Innovation-イノベーション-

それから数日が経過して、待望の夏休みが始まった。


ボアアップを組んでもらうまでが待ち遠しくかった。


気持ちを押されられなくて、何度も湾岸道路を走りに行こうかと思た事はあった。


だけど、今のポテンシャルだと、結果は見えている。


チギられに行くようなもんだ……


彼女の言っていたカブトムシ気分って、こういう感じだろうか?


走りに行きたくても出かけられないもどかしさとか、退屈さとか……


そんな時、スマートフォンがメッセージの受信音を鳴らし、待っていましたとばかりバイクにまたがると、激しい日差しの降り注ぐ街中を走り抜けて……


彼女を乗せて少し遠くのショッピングモールへと辿り着いた俺達は、映画を見た後アイスクリームショップのテーブル席で休んでいた。


【マトイ】

「うぅ……ぐすっ……ちょ~エモい」


【博一】

「おい、泣くなよ?」


【マトイ】

「だって……だって、主人公がヒロインの子供助ける為に死んじゃうなんて……

 ヤバくない? ずっと好きだったのに子供が出来てて……

 裏切られてるのに死んじゃうんだよ!? マジ……ナケル……」


【博一】

「ウケルのニュアンスで泣けるっていうなよ? 感動が台無しだろ……

 いや、でも、たまには映画もいいな。

 エージェントがマジギレして主人公殺そうとするシーン、冷や冷やしたよ」


【マトイ】

「えっ、そんなシーンあったっけ!? なんかの映画と勘違いしてない!?」


【博一】

「ほとんど内容覚えてないじゃん!」


そもそも俺は映画はあんまり見ない。


つい最近、晴樹の店で入り浸ってる時に見た古い映画がせいぜいだ。


核戦争によって荒廃した世界を舞台にしたあの作品……なんてタイトルだっけ?


まぁ、こんな感じに、きっかけがあれば思い出す程度にしか興味を持っていない。


【博一】

「というか、アクション映画とか見るんだな!?

 女の子って、てっきりラブロマンスとか好きなのかと思ったよ」


【マトイ】

「ラブロマン……? あぁ、でもウチ、泡風呂のほうが好き!

 でも、あれって高いからママが買ってくれないし、

 お小遣いで買っても上手く泡立てるの難しくて……」


【博一】

「入浴剤の話じゃなくて……ほかにどういう映画とか見るんだ?」


これを機に映画を見るようになるのもいいかもしれないと思い尋ねてみる。


【マトイ】

「う~ん……ウチ、あんまり映画見ないし……

 でもでも、このまえテレビでやってたのは見たよ!

 原住民との交流を通して命を学ぶってやつ!!」


誇らしげに微笑むけれど少し間違っている。


【博一】

「あれはドキュメンタリーだ……」


【マトイ】

「ドキュメンタリー? あっ!

 ヒロッポン、ウチのこと見て、えっちな事考えてたでしょ!?」


【博一】

「それはメンタリズム!」


と言葉では冷静を装いつつも、本当の事だが……


彼女が前のめりになってストローに口をつけるたび、その唇の艶や、テーブルに当たってふんわりと潰れる胸……自身でも知らず知らずのうちに目が……


【マトイ】

「きゃはっ! もしかして、間違えちゃった?

 でもでも、言ってること当たってたでしょ!?

 あっ、ヒロッポンまたウチのおっぱい見てるぅ~!!」


【博一】

「い、いや! そうじゃなくてこれはだな……そう、人間の目だからだよ。

 動くものに自然と反応するから、見たくないものでも見ちゃうんだよ!!」


必死の思いでごまかすと、すねたように唇を尖らせて鞄に巻いていたスカーフで胸元を隠すと挑発的な視線を送ってきた。


【マトイ】

「見たくないならいいも~ん! ヒロッポンには見せてあ~げないっ!!」


おしゃれなスカーフで口元を隠しながらドリンクを一口。


どっかの民族衣装を着てるみたいだし、顔のほとんどが隠れたことで彼女の瞳の美しさが強調されて、これはこれで目力の虜になってしまいそうだ。


でもやっぱり、目だけじゃなくて顔全体の印象が見れないのは寂しい……


【博一】

「あぁもう、わかったよ。見てたよ! でも、いやらしい事なんて考えてない!!」


【マトイ】

「えぇ~ホント~? じゃあ、正直者のヒロッポンにはおっぱい見せてあげる!!」


あまりに快活な声に店内が静まり返る。時を同じくして周囲の様子を伺うと、客の一人と目が合ってしまい、恥ずかしさに顔が熱くなって焼け死にそうだ。


【博一】

「ちょっ、そんな大声で!」


【マトイ】

「でもさぁ~、ヒロッポンっていいよねぇ~。普段はなんか無表情なのに、

 こうしていじり甲斐があって面白いし。天才だし」


普段は無表情か……まぁ、自分で言うのもおかしいけど、友達とか少ないし……わかってくれる人がいなかったから、それでもいいかって思ってた……


【博一】

「って、いじり甲斐があるは余計だろ? それに天才ってなんでそうなるんだ!?」


【マトイ】

「だって、ウチの知らない事とかいっぱい知ってるっぽいし!

 それって、頭いいって事じゃない!?

 ウチ、バカだからそういうのまったくわからないし……」


【博一】

「うーん……マトイは別にバカなわけじゃないと思うぞ?

 ちょっと、元気がありすぎるくらいで、俺からしたら羨ましいよ」


【マトイ】

「えっ? それってどういう事!?」


【博一】

「なんか、どんなことでも楽しそうにしてるし。そういうのも才能だと思う」


【マトイ】

「えっ、ホント? ウチてんさぁ~い!? ほら、もっと褒めて褒めて!!」


調子のいい子だ……別に天才だとは言ってないが……


天から与えられた才能って意味で考えると、あながち間違いでもないかもしれない。


【博一】

「そうかもな」


【マトイ】

「そうかもじゃなくてそうなの! ヒロッポンがウチは天才って言ったから天才。

 ウチはヒロッポンよりも天才なんだよ~ん!!

 よし、今日は天才さんのヒロッポンのお小遣いで、いっぱい楽しんでやるぅ!!」


【博一】

「えっ、まさかおごりかよ……別にいいけど」


ちょっと見栄を張った。ボアアップが控えてるこの状況じゃ、ちょっとした出費もバカにはできない……冗談だけどケチだと思われそうだしそんな事は言えなかった。


【マトイ】

「あっ来た来た」


会話に行き詰まると注文した商品がテーブルへと運ばれてくる。


しかし、その量を目にすると思わず絶句してしまう。


【博一】

「もしかして、それ……食べるの?」


ラーメンの器よりも大きいボウルに、綺麗に盛り付けられた大量のアイスクリームや生クリームにチョコレートソースをふんだんにかけ、バナナやメロンなどのフルーツをあしらったパフェ


メニュー表をもう一度目にし、デカデカと記されているキャッチコピーを読む――


総重量5.30Kgの衝撃を体感せよ! 新型P《ピー》MAX《マックス》登場!!


見比べると、ある意味詐欺じゃないかと思えるほど違っている……


【博一】

「大人の休日は、これでもかというほどに贅沢です!

 Sweet!! 感想書いたヤツは何で全員ヘルメット被ってるんだ!?

 というか総重量って器は何キロなんだよ!!」


【マトイ】

「いっただっきま~す!!」


俺がツッコミを入れている間にも、マトイは聳え立つ生クリームの山にスプーンを入れ、口へと運んでいる。


【マトイ】

「う~ん、Sweet! ほら、ヒロッポンも一緒に食べよ!!」


【博一】

「ここにもいた……って、これ本当に食べきれるのか?」


器の重さを2Kg程度と仮定しよう。それでも3.3キロほどはある。


一人当たり1.65Kg……そう考えると果てしなく遠い道のりのように思えてくる。


なんせ俺は小食で、ラーメンの300g盛でも厳しい人種だからだ……


【博一】

「いや、甘い物は別腹という言葉があるし、胃が膨張するって証明もされてる。

ラーメンは無理かもしれないけど、甘い物効果でどうにかなるかもしれない!!」


その巨大さに怯んでしまうが、男を見せるときだ!


スプーンでアイスクリームを掬い上げると、考える隙も与えないほど速く口へと叩きこむ。


【博一】

「うっ……がはっ!」


【マトイ】

「えっ! ヒロッポン、どうかしたの?」


【博一】

「あのさ……言い忘れてた事がある……というか、言えなかったんだけど……」


【マトイ】

「ふへっ? ははひっ!?」


さっきまで心配そうにしていたクセして、着々と食べ進めつつある。


【博一】

「俺、甘い物苦手なんだ……」


【マトイ】

「え~! マジ~!? あっ、でもでも大丈夫、

 これくらいの量だったらウチ一人で食べきれるから!!」


小動物が餌を溜め込む時のように頬を膨らませながら、今まで見たこともないほど可愛らしく蕩けそうな笑顔を咲かせた。


【マトイ】

「うん! ほひひぃ~!! ふひ、ははひほほはっはらほれはへへ――」


【博一】

「何言ってるのかわかんないよ!!」


【マトイ】

「ウチ、甘いものだったらどれだけでも食べられるよっ!?

うぅ~ん、ふひぃ~ほ。ほんはひほいひいほひはへ――」


【博一】

「Sweetってそれ好きだな……で、聞き取れるけどわかんないって!」


【マトイ】

「こんなにおいしいのに食べられないなんて、ヒロッポンはかわいそうだね?

あっ、もしかして! これなら食べられるんじゃない!?」


生クリームに刺さっていたチョコプレッツェルを手に、俺へと向けてくる。そう、実は甘いものが苦手であっても例外は存在する……


【博一】

「あぁ、チョコレートは平気なんだよな……生クリームも豆大福とかもダメなのに」


【マトイ】

「ヒロッポン、ここに刺さってるメッキーず~と見てたからそうかと思って。

 やっぱウチてんさぁ~い! これが、ドキュメンタリー!!」


【博一】

「言ってることがさっき逆になってるよ!」


しかし、昔からあるお菓子とはいえ、メッキーなんて名前しやがって……


【マトイ】

「あっ、でもでも、生クリーム苦手なんだよね……

 いい事思いついた! やっぱウチ、てんさぁ~い!!

 ヒロッポンちょっと、目を閉じてて」


【博一】

「あ、あぁ……これでいいか?」


【マトイ】

「ちゅっ……ちゅるっ……はぁ……よし、いいよ、これでどう!?」


彼女の細い指先から俺へと伸びるメッキーは生クリームが拭われており、本来の美味しそうな姿を取り戻している。


【マトイ】

「ねっ? これならヒロッポンも食べられるでしょっ!!」


確かにそうだが、口にしづらい……生クリームを拭った時の状況を視覚で観測していなくても、聴覚ではっきり認識してしまったから……いや、衛生的にとかそういうのじゃなくて、彼女のだから平気だが、間接キスだとかそういうのが……


【マトイ】

「はい! あーん!!」


【博一】

「えっ……あ、あーん……」


彼女の瞳に煌めくワクワク感。期待を裏切ることはできず、恥ずかしい気持ちを堪えながら差し出されたメッキーを口にした。


【マトイ】

「どう? 美味しい!?」


【博一】

「あぁ……うん……美味しい……」


微妙にチョコレートが溶けているし、舌にそれらしきぬめぬめとした感じがあるしで……倫理とか道徳とかそういう方向性でいろいろと不味い……


【マトイ】

「う~ん! おいしぃ~!!」


幸せそうな笑みを浮かべながら食べている姿――可愛らしい彼女の顔を見ていると、今まで経験した事のない安らぎが心に溢れて止まらない。今までスクーターで走っていたり、学校で会ってもこんな感覚になった事はなかった。


だけど、今は違う……どうしてだろうか? すごく落ち着いているし安心しているのに、ソワソワした気持ちが行ったり来たり……


【マトイ】

「ヒロッポン!?」


【博一】

「えっ、どうした!?」


呼ばれて意識を現実に引き戻すと、そこには瞼を閉じて口を広げる彼女が……


ぬめぬめと唾液に濡れた口内は艶を帯び、綺麗な歯並びと血色のいい舌を目にすると心臓の鼓動が激しくなった。わずかに残った生クリームの白濁を見ていると興奮を覚えずにはいられない。


いつかこれが、自分のものになった時を想像すると……


【マトイ】

「次はウチの番でしょ!? ヒロッポン、あ~ん!」


【博一】

「えっ、えっ!?」


周囲の人の目を伺いながら躊躇いがちにスプーンでアイスクリームを掬い取ると、彼女の口内へとゆっくりゆっくり近づけていく。


【博一】

「あ、あ~ん……」


【マトイ】

「あ~ん! う~ん、ほひひぃ~!!」


恥ずかしい……ありえないほど恥ずかしい……彼女がとても喜んでいるだけに、何故なのか罪の意識に苛まれてしまう……


【マトイ】

「じゃあ、次はウチの番! あ~ん!!」


【博一】

「いや、生クリームはダメだって……」


【マトイ】

「もう、好き嫌いはダ~メ! ほら、ちゃんと食べて? あ~ん!!」


妙に色っぽい目つきで見つめられ、出来る事なら本人を食べ……いや、何でもない。


【博一】

「えっ、あ~……ん……?」


俺の鼻に生クリームを付けるなりニヤニヤ笑いながら彼女は自分の口へと運ぶ。


【マトイ】

「きゃはっ、ひっかかった~! 生クリーム苦手なんでしょー?

 ウチが全部食べるって言ったし、あーげない!!」


承服しがたいが、これはこれでよしとしよう……いつか絶対仕返しする……


【博一】

「そういえばさ、マトイはなんでバイクになんて乗ったんだ?」


【マトイ】

「う~ん……じゃあ、ヒロッポンが答えてくれたら……ウチも答えてあげる!」


なるほど。やっぱり、同じ世界にいる以上、日常会話よりもこっちの方がいいっていうわけだ……俺だってそうだし、だから友達も少ない。


【博一】

「友達の影響かな? 俺って4月生まれだし、そんで5月生まれのヤツに誘われて」


【マトイ】

「んじゃぁ、なんで一緒に走ったりしないの?」


【博一】

「方向性が違ったからな。そいつの場合はバイク乗ってるのがカッコいいとか、

 はみ出してる感じがさ、みんなとは違うみたいで憧れた。

 俺もそんなんだったけど、なんか違うなって思って今はこのありさまだ」


バイク乗りの中にも種類はある。ただそれだけの事で、加奈さん曰く、俺は走り屋側の人間だとか……


【博一】

「それで、マトイはどうなんだ?」


【マトイ】

「あの子、ママに貰ったって前に話したじゃん? 実はウチ引きこもりだったの……

 なんとか外に連れ出そうって、ママがツーリングに連れてってくれて。

 外の世界って広いんだなーって思って……」


なるほどな、彼女がギャルっぽいのに、どこか成り切れていないのは、少しでも明るくしようという母親の作戦のようだ。


【マトイ】

「ウチ……本当は人と話すの苦手だし……

 周りと打ち解ける為に、喋り方も変えてたんだけど……それでもやっぱり……」


スプーンを止めると寂しそうな表情で俯いて、躊躇いがちに放った。


【マトイ】

「わかってくれる人はいなかった……それで、一人で走り回って……

 SS125Vを貰ったときに、なんかよくわからないバイクが追っかけてきてね。

 赤信号で捉まってるの見た時に、してやったりって、楽しくなったんだ~」


【博一】

「わかるわかる! 新型車とか見たくれだけのマシンをカモった時とか!!」


【マトイ】

「それ、ウチの事じゃない!?」


【博一】

「あっ、いやそうじゃなくて……って、もう食べたの?」


喋っている間に彼女はあれだけあったパフェを平らげてしまった。


【マトイ】

「あ~もうウチおこだから! ヒロッポンの奢り~!!」


頬を膨らませながらすねる様子もまた可愛くて、安らぎが止まらない……って、奢り?


【マトイ】

「うん、激おこだから! ウチ、ヒロッポンの事なんて知~らない!!」


【博一】

「わかったわかった……」


レジに行って生産を済ませると車いすを引いて店を出た。


さて、次はどこへ行こうかと考えていると彼女は車いすの上でジタバタと暴れだす。


【マトイ】

「あっ、水着がある! ちょ~どおニューのが欲しかったんだ!!

ヒロッポンも一緒に選ぼ!?」


彼女に言われるがまま女性モノ水着のコーナーで車いすを引いて歩く。


しかし、周囲の視線が妙に冷たくて、死にそうな気分だ。


【マトイ】

「これとかよくない!? ほら、こんな感じで、どう?」


【博一】

「うぅ~ん、こっちの方がよくないか?」


【マトイ】

「うわぁ~、ちょ~可愛いぃ! 妖精さんみた~い!!」


フリルのついたファンシーな雰囲気のビキニを手に取って自分の体に重ねると、似合っているかどうかを聞いてくる。


しかし、素直に可愛いとは言い難い……彼女がそれを着ている姿を想像してしまえば、おのずと素肌まで頭に浮かべている事になるのだから……


【マトイ】

「あれぇ、ヒロッポンぼーっとして……鼻の下伸びてない?

 もしかして、ウチが着てるとこ妄想してた!?」


してやったりと言わんばかりに、ニヤニヤと俺を見て笑っている。そうなると、少しだけ対抗心が燃えてくるわけで……


【博一】

「うん、可愛いマトイによく似合うと思う」


【マトイ】

「でしょでしょ! うわぁ~これ、ちょ~鬼カワぁ~!!

 それじゃあ、ちょっち待ってて。試着だけしてくるー」


恥ずかしがるのを見たいと思って言ってみたが、とびっきりの笑顔で喜んでくれたので、これはこれでいいとしよう。


そう言い残して彼女は自分で車いすを転がして試着室へ向かっていった。


が、しばらくすると店内を探し回った挙句、俺の元へと戻ってきた。


【マトイ】

「ねぇねぇ、ヒロッポン! お願いがあるんだけど……」


【博一】

「……どうしたんだ?」


【マトイ】

「松葉づえで支えようとすると、うまく着れなくて……手伝ってぇ~!」


【博一】

「て、手伝う!?」


いや、だからといって別に彼女が脱ぐわけでもないし……しかし、狭い空間に男女で二人きりって……


【マトイ】

「ダメェ?」


車いすに腰かけたまま上目遣いに言われると、聞いてやらないわけにもいかない。


【博一】

「しょうがないな……」


何もない事を祈ろう……というか、何も起こらないように善処しよう……自身に誓いを立てつつ、彼女と一緒に試着室へと入る。


【博一】

「じゃあ、俺はカーテンに向いてるから、なんかあったら言うんだぞ?」


【マトイ】

「うん、おっけー!!」


エアコンの風でユラユラと動いているカーテンを見つめながら、頭の中でとにかく考えないよう考えないようにと呪文のように唱えている。


なのに、背後から彼女が脱いでいる衣擦れの音が耳に届いてきて、ドキドキが止まらない。


狭い空間に二人きりで……さらには彼女のいい匂いも漂ってくるし……心臓の鼓動が激しくなりすぎて息苦しい……これは何ていう拷問だ?


支えにしているらしく、彼女の小さな手のひらが俺の肩に乗る。


しかし、少しだけバランスを崩したらしく、華奢な体が抱き着くように密着した。


色々と限界を超えそうになりながらも、とにかく神様仏様マトイ様と祈るばかり。


【マトイ】

「あっ……う~ん……んっ……あっ、やっぱりダメ……」


喘ぎにも似た声を発しながら衣擦れの音が繰り返されるのは、わざとやっているんじゃないかと思えるほどだ。


【マトイ】

「はぁはぁ……んっあぁぁ……いけた……

 よし、ヒロッポン、どう? 似合ってる?」


【博一】

「振り返っても大丈夫なのか?」


【マトイ】

「うん、バッチリ。ちゃんと着れてるよ!!」


さすがの彼女でもこれに関しては嘘はつかないだろうと振り返ると、予想外の姿があって思わず目を背けた。


【博一】

「ちょっ、待った……なんだよそれ、どこにあったんだよ!?」


華奢な体と豊満な乳房をぴったりと覆う紺色のスクール水着。


露出した肩の皮膚は汗で濡れてわずかに艶めいて、細い腰回りとおへその小さな影、締め付けられてプルンと揺れるやわらかそうなお尻に精神が崩壊しそうだった。


【マトイ】

「どう? ウチってやっぱりさいカワ!?」


しかし、生地の張り付き具合に違和感を覚えているのか、自分で腹部を撫でたり胸のあたり影をなぞったりする仕草は殺しに来ていると言わんばかりだ。


腕を上げて露わになる脇の筋と言ったら……


【博一】

「う、うん……可愛いけど……って、何故スクール水着……

 ビキニはどうしたんだよ?」


【マトイ】

「うーん、あれも似合うかなぁって思ったんだけど、

 やっぱりこっちにしようかなって! ちょー可愛いと思わない!?」


今後、海に誘われて行った時の事を考えてみると、やっぱりスクール水着はおすすめできないから、止めるべきなんだろう……


だが、これはこれでとても可愛いし、似合っているし……


俺の肩に手を置きながら今にも抱き着かんとするように見つめられ、もっと見ていたいのに恥ずかしくて目を逸らすしかなかった。


【マトイ】

「じゃあ、ウチの脚が治ったら、海行こ海!」


やっぱり言い出したよこの子は!


【博一】

「いや、海だったらやっぱりビキニを買った方がいいと思う」


【マトイ】

「って事は、ヒロッポンは一緒に行ってくれる前提なんだ!

 じゃあ、ビキニも買わないとね!!」


いや、ビキニの布面積を考えると露出度が高いし……そんな事はどうでもいい。


【博一】

「夏休みが終わるまでに治ったらな?」


【マトイ】

「大丈夫だよ! ウチは鬼ツヨだから……さてと、じゃあそろそろ着替えないと!!」


彼女の発言を聞いて再びカーテンへと向くと俺の肩に小さな手が乗る。というか、俺は必要なのか? 松葉づえでも変わらない気がする……


【マトイ】

「あっ、ヒロッポン、もうちょっとしゃがんで……そそ、そんな感じ!

 んんっ……はぁっ……ひっ、あぁっ!!」


と同時に、小さな手がずるりと滑り落ち彼女が倒れ込んでくる。


無理な体制を取っていた俺もバランスを崩してしまうが、運よくカーテンの外までは飛び出さなかった。


【博一】

「いってぇ……マトイ、大丈夫か」


【マトイ】

「あっ……うんっ……あぁ……」


左手で体を支えながらも、右手はどうしてかやわらかい感触を弄んでいる……いや、これはもしかして……


瞼を開けるとそこには彼女の白く艶めいた肌があり……片方だけ肩ひもを外したまま転倒してしまったらしく、露わになった乳房が俺の手に収まっていた。


しかし、状況を観測しても脳は事態を把握していない瞬間というのは世の中にはいくらでも存在するわけで、不可抗力というか……


俺の手のひらが動いて、弾力のある胸が思いのままに形を変える。


【マトイ】

「んふっ……はぁぁっ……ヒロッポン、ちょっとダメっあっ!」


もがけばもがくほど彼女の香りが強くなり……感じて喘いでいるのを見ると、ようやく自分の意識が追い付いてきた。


【博一】

「あっ、ごめん!」


謝るが早いか手を離そうとするが、彼女は俺の腕を掴んだ。


【博一】

「えっ!」


【マトイ】

「今離したら、見えちゃう!」


【博一】

「そんな事言ってる場合かよ!?」


離さなければならないが離してはならないというジレンマに陥りながら、状況をどうにかしようと考える。


そう、目をつむればいいだけなのだと考えて実行に移す。


【博一】

「ほら、見ないからもう大丈夫だ」


【マトイ】

「うん……んぁぁっ……はぁぁんっ……ちょっと、待って……んんっ!」


脚の怪我の所為なのか上手く立ち上がれないらしく、彼女の胸が手のひらでタユタユと動き回る。


いや、瞼を閉じたなら手をどければいいんだと思うが、彼女はそこに考えが及ばないらしく、俺の腕を掴んだままだ。


【博一】

「マトイ、見てないから離しても大丈夫だぞ!」


【マトイ】

「あっ、そっか……んしょっ……はぁ……それで……こうして……

 んはぁっんっ……よし、着れた……もう大丈夫だよ!

 ヒロッポン、ありがとっ!!」


言われて瞼を開くと、そこには私服を着る途中の彼女の姿が。


黒をベースにピンクのドットが落とされた柄は妖しい可愛さがあり、床に倒れ込んでいる俺を見下ろすようにしている様は今にも襲い掛かってきそうな雰囲気だ。


これもまた格別……じゃなくて!


【博一】

「全然大丈夫じゃないだろ!? 早く着ろ!!」


と言いながら立ち上がってカーテンへと向き直ると、衣擦れの音がしばらくした後、彼女が俺の肩を叩いた。


ふと振り返ると細い指先と綺麗な爪が頬に当たる。


【マトイ】

「あっ、ヒロッポンひっかかったー!」


【博一】

「子供かよ! ほら、準備できたなら出るぞ!!」


肩を貸しつつゆっくりと車いすへ座らせると、彼女は水着を膝元においてレジへと持って行った。


支払いを済ませるとそろそろ頃合いかと思い、併設されている遊園地へ行くためにショッピングモールを出ようとした。


【マトイ】

「あっ、ちょっと待って! その前に、屋上の展望スペース行こ!!」


【博一】

「展望スペース? 観覧車に乗るから別にいいんじゃないのか!?」


【マトイ】

「うーん、それでもいいんだけどさぁ~……

 やっぱり、展望スペースでいいや……ほら、速く早く!!」


【博一】

「ね? ってどういう事だよ!? まぁいいけど……」


どういう事なのか全くわからないまま、エレベーターに乗り込み屋上へと向かう。


彼女の言った意味がよくわからないから、表情を伺ってみるが何も言わない。


2階から5階へ上っていくだけの沈黙がやたらに長く感じられる。


しかも、途中で誰も人が乗ってこない……なにか話しかけるべきだろうか……


【博一】

「あの――」


口を開こうとした瞬間にエレベーターは5階へと到着し、何も喋らないまま車いすを押して展望スペース内へと入っていく。


ガラスの向こうに見える街の景色は、すでに夕日の色に染まっていた。


初デートの緊張でスマートフォンを確認する事もなかったし、腕時計もつけていなかったから、時間という存在の不思議さを改めて思い知る。


楽しいかどうかで言えば、どこか物足りない気分があった……楽しい時は瞬く間に過ぎ、あれだけ濃密な時間を、一緒に過ごしたのに……


俺の前で車いすに座っている彼女の様子を伺うが、やっぱり何も言わないで景色を眺めているだけ。さっきまであんなに楽しそうにしていたのに、急に静まり返って……


【博一】

「なあ――」


【マトイ】

「ヒロッポンはさ、ウチの事どう思ってる?」


いつになく穏やかで荘厳な彼女の声色を耳にすると、これから始まる話はとても真面目なものなんだと思った。


【博一】

「多分……マトイも俺と同じ事を思ってるんじゃないか?」


互いにどこか噛み合っていない部分がある事をハッキリと認識している。


そりゃそうだ。走る者として己の速度が絶対正義という根本は変えられない。


だけど、前を走っていようが後ろを走っていようが……そこに真実は存在している……相手を思っている……


【マトイ】

「う~ん、ウチ、バカだからわかんないかも!」


【博一】

「ズルいなぁ……じゃあ、俺から言うよ……

 バイクに乗り始めて一人でいる事が酷く楽しく思えてたんだ。

 だけど、みんな離れていった。カッコよくないとか危ないとか言って……」


生きとし生ける者すべてが、似たようで微妙に違った世界観を持っている。


その中で他人と重なる、ごくわずかな一部分だけで構成されたのが現実といわれ、だけど、俺の現実はそこにはなかった。


【博一】

「じゃあ、速さに意味があるのか? そう聞かれると意味はないと答えるしかない。

 速さはただ単に手段でしかない。その現実に自分がいて、相手がいる。

 それを確認するだけの手段で……初めてだったんだ。俺にとって……」


【マトイ】

「ウチじゃ、ダメ?」


そう、ずっとこの時を待っていたんだ。嬉しい気持ちが止まらなかった。


人に思われたのは初めてで、今すぐにでも彼女を抱きしめたかった。


すべてを投げ打ってでも、彼女の気持ちに答えたかったし、答えて欲しかった。


けれど、俺はどうしてもそれが出来なかった。


はたして、すべて投げ打ったとしても、彼女に見合う価値なんて俺にあるのか?


ふと脳裏を過るあの夜のバトル……


やっぱり、俺達は言葉じゃなくて、走りでしか語れない……どうして、こんな事になってしまったんだろう?


じゃあ、別の出会い方をしていたらもう少しまともな関わり方が出来ただろうか?


多くの人々が描く青春を謳歌出来たんだろうか?


いや、きっと別の出会いもなくて、それがなければ彼女と関わる事もなかった……


可愛らしい顔に見つめられると、言い得る事の出来ない不安が舌に込み上げてくる。


【博一】

「いつになるかはわからない。だけど、必ず見つけるから……

 待たなくていい。それでも、答えは出すから!!」


彼女みたいな可愛い子相手に、先延ばしにした事を後悔するかもしれない。


だけど、中途半端な気持ちを返したくなかった。


【マトイ】

「そっか……わかった! じゃあ、ウチ、ヒロッポンの言う通り待たない。

 先に行ってる……」


【博一】

「うん……それでいいと思う……」


彼女はそっと俺の手を取り上げるとやさしく包み込んで、心を込めて握った。


【マトイ】

「あの辺……湾岸道路が走ってるんだね……」


夕日に染まる町の景色と海の輝きの境を指さして潤んだ瞳をしている。


【博一】

「そうだな……湾岸一般道路……」


やっぱり、俺たちの世界は……あそこなんだな……


マシンの限界値を競うバトルで俺達は、運命的な出会いを……


歪んでいく景色、マシンの鼓動、路面の起伏、強烈な風……乗り手の心……


あの瞬間……あの道路で……俺達は出会ったんだ……


【マトイ】

「ウチ……ヒロッポンなら必ず追いついてくるって信じてるから……」


【博一】

「そうか……じゃあ、追いつくよ……

 でも、もし俺が……マトイを置いていったら?」


【マトイ】

「……きゃはっ! その時は……ウチが追いつくよ!!」


二人で手を取り合いながら笑い合うと、沈みゆく夕日をただただ眺め、これからやってくる夜に何としても勝利しようと心に誓い、やわらかい手のひらを握り返した。

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