ぼくの文章作法(どうやって物書きになったか)

どうやって物書きになったか(1)1985-1991ころ(小学4年生~高校生のころ)

 このセクションでは、私がどうやって物書きになったかを記録しておこうと思います。

 結論から言ってしまうと、人それぞれの成り方がありますので、一例としてご参照ください。


 創作とはなんだろう、と意識したのは10歳ころだと記憶しています。その頃はどこにでもいる女の子らしく、将来はエレクトーン(ヤマハの電子オルガン)の先生か、漫画家になりたいと思っていました。本は(児童向けのものを・図書館で借りて)よく読んだ方だと思います。


 好きなものはどちらかといえば、父や兄が集めていたものをよく見ていたため、当時の「男の子」が好むもののほうが多かったです。

 また、1985年ころは、テレビゲーム、コンシューマゲームとして歴史に多大な影響を与えた、ファミリーコンピュータがブームになりはじめていました。テレビゲームというものも「男の子」の趣味にカテゴライズされてしまっていました。そのため、「テレビゲーム好き」の「女の子」は、少数派でした。


 10歳ころ、考えた作ったマンガのあらすじやタイトルを書き出したらノートに数ページありました。自作曲も、楽譜を書かずに、タイトルだけ書いていました。とりあえずちょっとでもあらすじを考えたらタイトルを増やしていったので、中学の頃には100タイトル、曲も30から40くらいはあったと思います。

 ほとんどメモばかりで、大体のあらすじは口で喋って一人芝居、自作曲はエレクトーンで弾きまくってたまにテープに録音する、そんな感じでした。


 もしもこのころに、YouTubeがあったならば、私の人生はまた別の方向にすすんでいたと思います。もてはやされてスターになったか、あるいは顔の見えない誰かに叩かれ、酷評され、創作を辞めていたか。


 漫画家は、賞やスクールに投稿すればデビューできるとは知っていましたが、小説もそのような定期的な賞の募集があるのを知ったのは、コバルト文庫やティーンズハート文庫などを読み始めてからだと思います。その頃は、芥川賞や直木賞も投稿できるものだと思っていました。


 けれど、実際には32ページの漫画も描かなかったし、300枚の小説も仕上げられなかったです。


 中学生のころは、ノートに小説を書いて、友達に読んでもらったりしていました。そのなかで廊下のポスターで見たコンクールに応募してみようと思い、30枚くらいの小説を書いて、先生に提出しました。(たしか学校経由で出してもらった)それがなんと全国銀賞になりました。副賞でいただいた宇宙図鑑は今も大事に使っています。

 このころはまだパソコンも使ったことがなく、ワープロもさほど使っておらず、プリンターなんて家にはあるわけがない。原稿をコピーしておくということをすっかり失念していて、当時の原稿はもうありません。


 このあたりから--中学3年生くらいから学校の成績が下がってきます。第一志望の公立高校の受験は不合格となりました。おそらくテレビゲーム(スーパーファミコン)のしすぎか、自分の作品の続きを想像したり書いたりしていたから、それと勉強のきっかけや興味がうまく持てなかったからだと思います。なので、高校時代はただの落ちこぼれで、漫画や小説を書いて、ゲームの好きな友達と格闘アーケードゲームを見に行ったりなどをしていました。


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この文章は下記を2021年に書き直しました。

https://namikawamisaki.hatenadiary.org/entry/20151204/p1

■創作活動ふりかえりその1(1985-1991ころ)(はてなダイアリー)



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