第28話 本命しか欲しくない

 ぽっ、ぽっ、と提灯が灯る。夕焼けと同じ色が、二つ。それは毎日決まって午後五時に、えんむすび開店の合図だった。

 とは言っても大抵の一番乗りは仕事帰りの暁奈なので、少なくとも一時間弱はアイドルタイム。兼行はほとんどバックヤードに籠りきりで、仕込みを終えてから火を起こし始めるまでは寛いでいる。さや果も、個人的な準備を整え、前日の夜に動かしておいた食洗機から食器を取り出して棚へ移したり、酒やリキュール類の瓶の向きを揃えたりしながら時間を潰す。

 だから今日、開店直後の来客には驚いた。

「あれ、一人なんだ?」

 しかもそれが李一郎だったから尚更だ。

「えっ?あ、」

 皿の山を抱えたさや果は一瞬固まった。

「お客さんご来店でーす!」

 その首をバックヤードへ向けて大声を飛ばすと、警戒しながらいつものカウンターへ李一郎を通す。温めたおしぼりを、本当ならお客の手に乗せて手渡すところだが、彼に対してだけはどうしてもテーブルの上に置くだけになる。少しでも触れるのを、さや果は避けたかった。

「…ご注文は?」

「いつもの」

 そんな注文が通ってしまうほど、李一郎はすっかりここの常連になっていた。いつもならもっと夜らしくなってからやってくるのだが、今日はまだ暮れ始めたばかり。もしかして、と予感がさや果の頭を掠める。

「あれ、お客って千早くん?えらく早いね今日は」

 前掛けの紐を腰に一周、回しながら兼行が遅れてやって来た。

「すみません」

「いや、もちろんいいんだけどさ。まだ火、起こしてないから焼き物はちょっと待ってくれよ」

 そう言って兼行は炭を積み始めた。その背中を見ていた李一郎は、反対側から伸びてくる手に気付いて、その視線を誘われる。

「お待たせしました」

 さっさとボトルやグラスを置いて立ち去ろうとするさや果の後ろ姿に、李一郎が呼び掛ける。

「なあさや果」

「…なに?」

「今日何の日か知ってる?」

 言いながら李一郎は、出されたボトルから薄い琥珀色を少量、押し出すように注ぐ。すぼんだ注ぎ口を掌で包んで、コルクの埋められたガラスの栓を親指だけで押し込む。この擦れるような反発感は、スクリュータイプにはない情緒だった。

 そして李一郎はグラスに手を添えながら、振り返るさや果を見た。不遜にも思える微笑みに、さや果はやっぱり、と身構える。

「さあ、誕生日じゃないでしょ」

「まだ覚えててくれてんの?」

 頬杖を付きながらにんまりと笑みを深くする李一郎から、視線を外しながらさや果は奥へ向かう歩みを再開する。

「…もう忘れた」

「ほら、あれだろ。今日は」

 もう無視だ、とさや果は皿を持って棚と向かい合う。一枚、また一枚と同じ色柄が積まれていく。それが焦れったく、李一郎はさらにかぶせてくる。

「チョコだよ!毎年くれてたじゃん」

 やっぱり。さや果は背中の向こうの彼に分からないよう息を飲んだ。今日は二月十四日、バレンタインデーだった。訂正させてもらえば、毎年ではない。高校卒業以降は連絡すら取っていなかった時期もあるのだから。ただ、そうやっていちいち反応していると、

「なあー、ないの?」

 しなくても同じみたいだ。

「…」

 グラスを持てるだけ持って、さや果はバーカウンターまで戻る。李一郎の目の前でしゃがみこんだ。

「さや果ってば」

 片膝をつきながら、冷蔵庫へグラスを入れていく。後ろのものを前に、今あるものを一番奥へ。

「…本命しか受け取らない主義なんでしょ」

 全てしまい終わり立ち上がると、そこは罠だった。

「だからちょうだいよ、」

 トーンを低くした声。真っ直ぐな両目に嵌められた。

「本命」

 大きな手で口元を覆ったまま、上目遣いでねだってくる。昔から変わらない、この仕草。綺麗な顔立ちと強い瞳、いつもこれで籠絡されていた。

「…!」

 こうなることを避けたかった。さや果は、自分が李一郎の直情な押しに弱いことを痛いほど知っている。

「…だめ」

 それでもこれだけは負けられなかった。

 見つめ合っているのも限界で、さや果は細めた目を俯かせると、短くそう言ってカウンターを後にする。

「…」

 李一郎の小さな溜め息は、バーボンの甘い香りを、つんと苦くした。




「健さん、修さん。ハッピーバレンタイン!」

 にっこりと、さや果は小さな包みを二人の常連客に差し出した。

「えっくれるの?さや果ちゃんが?作ったの?」

「うわあ、嬉しいなあ。家族以外で貰うのなんて、何年ぶりかなあ」

 二人はそう言いながら、慎ましくラッピングされたプレゼントを嬉しそうに見つめる。それぞれにすごく喜んでもらえたみたいで、さや果も嬉しくなった。開店前、急いでラッピングして良かったと、心の中で呟く。背中に刺さる視線は痛いけど。

「さや果さん!オレ!オレには?」

 奥から椅子ごと前のめりになって、つくねを頬張りながら桃矢が猛烈アピール。

「…美乃梨ちゃんに、聞いてみたら?」

 さや果の返事に、横を向いた桃矢は串を咥えたまま青ざめる。

「…本命以外は要らないって、昔、言ってなかった?」

「はい、要りません…」

 誰かさんと同じだと、さや果はくすっと微笑む。男の人は皆、そうなのだろうか。つい視線をやってしまうと、明らかに不機嫌な李一郎と目が合った。

「さやちゃん!何個用意してんの、それ?」

「えっ?」

 それがとっても怖かったので、さや果は暁奈のほうへ体ごと向き直った。暁奈はジョッキの中身を飲み干してから、強調するように一音ずつゆっくり発音する。

「義、理、チョ、コー!」

「暁奈ちゃーん。そんな思い知らせないでよー」

「そうだよお、夢見させてくれよお」

 健さんたちがしなしなと抗議をする。

「何言ってんの!義理すら貰えなかったちーちゃんの身になってみなって!」

 さや果は背筋が凍るかと思った。更に、ダァンッとグラスを叩き付ける音に、凍ったところから割れそうな衝撃をも覚える。

「俺は!本命しか欲しくないだけです!」

 李一郎の、尖った八重歯は剥き出しになる。

「あら、じゃあなんでそんなにイライラしてるの、ちーちゃん?」

「あ、暁奈さん、その辺で…」

 李一郎の肩が不自然に震えている。

「だからその呼び方やめろっつってんだろ!」

 ついに椅子を弾き倒す勢いで立ち上がってしまった。周囲ははらはらと緊張感に身を震わせるが、暁奈はなんとも涼しい顔だ。

「えー?女々しい奴はちゃん付けで上等。悔しかったら立派な男の子になってごらん」

「このぉ…」

「暁奈さん。大人げ無いですよ」

 見かねた美乃梨は軽く腰を浮かせると、李一郎の形相をちらっと見ながら、向かいの暁奈を窘めた。

「飲み過ぎ。李一郎も」

 さや果もそのボトルを奪いにかかるが。

 ぱしっ。

「!」

 届く前にその手を捕まれた。ぎゅっと、いつもより数段、強い力。

「…じゃあいいよ、さや果、もらうから」

「は、えっ!?」

 ぐんっと手を引かれて、盛大によろめく。さや果がカウンターにもう片方の手をついて上体を起こす頃には、彼はコートをひっ掴んでいた。

「ちょっと!酔ってるでしょ!」

 そして李一郎はさや果を無理やり引っ張って、店を出ようとする。しばしぽかんと見ていた暁奈や健さんたちも、我に返り慌てて止めに入ろうとする。

「ちょ…」

「ストップ、千早くん」

 しかしその誰もが手を出すより早く、焼き場からゆっくり出て来た兼行は、その前に立ちはだかった。

「さや果はうちの大事な姪なんでね、拐われちゃ困るの」

 言いながらジョッキに満タンの水を差し出す。

「今日の勘定はまたでいいから、これ飲んで、今日はもう帰りな」

 不思議な笑顔だった。慈愛のように思えるその表情の向こう側には、なにか言い得ないものが見え隠れする。李一郎もそれを垣間見たのか、かっとなっていた頭をすうっと落ち着かせる。

「…はい…すみません」

 大人しくジョッキを受け取って飲み干すと、兼行にそれを手渡しながら軽く頭を下げる。嘘みたいに力の抜けた手は、さや果をするっと解放し、そのまま振り向きもせずに出ていった。

「…」

 皆、店主の鮮やかな振る舞いを、動きを止めて眺めている。

「若い、勢い。いいねえ」

 あたたかな溜め息をふっと吐いて、兼行は何事も無かったようにまた、火の前へ立った。

「ほら、上がるよ、つくね」

「…あ、は、はい!」

 誰もが切り替えの追い付かないまま、兼行の一言でえんむすびの時間はまた、動き出す。




「ったく、男は女より精神年齢低いって言うけど、あれは相当ガキね」

 李一郎が帰った後も、暁奈はまだ腹の虫がおさまらない。

「それ、暁奈さんが言う?」

「完全に同じレベルでやりあってましたよ」

 桃矢と美乃梨はすっかり酔いも冷めていた。同じくらい冷えきったししとうが一本、長皿に取り残されている。

「ていうか、突っかかったの暁奈さんじゃん」

「だって、ずっとさやちゃん威圧してんだもん、気に入らないからってさ。ガキか」

 暁奈はまだ悪態を吐き足りないらしく、とうに片付けられたカウンターの、面影の残り香を睨み付ける。もはや自分たちの手に余ると、美乃梨と桃矢は顔を見合わせた。

 最奥の席はいつになくシュンとしていて、さや果は責任を感じていた。こんなことになるなら、李一郎にも渡してあげれば良かった。でも、気持ちの整理の付いていないうちにそんなことをしたって、きっと結果は同じだっただろうなと思うと、溜め息しか出ない。

 それに、本命のチョコレートなんて、最初から用意していないのだ。

「あの、みんなにこれ、どうぞ」

 さや果は、健さんたちにも渡したものとまったく同じものを三つ持って、暁奈たちに差し出した。

「これ…」

 三人分の視線を受け取ってから、さや果は力なく笑顔を浮かべる。

「今日は、お騒がせしちゃって、ごめんなさい」

「ええっ、いいよ、お客さんにあげる分なんでしょ?」

 桃矢はいつになく慎み深い。

「私たちこそ、何もできなくて…その上なんだか悪いです」

 美乃梨も申し訳なさそうに笑う。二人のしっかりした様子に、暁奈は一層身を小さくした。

「ごめん、さやちゃん。気い遣わせて。あたしが大人げなかったから」

「いえ、そんなことないです。…ありがとうございました」

 さや果は、暁奈が自分のためを思って憤慨してくれたことを分かっていた。美乃梨も、桃矢も。それぞれの思いが嬉しかった。そして何より、自分の弱さが招いていることなのに、自分の力だけで跳ね返すことができないことへの心咎め。

 だから、感謝と、お詫びの気持ちなのだ。

「最初から、みんなにも貰って欲しいと思ってたから」

 今一度にこりと笑えば、もう誰も遠慮したりしなかった。

「ありがと!さや果さん」

「ありがとうございます、お返しはホワイトデーに、必ず」

「ありがとさやちゃん。大事に食べる!」

「…はい!」

 夜が一番、深くなる時間。最後は皆仲良くハイボールで。乾杯の音が弾けたらそろそろ、杏平もここへ帰ってくる頃。




「おじ…店長にも、どうぞ」

「ええ、いいのか?」

「菜穂ちゃんたちのには敵わないでしょうけど」

「はは、帰ったら寝てるだろうけどな」

 兼行はフライパンを豪快に横に滑らせながら、炒めた具材を皿に乗せる。最後の料理ができあがった。いつも遅くまで仕事をして帰ってくる、彼の晩御飯だ。

「今日はすみませんでした」

 さや果はそれにラップをかけながら、伏し目のまま呟いた。湯気であっという間に露をつける。

「…色々あるなぁ、女の子ってのは」

 兼行が、自分を通して菜穂を案じているのだろうと、さや果はすぐに分かった。

「菜穂ちゃんは、しっかり者だから大丈夫ですよ」

「ん?はは、ありがとな。帰りに頂くから、冷蔵庫入れといてくれよ」

「はい!」

 大きな業務用の冷蔵庫を開ける。兼行に渡したチョコをすぐ目に付く所へ置いた。その隅、ケーキ用の箱に入れて厳重に守られたそれを、さや果は確認する。はにかんで笑いながらそっと扉を閉じた。

 今日のまかないには、デザートを添えて。そわそわと時計を見やる、午前零時前。

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