真空からの帰還

前篇

 ハハッ! もしかしたら俺は世界記録保持者になるかもしれないな。ここを生き延びれば、超有名人?


 男は思考していた。

 しかし かなり激しい頭痛に襲われていて、実は考えるのがとてもつらい状態だったのである。

 異様な騒音が耳を襲っていたのだ。ゴボゴボと水でも激しく泡立つような音が連続していて、決して途切れない状態にあった。それは耳に貼りつき絶対に消えないもので、不愉快極まりなかった。しかも刺すような痛みが耳の奥から頭に走っていたので堪らなかったのだ。

 更にハンマーで殴られたような頭痛が時折走って、気が飛びそうになっていた。だが、それでも意識を振り絞って考えようとしていた。

 

 くそっ、俺は生き延びるんだ!


 男は自分を鼓舞する。そうしなければ気を失ってしまう事を自覚していたからだ。“ここ”で気絶すると、確実に死んでしまうことを理解していたのだ。


 生き延びてやる、絶対に生き延びてやる!

 ついでに世界記録保持者ワールドレコードホルダーになるんだ!




 視界に拡がる灰色の大地、その上には漆黒の空――――

 静寂に満ちた世界には如何なる潤いも見られない。

 そこは月面、生命の存在など決して許さぬ真空の世界――――


 その大地を男は走っていた。宇宙服を着ているが、ヘルメットはつけていない。代わりのつもりなのか、頭と顔面を布だかフィルムみたいなもので包み、目にはゴーグルをつけている。勿論そんなもので気密を保てる訳がない。よって彼は真空に己の身を曝した状態にある。そんな状態で彼は月面を走っているのだ。

 そう、彼は死なずに走っている。今は……、だが――――


 生き延びてやるぞおおぉぉぉぉぉぉぉっ!


 声などあげられる訳がない。だからこそか彼は思考の中で叫んでいた、絶叫していたのだ。

 彼は手を伸ばす。その先に蒼い星の姿を捉える。


 地球――――


 生命発祥の地、人類ホモ・サピエンスの寄る辺、それは彼の故郷。

 伸ばした手は激しく震え、尚更に伸ばされようとする。何が何でも掴もうとするかのように、それは力が込められ、故にこそ決死の想いが溢れていた。


 生き延びてやる!


 それが彼の想い、しかし――――


 真空の月面世界で、ヘルメットもつけず、何時いつまでも真空曝露の状態で生き延びられる訳がない。だがそんな絶体絶命の状況にありながら、それでも尚、彼は生き延びようと足掻いていたのだ。

 何故こんなことになっているのだろうか? 時間を遡る――――



 凡そ10分前――――


 シュウシュウいう音が頻りに耳につく。無数の紙を盛んに擦り合わせるみたいに聞こえてきていて、それは次第にけたたましさを帯びていく。


 うるさい!


 不快感が増し、その怒りの中で男は目覚めた。

 そして彼は目撃した――奇妙に白んでいて、靄でもかかっているかのような光景を。その意味を彼は最初 理解できなかった。

 操縦室の床上に大の字のなって仰向けに寝ていた自分を発見した。目線だけを動かし周囲を見やるが、色んな備品やら自分の宇宙服のヘルメットなどが散乱しているのが確認できた。まるで大地震の後みたいな乱雑な室内だった。


 何だ、何があった?


 どうもかなりの衝撃に見舞われたらしいことが状況から理解できるが、その理由が分からず、彼は困惑してしまった。記憶が混乱していたのだ。

 男は必死に思考し、思い出そうとした。その甲斐もあって少しずつ甦ってくる。


 そうだ、確か俺は無人観測基地の機器のメンテナンス作業に向かっていた筈だが?

 ムーンバギーで17の基地を廻って、最後の1つに向かっていたはずだ。そしてその基地の手前に到達した時――――

 その時に何かトンデモナイ衝撃に襲われたのを憶えている。近くで何かが爆発でも起こしたような……


 その原因と、そこから先をどうしたのか――それがはっきりと思い出せなかった。

 それでも必死に思考を凝らすが、それは阻まれることになる。

 不意に、白いものが素早く目の前をぎったからだ。気になって、反射的にそれを追う。

 白いものは紙か布のようなペラペラした欠片だった。それは何かに吸い寄せられるように真っ直ぐに飛び、やがて窓に貼りつくのが見えた。


 その窓には、決して小さくないひび割れが見られた。


 男は窓のひび割れの中心にピッタリと貼りつく紙だか布のようなものの欠片をボンヤリと見ていたが、やがて目に力が宿るのが見て取れた。

 見る間に眉間に皺が寄り、酷い動揺の色が現れる。顎に力が入り、激しく歯噛みをし始めた。何かを理解したのだ。

 彼は叫ぶ。


「気密が破れている?」


 男は調べようと起き上がりかけたが、その時に身体のあちこちに痛みが走って動きを止めた。止められたと言うべきか? 彼は思わず呻き、蹲ってしまった。


「くそっ、アバラをやられているのか?」


 胸の左側を抑え顔を顰めた。肋骨を何本か痛めていることを理解したのだ。

 それでも彼は何とか立ち上がり、操縦室の制御卓コンソールに辿り着く。その間も紙を擦るような音は激しさを増していて、窓に貼りつく紙だか布みたいなものが いっそうピッタリと透明グラスファイバーに貼りつくのが見えた。

 男はゴクリと喉を動かす。異様な乾きを憶え、彼は高い緊張を自覚した。そして声を出す。


「ああ思い出した。隕石の落下に巻き込まれたんだ」


 青天の霹靂などという言葉があるが、これがまさに当てはまる。

 方位東北東12°の方向、突然 探知範囲にその影が現れた。影は見る間に拡大、詳細なデータが操縦室の制御卓コンソールモニターに表示された。

 それは隕石だと判明。簡易スペクトル分光分析結果によると、C型組成の隕石とのこと、典型的な炭素質小惑星の欠片だ。大きさは2m弱、大した大きさではない、しかし――――

 速度8.21㎞/sec、地球衛星軌道速度にも匹敵する速度で落下してきていると計測された。方位は真っ直ぐに男の乗るムーンバギーを目指しているのが分かったのだ。


 男は怒りを憶えた。

 何故ならば、この日の太陽系内天体軌道観測予報では接近する小惑星や隕石の情報がなかったからだ。


 こんな話は聞いていない!


 まだ地球圏に限られるが、人類が宇宙への本格的進出を果たしたこの時代、宇宙空間を移動する天体やデブリなどの軌道運動体情報は重要度を増していた。頻繁に地球衛星軌道や月などを往還するようになったこの時代、宇宙にある物体の存在位置の把握は極めて重大だった。デブリや隕石などと衝突して宇宙船やステーションが破壊でもされたら、新たに多くのデブリを生産してしまうことになり、宇宙での活動が尚更に厳しくなるからだ。

 よって全天に渡る精密観測体制が整備され、宇宙に於ける航空宇宙管制を統一して担当する国連航空宇宙局・天文観測センターより軌道予報の発表が連日行われる体制が整備されている。それは1時間ごとに更新されるものだった。

 当然 隕石の予報も行われるのだが……

 軌道上に比べて月面での予報は精度が些か落ちているのが現状、隕石と衝突する可能性など それこそ天文学的に確率の低いものだったからだ。サイズ的にも重視されなかった可能性がある。つまり見逃された。


 くそっ、そんなものに当たるとは……!


 男はバギーのオートパイロットを解除、マニュアルにチェンジして自分で運転を始めた。素早く動くには自分で運転するのが一番だったからだ。

 回避すべく軌道を変更して加速に入ろうとした瞬間だった――――

 一歩間に合わなかったのか、隕石はバギーの至近に落下、その衝撃をモロに浴びバギーは吹き飛ばされてしまったのだ。車内にいた男は横転するバギーに翻弄され、遂に気を失ってしまったのだ。

 例え2mほどでも、地球衛星軌道速度にも匹敵する速度で衝突されれば、それは膨大な運動エネルギーを生み出す。恐らく何キロも離れたところでも、衝突時の爆発が明確に観測できただろう。そんな力の洗礼を受けたのだ。無事に済むなど都合がよすぎる。


 しかし俺は何とか生きている。これは僥倖と言うべきなのか?


 バギーは大きく破損しているようだ。車体の姿勢は普通、吹き飛ばされて転がったはずだが、上手く脚から着地できたようだ。だが車軸は大きく歪み、一部は断裂しているとの報告がモニターの1つに出ている。走行はどう考えても不可能っぽい。

 生命維持機構ライフサポートシステムは機能しているようだが、これは……


 目を白いものが貼りつく窓に向ける。その先に灰色の大地と漆黒の空が見える。地平線は直ぐそこにあるように見えるが、これは風景が霞まず、はっきりと見える為だ。大気のない真空世界では遠方の物体が霞んで見えることがない。それが実際の距離以上に近くにあるように錯覚させる。大気のある世界で進化してきた地球生命の一員である人類の感覚も例外でなく、地平線を直ぐ間近にあるように見てしまうのだ。


 そうだ、ここは真空の世界なのだ!


 その“近さ”は、命あるものの生存を決して許さない絶対死の世界を意味していた。

 その中に大きなクレーターが存在しているのに気づいた。あれこそが男のバギーを襲った隕石の痕だと思われる。かなり巨大に見えて、直ぐ手前にあるように見えるが、実際は何百mも離れているだろう。

 彼は小さく深呼吸をして、心を落ち着かせた。そして制御卓コンソールのタッチパネルに手を伸ばした。


「フウッ、環境計測システムは一応生きているな」


 男の目の前に立体映像ホロヴィジョンスクリーンが出現、球形の枠を持つホログラムを表示する空間投影画面だ。

 画面内には幾つもの文字列が見られるが、これはメニュー画面だ。男はスクリーンの右端にあるカーソルに右手人差し指を当てて、上方へと跳ねた。するとメニュー列がスクロールを始める。暫くそうしてスクロールをさせ続けたが、やがて停止させる。1つのメニューボックスにタッチ、データ記録評価という項目だった。

 青色表示はオレンジに変化、直ぐ右側に「コンテニュー」か「ノー」かの選択ボックスが出現。男は迷わず「コンティニュー」をタッチした。

 スクリーン全体が変化、メニュー画面を覆い尽くすように別の画面が出現、スクリーン全体を占めた。複雑なグラフと映像、英文字表記の文字と数字が盛んに走り続ける画面だった。映像は操縦室内とムーンバギーを外から見たCG、そして外の月面だ。

 バギーの外観は酷く歪んでいて、破損が著しいのが分かった。各種センサーが計測した数値を映像化したものだ。


 男は暫し黙って画面を見つめていたが、やがて操縦室の映像を拡大させた。それから更に幾つかの操作を続ける。それに従い画面の色調が変化する。暖色系の色彩を強調させる画面となった。

 男はそれを黙って見ていたが、次第に表情が険しくなっていくのが見られた。彼は歯噛みし、絞り出すような声を出して言葉を口にした。


「ちくしょう、ホントに気密が破れてやがる」


 頬を撫でる気流には、明らかに一方向へと強く流れる風の強さがあった。それは外部へと吸い出される空気の流れを意味していたのだ。

 画面上に幾つもの円環が出現、操縦室の複数の箇所を示した。それらの部分の気密が破れていることを意味する。時折見られる白い靄みたいなものは、気圧の低下によるものと思われる。空気循環システムに異常があるらしく、新たな空気の補充が追いつかなくなっている事実も判明した。予備ボンベの破損も確認できた。

 

 このままでは程なく空気がなくなってしまう。


「くっ、自動気密保護機能は働いていないな!」


 男は画面から目を離し、顔を眼前のひび割れに向けた。そこの気密も破れているのは明白だった。男は頷いて、声を出した。


「ジェルシールド、緊急散布!」


 天井と壁面の1つから半球形のカプセルみたいなものが出現、それぞれ真ん中から2つに割れて、中から多数の泡が飛び出てきた。シャボン玉みたいで、それらは気流に乗って操縦室内を移動し始める。移動速度は結構速くて、気密の破れが深刻な事実を窺わせる。

 泡――これがジェルシールドと呼ばれる気密保護機能――は幾つかのグループに分かれ飛んでいき、壁や窓、コンソール下の隙間などに入り込んで付着した。男の叫びは音声コマンドになっていて、バギーのシステムが認識して機能を作動させたのだ。

 すると次第に紙を擦るような音は小さくなっていった。

 男は窓に目を向け、ジェルシールドが付着し拡がっている様子を見た。やや赤みがかった色のそれはピッタリと窓に張り付き、光沢を発している。見ただけでも硬化しているのが分かるが、これが破損部分を覆って気密の破れを止めたのだ。しかし表情の強張りは収まらない。


 ちくしょう、環境管理の自動調整機能がイカれてやがるな。本来なら自動でジェルを散布するはずなんだが……

 これも隕石衝突の衝撃のせいか?


 男が音声コマンドで指令して、ようやく機能したのだが、それではいけないのだ。気密破れが感知された時点で即座に自動で機能すべきだったのだ。機能制御、特に自律判断機能に何らかの不具合が生じている可能性がある。


 男は目で窓や壁に張り付いたジェルを確認、続いてスクリーン内の環境データを調べた。暫くそのまま確認を続けていたが、やがて目を離して一言――――


「ダメだ、収まらない!」


 言葉は叫びとなり、彼は大きく腕を振り上げ、制御卓コンソールの端に打ち付けた。そのまま俯き、動かなくなってしまう。


 紙を擦るような音は収まっていない。小さくはなっていたが、消えることはなかったのだ。

 スクリーンの表示は、空気が操縦室から外へと漏れ出ている状態が続いている状態が続いているのを示していて、決して収まらない事実を伝えていた。窓や壁などの亀裂はジェルによって保護されたのだが、ムーンバギーの破損は車体構造の深くにまで及んでいるらしく、メインフレームの幾つかは完全に破壊、操縦室床下を大きく圧迫しているのが分かる。目に見える亀裂部分は全てジェルで保護できているが、制御卓コンソール下のケーブルボックスまでは届いていなかった。その奥にも亀裂があり、空気漏れが終わらないのだ。

 ジェルを届かせる為にはボックスカバーを開ける必要があるが、その瞬間 一気に空気漏れが加速する恐れがあった。


 いや、確実に加速する……


 男は確信していた。


 カバーを開けた瞬間、操縦室の空気圧が一気に押し寄せ、恐らく亀裂を押し広げてしまうだろう。その時、何もかもが雪崩を打って車体は完全に破壊されてしまう。そして操縦室も――――


 スクリーンに表示される操縦室床下にかかる圧力数値が全てを証明していた。メインフレームの破壊により、構造を支えるのが困難になっているのだ。今現在でも綱渡り的なバランスでようやく構造を保っているに過ぎないのだが、ここに少しでも変な力を加えたら一気に破壊が進むだろう。


 カタストロフィー理論だな……


 乾いた笑みを浮かべ、男は思考する。

 カタストロフィー理論――力学系の分岐理論の一種、不連続な現象を説明する。時に起きる劇的な状況の変化を説明するものだ。

 僅かな刺激で全てを崩壊させるこの危うい現状に、男はカタストロフィーを見ていた。


「いや、何もしなくても大して変わらんな。絶望的だぜ」


 乾いた声で、男は呟いた。


 紙を擦るような音は消えない、変わらずシュウシュウいう音響を鳴り響かせ、男の鼓膜を刺激していた。聞こえているはずだが男は目に見える反応は見せず、微動だにしない。

 しかしその脳裏には激しく思考が走り続けていた。


 一刻の猶予もない。

 このままいくと、何もしなくても程なくバギー全体が崩壊するのは確実。フレーム構造の歪み・損傷は想像以上に深刻で、車体を維持するのが困難なのが分析結果に出ている。

 皮肉なもので、操縦室の気密――即ち空気圧が車体にストレスを与えている。これが破壊を後押ししつつあるのだ。車内気密区画の空気圧は地球上よりは低め――約3分の2に抑えられているが、車外は殆どゼロ気圧(正確には10のマイナス7乗気圧から10のマイナス10乗気圧の大気がある)――実質 真空だ。この差は絶対的で如何ともしがたい。


「くっ、救援を呼ぶしか――」


 男は通話チャンネルを開き、主月面開発基地を呼び出そうとした。しかし何の反応も現れないことを知り、呻いたのだ。


 むぅっ、通信アンテナが吹っ飛んでいる……


 スクリーンのCGが表示していた。屋根にある筈のパラボラが酷く歪んでいたのだ。サブアンテナも破損していて、これでは近距離通話も困難なのが理解できた。

 救助の要請が不可能な事実を知り、男の顔に絶望の色が現れる。


 足元に振動が走るのを感じた。ちょっとした地震みたいで、男はギョッとしてしまう。月面で自然の有感地震などない、操縦室の床から伝わる振動の意味するものを男は理解する。


 崩壊が加速した……


 紙を擦るような音が更に大きくなった。窓からはビキビキいう音が聞こえてきて、見ると亀裂が拡がっているのが分かる。

 男は更に追加でジェルシールド散布したが、これが焼け石に水であることを痛いほどに理解している。

 足元に転がってる宇宙服のヘルメットに目を向ける。メインバイザーが割れていて大きく破損しているそれを見て、口元が歪んだ。

 

 宇宙服の防護も期待できない……


 音は騒音と言えるレベルまで上昇、気流も強くなっていて男の黒い髪を乱す。白い靄が霧雨のように顔に叩きつけてきて、彼は思わず顔を背けた。気圧がいっそう低下しているのは確実で、それを認識したせいか心なしか息苦しさが加速したように感じられた。


 終わりが近い……


 崩壊が目の前にまで迫っているのが分かったのだ。理解した男の目から生気が失せようとしたのだが、その時 彼はあるものを目にする。

 ツールボックスから布きれみたいなものがはみ出しているのが見えた。白いものだ。窓に貼りついている欠片の本体だろう。 

 暫く黙って見ていたが、不意にといった感じで男の目に力が宿るのが見て取れた。彼は続いてジェルシールドの散布カプセルを見る。

 その目は大きく見開かれ、口角が歪んだ。次に窓の外に目を向け、視線を動かした。左の方に白いドーム型の建築物が見えた。


「第17無人観測基地――」

 

 メンテナンス作業を行う予定だった最後の基地だ。無人の施設だが作業者の為に気密区画が用意されており、いつでも使用できるようになっている。また遭難時の緊急避難先として使用されることもある。

 彼は暫く黙って見ていたが、やがて大きく頷き、一言――――


「やってやる!」


 その目は激しく燃え上がっていた。

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