第3章 蜜月
18 湯元
十月二十七日、月曜日。千尋は朝からそわそわしていた。大学には一応いつも通り顔を出したものの、講義などまるで頭に入らない。携帯のカバーを開いては、時計ばかり見てしまう。
週末の電話では、「うまくいけば四時」と浅葉は言った。千尋は午後の授業をもちろんサボるわけだが、お昼は学食で食べてから帰るつもりだった。でも……。
(ランチって気分じゃないな)
二限が終わるのだけ、その場でおとなしく待つことにする。チャイムが鳴り、他の学生が立ち上がり始めたのを見計らってその波に
アパートの前に着いたのは二時前。入口のブロック
部屋に入り冷蔵庫を開けてはみたものの、あまりご飯的なものを食べる気にもなれず、リンゴだけ
準備万端整ってしまうと手持ち
すっかり
(まさか、ドタキャンとか言わないよね……)
一つ深呼吸をして、通話ボタンを押した。
「はい、もしもし」
「あのさ、ごめん、ちょっと遅れる」
「あ、はい」
「四時五分」
千尋は、
「五分ぐらい、いいですから。そもそも四時確約じゃなかったですし」
「お前、四時前から外に出て待つ気だったろ」
そう言われてみればそうかもしれない。
「今日そこそこ寒いからな。五分まで中にいろよ」
その
「はい、わかりました」
千尋は、きっちり四時五分を待って外に出た。
階段の上まで出ていくと、通りにはカジュアルな服装の浅葉の姿。前を開けたままのえんじのフリースから黒のインナーが覗き、下はグレーのジーパンだ。その後ろに、どこにでもありそうなシルバーの国産車が停まっている。濃度の高い瞳がこちらを見上げた。
「お待たせ」
千尋もにっこりして、
「お待たせ」
と返し、階段を下りる。
浅葉の手が滑らかに動いて千尋の肩に乗り、反対側の手が助手席のドアを開ける。
千尋がいつまでも突っ立ったままうっとりと浅葉の顔に見とれていると、その手が千尋の背中をちょい、と押した。シートに座ってみると、
右側から乗ってきた浅葉にどこに行くのか聞こうとして、千尋は思い直した。行き先も知らずに「さらわれる」なんて何だかロマンチックだし、そうそうできる体験ではない。自分の運命が丸ごと浅葉の手に握られているようで、一人勝手にドキドキする。
気付くと、浅葉が運転席からじっと千尋を見ていた。
「ベルト」
「あ……」
思えば、うっかり終電を逃した時のタクシー以外、車に乗るような生活はしていない。過去に付き合った二人の男たちとは車で出かけたことなどなかったし、誰かの助手席に座ることにはおよそ慣れていなかった。
慌てて左肩の方向を探ろうとすると、それよりも早く浅葉が身を乗り出し、千尋のシートベルトを引っ張る。至近距離で目が合った瞬間、あっと思う間もなく、チュッと唇をついばまれていた。
(ウソ……)
体が固まったついでに、心臓まで止まってしまった気がした。浅葉は金具をカチャッと差し込むと、何事もなかったかのように自分のシートベルトを締め、車をスタートさせていた。
高速に乗って二時間も走っただろうか。すっかり日は暮れてしまったが、周りが山がちになってきたことはわかる。
浅葉はカーナビもなしに迷うことなくハンドルを切り、一般道に出ると、そこは実に温泉街だった。大型の旅館が建ち並び、ところどころに湯煙が上がっている。その中をゆっくりと走り抜け、車は坂を上った。明かりがぐっと減り、ひなびた雰囲気が
その宿は、
車を降りると、さらさらと流れるせせらぎが耳に快い。一軒だけ他から離れているこの宿は、部屋数も他よりだいぶ少なそうに見えた。少しガタつく引き戸を、浅葉がちょっと持ち上げるようにして器用に開ける。
中に入ると、二十畳ぐらいの空間の中ほどに、太い柱が一本。明かりは薄暗いといってもよいほどだが、その落ち着いた雰囲気が千尋は気に入った。上品なお香の香りが心地よい。
案内に立ったのは、ベテランといった風格の仲居だ。二階の部屋に着くと、上がり口で電気だけ点けて、
「ごゆっくりどうぞ」
と品の良い笑みを千尋に向け、浅葉に
「あ、どうも」
と頭を下げた。
正面にトイレ、右手に洗面所らしきドアがある。
靴を脱ぎ、浅葉の後について上がると、早速のサプライズが千尋を待ち受けていた。部屋自体はごく普通の八畳間だが、千尋の目が釘付けになったのは窓の向こう。
幅の広いベランダに暖かな光が
嬉しいやら恥ずかしいやらで何も言えずにいると、
「まあ、入らなくてもいいし。
と言いながら、浅葉は赤茶色の座卓の上に積み上げられた紙箱の一つに手を伸ばした。「
「こんなにたくさん? こういうのって人数分とか、あっても一箱じゃないですか、普通?」
と尋ねながら、浅葉が予約の時、特別に頼んでおいたのだろう、と想像がつく。
「浅葉さん、もしかして……」
千尋は笑いをこらえるのに必死だ。
「和菓子とかも結構いけたりします?」
千尋の言葉が終わらないうちに、浅葉も笑い出していた。
「嫌いじゃない、ってとこかな」
二人で声を上げて笑うのは何とも
千尋がお茶を入れている間に、浅葉は早くも二つ三つ頬張っている。その
「じゃ、私着替えてきちゃいますね」
と立ち上がる。浅葉はお茶をすすりながら、
「ん」
と目だけ上げて答えた。
千尋は部屋の隅に重ねてあった浴衣のうち小さい方を手にし、洗面所に向かった。
木目調の扉を開けると、設備はさほど新しくはないようだが、掃除は行き届いている。すりガラスのドアの向こうにはシャワーと、小ぶりながらバスタブも付いていた。
服を脱ぎながら、今日浅葉とここに来た意味を改めて考えずにはいられなかった。鏡に映った自分の下着姿を眺めながら、この後の展開をつい想像してしまいそうになり、ぶるっと頭を振った。
かまえない、かまえない、と自分に言い聞かせながら、白地に紺の幾何学模様が入った浴衣に、きゅっと帯を締める。寒くはなかったが、少し迷った末、その上に紺の
ドアを開けて出ていくと、とっくに着替え終わって待っていたらしき浅葉が、畳に足を投げ出したまま千尋を見つめる。
千尋も浅葉の姿に見入った。Lサイズの浴衣を
「やっぱ似合うな」
あぐらをかくようにして座り直し、改めてしげしげと千尋を眺める。
「かわいい」
何のてらいもなく、極めてシンプルな「判定」を下すと、饅頭をまた一つつまんだ。
「ちょっと、食べすぎじゃ……」
「あ、夕食八時にしといたけど、いい?」
「あ、はい。私はいつでも」
千尋の胸の高鳴りを知ってか知らずか、浅葉はいたって落ち着いていた。女慣れしている証拠、という可能性は否定できないが、その余裕が千尋にはむしろありがたかった。
「ね、お風呂行きません? あの、大浴場の方」
「ああ、そうだな」
浅葉は一つ伸びをして立ち上がった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます