「ちょっと待て。考えをまとめるぜ」

 そう言って、暫し老人は沈黙した。立てた人差し指をゆらゆらと揺らす。

「単純に戦前と言っても漠然としすぎてるしな。オレは、自分が知ってる世界しか話せねぇ。だからあくまでもその範囲で、てぇコトになるぜ」

 そして次に、僕にその指を向けた。

「現代の人間が無力感や疎外感を感じているなら、その理由はなんだと思う?」

「そうですね。自分が社会に必要だという確信が持てないからだと思います」

「なぜ確信を持てねぇ?」

「自分自身が存在しなくても、社会は成立するでしょうから。現代における生産は機械が主体です。言ってしまえば、人間は何もしなくても構わない。それに満足してVRルームに籠り、個人的な快楽を追求するというのも一つの道ですけど、それに飽き足らない人だっているでしょう。ですがその先を見つける事が出来ません」

 老人はうんうんと同意する。

「オウよ。だけどな、戦前の個人的な記録を見たコトはあるか? あれを見りゃあ分かるが、戦前だって孤独と無力を感じていた奴は珍しくねぇ」

 意外な話だった。そういった知識に欠けていた僕は、イメージだけで「そういったものは例外的な存在だった」と思い込んでしまっていたのだ。


「ただ、今と質的に違うのは確かだな」

「どの部分が、違うんでしょうか」

「嫉妬の対象、だ」

「嫉妬?」

 どういう意味なのだろうか。

「以前は他人だった。今じゃあ、機械だ」

 老人は僕の理解を確かめるかのように、瞳を覗き込む。

「誰もが無力で疎外されている状況なら、それを嘆く必要はねぇんだよ。人間ってぇのは、他者がそれを所有していると知っているからこそ、そいつが自分の手に無いことを嘆く。要するに、嫉妬さ」

 指摘されてみればその通りだ。「自分も得られたはずの何か」があると信じているからこそ、不満を抱く。成程。

「だからよ、話は現代人が感じる不足に焦点を当てるぜ」


 表情は変わらない。しかし、どこか老人の纏う雰囲気が変わっていく。

 瞳の大きさ、姿勢、顔や全身の筋肉に与えられた微妙な差異。雰囲気の変化とは、基本的には映像で表現できる何かだと僕は思っていた。

 しかしこうやって間近に見ると、それだけではないことが分かる。僕は見事な演劇を鑑賞するように、その様に見入っていた。


「こう聞くと良い気分はしねぇだろうが、オレに言わせれば戦前の世界ってのは楽しかったぜ。色々と無茶苦茶でな」

 老人の口調は明るかった。その裏に含まれる深い陰を隠そうとするように。

「当時の人々は自分で道を選び、決定することが出来たからな。ほとんど建前だったとは言え、少なくとも意思決定のプロセスに参加できる可能性はあった」

 それは、今は亡き親友のエピソードを語っているような印象を僕に与えた。


「その意味じゃ、現代との違いを一番表しているのは政治体制だろうな。お前さんも、戦前の民主主義制度ってのを聞いたことあんだろ」

 既に廃れた過去の社会制度。大した知識は無かったが、一番素直に浮かぶ感想を答えることにした。

「正直なところ、あまり合理的な制度では無いと思いました」

「具体的には?」

 学んだ際に気になったのは、多数決という手法だ。

「全員が科学的に中立、かつ正確な知識を有していなければ、多数決をしても正しい結論は導き出せませんよね。逆に正確な知識があるならば、多数決という手順を経ることに意味がありません」

 正しい評価値を示してもらえれば、人々の意思決定はその値の大きさに比例した分布となるに決まっている。大事なのは正当な評価システムの方だ。

「あの手法では、正解に辿りつくのは運任せになってしまうのでは? いえ、確率はそれ以下です。単純な多数決というシステムは、人間の欲望のせいで無責任な決定を招きやすい」


 くくくと老人は喉を鳴らす。

「まったくだな。そのせいで、世界はこんな風になっちまった」

 完全に他人事といったその口調は、いっそ清々しいほどだった。

「だが聞けよ。民主主義ってのは元々、多数決で正解を探す制度じゃねぇんだ」

 老人は再び僕を指さした。

「当時はレーティングシステムなんて無かったんだぜ。どんなやり方をしたって、正解に辿り着く可能性は大して変わりはしねぇ。そうだろ?」

 ああ、そうか。当時は人々の行動を詳細に記録し、それを数学的に処理することは出来なかったから。そもそも合理的な評価システム自体が成立しない。

 先ほどの老人の話を思い出す。誰もが実行不可能な状況ならば、その能力が欠けていることは欠点として認識されない。

「それでもな、多数決って制度は、道を間違えた時にそれを修正する機能なら果たせる。ありゃあ、それだけが唯一の長所だったんだよ」

 僕は老人の言葉を咀嚼する。成程。それなら理解できなくもない。

 当時はそもそも、中立的で正確な知識というものが存在しなかった。存在はしていたとしても、探し出す手段がなかった。そんな状況で政治体制に望まれる機能は、せめて明らかな間違いを正す。その程度を限度とせざるを得なかったのだ。


「唯一の長所を機能させるためには、世の中にはマズいことが起きたことを知らせるためのアラームが要る。マスコミ……マスメディアって呼ばれてた連中だ」

「聞いたことありますけど、どうにも違和感がありますよね。その呼び名」

「うん?」

「規模的にはそれ程でもありませんよね? それに、マスコミュニケーションという用語も感心しません。当時の技術じゃ情報の流れが一方通行ですから、コミュニケーションになっていないと思うんですが」

 再び老人が笑う。楽し気に。

「分かってるじゃねぇか。そうだな。そいつも技術の限界だった。その点を踏まえると、別に民主主義ってシステムも不合理じゃねぇ。間違いを見つけ出すアラームと、間違いを正すことぐらいなら可能な意思決定制度。その組み合わせだ。万全じゃねぇが、当時出来ることの精一杯だったと言ってもいいだろうよ」

 僕は感心する。視点を変えるとはこういったことか。当時の人々の目線で見れば、物事の評価は変わってくる。


「けどな、いつしかそいつは崩れ出した。結局のところ、民主主義ってシステムは不安定だった。困ったことに前提が矛盾していやがったんだ」

「どういった点が、でしょうか」

「民主主義のシステムには、一つの前提があった。人間は議論することで対象への理解を深めていき、その中で人々はより良い意見を選択するようになっていくという仮定だ。簡単に言やぁ、知性によって自分の意見を変化させる能力があるってコトだ」

「それほどおかしい前提とも思えませんが」

「フン。だがよ、それはつまり自分の間違いを認めるってコトでもある。そいつが人間にはえらく難しいのさ」

 そうだろうか。ちょっとした違和感。

「そうなんですか? 現代の人々は割と普通に出来ているように思えますけど」

 ああ、勿論うちの窓口に来るような人は例外としての話だが。

 しかし、老人はフンと鼻息を吐いた。僕の理解の浅さを嘆くように。

「レーティングの数字が高い方を選び直すのとは訳が違うんだぜ。議論で自分が信じる道を変えるってのは、それこそ信じる神を変えるぐらいの心理的負担がある」

 うーん。そう言われてしまうと良く分からなかった。自分自身が体験したことのないものを理解するのは難しい。


「レーティングに関係のねぇ決断か。そうだな。猫でも飼ったことはあるか?」

「犬でしたら」

「それでいいぜ。子犬を引き取って飼ったとする」

「はい」

「ある日、その子犬より良い犬がいるから取り替えろと言われたらどうする? はいと言って応じるかよ」

「そんな訳ないでしょう。拒否しますよ」

「それ位だと言やぁ、想像つくだろ」

 うん。それは嫌だ。なぜならそれは数値の問題では無い領域の話で……そう考えてから、そうかと僕は納得する。当時は政治的な意思決定ですら、評価の数値ではなく、愛着を基準に選ぶものだったということか。


「おまけに多数決ってシステムは、単純に勝ちを目指すなら自分の意見を決して変えない方が有利だ。戦前じゃ、多数決に勝つことが様々な利益に直結していたからな。個人にはシステム全体の健全性を保つ動機が存在しねぇ。だから、誰もがよってたかって唯一の長所を破壊する行為に走った」

 老人は口を歪めて笑った。

「そうして出来上がったのは、誰も間違いを認めず、他人だけを非難する狂った社会だ。はびこるソフィストの群れ。ギリシャのそれと同じ結末だな。してみるとよ、こいつぁどうも民主主義ってシステム自体に含まれた欠点らしい」


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【解説:議会制民主主義】

 議論が有効であるのは、それにより参加者が自らの立場を変える可能性がある場合だけである。だが作中にもあるように、単純に多数決で勝つだけなら理解と対話を拒否した方が有利なのだ。一度その戦術が広まると、相手側も対抗のために同じ態度を取らざるを得ない。そうなれば議論は単なる時間の無駄となり、多数決による強引な決定だけが残される。合意により、一部ではなく全体の満足を優先した決定がされることも、それにより社会の融和を図ることも出来なくなっていく。最初から相互理解を放棄した人々が民主主義にとって極めて危険な存在である理由は、ここにある。

 だが、有利な戦術を放棄させることは難しい。あるいは民主主義とは致命的なルール設定のミスがあり、プレイヤーのスキルが上昇すると必然的に崩壊する類のゲームであるのかも知れない。

 ちなみに、このことについて誰が最初に引き金を引いたのかを断定するのは難しい。各国におけるポピュリスト達と、彼らに経済的な利益を分配しないまま高尚なポリティカルコレクトを振りかざすエリート層。日本においては、理不尽な言いがかりに等しい非難を続ける野党と、聞くべき重要な指摘まで無視する与党。

 だが、誰が犯人であったかの議論など意味を持たないのだ。「お前が悪い」としか叫ばない者は、民主主義の正しいプレイヤーになれない。大事なのは、その一点である。

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 乾いた笑いを続ける老人に、僕は疑問をぶつけた。

「先ほどのお話ですと」

 自分の理解が正しいことを確認する。

「そういった社会の混乱や問題が生じたとき、警鐘を鳴らすのがマスメディアの役割だったんですよね」


 間違いを正すためのシステム。それにより人々は話し合いを開始し、危機に対処する。それが期待された役割ではなかったのか。

「ああそうだ。だがよ、そいつは機能しなかったんだ。理由は色々あンだが、一番はマスメディアが社会改革の意図を強く持ち過ぎたコトだろうな」

 はて。その説明はよくわからない。

「警鐘を鳴らすのは、社会の問題点を改善するためでしょう? そういった意図を持たなければ、そもそもおかしい気がしますけど」

「ああ。だけどな、あまりにも強く意思を持ちすぎたんだ」

 老人は僕が理解できる言葉を探して、宙に視線を上げた。

「センサーってのはな、正確な数字を示すことが第一だろ。警報器が願望や期待、理想なんてモンを持ったら、そいつは誤動作しているのと変わらねぇ。違うか?」


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【解説:マスメディア】

 現代のマスメディアは余りにもポリティカルコレクトを重視し過ぎ、現実への対処能力よりも思想への忠誠度で物事を評価している。そんな疑念を感じたことはないだろうか。そしてポリティカルコレクトは余りにも一面的で、語る者のご都合によって捻じ曲げられている。

 内容が間違いだらけの、しかし心情的にはストレートなツイートを流すトランプ大統領が「嘘つき」で、宣言したレッドラインをあっさりと無かったことにし、沈黙のまま無人機による爆撃を命令したオバマ大統領が「誠実」と語られるのを聞くと、正直という言葉は一体何を指し、どんな意味を持つのかという哲学的な感想を抱いてしまう。暗殺を命じた某国の指導者は「残虐」で、そんな相手と政治的取引をするのは「全世界から軽蔑される」行為だそうだ。だがその理屈で言えば、歴代アメリカ大統領は間違いなく大量殺人の責任者だろう。

 マスメディアが映した光景。それが世界の全てだと信じて説く正義は、余りにも愚かしい。真実を使った嘘が、そこには溢れているのだから。

 ちなみに先ほど、「現代のマスメディアは」と記した。だがそれは只の印象で。ひょっとしたら、マスメディアとは以前から何も変わっておらず、昔から単に一方的な偏見を垂れ流すだけの媒体であったのかも知れない。過去のジャーナリズムに純粋な正義を見ようとするのは、「キリストに直接会った者たちは真の信仰を持っていたが、現代ではそれが喪われてしまった」というような、願望に基づいた勝手な設定、その現代版でしかないのかも。

 ちょっと空想をしてみよう。現代が新たな啓蒙時代の入り口という可能性はないだろうか。かつて中世ヨーロッパでは、キリスト教から脱して科学的・合理的な思考を求める運動が起きた。今、マスメディアが広めるポリティカルコレクトという宗教を脱して、科学的・合理的な思考により物事を判断する運動が始まっているのかも知れない。そして今、モラルの崩壊を嘆いて世界が滅ぶと叫んでいるのは、単に古い世界観にしがみついているだけの時代錯誤な人々なのかも知れないのだと。

 ルネサンスというものの中身は案外そんなものかも知れず、だとしたらその中で生きるのはさして楽しい経験とは言えないだろうな、と思う。そうなると、未来においてはあの金髪アメリカ大統領が、革新的な新しい思想を体現していた人物だと評価されることだってあり得るわけだ。埒も無い空想ではあるが、まあ、そんなものを考えていると案外楽しい。それに、未来を暗く考えずに済む。

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 ああ、成程。当時はポリティカルコレクトの全盛期だ。社会改革を旗印にした途端、実現不可能な理想に忠誠を誓うことを求められる。

 しかし、そんな忠誠心を持つ存在が、社会の危険を察知出来るだろうか。


「そうだな。当時の政治機構とマスメディアの関係は、言ってみりゃあ中世ヨーロッパの王権と教会みてぇなモンだった」

 現実世界を統べる権力組織と、精神世界の指導者を以て任じる権力組織。

 その確執が危険を生むことは、僕にも容易に想像できた。

「人気があったのはマスメディアの方だったぜ。信じれば神の国が訪れるって説教は、なかなかに夢を持たせてくれたからな。だけどよ、実際に行ったことは無意味な資源の浪費でしかねぇ。決して手の届かない楽園。そこに近づくことに人類の力全てを向けさせようとしたんだからな」

 班長は言っていた。

 当時の人々は自分たちが無限の力を持っていると錯覚していたと。

「彼らは地上に理想世界を実現出来ると、本気で考えていたんでしょうか」

「さてなぁ」

 老人は苦笑を浮かべた。

「本気で信じていた奴らは一部だろうさ。けどよ、ひょっとしたら何とかなる、位に考えてたヤツは意外と多かった気がするぜ」

 誰もが幸せな神の国。

 だがその実現は不可能だ。

 物質的なそれを造るには資源が、精神的なそれを造るには人の忍耐が足りない。


「ああ。一応言っておくぜ。あいつらに悪意があった訳じゃねぇ。自分たちの周囲にいる人々をもっと豊かに、より幸せにしようとしただけなんだ。ただ、自分たちの限界を考えなかった。それだけなんだよ」

 しかし、教義を信じた者達は、その実現に向けて努力することを人々に強要した。理想世界の構築に帰依することが正義だと唱え、美しいその理念に従わない者達を罰した。


「現代ですら、社会資源の公平な分配は簡単な事じゃねぇだろ」

 僕の思考を読み取ったかのように、老人は言った。

「当時の社会システムでそんなことを始めたせいで、結局は弱者から、そして世界の未来から資源を奪い、恵まれた人々が更に資源を独占するようになった」


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【解説:トリクルダウン理論】

 トリクルダウン理論というものをご存じだろうか。富裕層に対して優遇した経済政策を取ると、富裕層が使用したカネが社会全体に回って経済が活性化するという理論である。ああうん、偶然そうなることはあるかも知れないけど、狙ってやるのはちょっと難しいんじゃないかなぁ、という類の経済理論で、むしろ貧富の差を拡大する危険性を指摘されることが多い。

 ところが、である。道徳論の世界では、結構これに近い思想が一般的な気がするのだ。「人権大国を目指す」という表現は、割と良い意味で使われることが多い。 大国になってどうするのかと言えば、それによって世界をリードする存在になって更なる人権の輪を広げるみたいな話になる。だが現実には、人権と福祉に守られた人々がそれを他人に分かち合うようになる訳ではない。むしろその中に新しい人々が加わろうとしても、強い拒否に会うことが多い。

 まあ、それも当然だ。それらは高価な社会的コストを費やして初めて手に入る類のもので、大量の貧乏人がいる状態では維持できない。人々はまず、自分の手からそれが喪われることを恐れる。

 結果としてどうなるかと言えば、豊かな先進国の人々だけが多くの資源を消費してより充実した福祉・権利を享受していくことになる。トリクルダウンは発生せず、既に多くを持つ者だけが富んで行くのだ。

 我々は多額のコストを費やして犬猫の権利までも拡大し、屠殺される動物の苦痛を軽減する一方で、戦火を逃れた難民の入国を拒否している。謙虚に俯瞰すれば、そこに広がるのは恐ろしくグロテスクな世界だ。

 未来において、現代の先進国に住む人々は敬虔で慈悲深い奴隷所有者と同じように評価されるのかも知れない。

「彼らは善を信じ、心から世界の幸せを祈った。共に住む家族には優しかった。その一方で眼前にある巨大な不公平を無視し、鞭を振るって哀れなか弱き者から労働の果実を奪い取った。奴隷たちが死にかけて倒れた時。彼らは一杯の粥を差し出し、それを自分たちが善良である何よりの証拠としたのだ」と。

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 老人は皮肉な笑顔を浮かべたまま、それを語る。

「アラームは鳴り続ける。もっと正義を満たせと。だが、続ければ続けるほど、世界の不幸は増えていった。警報に従うヤツらと、それを止めようと必死になるヤツらで大混乱を起こしているうちに、人々は進むべき方向を見失った。戦争は、そのせいで起きたようなモンだ」

 無意味で不合理な警報。それが鳴り続けたことで、人々は現在の正確な状況を知る手段を失っていったのだろう。

「つまりは、狂気の時代だったと」

「ああ。そう言っちまえば、そのとおりだろうな」

 それは僕が学んだ知識とも合致していた。戦前はそういった愚かさに満ちた時代であり、それを正した結果として今の社会がある。


 僕は一時の気の迷いが解かれたように感じた。

 だからこそ、続く老人の言葉は予想外のものだった。

「だけどそれでも、戦前はいい世界だったぜ。現代より、ずっとな」

 驚く僕の表情を、老人は予測していたのだろうか。いや、僕の感情など歯牙にもかけず、老人は己の想いを吐き出していた。

「愚かだったさ。間違いだった。でもよ。ありゃあ、自分たちが世界の支配者だっていう自信が根底にあったからこそ、できたのさ」

 狂信者のような光がその瞳に宿る。

「当時の人間は、自分たちに無限の未来があると信じて疑わなかった。だから、あんなにも傲慢に生きることが出来た。自分たちはどんなものでも手に入れることが出来て、どんな正義でも創り出すことが出来る。もっと多く、より大きくなれる。それを信じて疑わなかった。そうさな。結局のところ、自らを神の眷属だと信じてた。そう言ってもいいぜ」

「ですが、それは」

 その言葉を、素直に受け取る気にはなれなかった。

「その傲慢が、この結果をもたらしたんです。世界を破滅させかけて」

「気に入らないならそれも結構!! だけどよ、オレが気に入ったものを、気に入ったと言って何が悪い?」

 老人は微塵の動揺も見せないまま、断固として言い放った。

「お前さんはオレにとっての真実を聞きてぇのか? それとも、自分好みの嘘をオレが語って、それを真実と信じて安心してぇのか? そんな安心に意味なんてありゃしねぇよ」

 老人は唾棄すべきものとして、それを語った。


「戦前の失敗。その反省からレーティングシステムは生まれた。AIがありとあらゆるデータをかき集め、統計を使った評価値を弾き出す。そいつはえらく便利だ。戦前には無かった、公平かつ合理的で、信じるだけの根拠ある評価基準。だけどよ、そんなものを使うってのは、物事の判断を自分以外の何かに丸投げするってコトだぜ」

 反射的に生まれた動揺を怒りに変えて、僕は反論してしまっていた。

「レーティングはAIが勝手に作り出したものではありません! 人々が行動した結果の集計です。その意味では、人間が作ったものでしょう」

「自分自身ではコントロール出来ない何かに委ねた。その事実は変わらねぇよ」

 老人の語気が強まる。

「段々と人間は自分で判断をしなくなっていく。安全なレールの上を進んで、分岐点では機械が弾き出したお勧めメニューを選ぶだけ。その方が自分で考えて選択するよりも楽だからな。だがそいつは、自分で何かを解決する意思と、尊厳を失うってぇコトだ」

 熱に浮かされた独り言のように、老人は呟いた。

「人間ってなぁ、どんな生き物なんだと思う?」

 それは問いかけではなかった。僕の答えを待たず、老人は話を続ける。

「人間ってぇのは、協調する生き物だ。他の種よりも、圧倒的に大きな群れを構築できること。それが人間の持つ最大の能力だった。国や地域と言った横の広がりだけじゃねぇ。過去や未来の人間とも繋がることが出来る驚異的な力。それを使ってこの世界を生き延びてきたんだ。だがな、それも多分おしまいだ」

 老人は長く息を吐いた。

「何を信じるかを機械に訊いて。一日中VRルームに籠っていれば安全に、快適に生きていける。そんな状況があと十世代も続けば、人間が持っていた他人と協力する能力なんて、あっという間に失われちまうだろうよ」

「戦前の人々は、何もかもを自分たちが決められると思っていました。世界の真実や正義すら。その傲慢で世界を滅ぼしかけたんです。同じ過ちを繰り返さないために、過去の経験を用いることが無意味だと言うんですか?」

「過去の経験を活かすって行為は別に間違っちゃいねぇ。今までの実績から成功の確率を弾き出し、一番マシな結果を再現しようとする。それはそれで賢明な行動とすら言えるだろうさ」

 強い意志を込めた視線が僕を刺す。

「だがな。そいつに頼り切るのは、未来を失くした老人の思考だぜ」

 笑みに混ざる、軽蔑と皮肉。

「その生き方をしたら、決して新しい可能性には辿り着けねぇ」

 老人は外部の光景に視線を向けた。

「この星は、ぶっ壊れかけた宇宙船だ。ひどい定員オーバーで、物資の備蓄倉庫はカツカツ。核融合エンジンは不調を訴えている。せめてもう少し効率的にエネルギーの抽出が出来るようになれば何とかなるかも知れねぇが、どうにもその見込みは薄い」

 その口調が、独白の響きを帯びる。

「そして人間は、クルーじゃなくて単なる貨物だ。それも物資をやたらと消費するだけのな。ハン。こんな状況で、人が生きる意味なんてものが残る訳あるかよ」

 老人の右手が軽く振られた。何かを払い去るかのように。

「こいつはオレの意見だ。お前さんが同意する必要はないぜ。だけどな、オレぁこう思っているんだ。人類の世界は終わる。そう遠くないうちにな」

 不吉な予言を、老人は既定の事実として語る。

「また戦争をおっぱじめて派手に散るのか。やがて機械に滅ぼされるのか。機械に寄生するだけの存在になり果てるのか。細部は違うかも知れねぇが、結局どれも同じ事さ。オレの知っている人類ってモンは、消えて無くなる」

 徐々に力を失う声。老人が抱いた絶望と悔恨が、僕を包む。

「とは言え、こうなったのはオレ達のせいだ。見ていりゃ腹も立つが、文句を言うわけにもいかねぇ。だからよ、こんな山の中に引っ込んでるのさ」

 最後の一言が、静かに付け加えられた。

「幸い、人類より先にオレが死ぬだろう。だからせめてそれまで。オレだけは人間らしく生き続けてやるよ」

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