第19話 実家、いつ帰る?

「いよおーっしゃ!休みい!」

 すでにアルコールが回っているかのようだ。凄まじいデシベルを叩き出す暁奈の叫びに、常連客は誰しもにこやかにうん、うんと頷く。注ぎたてのビールが波打ち、泡が垂れ落ちるのも構わず、彼女が立ち上がり頭上に掲げると、店内の士気は一斉に高まる。

「今年もお疲れ様!カンッパーイ!!」

「乾杯!!」

 おおよその企業人が年末休みに入った今日、楽しい休みの始まりに華々しい気合いを添えるべく、早速こうしてビール早飲み大会、もとい、えんむすび忘年会が幕を開けた。呼び掛けるわけでもなく、夕方からぱらぱらとご近所さんが集まり出す光景は、毎年恒例になっていた。

 無論、昨夜も仕事納めと銘打って、まったく同じように飲んだくれたばかりだ。全員、強者である。

 ただし杏平だけは、最後の最後まで会社にこき使われていたので、後始末のみの参加になった。いつもからは想像できない程にしっちゃかめっちゃかになった店内を、兼行夫妻とさや果と総出で片付けた翌日に、これだ。少し虚しくもあるが、それが居酒屋という場所なので仕方ない。


「ゆいちゃん、一年間おっつかれー!」

 すでに二杯目を、まだ飲みかけのジョッキに無理やりぶつけられる。おかわりのたびに、なんやかんやと乾杯を押し付けてくるのは、暁奈の調子が良い証拠だ。

「はあ、お疲れ様です。暁奈さん、良いことでもあったんですか?」

 串の盛り合わせが着々と運ばれてくる。皿から離れるその指先の持ち主を見て杏平は、ちょっぴり残念、と言うと菜摘に失礼だが、目が合ったので内心を隠すように会釈する。

「さや果ちゃんは、おじさま達に大人気だから」

 ごめんね、とばかりに肩をすくませて戻っていく彼女に、杏平は弁明をする暇もなかった。

「だって休みじゃん、来週まで!」

「社会人ともなると、連休は貴重ですもんね」

「オレ、先週から休みだったけど」

「何コマかサボったからでしょ」

 桃矢は悪びれもせず、すっきりした顔で喉ごしを味わう。大学生は自由がきいて良いなあと、杏平もくいっと流し込んだ。

「ところで、里帰りはいつですか?」

 美乃梨は、暁奈から第一希望のねぎまだけは死守したい。とりあえずの質問を投げてから一瞬の隙を突いて、タレの付いた串をさっと抜いていく。

「え?ああ、帰らなきゃだめかな、やっぱ」

「帰らないつもりですか?」

 美乃梨は指先についたタレをペーパーで拭き取ると、それを持ち手に巻いた。

「だって、この歳になるとさあ、ほら、プレッシャーが」

「なに?結婚?」

 能天気な笑顔でドボンワードをしれっと言ってのけた桃矢に、暁奈は脱力する。舌なめずりしながら皿に並ぶ彩りを品定めする桃矢には、三十路が手に届くところまで来た女性の気持ちを慮る様子などさらさら無い。周りからじわりじわり攻め立てられる圧を跳ね返し続けて辟易する、独特の心理はきっと一生分かるまい。

 このどさくさに紛れて、杏平ははつに手を伸ばす。その腕をひっ掴むと、暁奈はむしゃくしゃと横取りしていった。

「ええ…」

 気迫にねじ伏せられた。杏平ら仕方なくその横の塩つくねを噛む。

「やっぱり、そういうものですか」

 目の前の力技を見せつけられ、美乃梨はおずおずとジョッキの向こうから目を覗かせる。

「まあねー、そう言うならイイ男連れて来いっての」

 綺麗にはつをたいらげて、暁奈は早くも三杯目を要求。

「ゆいちゃんは今年も兄くんが迎えに来るんでしょ?」

「まあ、通り道なんで」

「オレら去年会えなかったから、どんな人か見たい!」

「別に普通の変人だよ。桃矢と美乃梨さんは、今年も早めに?」

「そうね、ゆっくりできるの、今のうちだけだろうし」

「まあ電車ですぐだから、そんな里帰りってほどでもないけどね」

「お待たせしました!」

 今度こそさや果だった。暁奈にビールを手渡しながら三人のジョッキの残りを見渡して、てきぱきと空いた皿を片付けていく。

「おかわりでいいかな?何か追加は?」

「はつ!」

「ねぎまのタレを」

「今日は温玉サラダ頼んでもいいの?」

「訊いてくるね!」

 矢継ぎ早に飛ぶ会話の波に、杏平は乗り損ねてしまった。これが食べたいと言うよりは、注文に託つけて一言でも会話をと思っていたが、この店内の盛り上がりでは無理そうだ。揺れる束ね髪を見送るだけ。挙げ切れなかった杏平の手は、仕方なく残りわずかのジョッキを掴む。

「桃矢くん!いいって!」

「やった!ありがとー!」

 さや果は調理場の中からこちらに笑顔を向けると、何かを思い出したように、カウンター席横の扉を腰で跳ねのけた。

「由井くんは?」

「えっ?」

 見上げると、前髪を払いながらさや果がくりっと首を傾げていた。

「ご注文」

「…じゃあ、タレの四つ身と、せせりを塩で」

「はい!」

 出遅れた自分にも走って笑顔を届けてくれる。その残像を焼き付けるようにして、杏平は最後の一本、ぽんじりの脂を噛み締めた。




 もうとっくに日付は変わっていた。宴会の雰囲気を味わえはしたが、給仕する立場なので、アルコールを染み渡らせていく爽快感はまだおあずけだった。

 腰から下、特に太腿の外側とふくらはぎの疲労をぼんやり感じながら、さや果は浴室を出たところだ。ゆっくり湯船に浸かるのも良いと思ったが、それよりも、早く窓の外に出たかった。

 湯気の足跡を点々と撒きながら、部屋着を身に付けていく。もこもこなのに、しっとり柔らかい着心地が気に入っていた。地元を離れるとき、大学時代の友人が贈ってくれたものだ。何やら美味しそうな名前のメーカー製だったと思うが、詳しくは知らない。なにせそれまで、近くのファッションセンターで買った安上がりなパジャマを着ていたものだから。永らく封をしたままだったが、ここに来てこれを着るようになってからは、なんだか自分も女子だなという感じがして、家で寛ぐ時間も気分が違う。

 おそろいの靴下も穿いたところで、スマホがチカッ、チカッと知らせてくる。拾い上げようとすると、まだ少し水分を含んだままの、重さを感じる髪が視界の両端から押し寄せてくる。

 新着メッセージがあります。

 ろくに見もせず、いつもの癖で数度タップした。

「実家、いつ帰る?新幹線一応取ったけど」

 一瞬顔をしかめた。宛先ミスだろうか。さや果は上部に視線を動かす。

 差出人の名前を見た。心臓が突き出る。


 千早 李一郎。


「…っ!」

 咄嗟にディスプレイを消した。その手で鼓動を確かめる。ドック、ドックと、血液ではなく石が流れているのではないかと思うくらい、太く苦しい、胸の動き。

 見間違いではない。見間違えるはずがない。毎日見て、呼んでいた名前。この文字の並びがひとつの呪文のように、脳に刻み込まれてしまっている。

 再三のメッセージも、返事が来ることはとうとう無かったのに、今更になって、どうして。肩を並べて里帰りしようとでも言うのか。一体何のつもりで。

「…」

 少し前なら、女のプライドなんてものはかなぐり捨てて、すぐに指先は文字を打っていただろう。でも、今はそのまま横に払って、淡々とメッセージアプリを終了する。それを遠くから見ている心地。頭の血がすうっと引けて、冷たく、ぐらぐらした。

 自分の中のずるさを自覚しながらも、見ぬ振りを決め込んだ。向こうだって同じことをしたのだから、許されるだろうと都合よく結論付けた。

 返事はしない。帰らない。

 さや果は未だうるさい胸を押さえつける。蓋をするように、スマホはテーブルに伏せた。




「お疲れ様です」

「お疲れ様」

 いつもよりすっかり遅くなり、夜が色濃い。 それに呼応するように、ハイボールもこっくりと蜂蜜色をしていた。種を明かしてしまえば、今日は炭酸水の代わりにジンジャーエールで割ったというだけ。頬に染みる甘味と抜けの良い香りが上乗せされて、つい進んでしまう。

「飲みやすいですね」

「…ジンジャーエール好きだもんね」

「あれ、言いましたっけ?」

「ううん、言わないけど、なんとなく」

 どうして分かったのだろう、ソフトドリンクはあまり頼まないのに。杏平がレモンにしがみつく気泡をぼうっと眺めてから左を向けば、なんとさや果は早くもほぼ飲み干していた。

「え!?イッキですか?」

 よほど喉が乾いていたのだろうか、角のまだしっかりとした氷は、しゅわーっという名残を表面に残す。

「…今日は、もう一杯、飲もうかな」

「そうですね、お疲れ様会ですもんね」

「…そうだね」

 最初は、もう酔ったのかと思った。でも、さや果の横顔が腕に半分隠れゆくのを見て、伏せた睫毛が力なく感じて、それが違うことはほろ酔いの頭でもすぐに分かった。

 杏平はウィスキーボトルを手渡すと、努めて颯爽と立ち上がる。

「今日のおつまみ、持ってきます」

「ありがとう」

 腕に顔を預けたまま、こちらに向けた笑顔には、やっぱり元気がない。連日の忙しさで疲れているのかもしれない。それなら、旨いおつまみで元気付けてあげなければ。杏平は使命感に燃えている。

「んー、と」

 段ボールの中を少し掻き分けて出てきたのは、ポップというか、なんというか、そこいらではちょっと見ないパッケージ。なんとか賞受賞と書いてある。年寄りっぽいかもしれないけど、体には良いはず。おつまみらしいとも思う。

 あと、おまけにこれ。実は最初から気にはなっていたが、出しどころに迷っていた。

 見た目のわりにずっしりとした小さな瓶も伴って、杏平は窓辺に戻る。

「今日は、せんべいにしてみました」

「わ、珍しいね?」

「ふぐの骨せんべいです」

 杏平に手渡されたその一口分を手に取って、さや果はじっと観察する。

「ふぐってことは、下関?」

「うーん確か、幕末のロマンを感じるんだとか言って、あの辺りを旅行してきたみたいです」

「じゃあ、萩かな?ちょっと前に世界遺産になったもんね」

「そうでしたっけ」

 杏平は社会のニュースには疎い。社会人としては足元がぐらつく受け答えだが、それは置いておく。

「結構、渋い味わいだね」

「ですね…」

 ふぐと言うからには旨味を期待していたけど、そうでもなかった。歯ごたえは二重丸だが味はあっさりしていて、酒の肴としては物足りないと言わざるを得ない。ただカルシウムは充分に感じる。

「じゃあ、これもどうぞ」

「これは?」

 杏平は蓋を開けて、瓶を差し出した。ぎっしり詰まった、旨味の元。

「わさび味噌らしいです」

「…辛い?」

「見た感じ、ほとんど普通の味噌っぽいですけどね」

 正直な感想だった。わさびの風味が鼻に抜けるアクセントを想像しながら、ちょんとせんべいに乗せてみた。杏平は名古屋の出身ではないが、味噌をつければ大抵のものは美味しくなると思っている。だから自信を持って推したのだ。

 さや果も倣って味噌をちょっぴり掬う。口に入れる直前の、やたら主張する香りは、純粋なわさび。だけど口へ向かうその手はもう止まれない。

「ん、…んむーっ!」

 さや果がぎゅっと口元を手で押さえて、くぐもった声をあげる。涙を溜めた目尻と上向きの顎がなんだか色っぽいとか、そういうことをしみじみ考えている場合ではなさそうだ。せんべいを小脇に置いて、杏平は慌てて立ち上がった。

「そんなにですか!?」

 からーい、とか、ちょっと可愛らしい反応を引き出したかったのだが、さや果は辛いものが苦手なのかもしれない。刺激でぴりっと元気付けようとしてしたことが、こんなことになるなんて。

「さや果さん、水!」

 ほんの僅かに舌を覗かせながら、息をするのもやっとという様子のさや果に、杏平はコップを差し出す。潤んだ目を細めて会釈もそこそこに嚥下する、その首筋を見ていた。鎖骨にまでつうっと雫を這わせた、青く照り返した素肌。

 ノンストップで飲み干して、さや果はふうっと大きく息を吐く。

「びっくりした…」

「すみません、辛いの苦手でしたか?」

「ううん、そうじゃないんだけど、これすっごいの。まだ喉にわさびが」

 手で口の中を扇いで見せる仕草に、杏平は大袈裟だなと思いながら、キョロキョロ。窓辺にそのまま置き去りになっていたせんべいを見つけて拾い上げる。

 その流れに乗って舌先に放り込むと、少しの間の後、激しい後悔が襲った。ぴりっと元気になんて思っていた自分が馬鹿だった。「ぴりっ」なんて可愛いものではない、わさびの本気。内側からの総攻撃にたまらず杏平は部屋に駆け込む。

「大丈夫?」

 水を飲み干しても尚、残兵がちくちくと槍を打つ。窓辺に立ったまま動けない。顔の下半分から、喉までを両手で押さえて耐える様を、さや果は上目遣いで見て、じわじわと唇を震わせた。

「…ふふっ」

「笑わないでくださいよ」

「ごめんね、でも、私のこと大袈裟だと思ってたでしょ?」

「そ、そんなことないですよ」

「でも今、由井くんのほうが断然すごいリアクションだよ」

「それは!俺のほうがいっぱい付けてたんで…」

「そうかな?」

「そうです!」

 いつかもこんなやり取りをした。進歩していないと言われればそれまでだが、穏やかな日常を変わらず過ごせているという、二人にとっては休まる実感。

「ふふっ…」

 上向きの睫毛が光っている。さや果も笑っている。予想とは違ったが、結果オーライ。


 一握りの笑い声が止めば、風の音すらしない。

「これで、今年ももう終わりですね」

 垣根よりも背の高い、大通りの街灯も明かりは丸く、ぼうっと微動だにしない。年の瀬の慌ただしさとは対極にあるような、この静の空間。今宵は月が見えないせいだろうか。ふとした黙が何十倍にも長く感じた。それが、鼓動が分かるほどに心地良い。

「…そうだね」

 長い、実際には短かったかもしれない間の後、頭を垂れたさや果の表情は、浮かない。

「さや果さんは、いつ頃帰省しますか?」

「えっ?」

 ほんの少しだけ、肩を抱いた指先が驚いていた。

「…うん…今年は、止めとこうかなって」

「帰らないんですか?」

「うん…」

 どんどん膝の谷間に沈んでいく、月が夜の向こうへ隠れるように。彼女の表情は読み取れない。

「…立ち入ったこと、聞いていいですか?」

「うん?なに?」

「まだ、お父さんと気まずいんですか?」

「え!?」

 思わず、さや果は顔を上げた。

「いや、そうじゃない…まあ、そうなんだけど、」

 そしてずるずると、また膝に顔をうずめた。

「そのせいじゃないよ」

 意図的に、さららと髪を広げたらもう、それは御簾のように顔を隠してしまった。指に絡めた、毛先はほどけない。

 固く結ばせているのが何なのか、杏平には分かるわけがなかった。だけど。

「じゃあ、俺もここにいます」

 分からなくても、分かろうとしたい。

「え!?」

「せっかくの正月、一人でも多いほうが、いいでしょ」

 そうすれば、きっとこちらを向いてくれる。

「でも由井くん、帰る予定にしてたんじゃ…?」

「兄貴に話つければいいことなんで」

 ずっと向いていて欲しい。

「そんな、気を遣わないで」

「さや果さんこそ」

「でも」

「でもじゃありません」

 にっと歯を見せれば、釣られてふふっと吐息を漏らす。例えばこんなふうに。


 俺が笑えば、あなたも笑う。あなたが笑えば、俺も笑う。そうやって、隣り合って、向かい合っていたいから。


 空気が動いた。夜に溶けそうな緑が揺れた。体の隙間を縫う風が、二人の笑い声に混ざりたそうに行ったり来たり。

「じゃあ、年越しは一緒だね」

「はい、来年もよろしくお願いします」

「まだ早いんじゃない?」

「そうですか?」

「…ふふ、こちらこそ、よろしくね」


 月夜の晩も、闇夜の晩も。あの手この手で、灯るような笑顔を。いつだって点けてあげたいんだ。

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