Injection-インジェクション-
【加奈】
「なんだ……まだ足りないのかい?」
呆れた様子で声を発しながらも俺のマシンをガレージへと引き込んだ加奈さんは、椅子に腰かけて腕を組みつつ、説教のごとく顔をしかめていた。
しかし、昨晩のバトルを思い出すと、どうしても止まれなかった。
【博一】
「……そうなんです……トルクもパワーもある。
でも、どこまで行っても前に出られない……
なにかないですか?」
【加奈】
「と言われてもねぇ……
というか、ボア組んでもトップスピードはそこまで伸びないって、
言わなかったか?」
【博一】
「そうなんですか?」
【加奈】
「ギア比がノーマルじゃ、エンジン回転に対してのタイヤ回転数は変わらない。
排気量が上がってトルクアップしたから、
重さとの兼ね合いで微妙に伸びる程度だ」
【博一】
「重量があっても車速を維持できるようになった……
じゃあボアアップの意味って?」
【加奈】
「0キロの速度から最高速に至るまでの時間が短くなる。
だけど、トップスピードがみんな同じ60キロなら、
発進時に相手より前に出られる」
【博一】
「相手より3秒先に60キロに到達すれば、3秒分の車間距離が取れる……
バトルした時にチギられずにすむ……」
【博一】
「じゃあ、どうしたら。もっと速くなるんですか?」
【加奈】
「じゃあ逆に訊くけど……どうしてそこまで速さにこだわる?」
どうしてなんだろうか? 確かに、意味はないし、世界観を表現するための手段という考えを持っていた。
だけど、他にも方法は色々あるわけで……こだわる必要などどこにもないのに……
じゃあ、友達みたいに脚本を書いたり、胡散臭い部に所属して活動したり、スポーツしたり、絵を描いたり……
才能という点は大きなアドバンテージだが、世界観を表現する事自体はそれにしばられない。
才能がなくたって彫刻を掘ったり、歌ったり楽器を弾いたり、詩を残したりする……
どうして?
【博一】
「わかんないです……でも、俺は……速くなるって約束したから……」
加奈さんは大きく溜息を吐いて、棚のから何かを取り出した。
【加奈】
「今までアンタがやったチューニングメニュー。一つ残らず覚えてるかい?」
【博一】
「一つ残らずってなるとちょっとあれですけど、駆動系が最初でした。
そのあと、パワーフィルターとか自分で出来るものを入れてみたり……」
【加奈】
「行きつくところスクーターは駆動系だ。
スロットルの開度に合わせてエンジン回転数が上昇し、
シームレスに変速する構造を持っている以上、どうしようもできない」
加奈さんが俺に手渡した箱の中には、鈍く光るトルクカムが入っていた。
【博一】
「これって……」
【加奈】
「その変速をいかにスムーズに違和感なく行うか。
同時に、どこまでベルトを落とし込んでギア比の高い状態に持っていくか?
これを入れると今までの世界が変わって見えるよ?」
【博一】
「これは、いくらなんですか?」
【加奈】
「その前に、アンタってハイスロ入れてたっけ?」
【博一】
「ハイスロは入ってないですね。純正のままで」
【加奈】
「ってなると、ハイスロも入れた方がいい。
巻き取りの速度が速くなるから人間が1秒で全開にするところを、
ハイスロを着けるとコンマ2秒くらい早く開ける事が出来るようになる」
【博一】
「それって、そんなに変わるもんなんですか?」
【加奈】
「まぁ、やってみればわかる。あとハイギア。
ちょうど在庫を捌きたかったとこだ。セットじゃないと売らない事にした」
【博一】
「今決めたんですか!?
確かに駆動系は見直した方がいいかもしれないけど……
でも、フルキット組んでるんですよ? それを上回る性能なんて……」
【加奈】
「組んだ時に説明したでしょ? 周回レースで勝つために作られたキットだって。
だから燃費も悪くなるし、トップよりもコーナーでの立ち上がり重視になる」
【博一】
「ってなると……このキットは完成形じゃない? そういう事ですか!?」
【加奈】
「いや、ちゃんと完成されてる。求めるもの次第だけどね?」
【博一】
「求めるもの次第?」
【加奈】
「スクーターはつまるところ、駆動系なんだ。
出足ドッカン、立ち上がりを殺さずにトップを伸ばす。無茶な注文は多い。
キットとの相性はテスト済みだ。乗ってみないとわからないけどね」
そう、マシンのカスタムやチューニングの醍醐味はここにある。自分にとってハマる時とハマらない時があって、試行錯誤の繰り返し。
そして、考えれば考えるだけ、実践すれば実践するほど、速くなる。ギアチェンジのタイミングだとか人間的な性能は一切介在しない。
【博一】
「いくらぐらいになるんですか?」
【加奈】
「トルクカムがパーツと工賃合わせて2万5千で、
ハイスロがパーツ5千で工賃3千……
ハイギアがパーツ8千の工賃5千……4万5千円ってところか?」
【博一】
「ほぼほぼ5万か……お願いします」
【加奈】
「車体価格含むと、単車買った方がよかったんじゃないか?
ま、スクーターの沼にはまった人間に言っても無理か……
とりあえず、そこにあるコーヒーでも飲んで待ってな?」
そう言って、加奈さんは工具を取り出すと手際よくクランクケースを開け、ドライブプーリーとドリブンプーリー等の駆動系パーツを取り外した。
実践しただけ速くなるとは言ったものの、今までプロとして捌いてきた数があれば、やっぱり作業の効率も凄まじいものになるようだ。
【加奈】
「しかし、アンタこの前、ボアアップとカウル代払ったばっかりだろ?
大丈夫なのかい?」
【博一】
「あぁ、問題はないですよ。もともと貯めてたし」
【加奈】
「貯めてたって……なんか目的があったんじゃないのかい?」
【博一】
「さっき加奈さんが言った通り、250買おうかと思ってたんですけどね……
でも、最近だとやっぱりこっちがいいなって思えるようになってきたんですよ」
【加奈】
「ふーん、アンタもスクーターおじさんの憂き目に遭うんだね。
ここで打ち止めにしておかないと、先は長いよ?
スクーターは浅くて底なしだからね」
免許取りたての頃は、やっぱり大排気量のバイクに興味があった。
信号から飛び出してすかさずにクラッチを切り、シフトアップ。クラッチをつないでさらに加速。
【博一】
「本当にその通りですよ……
でも、スクーターってある意味特別な乗り物だと思うんです」
【加奈】
「特別って?」
【博一】
「ほら、バイク免許を取る人って趣味に偏重してますよね。
車の場合は、オートマが普及した今の時代に、マニュアル車が好きな人がいて、
操っている感覚が楽しいって言う」
【加奈】
「趣味で走ってる人なんかはほとんどマニュアルだからね。
私の友達は今でもサーキットに通ってるし、
ATのスポーツカーなんてスポーツじゃないって言ってる」
【博一】
「車は趣味じゃない人も乗るからATが普及したけど、バイクはほとんどが趣味だ。
SSやストファイ、アドベンチャー、ツアラー、クルーザー……
じゃあ、スクーターはATだから趣味じゃないみたいなことを言う人がいる」
でも、それは違った……俺だって、今まではスクーターなんて、ただひねるだけのおもちゃだと思って、まったく興味がなかった。
だからこそ、今までずっとおじいちゃんのおさがり状態だったのだ。
それが……変わった……彼女と出会って……そして、湾岸の悪夢が始まった……
【博一】
「マニュアルならコーナーでシフトダウンとかが出来る。
でも、ATのスクーターはエンジンブレーキも希薄で、
レバーを握って車速をコントロールするしかない」
【博一】
「ぴったりとニーグリップを効かせるためのタンクもないから、
車体との一体感はないし、膝を当てて曲がるとか基礎で習った事は役に立たない。
せいぜいフレームを足でホールドする程度」
【博一】
「でも、乗れば乗るほど性格がわかってくる……そんな気がするんです……」
【加奈】
「性格?」
【博一】
「マシンとどれだけ一体化するかではなく、手を取り合うか、寄り添うか?
それが、スクーターだけに与えられた特別な点だと思うんですよ」
【加奈】
「ほう、面白い話だね。ってなると、それはどういう事だい?」
スクーターのドラッグレースがいい例えになるだろう。
操作は簡単。スタートからスロットルを全開にするだけ。
そのほかはシフトチェンジのタイミングだとか、余計なものは一切いらない。本当にただひねるだけ。
なのに、タイムは千差万別。限界を超えた速さの人もいれば、街乗りでは十分な出力を示してくれる人もいる。
非力なマシンでどれだけのタイムを出せるのかに挑戦し続ける人だっている。
彼らは、果てしなく遠い50メートルを超えるべく戦っている。
チューナーとしての意地、あるいは自分のマシンへの気持ち。スクーターを駆るという事は、マシンを操るわけではない……
【博一】
「スロットルを戻すとどれくらいエンジンブレーキで減速してくれるのか?
効率のいいコーナリングの為には、どれぐらいのブレーキングが必要なのか?
対話が欠けているとアンダーが出たり、ブレーキングミスでスリップする。
【博一】
「じゃあ、加速して追い越しをするにはどこをいじらなければならないのか?
加速した後の限界速度をどこに設定するのか?
分かり合えていなければ遅くなる、もしくは拒絶されて故障する事になる」
【博一】
「跨っているマシンの事をどれぐらい理解したか。
自分の性格をどれぐらい理解してくれたか
スクーターはすなわちトータルバランス」
【博一】
「スクーターに乗る事はマシンの性格を理解する事。
スクーターを弄る事は自分の性格を理解してもらう事。
乗り手とマシンのバランスも重要なんだなって……」
一人になった……でも、孤独じゃなかった……
互いに分かり合うことの大切さを、AltaiR-MX125が俺に教えてくれた。
【博一】
「MTの場合は乗り手とマシンで1になる。
スクーターは乗り手とマシンで合わせて2になる。
人と関わる時みたいに……」
【マトイ】
「ヒロッポン……」
そう……俺は彼女と、分かり合おうとしている……
【博一】
「って、マトイ!? 何でここに?」
【マトイ】
「ヒロッポンこそ! 田舎から帰ってきたのなら、
なんでウチに連絡してくれなかったの~!!
マジで暇死しそうなくらい退屈してたのに~」
【加奈】
「田舎から帰ってきた……どういう事?」
【博一】
「あぁ……えっと……で、終わったんですか?」
【加奈】
「アンタが熱く語ってる冒頭のあたりでね? 面白い講義だったよ」
という事は、作業の片手間で聞いていたわけじゃなく、しっかりと一言一句漏らさずに聞いていたというわけだ……
偉そうに喋っていた瞬間を思い出すと、恥ずかしすぎて顔から火が出そうだ……
【マトイ】
「ウチに内緒でまた何かやったの? 加奈さん何々ぃ~教えて教えて!!」
【加奈】
「駆動系をやり直したんだ。チョベリグな感じにコイツは速いよ!?」
【博一】
「チョベリグって加奈さんいくつなんだよ?」
【マトイ】
「またクド~系……あっ、そういえば探偵部に新メンバーが入ったんだってさ!?
地味だけど、鬼カワな女の子とそのカレシだってさ~!
ヒロッポンもそろそろ、ウチと入部しない?」
【博一】
「入籍みたいなニュアンスで勧誘するなよ!
あんな胡散臭い部活やめとけ……
それで、もう走ってもいいんですか!?」
【加奈】
「うん。スロットルを少しひねっただけで、最高にSweetな気分になる。
ピチピチなギャルを差し置いて、コイツが一生モノみたいに思えてくるよ?」
いってらっしゃいと背中を押すがごとく親指を立ててウィンクする。
【博一】
「ありがとうございます。金は明日にでも持ってきます……」
さぁ、速いヤツに会いに行こう!!
【マトイ】
「あっ、ヒロッポンこれから夜遊びな感じ~? ウチも行く行く!
とりあえずカラオケからのファミレスコースで!!」
【博一】
「悪い、ちょっとこれから――」
【マトイ】
「そのあと、とりあえず公園に行って、朝になったらヒロッポンちで寝て~」
【博一】
「ごめんな……埋め合わせは必ずするからさ」
彼女に背を向けると加奈さんがガレージから出して路上に止めたバイクを見据えて、店から踏み出そうとする。
【博一】
「えっ……」
ふわりと背後から抱き着かれ、彼女の香りが鼻腔をくすぐった……胸にこだまする言い得る事の出来ない感覚に足を止めた。
【マトイ】
「ダメ、行かせない! ヒロッポンはここにいるの!!」
今から俺がしようとしている事に彼女は気づいていたようだ。
そう、どんな目的があろうと美化する事の出来ない、法治国家では許されざる、あまりに危険な行為である。
これまで事故らなかった。だが、今度は事故るかもしれない。エスケープゾーンのない公道では命の危険が伴う。
相手は、今まで全く歯が立たなかった凶悪な乗り手――湾岸の悪夢。
彼女が引き留めるのも無理はないし、ウソを吐いてまで長い間会っていなかったのだからこうなるのは必然かもしれない……
答えが見つからないとか言っている所為で、寂しい思いをさせてたんだな……
【マトイ】
「ウチのカラオケに付き合って……朝帰りでお母さんたちに許可取って、
一緒に眠って……お寝坊さんのヒロッポンにいたずらして起こす……
それじゃあ、ダメなの?」
彼女の言葉に呼吸が苦しくなる。しかし、彼女はもっと苦しいんだろう。
小さくか弱い手のひらにギュッと胸を締め付けられ、息が出来なくなりそうだ……
一緒に暮らしているかのような目覚め……あまりに幸せだ。
あいにく、両親は実家に帰っている……
それなら俺は、彼女に料理を作ってもらおう。きっと失敗するだろう。それに付き合ってあげて、二人で笑い合う……
さらに先を考えよう。彼女との間に子をもうけて、バイク乗り一家に。
将来の夢はGPレーサーだって言い出すかもしれない……
それだけでいいのに……そうすればいいのに……だけど、やっぱり俺は、自分の気持ちに決着をつけられないでいた。
確かに、周りの定義に合わせるなら、今抱えている感情は人生においての幸せなワンシーンであり、誰もが羨む景色だ……なのに想像した世界はモノクロ色をしている。
やっぱり……そうなんだ……
【博一】
「ずっと……知りたかったんだ……今、訊いてもいいか?」
聞かれないようにしているのかわずかに鼻を啜りながら、震える手をギュッと握りしめ、彼女は何も言わずに背中で頷いた。
【博一】
「何故、俺なんだ?」
【マトイ】
「それは――」
彼女の腕の力が緩んだ瞬間、振り返ったと同時に強く抱きしめる。
女の子ってやっぱりやわらかいんだな……ふわふわとした心地がする……金色の髪だっていい匂いがするし、ガレージから漏れている光に艶めいている……
【博一】
「俺が答えを見つけたら……マトイも答えを俺に……」
人差し指を立ててツンとつつくとあっけにとられた表情のまま、俺は駆け出す。
暗闇に佇むAltaiR-MX125に跨ると、静かに祈りを込めて、エンジンを始動する。
【博一】
「それじゃあ……勝ちを持ってくる!!」
戦いを終わらせて、必ず彼女の元へ……
堪えきれなかったらしい彼女は膝をついて両手で顔を覆った。慰めるようにして加奈さんが彼女に寄り添い、親指を立てる。
【博一】
「今すぐ……約束へ走ろう!!」
夢まで……形を成さないそれを、掴んで現実にするため……
目頭に込み上げる熱を拭うべく、ヘルメットのシールドは開けたまま、探り探りスロットルをひねると風の速度が増す。
【博一】
「な、なんだこれ? すごい、すごいぞ!
まるでモーターで駆動しているみたいに滑らかに車速が伸びていく!!
ちょっとスロットルをひねっただけなのに、もう30キロに到達してる」
今までのスロットル感とは比べ物にならないほど従順に加速する。
余計にスロットルを開けたりする必要がなく、ただひたすらに思いの通りに。
マシンと自分の意識が共鳴しスロットルとハンドルを握る腕も、シートに据えた腰も、バックステップに下ろした足も、すべてがピッタリと噛み合う……
違う世界観を持ちながらにして、同じ世界観を持つ人と出会ったときのような……躍動感が止まらない。
信号待ちで瞼を閉じると、力強く大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
勝利は目前。暗闇を切り払うヘッドライトの輝きに導かれ……
決戦の地――湾岸道路へ。
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