電子音

ボルさん

第一話

オフィスには3つの机と4台のコンピュータ、事務機器が所狭しと並んでいる。オフィスというより小さい塾の教室に似ている。殺風景でいて蛍光灯がやけに明るい。お茶をくむ人がいなければ、ゴミ箱をきれいにしてくれる人さえいない。


36歳になる武田は一番奥の机、代表取締役席に座り、コンピュータのスイッチを入れた。


「ピピッ、ピーガー」と電子音が狭いオフィスに響き、部屋全体を起動させているかのようだ。


ITコーディネーターとして独立してようやく1年が経とうとしていた。いろいろな業種のIT導入化に努め、着実に実績はあげているつもりなのだが、収支的には日進月歩の日々が続いている。


「おはようございます。武田社長」


「あ、おはよう。北原副社長」


大学の後輩の北原は半年前にこの会社の手伝いとしてバイトしたのち、今では唯一の正社員となっている。朝の挨拶だけはあってないような肩書きを呼び合っている。


「北原、今日、俺は徹夜になりそうだよ。今日中にお客さんのホームページを更新しなきゃなんないからね」


「またー、武田さんが徹夜だというと僕が帰りづらいじゃないですか」


「でも、いつもおまえは帰ってるじゃん、ちゃっかりデートの約束までしててさ」


「武田さんも奥さんがいなきゃ、僕と同じことしてますって。まぁ、今日はデートはないですけどね」


「それと今月もバイトさん呼ばないから、って言うか呼べないから。お前が頑張って今日は集金に回ってくれ。それと、出かける前にお願いだからゴミ箱のゴミをまとめて出しておいてな」


仕事が遅くなっても自宅が歩いて10分もしないところにあるので終電の心配などない。もっとも、徹夜するくらいの仕事がいっぱい入ってくれれば嬉しいのだが、パート仕事で帰って来る妻、雅美の方が最近は帰宅するのが遅いくらいだ。雅美は今年で30歳になった。二人で切望している子供はまだいない。


「あら、今日は随分遅かったわね。おかえりなさい」


「ただいま。徹夜になるかと思ったけどなんとか切りあげてきたよ。腹減ったー、何かある」


「済ませてないの?それじゃ、あなたがお風呂に入っている間に用意しておくわね」


追い炊きのお湯をかき混ぜて、湯船にどっぷりと身体を沈ませる。無意識にも「あー」と低い溜息をこぼし、酷使した両眼をまぶたの上からマッサージをする。目をつぶっているのにチラチラと光が浮かんでくるような気がする。


打ち込んだ文字までもが鮮明に浮かんできそうになって慌てて目を開けた。今日仕上げた仕事から明日の仕事、一週間後の仕事、一ヵ月後の仕事まで、お風呂の湯気が濃くなるのと同じく仕事という靄につつまれているようだ。


雅美がフライパンでジュージューと何かを焼いている音が聞こえてきて、ビールを飲みたいと思ったときにようやく仕事の事から解放されていくのを感じた。


何十分湯船につかっていたのだろうか。のぼせたのか、ただ疲れているからなのか湯船を立った時にクラッと身体がよろめいた。それでも足を上げて湯船から出ようとしたのがいけなかったのだろう、頭の重さは「ゴツッ」という低い音を作って、カラカラと床に転がる洗面器の音がお風呂場に響いたのだった。


その後の沈黙を不審に思い雅美が風呂場に駆けつけたときには武田は全裸で眠るようにお風呂場の床に倒れていた。


救急車で運ばれる途中、救急隊員から聞いた話では「この症状はただの貧血とか、脳震盪ではないかも」とのことだった。


脳卒中、クモ膜下出血が疑われて武田の担架は緊急治療室に入っていった。


武田は夢の中にいた。


夢の中でもコンピュータに囲まれて働いていた。


「ゴミを棄てといてくれな」とか言っているのが武田自身、これは今朝の出来事だったかと思い出させ、明晰夢を見ているのだと意識できるようになった。そして働いている自分に

「そんなに働いてどうする。疲れているなら休んだ方がいいぞ」と語りかけているのだが通じていないようだ。

「もう、お腹がすいているはずだし、眠たいんだろ。今日はもうやめようぜ」


全身全霊で意思を伝えようとするのだが、伝わっている気配がまったくない。


「俺はまだ死にたくないのだ。やることもいっぱい残っているし……」


武田の身体は動いていないのだが、頭の中では、あがき、もがき、そして叫んでいた。


つづく

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