phase2.1
異変か、それともずれか。
それが形となって生じたのは、夕食時のことだった。
美月は今まで作ったことがない離乳食を、ハルからもらったマニュアルを見ながら、慣れないながらもある材料を使って用意した。
自分達の夕飯でもあるグラタンを、離乳食用にしたものだ。
地球に来てからココロの興味を惹きつけた料理だと書かれており、今のところココロはこれが一番好きなのだと、そのような注釈がつけられていた。
出来上がったグラタンは、慣れないながらも作った割には上々と呼べそうな代物だった。
実際家族からもお墨付きをもらい、美月は更に自信をつけた。
「はい、ココロ!」
荷物にあったココロ用のスプーンで掬い、ココロの口元に運ぶ。
昔美月と穹が使っていた赤ちゃん用の椅子に座る彼女の視線が、スプーンに乗せられた食事に向かった。
ぱちくりと、赤と青のオッドアイの両目が閉じ、そして開く。
そのまま、小さな口が開かれ――は、しなかった。
ぴったりと閉じられたシャッターのように、口をきゅっと結んだまま。
ココロの目線は、忙しなくそこかしこを移動している。だが、スプーンの上だけには、向けられなかった。
「あれ……? ココロ?」
何かの間違いだろうか。
エラーが生じたみたいに、今この一瞬だけ、何か不都合が生じたのでは。
美月は再度、口元へスプーンを近づけた。
ココロの口は、閉じたままだ。
シャッターは開けられず、エラーは直らない。
「あーんして?」
あ、と口を開けて見せるも、ココロからは、それを真似しようという気は全く伝わってこない。
「いつもやってるみたいにするんだよ?」
ココロは変わらず、スプーンではない別の方向を見たりしている。
「食べなきゃだめだよ。食べ物にも悪いし、体にも良くないよ?」
言ってはみた。だが、七ヶ月頃の赤ちゃんに、そのような道徳を教えても、理解されることはない。
「美味しいよ? 一口でも良いから、食べてみてよ」
美月はまだ使っていない自分のスプーンを使い、離乳食を一口食べた。
味は悪くない。赤ちゃん用の味付けなので薄すぎるが、決して不味くはないだろう。
「……ココロ、食べること嫌いなの?」
自分のグラタンからたつ湯気が、薄くなり始めている。
美月は口まで持ってきていたスプーンを、目の辺りまで移動させた。
ココロはじっと、凝視している。だが次の瞬間には、逸らされた。
逸らした先に持って行ってみても、またもやふいっと顔を背けられる。
「どうして……」
かすかに声が震えているのがわかった。声と同じように手も震えているのが見えた。
どうすれば、何をすれば、この料理は、ココロの体内にある胃に、入ってくれるのだろうか。
「貸して、美月。ごはん食べなさい」
横から、弦幸の手が伸びてきた。
スプーンを取られても、美月はまだ、手の形をそのままの状態で保っていた。
「知らないおうちに来て、きっと緊張しているんだ。大丈夫、美月。ココロちゃんは、どこか悪いわけじゃない」
父親の声に、震えが止まった。
「……そうなの?」
「うん。美月も穹もそうだった。突然食べなかったり、すぐに口から出したりして、お父さんもお母さんも大変だったよ。特にお父さんは、一応レストランのコックなわけだから、ちょっとショックだったね」
気合いを入れて作ったときに限って食べなかったりするんだから、と弦幸は苦笑した。
そんなものだろうか。父親の顔を見て、もう一度ココロを見たときだった。
美月は言葉を失った。
「あ~!」
食べていた。ココロが、口を開いていた。 弦行きが、お椀の中にスプーンを入れて、ココロの口元へ運ぶ。
ココロはそれを、当たり前のように口をあーんと開けて、待っている。
スプーンを口の中に入れて、閉じて、しばらく経ったらまた口を開ける。その一連の動作を、繰り返している。
口からものが無くなると、ココロはばんばんと机を叩いて催促した。
飲み込み終わるのを待ってから掬っている弦幸の手を、「早く、早く!」と強い目で見つめている。
「なんで……」
「焦ってたり、頑張りすぎちゃって期待しすぎると、全部伝わっちゃって緊張させちゃうってことがわかったからね。なるべく、こちらがリラックスした気持ちでごはんを食べさせるようにしたんだ」
弦幸は、まだ美月と穹が離乳食を食べなかった頃のことを話していた。美月の興味が、そのことに向けられていると想ったのだろう。だが。
違う。
そう言おうとした。けれど口は、開いたはいいが、言葉が出てこなかった。
「良かったわね、美月。この子、美月の作ったごはん、美味しそうに食べてるわよ」
微笑んでその様子を見ていた浩美が言った。
違う。
また声に出せなかった言葉を呑み込んで、美月はココロのことを見た。
自分が作った料理を、自分の父親の手で、喜んで食べさせてもらっている姿を。
穹の、ほんの少しだけこちらを気にするような視線を感じる。源七の、物言わぬ視線を感じる。
でも、返そうとは思わなかった。
その後も、それだけにとどまらなかった。
夕食後、ココロにミルクを与えるように書かれていた。
なので、マニュアルを見ながらミルクを作ろうとしたが、どうしても手間取ってしまった。
いくら事細かくやり方が記されているレシピがあろうと、美月は赤ちゃんにあげるミルクを、一度も作ったことがないのだ。
スムーズに事が運ばず、何度も間違え、手間取りながら、それでもどうにかして出来上がった。だが、隣にやってきた浩美に、「それじゃ駄目よ」と言葉をかけられた。
えっと振り向いたとき、浩美がほ乳瓶を美月の手から取った。
ミルクを数滴手の甲に落とし、舐めると、やっぱり、と少しだけ顔がしかめられた。
「少し熱いしちょっと薄い。これじゃ良くないわよ。このちょっとが、後々手遅れな事態を引き起こすかもしれないのよ」
その後、浩美は美月とは比べものにならないほどの手際で、ミルクを作り始めた。
一切の行動に無駄がなく、最小限の動きで出来ている。
経験者だからこその、成せる業だった。
経験者でない美月は、ただ横で立っているだけしか出来なかった。
ミルクは、数は少ないとはいえ何度かハルに代わってあげたことがあるので、飲ませることはどうにか出来た。
だが、心に引っかかっている何かが、大きさを増したのが確かに感じた。
んくんくと、集中して真剣に飲み続けるココロの目に、自分が映っていないように見えた。
沐浴も同じような状況だった。
持ってきたベビーバスに湯を張ったまではいいが、その後が問題だった。
マニュアルを読んでも、実践を一度もしたことがない者の出来など、たかがしれている。
またもやもたつき続け、時間をかけるうちに、美月はすっかり汗だくになった。
何か一つをする間にも、ココロはずっと動き続ける。それにも意識をとられる。
そして結果、その何か一つをするのが、遅れる。
しまいには、ココロが泣き始めてしまった。
「ちょっと、顔が水に浸かってるわよ!」
声を聞いてやってきた浩美が、慌てた様子で美月と場所を強引に代わらせた。
「ここは私がやっておくから、美月はお風呂に入っちゃいなさい」
美月は黙って頷いた。
服が体に張り付いていた。しかしその不快感は、意識の内に入っていなかった。
慣れた手つきで、浩美がココロの体を清めていく。
泣き顔だったココロの表情は、いつの間にか消え失せていた。
気持ちよさそうに洗ってもらっている姿を、美月はまた、ただ見ていることしか出来なかった。
マニュアルに、ココロはおむつを替えるとき、とても動くから注意するようにと書かれていた。しかしこれほどまでとは想像していなかった。
とにかくココロはじっとしていない。大人しい印象は無かったが、ここまで元気だとは思っていなかった。むしろ、普段よりもずっと活発になっているようだった。
替えるどころか取り外しもままならず、美月はすっかりパニックになってしまった。
気がついた時には、助けを求めて叫んでいた。
どうしたどうしたと、弦幸が駆けつけてきた。ココロの様子と美月の姿を見比べると、「ああ、なるほど」と苦笑した。
「ちょっと抑えててくれる?」
言われたとおり、ココロのばたばた動く両手を軽く抑えると、その間に、美月が手も足も出せなかったことを、あっという間にやり遂げてしまった。
古いおむつを外し、拭き、新しいものに替える。
ただそれだけのように見えて、それだけのものが出来なかったことを、いとも容
易く、短い時間で、完遂した。
「はい、これでおしまい。美月と穹の子どもの頃を思い出すよ。二人とも、特に美月は物凄く動く子だったからね」
ありがとうと言わねばならない。けれど、言葉どころか、笑みで返すことも、できなかった。
極めつけは夜だった。
寝る前のミルクも与え終わり、マニュアルに書かれている、普段ココロの寝る時間に合わせて和室に連れて行き、布団に寝かせようとしたときだった。
これでココロは眠り、美月も寝て、それで明日が来る。そうなれば、今日は終わる。
上の方が軽く、下の方が重いような、そんな心を抱いていることに気づいたとき。
今までのぐずりとは比べものにならないほどの大きな声が、部屋中に響き渡った。
これが例の夜泣きというものかと、急いで抱え上げた。ゆらゆらとゆっくり、体ごと揺れてみる。
しかし、止まらない。
定番の子守唄を歌ってみた。しかしサビの部分だけしかわからなかった。その前に、歌声は泣き声にかき消される。
鞄をひっくり返して、おもちゃを漁り、順番に見せてみる。これならば、これならばと、目につくもの全てに、縋るように手を伸ばす。
けれども、泣き止まない。
お腹はいっぱいなはずだし、おむつも取り替えてもらったばかりだというのに、どういうことだろうか。好きなおもちゃにまで興味を示さず泣き続けるとは、どういうことだろう。
何かの病気かもしれない。どこか痛む場所があるのかもしれない。
だが、もしそうだったとして、それはどこなのだろうか。
どこか悪いとして、何をすればいいのか。
これ以上、何をやればいいのか。
あるいは、これがハルだったら、どうしたのだろう。
普段、ハルは、何をしているのだろう。
考える。頭を巡らす。けれどすぐ傍で、泣き声が聞こえてくる。
それが思考を妨げていることは、否めない。
頭の回転数が、徐々に小さくなっていく。減っていく。自分の臓器だから、それがわかる。
部屋の明かりは、机の上に置いてあるライトだけ。その光も、徐々に薄くなっていくように見える。
ココロの声が、形になって、分厚い膜のように自分に覆い被さるように感じる。
ぐにゃり、と視界がうねった。
「美月」
聞き覚えがあるはずのしわがれた声に、美月はしばらく反応ができなかった。
「大変じゃろう。命をみるというのは」
和室のドアが開いていた。廊下の光を背に、誰かが立っていた。
「美月は頑張った。やり遂げようと頑張っていたよ。でもな、決意だけでは、上手くいかないことのほうが多いんじゃよ」
源七が、両手を差し伸べてきた。美月は何も言わず、泣きわめき続けるココロを、そっと渡した。
「明日もあるじゃろう。早く寝なさい。この子はわしがちゃんと見ているから、安心するんじゃよ」
うん、と立ち上がった。ふらり、と体が傾き、足が絡み、壁に当たりそうになった。
「本当は、美月が助けてって言うまで、待っているつもりじゃった。でも、早く行ってって、言われてな」
誰に、とは言わなかった。でも、誰だかすぐにわかった。かっと、一瞬だけ、熱い血が昇ったように感じたけれどそれは、一秒ともたずにすぐに冷めた。
心臓だけでなく、鼓膜がどくどくと音を立てていた。
階段を上った先で、穹が立っていた。
顔を伏せているせいで、その顔はわからない。だが、きっと、心配げで不安そうで、少し怯えたような顔をしていることだろう。
ねえ、と声をかけてきた。姉ちゃん、と言おうとしたのだろう。全て聞かず、美月は穹の前をさっさと通り過ぎた。
「……どうもありがとう」
か細く呟いたこの声が、ちゃんと聞こえたかはわからない。
穹は、何も言ってこなかった。
自室のドアを開けて閉めると、少ししてから穹の部屋のドアが閉まる音が、聞こえてきた。
美月はそのまま、ベッドに倒れ込んだ。
耳を澄ませると、下からココロの泣き声がわずかに聞こえてくる。
この相手をしているのは、源七ただ一人だ。
一人のままで良いのか。やはり、自分も行ったほうがいいのではないか。
ココロを連れてきたのも、今日泊まらせると言ったのも、美月自身なのだから。
これでこのまま寝てしまうのは、ただ甘いだけではすまされないのではないか。
そう思うのに、今すぐ行かなくてはと、自分の心は喚き散らしているのに。
体は、全く動かなかった。手先も、足先も、毛ほども。
でも、行かなくては。でも、動かない。
その葛藤を散々繰り返していたときだった。泣き声が、突如として聞こえなくなった。
じっと耳を澄ませても、何も聞こえてこない。静寂そのものだ。
行く理由が、完全に無くなった。
あれだけ泣いていたのが嘘のように、静けさに包まれている。だが、ココロの泣き声が、まだすぐ傍で、聞こえているようだった。
今日、自分は、何かしただろうか。成し遂げただろうか。やり遂げただろうか。
そもそも、何をしたかったのだろうか。
自分の体の中身が、どんどん零れ出て、消えていくようだった。
それなのに、何かに押しつぶされそうな、重いものがのしかかっている気がした。
いつの間にか、眠っていた。
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