59  浅葉⑬

 肩越しに目をやると、眠たそうに煙を吐き出す重松が目に入る。そう、両親の秘密を知ってしまったのは、浅葉がちょうど今の彼ぐらいの年齢だった頃だ。


「俺も年とったな……」


 アメリカの高校では、周りは当然のようにマリファナを吸っていた。オレゴン州でも当時は違法だったにもかかわらず……。


 浅葉は、酒、煙草、賭博、女こそ日本で中学時代に覚えていたものの、違法薬物という線引きだけは根深く刷り込まれており、未だに一度も手を出していない。自分の中に論理的な根拠は見当たらず、認めたくはなかったが、どう考えても亡き父の職業の影響だった。


 カリフォルニアに移り、二十歳になった浅葉は、仲の良かった友人がハードドラッグに手を染め、心身共に変わり果ててゆくのを目の当たりにした。こんな風に人としての尊厳を失い、地の底にち、廃人と化してゆくことこそが何よりの罰なのだという気がした。


 やめさせようにも浅葉の手には負えず、他の友達は次々と彼を見放した。浅葉が彼の母親と相談して警察に通報した結果、最終的に彼は回復施設に入れられたらしいが、それで全てが解決するとは到底思えなかった。


「罪と罰、か……」


 一人の女性を図らずも痛めつけた挙句、いわく付きの取引の阻止に失敗した過去が重くのしかかってくる。周りは皆、最善を尽くしたが叶わなかったというムードだった。


 しかし、そこに最善など尽くされていなかったことを、浅葉だけが知っていた。浅葉自身の私情が彼女に深い傷を負わせ、社会をも危険にさらしかけたのだ。


 それでも、天は浅葉を見放さなかった。いや、少なくとも浅葉自身がそう感じた瞬間があった。犯した罪をなかったことにはできないが、その後に辿る道には己の手で改める余地があるのだと、神の慈悲を受けた思いだった。


 だが、神が浅葉に与えたもうたその後の人生は、胸をえぐられるような思いをしながら生き続けなければならない時間でもあった。


 未練を振り切って新たなスタートを切ろうと思えば、可能なのかもしれない。それがもし叶うとすれば、唯一の方法は、、病院にいる彼女を訪ねること。


 それだけのことが、できる気がしなかった。もちろん彼女は失った記憶を近いうちに取り戻すかもしれない。あるいは思い出せなくても、再び好意を抱いてくれるかもしれない。その一方で、結局二度と結ばれない可能性もまた否定できなかった。


「だから何だ。どこにでもある失恋じゃないのか……」


 浅葉は、だいぶ古びた天井を見上げた。彼女にとっては決して悪い話ではない。浅葉のせいで危険な目にい、苦しみ、悲しんだ一年分の記憶。そんなものは失った方が彼女のためだ。浅葉を知らない一年前の自分に戻り、何事もなかったかのように幸せに生きていけばいい。


 また酸っぱいものが込み上げそうになる。左胸に指を滑らせ、上着のポケットに入った鍵の輪郭を辿る。彼女の目の前で取り出すわけにはいかなかった、あの部屋の鍵だ。


 遠い昔にこれを手渡された時のことを思い出す。端の穴には彼女自身が付けた細いリング。その先には、浅葉が通した一回り小さなもう一つの輪が連なっている。彼女の華奢きゃしゃな指をつい思い浮かべた。


 その誓いを掌で覆うと、無意識にその向こうの鼓動を探した。こんな時にばかり聞こえてくるあの声が、頭の中でこだまする。


――秀治しゅうじ、先に進めないのはびびってるからだぞ……。


「そうかもな……」


 浅葉は思わずニヒルな笑いをこぼした。


 昔は、強靭な意志の力と健康な体さえあれば大抵のことは叶う気がしていた。しかし浅葉は知ってしまった。これ以上あり得ないほどの幸福を一度味わってしまうと、それを失う勇気などそうそう持てないということを。人間とは弱いものだと、今はつくづく思う。


「びびってる、か……もう何とでも言ってくれ。これ以外に一体どういう償い方があるっていうんだ……」


 自分自身に言い聞かせるようにそう呟き、浅葉はゆらりと立ち上がった。


 透き通った扉に近付くと、その姿を目にした重松が慌てて吸いさしを灰皿に押し付け、黙って頭を下げて出て行った。


 浅葉は扉を閉めると、煙たい部屋に一人たたずみ、内ポケットから煙草の箱を取り出そうとして、やめた。


 壁にもたれると、急に視界が開けるような感覚を覚えた。


 波の音が聞こえる。砂の匂い。カモメの声。日に焼けた肌をやす乾いた風。そして隣には、お前がいる。


 浅葉は拳を握り締めた。


 会いに行く。俺のことを知らないお前に……。

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