第3章 蜜月

18  湯元

 十月二十七日、月曜日。千尋は朝からそわそわしていた。大学には一応いつも通り顔を出したものの、講義などまるで頭に入らない。携帯のカバーを開いては、時計ばかり見てしまう。


 週末の電話では、「うまくいけば四時」と浅葉は言った。千尋は午後の授業をもちろんサボるわけだが、お昼は学食で食べてから帰るつもりだった。でも……。


(ランチって気分じゃないな)


 二限が終わるのだけ、その場でおとなしく待つことにする。チャイムが鳴り、他の学生が立ち上がり始めたのを見計らってその波にまぎれ、千尋は昼休みで賑わうキャンパスを後にした。


 アパートの前に着いたのは二時前。入口のブロックべいを見る度に、あの恐ろしい出来事がちらりと脳裏のうりをかすめたものだが、今はこの場所でひたいに受けたキスがその記憶を上書きしてくれたようだった。思い出しただけで甘酸っぱい鳥肌が全身をおおう。


 部屋に入り冷蔵庫を開けてはみたものの、あまりご飯的なものを食べる気にもなれず、リンゴだけいてかじりながら出かける支度したくを始める。


 準備万端整ってしまうと手持ち無沙汰ぶさたになり、何となくテーブルなどをき始めると、ついいつもの掃除フルコースに突入してしまった。


 すっかり佳境かきょうに入った頃、電話が鳴った。浅葉の携帯からだ。登録名は「例の」から「アサバ シュウジ」に変更してあった。名前の漢字を聞こう聞こうと思いながら、機会を逃し続けている。


(まさか、ドタキャンとか言わないよね……)


 一つ深呼吸をして、通話ボタンを押した。


「はい、もしもし」


「あのさ、ごめん、ちょっと遅れる」


「あ、はい」


「四時五分」


 千尋は、安堵あんどついでにふふっと笑った。


「五分ぐらい、いいですから。そもそも四時確約じゃなかったですし」


「お前、四時前から外に出て待つ気だったろ」


 そう言われてみればそうかもしれない。


「今日そこそこ寒いからな。五分まで中にいろよ」


 そのゆずる気のない口調にふと、あの部屋での諸々もろもろのルールを思い出し、胸がキュンとする。今考えればあれもこれも、全ては千尋のためにこそ命じられたものだった。


「はい、わかりました」


 千尋は、きっちり四時五分を待って外に出た。


 階段の上まで出ていくと、通りにはカジュアルな服装の浅葉の姿。前を開けたままのえんじのフリースから黒のインナーが覗き、下はグレーのジーパンだ。その後ろに、どこにでもありそうなシルバーの国産車が停まっている。濃度の高い瞳がこちらを見上げた。


「お待たせ」


 千尋もにっこりして、


「お待たせ」


と返し、階段を下りる。


 浅葉の手が滑らかに動いて千尋の肩に乗り、反対側の手が助手席のドアを開ける。


 千尋がいつまでも突っ立ったままうっとりと浅葉の顔に見とれていると、その手が千尋の背中をちょい、と押した。シートに座ってみると、柑橘かんきつ系のさわやかな香りがさり気なく車内を満たしている。


 右側から乗ってきた浅葉にどこに行くのか聞こうとして、千尋は思い直した。行き先も知らずに「さらわれる」なんて何だかロマンチックだし、そうそうできる体験ではない。自分の運命が丸ごと浅葉の手に握られているようで、一人勝手にドキドキする。


 気付くと、浅葉が運転席からじっと千尋を見ていた。


「ベルト」


「あ……」


 思えば、うっかり終電を逃した時のタクシー以外、車に乗るような生活はしていない。過去に付き合った二人の男たちとは車で出かけたことなどなかったし、誰かの助手席に座ることにはおよそ慣れていなかった。


 慌てて左肩の方向を探ろうとすると、それよりも早く浅葉が身を乗り出し、千尋のシートベルトを引っ張る。至近距離で目が合った瞬間、あっと思う間もなく、チュッと唇をついばまれていた。


(ウソ……)


 体が固まったついでに、心臓まで止まってしまった気がした。浅葉は金具をカチャッと差し込むと、何事もなかったかのように自分のシートベルトを締め、車をスタートさせていた。




 高速に乗って二時間も走っただろうか。すっかり日は暮れてしまったが、周りが山がちになってきたことはわかる。


 浅葉はカーナビもなしに迷うことなくハンドルを切り、一般道に出ると、そこは実に温泉街だった。大型の旅館が建ち並び、ところどころに湯煙が上がっている。その中をゆっくりと走り抜け、車は坂を上った。明かりがぐっと減り、ひなびた雰囲気がただよい始める。


 その宿は、主立おもだったエリアを少し上から眺める位置に建っていた。


 車を降りると、さらさらと流れるせせらぎが耳に快い。一軒だけ他から離れているこの宿は、部屋数も他よりだいぶ少なそうに見えた。少しガタつく引き戸を、浅葉がちょっと持ち上げるようにして器用に開ける。


 中に入ると、二十畳ぐらいの空間の中ほどに、太い柱が一本。明かりは薄暗いといってもよいほどだが、その落ち着いた雰囲気が千尋は気に入った。上品なお香の香りが心地よい。


 案内に立ったのは、ベテランといった風格の仲居だ。二階の部屋に着くと、上がり口で電気だけ点けて、


「ごゆっくりどうぞ」


と品の良い笑みを千尋に向け、浅葉に会釈えしゃくして去っていった。部屋の設備なり、食事の時間なりの説明があるものと思っていた千尋は慌てて、


「あ、どうも」


と頭を下げた。


 正面にトイレ、右手に洗面所らしきドアがある。ふすまが開け放たれた左手の部屋から暖色の照明が漏れ、畳の香りがした。


 靴を脱ぎ、浅葉の後について上がると、早速のサプライズが千尋を待ち受けていた。部屋自体はごく普通の八畳間だが、千尋の目が釘付けになったのは窓の向こう。


 幅の広いベランダに暖かな光がともり、秋風にさざ波立つ長方形の水面にその分身を落としている。千尋とて温泉旅館には何度か泊まったことがあるが、露天風呂付きの部屋を見るのは生まれて初めてだ。これが友人か母との旅行なら手放しで大はしゃぎするところだが……。


 嬉しいやら恥ずかしいやらで何も言えずにいると、


「まあ、入らなくてもいいし。綺麗きれいだろ。あった方が」


と言いながら、浅葉は赤茶色の座卓の上に積み上げられた紙箱の一つに手を伸ばした。「饅頭まんじゅう」という文字が千尋の目に入る。


「こんなにたくさん? こういうのって人数分とか、あっても一箱じゃないですか、普通?」


と尋ねながら、浅葉が予約の時、特別に頼んでおいたのだろう、と想像がつく。


「浅葉さん、もしかして……」


 千尋は笑いをこらえるのに必死だ。


「和菓子とかも結構いけたりします?」


 千尋の言葉が終わらないうちに、浅葉も笑い出していた。


「嫌いじゃない、ってとこかな」


 二人で声を上げて笑うのは何とも清々すがすがしいことだった。


 千尋がお茶を入れている間に、浅葉は早くも二つ三つ頬張っている。そのあごのラインを見つめていると、浅葉の浴衣ゆかた姿が見たくなった。千尋はそれを思い浮かべてドキドキし始めてしまう前に、


「じゃ、私着替えてきちゃいますね」


と立ち上がる。浅葉はお茶をすすりながら、


「ん」


と目だけ上げて答えた。


 千尋は部屋の隅に重ねてあった浴衣のうち小さい方を手にし、洗面所に向かった。


 木目調の扉を開けると、設備はさほど新しくはないようだが、掃除は行き届いている。すりガラスのドアの向こうにはシャワーと、小ぶりながらバスタブも付いていた。


 服を脱ぎながら、今日浅葉とここに来た意味を改めて考えずにはいられなかった。鏡に映った自分の下着姿を眺めながら、この後の展開をつい想像してしまいそうになり、ぶるっと頭を振った。


 かまえない、かまえない、と自分に言い聞かせながら、白地に紺の幾何学模様が入った浴衣に、きゅっと帯を締める。寒くはなかったが、少し迷った末、その上に紺の茶羽織ちゃばおりを重ねた。


 ドアを開けて出ていくと、とっくに着替え終わって待っていたらしき浅葉が、畳に足を投げ出したまま千尋を見つめる。


 千尋も浅葉の姿に見入った。Lサイズの浴衣をゆるく合わせた胸元が長いV字を描き、喉周りの凹凸がそこにうっすらと陰影を付けている。千尋が思わず言いかけた言葉を、先に口にしたのは浅葉の方だった。


「やっぱ似合うな」


 あぐらをかくようにして座り直し、改めてしげしげと千尋を眺める。


「かわいい」


 何のてらいもなく、極めてシンプルな「判定」を下すと、饅頭をまた一つつまんだ。


「ちょっと、食べすぎじゃ……」


「あ、夕食八時にしといたけど、いい?」


「あ、はい。私はいつでも」


 千尋の胸の高鳴りを知ってか知らずか、浅葉はいたって落ち着いていた。女慣れしている証拠、という可能性は否定できないが、その余裕が千尋にはむしろありがたかった。


「ね、お風呂行きません? あの、大浴場の方」


「ああ、そうだな」


 浅葉は一つ伸びをして立ち上がった。

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