phase5「キャンプの夜」

 「ソラ、今すぐ休みなさい」


 唐突に立ち止まったハルを振り返る。「はい……?」と出した声に初めて、それが非常にか細くなっているのに気づいた。

 首を傾げる横で、クラーレが深く頷く。


「同意見だよ。ソラ、あんた休め」

「なぜです……?」

「顔色滅茶苦茶に悪くなってんだよ!」


 驚かなかった。だろうなという自覚があった。もうずっと、胃がきりきりと痛んで仕方ないのだ。原因はわかっている。

 穹は自身が抱きかかえているものに視線を落とした。作られた笑顔を貼り付けて、目を前方にのみ注いでいる人形。全てこれのせいだ。


 

 この人形と目が合うと、お金を払っていなくても払ったことになる。つまり、店などに自由に出入りできることを意味する。それをラッキーと片付けて楽しめる度胸は、穹の中に露ほども存在していなかった。


 まずただで舞台からの眺めを見ている罪悪感に耐えきれなくなり、清水寺から逃げるように退却した。ところが人形は突然一人で勝手に走り出した。その先にあったのは、着付け体験を味わえる、着物を売る店だった。


 もちろん人間用のサイズしか置かれていないのに、例によって人形は力を使って着物を買おうとした。濡れた服の代わりが欲しかったのだろうが、いくらなんでも合わないサイズの服を買う必要は無い。不思議そうにする店員に何度も謝りながら、赤い目で睨む人形を無理矢理抱えて、店から走り去った。


 人目を憚るように町を駆け抜けていくのだが、その努力空しく、人形は度々腕から抜け出して、様々な店に消えていった。追いかけていくと、物欲しそうに一つの商品を見つめていて、駄目と言えばあの力を使い、品物を手にする。

 今人形の金色の髪に赤い花のかんざしが挿されているのも、そうやって手に入れた代物だった。花が描かれた木の櫛や、匂い袋なども手に入れていた。


 道中、クラーレがとにかく目立つ髪色をしていることがわかったのか、人形が向かったのは帽子を売る店だった。見つめていたのはそれまで人形が欲しがった商品の雰囲気とは異なるシックなデザインの中折れハットだった。人の目が集中するクラーレの紫の髪をこれで隠せると、気遣ったのかもしれないと穹は考えた。


 だが当のクラーレはかぶりを振った。「いらない。ちゃんと料金払ってないのに使えるわけがない」と言い切ると、人形は何もせず店を出て行った。


 が、それまでは突然走り出す以外は割と大人しく穹に抱かれていたのに、抱えようとすると断固拒否の姿勢を示してきた。もしかしたら拗ねているのかもしれないと、しばらく人形一人で歩かせることにした。


 一応隙を見てパルサーの入ったカゴを手に入れようとしてはいるのだが、人形は隙があるようで、無い。そっと背後から忍び寄ってカゴを掴んでも、その直前に振り向かれ目を合わせてくる。瞬間、凄まじい体調の悪化に襲われるのだ。


 このように、ひたすら人形の行動に振り回されていた。つい先程も、茶屋へ突撃していこうとする人形を「君は食べ物を食べられないでしょ!」と懸命に引き留めたばかりだった。


 他の店に行くのも、ものを買うのも、力を使うのも頑張って引き留めているのだが、人形のほうがいちいち素早くて、上手く行かない。


 人形が何かする度に自分は盗みをしているのだと思うと、家族の顔が思い浮かび罪悪感が容赦ない攻撃を浴びせてくる。


「さすがに休むべきですよね……。でもこの人形、とても元気なんですよ……」


 休むという単語を口にして一秒もかからないうちに、抱えている人形の体がこちらを向いた。瞳に圧力だけを込めて無言で見上げてくる。


 「絶対に自分に付き合ってもらう」と言いたそうにしていると感じたのは穹だけではなかったようで、人形を見ていたクラーレの目が険しくなった。おもむろに人形を片手でわし掴むと、穹から奪い去った。


「おいよく聞け。これ以上ソラを困らせたら容赦しない」

「わああ脅さなくていいですから! 僕は平気ですから!」


 ドスの利いた声を出したクラーレへ、徹底抗戦するように人形の目が鈍く光る。穹はクラーレの手から、無理矢理人形を奪い返していた。これ以上火花が散ったらますます胃が痛くなる。


「苛立ってこないか? 今日ずっと、こいつに振り回されてるんだぞ、俺たち」


 遠慮無しに人形を指さすと、クラーレは腕を組んだ。


「だからよ。人形が勝手にやってることなんだから、ソラが責任を感じる必要ないだろ」

「かもしれませんけど……」


 自分は考えすぎるきらいがある。人形の力はほぼ間違いなく、霊力のあれやそれなんだろう。逆らうとどんな恐ろしいことが我が身に降りかかるかわかったものではない。しかしされるがまま、人形に好き勝手させていていいのか。


「……ねえ君、何がしたいの?」


 考えていても最適と思える答えに辿り着けなかった。の穹は人形を地面に下ろすと、視線を合わせる形で、膝を抱えて座った。


 赤い目で見上げてくるばかりで、人形はしばらくの間何の反応も示さず、ただその場に立っていた。穹は辛抱強く待った。ハルとクラーレの何をしているんだと問う視線を、しばらくの時間浴びていた。


 人形の身体が動いた。ゆっくり歩いて行った先を、ゆっくり目で追うと、人形は家と家の間の、細い隙間に小さな体を滑り込ませた。隙間が作り出す暗闇の向こうに消えていく。


 闇の中で人形のシルエットが、一回、二回、と跳ねたのが見えた。


「な、何をしているんでしょう?」

「さあ……。ハル、わかるか?」

「まだ何も判断できない。何かを示唆している可能性が高いのはわかるが」

「示唆……」


 穹は立ち上がり、路地裏に近寄った。覗き込んだ少し先で、影に紛れた人形が、穹を見上げていた。


「こんな暗くて狭い場所にいちゃ駄目だよ。出ておいで」


 手を差し伸べたときだ。ぴん、と頭の中が明滅した。答えに辿り着いたときに起こる点滅の仕方だった。


「暗い……。狭い……」


 大人しく出てきた人形を、そっと両手で抱え上げる。


「君、もしかして、寂しかったのかな。あの蔵の中にずっといて」


 人形がいた、あの蔵を思い起こす。暗くて、狭いあの蔵。埃っぽくてどこかかび臭くて、小さな窓から僅かな光しか差し込んでこないあの蔵。あそこに、どれくらいの期間かは不明だが、ずっと放置されていたらどうなるだろう。


 軽く考えてみて、自分が同じ立場なら、すぐに寂しさと恐怖でまいってしまうだろう、と感じた。瞬時に鳥肌が立った。

 外に出たいと切願するだろうし、外に出た後どんなことをするか夢想して過ごすだろうし、実際外に出られたら、興奮でずっと浮かれた状態になるだろう。きっとこのこだけでなく、あそこにいた人形達全員。


 人形のこの傍若無人さは、興奮から。外の世界を見たという嬉しさから、来ているのかもしれない。


「でもだとしたら、もう大丈夫だよ。僕が、君の友達になるから! これで、寂しくなくなるはずだよ」


 ほんの少しだけ顔を覗き込み、にっこり笑ってみせる。人形を安心させるためなのだが、上手く出来ていただろうか。

 じっと、穹の顔を見つめている気がした。もうその目の色を、血のようだとは思わなかった。ルビーのように輝いていると思った。


「ここにいる皆、君の友達だよ」


 振り返り、ハル達を順番に仰ぎ見る。シロが一回尻尾を振り、クラーレが軽く息を吐いて腰に手を当て、ハルが小さく頷いた。


「僕達、君と仲良くなりたいんだよ。だから遊びたいのは山々なんだ。だけど僕達、ちょっと疲れちゃって、そろそろ休憩したいんだ。いいかな?」


 少し人形の視線がずれた。何かを考えているようだった。今までの、すぐに動いて自分のしたいことに向かって一直線に突き進んでいく行動とは、明らかに異なっていた。


「休むのも大切だよ。それに休んでる間も、君と話したりはできるよ! むしろ、いっぱいお話しできるかもしれない。ま、まあ僕、あんまり話が上手くないけど……」


 苦笑いが浮かんできてしまう。確かに、とクラーレが軽く空を見上げた。


「よくよく考えたら大体走りっぱなしだったもんな……。俺も結構疲れたわ……」

「今日は色々起こりすぎた。どこかで休んで、諸々は明日以降にしたほうがいいだろう。ソラとクラーレの体力が持たない」

「その言い方だと、泊まりになるんですかね……。ううう、また無賃で、無銭で……」


 戻る手段がわからない以上、今日はどうやっても泊まりになるだろうと覚悟していた。しかし、また人形の力を使うのか。重いため息を落とした後だった。

 控えめに人形が穹の腕から飛び降りた。着地した後振り返り、全員分の顔を見たかと思うと、歩き出す。間違っても走って追いかけなければ見失うような速度ではなかった。


「どうしたんだ一体」

「もしかして、どこか休める場所を探そうとしているんじゃないでしょうか?」

「とにかく、まずはついていってみよう」


 ハルの言葉に頷き、穹達は人形の後を追って歩き出した。

 


 

 

 人形が立ち止まった先を見上げた穹は、目の前の景色が自分から遠ざかっていくように感じた。扉のほうへ迷いなく滑っていく人形を、両手で掴み上げる。


「さすがに! ここで休むのは駄目でしょう!!」


 人形が見つけ、悪びれもせず入っていこうとした旅館。


 非常に厳かな空気が、漂うなんてものではないくらいに、ひしひしと肌に感じる場。いっぱいに充満したその外気は、外にいるのに呼吸が詰まりそうになる。


 見上げているだけで足が竦み上がり、体が蒸発しそうになる程、情緒でふんだんに溢れた建物。昔の貴族や華族などが住んでいると言っても思わず信じてしまうような外観の屋敷。


 そこは、何をどうひっくり返ってみても、一泊あたりのお値段が相当高いとしか思えない旅館だった。どこからかししおどしの音が聞こえ、それはしばしの間、辺りに余韻を残していた。


 ここを、人形は今日の宿として選んだ。普通の人なら、まずここを宿の選択肢に入れないような場所を。


 抵抗なのか人形が腕の中でがたがたと激しく揺れ出したので、地面に下ろした。素早く腕から下りた人形は少しだけ穹から離れ、振り向いた。赤い瞳には、罪悪感も何も感じられない。どこに問題があるんだと言いたいようだった。


「とにかくここは駄目! 絶対に駄目! 駄目ったら駄目!!」


 意識して少しだけ厳しい口調にしてみたが、人形はきびすを返して入り口に向かおうとする。また捕まえ、今度は抵抗しても離さなかった。


 この人形がいれば、お金を払っていなくても泊まれる。


 見上げるだけでわかる。こんな場所に泊まれたら、一生忘れられないような、最上級の幸福を味わえる一時を過ごせるのだろう。歩き回って疲れた体を解すことが出来るだろう。今日一日で積もりに積もった心労も、あっという間に癒やされ消えて無くなることだろう。


 だがそれは、本来お金を払って初めて味わう権利が与えられるものだ。人形の目を見ればお金を払わずとも払ったことになるからいい、というものではない。

 今日一体自分は、どれだけの「盗み」を犯したのか。もしここに無料で泊まったら、敷居を跨いだ途端罪悪感が胃に穴を開ける予感がした。


「一日、いっぱい君に付き合ったでしょう。これ以上の我が儘はもう駄目だよ」


 人形の体をこちらに向かせ、顔の位置まで持ち上げる。すぐ前にある人形の目が、鋭い色を放っているように映った。その眼光といったら、抑えきれないくらい肌が粟立つものだった。


 助けを乞うつもりでクラーレとハルを見たが、瞬時にこの二人には頼れないと悟った。


 クラーレはぼんやりした目で旅館を見上げており、ハルもまた何も言わず、無反応で立っている。ここに止まることがどれだけ大ごとか、少しでも理解していたら出来ない反応を見せていた。


 この二人には、地球の常識が伝わらない。自分で何とかするしかない。どうしようとひたすらに視線をさ迷わせる。


 手の中で激しく体を揺する人形は、その内何をしでかすかわからない危うさをはらんでいた。早くなんとかせねばとほんの少し暗くなり始めた空を見ても、答えは見つからない。


 夕焼けから視線を戻し、またハルとクラーレを見た時だった。ハルが、ずっと両手に何かを持っているのが見えた。


 そういえば、とテレポートの瞬間を思い出す。今日起きたばかりのはずなのに、随分と前の出来事に感じられるテレポート前の時間。その時ハルは、両手にトランクを持って宇宙船から出てきて、穹の前に現れた。


「ハルさん。そのトランクの中身はなんですか?」


 ハルは頭を動かし、トランクを交互に見た。


「簡易キャンプセットと、食料の入ったトランクだ。鮮度を保ったまま保存し、持ち運びが出来る特殊な形状となっている。永遠に、というわけにはいかないが」


 穹の頭が、ぱっと花火が打ち上がったように明滅した。これしかないという道が、目の前を真っ直ぐ伸びている。


「キャンプ! 今日はキャンプをしよう! 決定!」


 激しく揺れていた人形が、今度は小刻みに揺れ始めた。日の当たり方のせいか、目元に影が落ち、暗くなった顔に赤い光が二つ浮かび上がった。


「お、怒らないで! キャンプは楽しいんだよ、本当に!!」


 きっと、という言葉は飲み込んだ。小さい頃、キャンプは家族で行ったきりなのだ。


 その時美月は積極的に手伝い動いていたが、穹は離れた場所を流れていた川のほとりで、ずっと本を読んでいた。一度、自然を肌で感じながら読書をしてみたかったのだ。

 少しだけ読んでから戻るつもりでいたのに、面白くてページを捲る手が止まらなくなり、最後まで読んでしまった。

 その後戻ってみると、場は騒然としていた。穹がいなくなったと騒ぎになっていたようで、あと一歩で警察を呼ぶところだったらしい。もちろん叱られた。どれくらい怒られたかは言うまでも無い。


 キャンプの思い出といったらそれしか記憶に濃い。だから、とても楽しいものかどうかは、穹は知らなかった。本の中では大抵楽しいものと描写されているが、実際のところは未経験なのでわからない。


「キャンプキットがあるなら、このこがいた山まで戻って、キャンプするっていうのはどうですか?」


 ハルは軽く頷いた。


「それは良い。そうしよう。クラーレはどうだ。異論はあるか」

「特には。いいんじゃないか?」


 クラーレにこだわりは見えず、どこに泊まっても問題ないようだった。ハルも然りだ。ひとまず安堵し、人形と向き直る。


「キャンプしたことないでしょ? やってみようよ。やったことないものに挑戦するのも悪くないと思うんだ。きっと良い経験になるよ」


 人形が手からすっぽ抜けた。地面に飛び降りた人形は、すたすたとといった足取りで歩いて行く。その方向は、あの蔵があった山がある方角と同じだった。


 受け入れてくれたと、胸をなで下ろす。そうしていたら、人形が立ち止まり、ちらりとこちらを見やってきた。提案した側が歩き出さないのはおかしいと気づき、慌てて人形の後を追った。恨みがましさの宿る見える目に、苦笑が浮かんだ。




 山まで戻りしばらく登っていると、ちょうどテントを張るのに良さそうな場所を見つけ、そこを今晩の拠点とすることで決定した。


 ハルが持っているキャンプキットは当然地球のものとは違うため、張り方がわからない。一体宇宙産のテントとはどういうものなのか。


 ハルはトランクを開けると、中から空気の抜かれたボールのようなものと、空気入れのポンプを取り出した。ボールに繋ぎ、空気を入れ始める。


 何をしているんだろうと眺めていた瞬間だった。ぼん、と音を立て、ボールの体積が一斉に増した。

 気がつくと、穹の目の前に、銀色の大きな丸いテントが張られていた。


「終わった」


 ハルが空気入れをトランクに戻すのを、塞がらない口で見る。愕然とする穹を置いて、クラーレは何とも感じていないように腕を組んだ。


「……これダークマター製品だろ」

「そうだ。やはり質が良い。信頼できる品だ」

「あんた本当になんとも思わないんだな……」

「簡潔に纏めるなら、それはそれ、これはこれというやつだ」


 言いながらハルは、もう一つのトランクを開けた。中から真っ白い空気が溢れだし、足下をひんやりとした空気が走って行く。


「それで、こちらには食材が保管されている」

「生ものも入っているじゃないですか!」

「品質にはなんら問題ない」


 トランクの中には全体的なサイズからは想像つかないほど多くの種類の食材が入っていたが、その中には卵なども見えた。少なくとも腐ってはいないようだ。


「さて、何が食べたい」

「昼は焼きそばの気分でしたけど、せっかくキャンプですし……カレーなどどうでしょうか!」

「お、良いな!」

「では決定だ。材料はあるし、作るのも簡単だ」

「か、簡単ですかね?」

「このキットはな、キャンプで作る可能性が高い料理を簡易的に作れるんだ」


 そうなんですか、とトランクの中を見る。カレーには良い印象しかなかった。ミーティアの定番料理の一つがカレーライスで、それはいつどんな時も、最高と思えるほど美味しい味を持っている。


 今頃ミーティアでは明日のためのカレーの用意をしているんだろうか。少しだけ日が傾いた空を眺めたときだ。一気に背筋が凍り付いた。


「あーーーーーーー!!!!!!!」

「ど、どうした!」

「何があった」


 準備を放り出して駆けつけたクラーレとハルに、ぎぎぎ、と壊れた人形のような動きで首を向けた。


「家に、連絡を入れていないです」


 体が寒いのか、頭の中が寒いのか。冷や汗が流れ落ちそうになった。


「僕、無断外泊することになります!!」


 午前中、遊びに行く旨を告げて家を出て以降、一度も家に連絡を入れていなかった。その際昼を食べてくると付け加えていたものの、今の時刻になるまで昼食に時間をかけているなど、普通なら考えないだろう。


 家ではどんな状態になっているのか。父も母も祖父も穹の心配をしているのではないだろうか。その様を思うと、途端に焦燥感が身を包んだ。


「あああどうしようどうしよう! と、とりあえず連絡……ぎゃあ、圏外っ! どうしようどうしよう!!」

「ソラ、落ち着きなさい」


 冷静極まりない声が投げられる。さざ波の立っていた焦燥が少しだけ落ち着いた。


「目印となる狼煙のろしを上げておくから、携帯の繋がる場所まで行って連絡してきなさい。私達はその間に夕食の準備をしておく」

「大丈夫だって伝えとけ。いや全然大丈夫な状況じゃねえけどな……」


 クラーレがじとっとした目を下へ投げる。全ての元凶である人形が視線から逸れるように、少しだけ奥に移動した。

 

 

 

 本日何度目かわからない変身を行って、携帯の繋がる場所まで山を下りていき、家に電話を入れた。


 電話に出た両親からはさすがに心配の色が滲んだ声が聞けたが、なんともない穹の様子を知って安堵したようだ。実際の所は、なんともない振りをしていただけにすぎない。


 もとい、突然テレポーテーションして京都に飛ばされ、呪いなのかそうでないのかわからない力で動く不思議な人形に振り回され、山でキャンプをすることになったと真実を説明しても、どこかおかしくなったのだと思われるだけなのは見えていた。


 嘘が苦手なりに何とか友人のところに泊まっていくと伝え、無事に外泊の許可が下り、胸をなで下ろしながら電話を切った。通話を終了した瞬間、本当に家に帰れるのだろうかという不安が、嫌な余韻を残して頭を掠めていった。


 人形のご機嫌を取ってパルサーを譲ってもらっても、その後どうやって戻るのか。考え始めると、恐怖が体を動かなくさせていった。振り払うように、今日のキャンプ場まで飛んだ。


 山の一部分から昇る狼煙の元に下り立つと、既に火が起こっており、その周りをハルやクラーレが座っていた。


 ワンバーナーのようなものが二つ設置されていて、そこから昇る火は機械の小ささとは想像もつかないほど立派ものだった。ちょっとしたたき火くらいの強さはある。

 その上に、大きめのコッヘルのようなものが置かれていた。厳重に蓋をされた鍋が二つ用意されており、中身は見えない。ハルいわく、一つはお米で、一つはルーだという。


「本当に簡単だったわ……。鍋に具を入れたことしかしてないからな、俺。あと具材を切るくらいしか」

「炊き上がりと煮込みにはさすがにそれなりの時間がかかるが」


 料理を入れてスイッチを入れれば、それだけである程度のものが作れるとのことだった。クラーレは手軽さに呆然とした様子で、ぱちぱちと火花が散るたき火を見つめていた。この火も、ワンバーナーについてあるスイッチを回しただけで起こせたらしい。


「あくまでも簡易だからな。だが、自然の厳しい場所では非常に重宝した」


 ハルがお玉を取り出し、片方の鍋の蓋を開けた。カットされた具材が浮き沈むルーをゆっくり回す。


 ハルの口が開いた。紡がれ始めたのは、これまで自身がしてきた旅の話だった。勧められるがままハルが持てきたトランクに腰を下ろし、話に耳を傾けた。


 まず、敵に追い詰められた末に人が決して寄りつけない極寒の星に不時着せざるをならなかった経験があると話した。


 宇宙船の中まで凍り付くような寒さに襲われるその星は、まさに死の星というに相応しい環境だった。そんな星に着陸し籠城したわけだが、相手は着陸こそしてこなかったものの星の外でかなりの期間居座られてしまい、苦戦を強いられたそうだ。


 いくらハートの髪飾りの機械でココロの体温などは調整できるといっても、周りの気温が機能を追い抜いていた。寒さで徐々に弱くなっていくココロを、専用のカプセルの中に入れコールドスリープさせて粘った。籠城の末最終的に隙を見て強行突破し、無事に脱出できたようだ。


 逆に大地のほぼ全てが溶岩に覆われた星も着陸した経験があるようで、その時はあまりの熱さにコンピューターの調子が狂い、正常な判断がほぼ出来なくなっていたとハルは振り返った。


 追っ手を振り切るための決断としてその星を経由したそうだが、あと五分でもあそこにいたら私は完全なる馬鹿になっていた、とハルは言った。冗談で言ったのかそうでないのか一瞬わからなかった。


 他にも、普通に歩いていたところうっかり密林の奥深くに迷い込んでしまいしばらく脱出できなかった経験もあった。

 かなり長い間密林をさ迷い続けたらしい。その密林というのがハルの計算の許容量を超える奥深さだったようで、どう行けば抜けられるか、全体を分析しようにも出来ないという絶望的な状況に陥ったそうだ。

 あそこを脱出できたのは奇跡に近い確率だった、とハルは当時を振り返って言った。


 ハルのする話にはどれも感情が無く、ただ事実を客観的に淡々と連ねていくだけだった。だから尚更、ハルが今まで置かれてきた状況を主観のないおかげで鮮明に思い描くことができ、その分胸が締め付けられた。


「あんた……。予想以上に綱渡りの旅をしてきたんだな……」


 木に寄りかかるクラーレが言った。予想の範疇を超える話を聞かされ、もはや呆れている様子だった。


「平穏な時間などない。mindを盗んだ瞬間から平穏な一時は私から完全に消失したんだから」


 ハルはクラーレが抱えているココロに顔を向けた。


「綱渡りなのはココロも一緒だ。私はどんな壮絶な環境に対しても辛いと感じないが、ココロは違うのだから。むしろ、私よりも、危険な目に遭っている」


 だから世話をするのは最低限にもならない義務だ、とハルは残し、また鍋を混ぜる作業に戻った。ココロはどこか眠たそうに垂れた目で、その姿を見ていた。


 かき混ぜは、途中で穹やクラーレと交代して行った。手を休めないハルに、穹が申し出たのだ。あんな話を聞いてしまった後だと、こうしてずっと作業をやらせているのに抵抗が生まれたのだ。ハルは最初必要無いと断っていたが、クラーレが横からお玉を奪い、強引に交代させた。

 ぐつぐつと、小さな泡が表面に誕生する鍋を、注意しながらお玉で円を描く。


「やっぱりソラ慣れてるな」

「新しいレシピ考えるときって、必然的に何度も料理を作りますからね」

「しかし、ゆっくり回すな……」

「姉ちゃんはもっと勢いよく混ぜますけどね。なんか僕は怖くて……」


 飛び散りでもして熱い思いをするのは嫌だし、それ以上に周りに迷惑がかかったときのことを思うと、鍋物で何かをかき混ぜるときは、つい慎重に回してしまう。勢いよく混ぜたときがいい場合でも、速度が落ちてしまう。苦笑すると、クラーレは「そこにも性格が出んだな」と感心深げに言った。


 少し火から離れた場所に腰掛けるハルが、クラーレから受け取ったココロを抱え、そんな光景を眺めていた。単調な混ぜる作業の気を紛らわせる事が必要と判断したのか、また旅の話を聞かせてくれた。


 宇宙船内で美月や未來がせがむとハルはその度に話を聞かせてくれていたものの、このように自主的に旅の話を聞かせてくれることはあまり無かった。


 宇宙を旅してきたハルの話は、逃亡者という肩書きがついて回るせいでお世辞にも平穏とは言えないものの、聞いていて全く飽きなかった。遠い世界の話を聞いているようで、それでいて微かに現実味のあるような、奇妙な感覚を味わえる。

クラーレもほとんど口を挟まない様子からして、興味深げに耳を傾けているようだった。


 意外なことに、人形もトランクに座って、ハルの話を聞いているようだった。隣で座るシロへわずかに体を預け、横のハルを見上げたまま、あまり動かない。


 旅の話を始めたのは、蔵から出たことのない人形に、外の世界の話を聞かせようと考えたのもあるかもしれないと、穹は思った。


 そうこうしているうちに、お米のどことなく甘いような匂いが辺りを包み始め、カレーの食欲を誘う匂いが漂い始めた。


 そろそろだ、とハルが立ち上がり、まずはお米の鍋を手に取った。あらかじめ組み立てておいたのか、近くにあった台の上に置き蓋を開けると、一瞬鍋の中が何も見えなかった。眩しさのせいだった。


 ふんわりとした仕上がりに、一つ一つが磨き上げられたようなみずみずしい艶を帯びた米粒。炊き上がりの状態が非常に良いことは明らかだった。白米のまま食べたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えて手元の鍋に目を落とす。


「多分、こっちもそろそろですよ!」

「昼を結局食べていなかったもんな。俺お腹空きすぎて逆に気分悪いわ……」


 力なく笑うクラーレだったが、気分が悪いとは言いつつ、体調を崩しているようには見えなかった。


 漂ってくる香りが、胃袋だけでなく感情も良い方向に刺激させる。穹も早くこのカレーを食べたいと、今の願いはそれ一つに絞られていた。上手い具合にとろみがついたルーが、お玉を伝っていく。


 と、空気がわずかに揺らいだ気がした。足下を見ると、それまでトランクにずっと座っていた人形が、近くまで来ていた。


「あ、見る?」


 抱え上げ、鍋の中身を覗き込ませる。視覚や聴覚はあると思うが、嗅覚はあるのだろうか。山中に漂うこの匂いを、人形はどう感じているのか気になった。


 そもそもカレーの匂いを知っているのか。恐らく知らないだろう人形は、どう感じているのだろうか。不快に思うか美味しそうと思うか。


 ふと思い立って、お玉を人形に持たせてみた。もちろん人形は握れないため、穹も一緒に持って支えた。そのまま手を動かし、一緒になってゆっくりと大きく鍋をかき回す。


「多分、カレー作るの初めてだよね。どうかな?」


 聞いてみても人形の口は動かない。しかし、抵抗の影が全く見えない辺り、嫌だとは感じていないと解釈できる。

 人形の服に飛び散らないよう細心の注意を払いながら、一回二回とくるくるかき混ぜる。


「こうやってお鍋かき混ぜてるときって無心になれる気がするんだよね~。でも、こうしてお外で皆とかき混ぜているときは、凄く楽しいなって思う。初めて知ったよ。君はどうかな。一緒に楽しいって思ってくれてたら嬉しいな、僕は。……えへへ」


 実際は穹の力がほとんどとはいえど。小さな手でお玉の取っ手を持ってくるくるとカレーをかき回す人形の姿を、もう怖いとは思わなくなっていた。その代わりに、親近感のようなものが沸き始めていた。


 外でごはんを作る。それには特別な魔法が働くのではと、穹は感じていた。怖いものを怖いと思わなくなるのを筆頭に、嫌な事や辛い事が空気中に溶けて消えていくのではないのかと。


 こうして最後の仕上げを人形に頼み、カレーライスが完成した。ハルがトランクから取り出したキャンプキットの付属品だというお皿に盛り付けを行う。受け取った料理をトランクに腰掛け改めて見ると、湯気に当てられて思わず瞬きをした。


 発光体など入れていないはず。なのになぜだか、輝いているように見えたのだ。たき火の明かりを反射する茶のルーに、白いご飯に、艶がかかっている。


 胃が空っぽの感覚が一気に強くなった。くう、と腹の虫が鳴き声を発し、早く食べたいという欲が強くなる。


 スプーンで一口分掬い、口に運んだ瞬間だった。


「えっ……」


 周囲の世界を流れる時間が止まった。瞬きが叶わなくなり、目が大きく見開かれたままとなった。

 首を向けると、ぱっちりと大きく目を見開いたクラーレと視線が合った。


「お、美味しいっ!!」

「凄いななんだこれ!!」


 勝手に言葉が溢れていた。


 炊き上がり特有の粘り気のあるご飯にまろやかなルーが絡んむ。ご飯のほのかな甘みとがルーの辛さを引き立たせ、ルーの辛さがご飯の甘みを引き立たせていた。程よい辛さが、的確に食欲を刺激してくる。

 五臓六腑どころでない、体中の細胞全てに染み渡っていくようだった。今まで探し求めていたのはこれだったと、心だけで無くあらゆる臓器が声を上げている。


 そう感じたのは、穹だけではなかった。興奮気味に顔が高揚するクラーレと向き合う。


「ね、ねえ、こんなに美味しくていいのかなっ!!」

「いや駄目だ!! 多分駄目だ!! こんなに美味すぎるのは駄目だ!!」

「だよね!! 逆に駄目な美味しさだこれは!! 駄目だ!!」

「二人とも、一体何が駄目なんだ」


 ハルが首を傾げてきた。クラーレが苛立ったように勢いよくカレーをスプーンで指す。


「これに決まってるだろ!」

「そうです! 美味しすぎます! この美味しさはいけない! 駄目な美味しさです!」

「そう、駄目なやつだ!」

「駄目な美味しさだよ!」

「分析すれば、ミーティアのものよりも劣る味なはずだが……」


 途中のハルの台詞を、穹は勢いよく頭を振ることでかき消した。どちらが劣っていてどちらが優れているとか、そうやって比べるのは絶対にしてはいけない味だと感じたからだ。


 次元が違う。一口食べるだけで、強い幸福感が、体を包んでいく。春よりも心地良い温かさで、心の底から笑顔になりたいという欲求が湧いてきて、顔は欲求通りに、笑顔になる。


 心地良い暖かさが、足下から全身を包み込んでいた。


「今僕、ここに来て良かったって、心の底から思っています!」

「俺もだ。今日の嫌な事が全部どうでもよくなった」

「二人がそう思ったのなら、良かった」


 はぐはぐと足下でシロもカレーを食べている。食べながら忙しなく尻尾を振っている様子から、お気に召しているとわかる。

 気がつけば穹も両足を振っていた。仲のいい人達と外で食べるごはんはとても美味しく感じるのだと、今まで本で読んで得ていたものを、身を以て知った。


 つと、穹の隣からこちらを見上げてくる気配を感じた。人形が、こちらに目線を注いでいた。


 騒いでいる穹を批難するつもりで見ているのかと思ったが、違うようだ。ただ皿を見ている。


 そこには、感情を感じなかった。あまりにも物静かな目だった。何かを諦めているときに似ている静けさ。それには見覚えがあった。自分もよく、そんな目になるからだ。


「そ、そうか。食べられないもんね……。騒いじゃってごめんね……」


 人形の体がわずかにこちらを向いた。少しの間穹を見ていたかと思うと、ぴょんと軽く、低く跳ねた。何を伝えたかったのか。考え出した瞬間に、答えがわかった。


 「いいんだよ」と。そう言っているのではと感じた。


「……よし! じゃあ代わりに、いっぱいお話ししよう! それしか出来ないから!」


 自分ではどう頑張っても、このこにこのカレーを食べさせてあげることはできない。ではそれ以外に、この子に対して何が出来るか。今まで味わってきた孤独を緩和させるにはどうすればいいか。結局、たくさん会話のキャッチボールを行うこと以外、思い浮かばなかった。


「クラーレさん、話しましょう!」


 気合いを入れて、ぐるんとクラーレのほうを勢いよく向く。ぱちり、とクラーレが一回両目を瞬かせた。


「お、おう。……何を話せばいいんだ?」

「えーと、じゃあハルさん! 話しましょう!」

「何について話をすればいい」

「え、えーと。……シロ! 何か無いかな!」

「ピイ?」

「……コ、ココロ、は……?」

「……あう」

「……誰か助けてーーー!!!」


 気がつけば頭を抱えていた。台詞も声色も完全に悲嘆なものだったのに。おかしなことに穹の心は、幸せ以外感じていなかった。

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