第51話
衝動は収まらない。
要らない。
お前は、要らない。
世界に、お前は要らない。
一度だけ聞いた、同じ内容の言葉とは比べものにならないほどに重く、虚ろな響きだった。
我が身をとりまく全てのものから引き離されることの意味。
それを、心と体の両方で思い知らされている。
絶望などという表現は生易しい。これは、地獄だ。人の世にある全ての苦しみを併せて万倍にしたほどの苦しみだ。
「あ…が、ぐふ……げ……ぇ……」
吐き気は内臓を丸ごと押し出そうとしているかのようにターナを苛む。
自分は血反吐を吐いているのか。
思って霞む目を凝らすが、血潮の色はない。
ならば自分は何を吐いているのか。
全身の関節が逆に押し曲げられたように感じた。
苦痛の絶叫でも上げられればいっそ楽になれたかもしれない。
だがターナの喉は、それすら許さない。声を出そうとして拒まれて、そのまま首から捻じ切られたかと思った。そうではない、と認知出来たのは絶え間なく痛みが身を焼き続けるからだ。
骨は折れた。体中の血管から血が吹き出た。爪は残らず剥がされた。指の先の最後の関節まで外され引きちぎられた。
それらが全て、意識のあるままに
(ころ、せ………も、…ころ、し……て………く、れ………)
涙が流れたと分かったのは悲しかったからではない。
流れた涙が、溶岩のように顔を焼いたからだった。
自分の身体から起こる全てのものが、我が身を焦がしていた。
時間の感覚はとうに失われ、あるいは何分何時間、それとも何年何百年と経ったかと思えた時、薄く、本当に薄く、目が開いた。
そして、そこにあったのは。
本当の地獄だった。
誰か、救いを、と思い伸ばした腕が。
見えて。
(わた、し…の、う…で……)
それは見慣れた腕甲をはめた、丸太のような腕。
確かに自分の身体の一部なのに、
石のような金物のような鱗で表面は埋め尽くされ、
ターナは唐突に、
自分の正体を思い出した。
(……か…る……しげん、……に、かえ…………る…)
世界に、お前はいらない。
そして最後にもう一度、声が聞こえた。
苦痛はなかった。
喜びもなかった。
悲しみもなかった。
怒りもなかった。
虚無というものさえ、
その
声は、響いた。
”ターナ”
(誰だ、それは)
”ターナ!”
(…うるさいな。もういい。もういいんだ。わたしは、還る)
”ターナぁっ!!”
(…しつこい。還ると言ったのだから、還るしかないじゃないか)
世界はわたしを要らないと、言った。
もう行くところなんかない。やることもない。やりたいこと…は、まあ、あったのかもしれない。
けど、もうそんなものに意味は無いのだろう。
要らないと言われたわたしは、世界に要らない。
世界。
わたしの世界。
……何だろう。
わたしの、世界。
……なんだか、とても鮮やかに在る。
そんな気がする。
……思い出せ。
でも。
思い出しても、世界にわたしは要らない。
わたしは要らない。
ワタシは、イらない。
……要らない?
わたしは、要らないのか?
わたしを拒んだ世界を、わたしは要らないのか?
”ターナぁ………起きてよ……”
アタタカイな。
……ああ、そうだ。
これは、わたしの望んだ世界だ。
世界がわたしを要らなくても。
”…ターナ、ターナ……っ、たーなぁ……”
わたしは、世界が欲しい。
世界。
わたしの、世界。
お前がわたしを要らないと言ったって。
”…おきて……ねぇ、おきてよぉ……”
わたしは、お前が、欲しいんだ。
「ターナぁっ!!」
…音乃。
・・・・・
「…音乃」
「たーなぁ………」
気がつけば、音乃に抱きかかえられていた。
身体は痺れたように動かない。
首を巡らして、自分を見下ろしている音乃の顔を見ようとしても、出来なかった。
けれど、音乃が泣きはらしていることだけは分かった。
「ごめんなさ…い……ごめん、なさい………ごめんな……さ、い……」
「なんでお前が謝るんだ」
ようやく動かせた目だけで、その顔を確認した。
化粧っ気のない音乃の顔が、腫れたようになっていた。そんなに泣き続けていたのだろうか。
「…まったく、何事かと思いましたよ。突然女の子の叫び声が聞こえるんですから、もう少しで警察を呼ぶところだったんですからね」
聞き慣れた…という程ではないが、馴染みのある声がする。
辛うじてそちらに視線を移すと、音乃と同じく化粧っ気の無い顔があった。
「…大家さん?」
…まあ、パーマのカールを髪に巻き付けたままパジャマ姿でいる初老の女性が化粧をしてない姿、というのは本人的にはあまり他人に見られたくないだろうけれど。
「ターナちゃん、体におかしいところがあったらすぐに救急車を呼びなさいよ?お友だちはさっきまでわんわん泣いて心配してたんですからね。…大丈夫なの?」
「…あ、はい。体は動きますし」
ようやく動くようになった右手を掲げ、にぎにぎしてみせた。
腰から下はまだ怪しいが、まあ感覚はあるのだからそのうち戻るだろう。
呑気にそう思っていたら、大家さんは、ふっ、と安堵したように一息つき、もう一度、何かあったら電話しなさい、とだけ言い残して帰って行った。
目礼だけでしか見送れないのが申し訳なかったが、いつの間にか音乃がしがみついて離そうとしないのだから、仕方が無い。
「音乃、そろそろ離してくれないか。というか、いつぞやと逆だな」
半身を起こした状態で自分に抱きついている音乃の背中を、両手でぽんぽんと叩いてやる。
一応は泣き止んでいるのだから、寝転けているのでも無い限り顔を見せてくれそうなものなのだが。
「………音乃」
ふと気がついて、言ってみた。
「お前、泣きすぎて顔が見られないよーになってるだろ」
「…うるっさいなあ」
くぐもった声は照れ隠しだとしても、少しぶっきらぼうに過ぎる。
「……ターナ、何がおかしいのよ」
「いや?音乃は本当にかわいいな、と思ってた」
「………」
あれ?と思った。
自分の本心であることに間違いはないが、こう言えば音乃なら、照れて余計にかわいくなった顔を見せてくれると思っていたからだ。
そして、あてが外れてガッカリしたところに、音乃の真剣な声が聞こえる。
「ターナ、ごめん。私危うく、ターナを失うだけじゃなく、その…狂戦士にしてしまうとこだった」
「…なんでそう思うんだ?」
「だって…私が、ターナなんか要らないって言ったら、ターナ……」
…それは、あの時の会話だけを見ればそう思っても仕方ないのだろう。
音乃は、ターナなんか要らないと言って背を向けた。
その直後、ターナに発作のようなものが起きて、どれくらいの時間そうしていたのかは分からないが、ともかく苦しんで、一時は竜の姿になりかけた。
音乃がどこまで、何を見ていたのかはともかく、そう思ってしまっても無理のないことだと思う。
「…音乃、そうじゃない」
けれど、音乃は一つ勘違いをしていた。
ターナに起きた異変は、音乃の言葉がもたらしたものではない。
「狂戦士になりかけたのは、音乃に要らない、と言われたからじゃない。いや、実際その言葉で追い詰められたとは思うが…切っ掛けは、自分の中で起きたことだ」
「……え?…あの、どういうこと?」
音乃はようやくターナから身体を剥がして、顔を見せてくれた。
…予想に違わず、目は腫れて頬は真っ赤で、とにかくひどい顔をしていた。
「音乃、やっぱりお前はかわいいな」
「こーいう時に茶化さないでよ。で、どういうことなの」
茶化したつもりはないんだが、と口の中でだけで弁解し、ターナは続ける。
「あの時、一瞬思ってしまったんだ。音乃の居場所はわたしの隣じゃない、って。そう思った途端、あれが来た」
「?…えっと、ターナがどーいう思考をすればそんな結論になるのかが、分かんない」
「わたしだってよく分からない。なんでそんなことを思ったんだ?」
「ターナが分からないのに私が分かるわけないでしょ」
「…それもそうか」
あはは、と二人揃ってばかみたいに笑う。流石に夜中だったから、大声をたてたりはしなかったけれど。
そうしてようやく、ずっとくっついていた二人は離れた。
触れていた場所のぬくもりが去るのはどこか寂しかったが、その分近くなったものもあったと思う。
それから、この先どうするかを話し合った。
ターナはやはり、「異世界統合の意思」を追いかけることにする、と音乃に告げる。
今度は音乃も、寂しそうではあったがターナの決めたことを応援するつもりになっていて、けれど、ターナがちゃんとご飯食べるか心配だよ、と何度も言うものだから、もうお馴染みになってしまった、「お前はわたしの母親か」というツッコミを三回も口にする羽目になった。
マリャシェの心身を取り戻す話もした。
「異世界統合の意思」が、竜の娘の世界への絶望につけ込んで支配した、ということは分かった。
それから、ターナ自身の経験で、その絶望を断ち切るためのヒントも知り得た。
そのままマリャシェに適う手立てとすることは出来ないだろうが、少なくとも「世界に否定された絶望」を鍵とした狂戦士化を打破することは、不可能では無い筈だ。
「否定されようが要らないと言われようが、自分の世界を欲せばいい。それが世界に自分の居場所を作る、ってことなのだろうさ」
「…一歩間違えたらストーカーの理屈になりそーだけど」
「音乃がいい話を台無しにする…」
「わあっ、ゴメンてば!」
膝を抱えていじけたターナを元に戻すのに一苦労したりもしたが。
そんなことをしていたら、いつの間にか窓の外が白み始めていた。
ほぼ徹夜、ということになって慌てて寝ることにしたが、もう目が冴えて簡単には寝られそうもない。
もちろん、こんな時間から自分の部屋に戻れる音乃でもなかったから、とにかく体だけでも休めようと一緒にターナのベッドに横になった。
「…ね、どーしてこっち見てるの?」
「…音乃こそ、何故いつものように背中合わせにならない」
「私はターナの顔見ていたいから、かな?」
「ならわたしだって一緒だ」
時々音乃が泊まるから毛布は二枚部屋にあるが、それを使わず一枚の毛布を分け合っている分、余計に顔の距離が近い体勢になっていた。
そして、灯りは消してあっても、薄明に目が慣れて隣の顔はよく見える。
「………」
「………」
瞬きもせず、ほんの一瞬でさえも惜しむように、二人は互いの顔を見つめていた。
きっともうすぐ、別れの時が来る。
それがひとときのものだと解っていても、離れがたく思う二人には切ないものに違いない。
「…なあ、音乃」
「うん。なに?」
合わせた目をそのままに、ターナが問うた。幾分辛さを伴っていたのは、問いかけの内容で音乃を苦しめてしまうかもしれない、という危惧があったからだ。
「…わたしは、どうだったんだ?」
質問が抽象的に過ぎるとも思う。
だが、音乃はその問いの意味を、正しく理解していた。
その上でよく考え、一秒たりとも交わりを止めようとしなかった視線を逸らしてまで深く思い、それから答えを待っていたターナに、告げた。
「……あのときね、私さ、ターナが私に『行くな』って心で叫んだのは分かっていたんだ。けど…怖くなって、ターナが私を置いてどっか行っちゃったら…今までの私はどうなってしまうんだろう、って」
そして、目を伏せる。
話したいことを整理するようにいたが、寝てしまったのか?と思って声をかけようとした時、そっと目を開き、言った。
「…けど、ターナのいない私なんて考えられなかった。ターナがいて、私が出来るようになったことって、いっぱいあったんだ、って思って。一度部屋から出て、すぐ戻ったら…ターナが倒れてて、腕が…酷かった」
薄ぼんやりとしか覚えていないが、ターナも見たような気がする。
自分の腕に鱗のようなものがびっしりと生えて、人間のものではあり得ないような大きさになっていたと思う。
同じものを音乃も見たのだろうか。
「…それを見て、ああ、竜の姿が顕現するってこういうことなのか、って思った。腕だけじゃなくって、こう、伏せって苦しんでいるターナの背中とかも、だんだんと同じようになってきてて…腕は右の方だけだったんだけど、必死に、多分助けを求めるみたいに伸ばしてて。それで私、気づいたらターナを抱きしめて名前呼んでた。ずっと」
「…済まない、酷いものを見せてしまった」
目を合わせずにそう告げると、音乃は泣き笑いのように顔を歪めて、間に合ってよかった、と、ターナにかろうじて聞こえる程度の声で呟くのだった。
それにしても、落ち着いて考えてみると腑に落ちないこともある。
一つは、こちらに「異世界統合の意思」がいるのが分かっていて、どうして竜の娘を送り込むことにしたのか。
確かに狂戦士という忌むべき存在を、彼ら、彼女らの手で滅することを嫌うというのは分かるが、「異世界統合の意思」と接触する可能性くらいは想像出来たはずだ。
何が起こるか分からないのにそうするものなのだろうか。
あるいは…ターナの姉、ラリィがその決定に関わっているのだとしたら、何か思惑があったのだろうか。
…相変わらず、何を考えているのか分からない姉の顔を思い浮かべる。
一別から一年と少ししか経っていないというのに、表情を思い出すのに少し時間がかかった。我ながら薄情なものだと呆れる。
それと、狂戦士となる仕組み、あるいは切っ掛けや原因にも引っかかるところが無いでも無い。
ターナは、音乃に「要らない」と言われたのが自分の身に異変をもたらした原因だとは感じていない。
もちろん、その後に散々ターナを苛んだ苦しみは、自分が覚えた「世界からの拒絶感」そのものだったのだろうけれど、その少し前、音乃は自分の隣にいるべきじゃない、と思ったのが直接の切っ掛けなのだと思う。
数時間前、既に「異世界統合の意思」に心と体を奪われていたマリャシェとした会話を思い出す。
音乃が認識出来なかった言葉、それはもしかして、マリャシェ本人が最後に言い残したものだったのではないか。
恋をした竜の娘にとっての世界。自分にとっての世界は、音乃のことだ。
それを、大事にしろと言っていた。
(まさか、「世界に、お前は要らない」という言葉はとうに全ての竜の娘の上にあって。世界が竜の娘個人を破棄するのではなく…わたしたちが世界を放棄することで、竜として顕現してしまう…のだろうか?)
マリャシェならなんと言っただろうか。今となっては分からないが、もしかして自分たちは、自分で思うよりもずっと不安定な存在なのかもしれない。
「ターナ」
上の空だとでも思ったのだろうか、音乃が心配そうに声をかけてくる。ほんの少し、距離が縮まっていた。
「なんだ?」
「…うん。何だか今すぐにでも、どっかに行っちゃいそうな顔してたから」
「寂しいのか?」
「……そうかもね」
ターナの問いを肯定するように、印象薄い笑顔を浮かべる。
「朝までは一緒にいよう。それから先のことは…また、朝になってから考えればいいさ」
「もうすぐ朝になるけどね…」
本当に、ヘコむ時はとことんヘコむ奴だ。
けれど、今の音乃の見せる弱さはターナにも原因がある。
元気な音乃を取り戻したい。自分と、音乃のために。
そう思ったら、自然に口をついて出てきた。
「音乃、恋人のキスをしよう」
音乃は、きょとんとしていた。
あるいはターナの言ったことの意味が分からなかったか。
大体、恋人のキス、とはどーいう意味だ。恋人でもないのにする口づけとかあるのか……って、そういえば、あった。やむなくだったけれど、音乃に、自分からしたことが、あった。
「……悪い、忘れてくれ」
と言ったのは初めてした時のことを指してだったのだが、今の言葉のことだと思ったのか、今度こそ音乃はハッキリと、自分の感情を見せていた。
「………」
怒っていた。
そしてターナは、そう誤解した音乃に、嬉しくなる。
「何で笑うの?」
「…だって音乃が、キスしたくてたまらないように見えたから」
「したい。ターナと、キスしたい」
「わかった」
音乃の方から触れてきて、かわいいな、と思ったらすぐに離れてしまった、ほんの一瞬のこと。
「…おやすみ」
「ああ、おやすみ……音乃」
そしてそれで満足したのか、音乃は背を向けてしまう。
振り返り際に見えたのは、ターナの大好きな笑顔だった。
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