#05 死体に纏わる人物たち

 食堂に入るとまず目に入るのは、中央にある大階段であり、降りてすぐ目の前の大きな窓は甲板へと続いている。

 その奥の壁には、4メートル四方はあるであろう。天井まで届く高さの、大きな絵画が掛かかっていた。

 絵に描かれているのはエデンの園だと思われる。テーマは新古典主義の絵のように思われたが、構図は印象派の趣だ。日本の浮世絵を思わせるような遠近法が用いられている。

 絵の背景には、ライオン、キリン、馬、牛、ヤギなどの様々な動物、左上部から右下部へとうねる四本の川、中央には生命の樹と知恵の樹が描かれていた。知恵の樹の前には裸体に蛇が絡み付く女性が、ひとり描かれているが、これはアダムとイヴのイヴだろう。右手に林檎を持ち、天へと掲げてその禁断の実を今、かじらんとしている場面だ。


 その絵画の手前に、デュムーリエ警部の他に、フラビエール船長、サロモン・ビニスティ、ビニスティ氏の執事が勢揃いしていた。

 さらに、そこに女性が四名と男性が三名。

 数えると、フィデール刑事と私たち二人を含め、全部で十四名の人間が集まっている。


 ソファには艶やかな栗毛をした、まだ少女と言ってもいいかもしれない、あどけなさの残る若い女性と、彼女の右手を落ち着かない様子で握っている中年女性が並んで座っている。同じ栗色の髪の毛をしていることから、この二人は母娘なのではないかと推察した。

 その母であろう女性の右肩に、壮年の男性が手を置いて立っている。白髪混じりの黒髪をポマードでオールバックに撫で付け、口元に整然と髭を生やした紳士である。キリリと引き締まった濃い眉が印象的だ。これは父親ではないかと思う。


 その壮年の紳士からさらに右に50センチほど視線を移すと、どこかで見たことがある顔がある。


 ――昨夜、甲板でアーネストと「逢い引き」していた女性だ!


 あの時顔はハッキリとは見なかったが、その匂い立つような色香で、私はそう直感した。

 長い真っ直ぐとした黒髪にエメラルドグリーンの瞳、そしてなにより男の欲望を刺激そうな真っ赤な口紅を塗っているのが印象的だ。口元の黒子ほくろが彼女の官能的な魅力をさらに引き立てている。


 栗毛の若い女性が座っているソファから左側には、マッチ棒のようにやけに頭の大きな男が立っている。金縁の丸眼鏡をかけた柔和な雰囲気の男性は心配そうに娘のほうを見詰めながら、彼女の座っているソファの背凭せもたれに手を置いていた。


 さらに少し離れたところには簡易な椅子が置かれており、そこにはメイド服に身を包んだ厳格そうなムッツリ顔をした老婆が座っている。そのかたわらには日焼けした肌に目鼻立ちのハッキリとした短髪の若い男が姿勢を正して立っていた。


「やあ、バートラムさん、コーヌさん。来られましたか!……これでみなさん揃いましたね」


 デュムーリエ警部とフラビエール船長がこちらを振り向く。


「ここには個別の事情聴取でアーサー・アダムスさんを知っているとお答えになった方々にお集まりいただいております」


 デュムーリエ警部が集まった人々の顔を見渡し、話の口火をきった時だった。


「……この中に息子を殺した犯人がいるということですか!?犯人はテロリストであるという可能性は!?!?!?」


 かなりせっかちなのか、壮年男性が話の腰を折る。デュムーリエ警部は面食らったように一瞬息をつまえて説明した。


「いえ、犯人がいるというわけではないんです。今回はみなさんにお集まりいただいて、御子息の昨夜の行動や殺人犯に心当たりはないかを検分しようと思うのです」


「……なるほど。主旨は分かった。その前に初見の人物もいるようだから、紹介してくれないか」


 アーサー・アダムスの父親であろう、この人物が、アーネストと私のほうを見ながら、厳しい口調で警部に指図する。デュムーリエ警部は口角だけ上げて愛想笑いを作り、ちょっと首をかしげ、私たちを紹介してくれた。


「こちらはアーネスト・バートラムさんと、ご友人のドウヨ・ノエル=コーヌさんです」


 被害者アーサー・アダムスの父親は、私たちの顔を繁々と眺めた後、足元に視線を落とし、再び顔を見て、うんうんとなにかに納得したように頷いた。


「私の名前はアルベルト・アダムス。アダムス男爵。アーサーの父だ。そして、隣が妻のエリノア。エリノアの隣に座っているのは娘のクレア。そして傍らに立っているのが、娘の婚約者である……」


「マテュー・モランです」


 丸眼鏡の男がその大きな頭をゆらゆらと揺らしながら自ら自己紹介をした。


「私の右手に立っているのが、アンジェリカ・ボーフォート。私の……友人だ」


 アンジェリカは長い睫毛をゆっくりと動かし、我々の方……というよりアーネストの方に視線を送った。口許は一向に笑わない。


「それから後ろに控えているのが、召し使いのサラとその甥のクレイグ。私たちの世話をしてくれている」


 サラとクレイグはこちらに軽く会釈をしてくれた。私たちもちょっと頭を下げた。


「みなさん、ご質問を始めてよろしいですかな?」


 アダムス男爵がこの場にいる人々の紹介を終わるのを待って、デュムーリエ警部が口を開いた。この言葉に一同黙って賛同する。警部はその場の人々の顔を見渡し満足そうに頷いた。


「では、さっそく本題に入って行きましょう。まずはひとつ目のご質問です。昨夜みなさんが最後にアーサー・アダムスさんを見たのはいつですか?」


「私は昨日はアーサーさんをお見かけしておりません」


 デュムーリエ警部の聞き取りづらいかすれた声が途切れた後、間髪いれず、アンジェリカの深みのあるハスキーな声が聞こえてきた。


「私は夕食後、喫煙室でお会いして、少し会話したのが最後です」


 マテュー ・モランがこれに続ける。


「アーサーさんとは、どんな話をしましたか?」


「明日プランセールに着いたら、いよいよクレアさんと正式に婚約できるので、今後の段取りのことを話しました」


 モラン氏から、ソファに座るクレアの方に視線を落とすと、兄を亡くしたからだろう。憔悴しきった顔をさらに曇らせている。17、8歳だろうか?私よりは年下であろう彼女は、可哀想に小刻みに震えていた。


「……クレアさん、大丈夫ですか?」


 私は見かねて彼女に声を掛けた。


「……ええ……ありがとうございます」


 ニコリと口許だけ笑顔を作ろうとするのが余計に痛ましい。


 ――無理せずお休みになってはどうですか?


 そう話しかけようと思って口を開いた瞬間、彼女が気丈にも話を続けたので、私は言葉をグッと飲み込んだ。


「私が兄に最後に会ったのは、夕食を一緒に取った時が最後です。母も同じです。私たち一緒に部屋へと戻りましたから」


 アダムス夫人がハンカチで目頭をちょっと抑えて頷く。眼が乾いたのか、痒かったのか、特に泣いている訳ではなさそうだ。息子が亡くなったというのに取り乱した風ではない。


「君たちはアーサーに会ったのかね?」


 アダムス男爵がアーネストと私に回答を促した。アーネストは男爵の顔を無言でちょっと見詰めて口を開いた。


「私たちはアーサーさんをお名前しか存じ上げません。昨夜は……」


 少し言葉を切って続けた。


「昨夜、私はボーフォートさんと一緒にいました」


 アーネストの言葉に驚いたのかアダムス男爵は一瞬きょとんとした後、ぎょろりとした目を一層大きく見開いた。見開いた目がみるみるうちに赤くなり血走る。アダムス氏は目ばかりか耳まで真っ赤にして烈火の如く怒り始めた。


「どういうことだ!?アンジェリカ!?!?!?この男と何をしていたんだ!?」


 アダムス男爵がアンジェリカの手首を掴もうとするのを、彼女はすかさず振り払い、アーネストのそばまで駆け寄り、その背後に隠れて叫んだ。


「ちょっと遊んだだけよ!貴方、昨日は来ないと言ってたから!!!」


「……こっ!この女……!!!」


「……ちょっ!落ち着いてください!!!アダムス男爵!!!暴力はいかんですぞ!」


 逆上してアンジェリカの方に突進しようとしてくるアダムス氏をデュムーリエ警部とフィデール刑事が羽交い締めして止めに入る。私も反射的にアンジェリカを庇おうと、アダムス男爵の前に立ち塞がるため半身動いたところだった。


「離せ!!!……離さんか!!!」


 羽交い締めにされたアダムス男爵はカッカカッカと顔を真っ赤にして、なおもアンジェリカに掴みかかろうと腕を伸ばすが届かない。放っておくと痴情のもつれが過ぎて、この場で殺人事件が起こりそうな勢いだ。


 アンジェリカはアダムス男爵の友人というよりは、世話している愛人なのだろう。男爵の愛人などと逢い引きしていたアーネストもアーネストだ。アダムス男爵には殺されてもしかたないと、私は思った。




 デュムーリエ警部とフィデール刑事は、逆上したアダムス男爵を他の刑事たちに引き渡し、別室へと連れて行った。


「……いやはや。たいへんな……その……情熱家ですな、アダムス男爵は」


 警部が大きく息をつきながら、やれやれとでもいう風に、両手を擦り合わせながら帰ってくる。


「それでは続きを始めましょうか。コーヌさんも、バートラムさんと同じく、アーサーさんとは面識がないのですね?ちなみに昨夜は何をしていましたか?」


 突然話を振られて、私はギクリとした。


「……わ、私は、昨夜は一人でいました」


「一人でどこにいらっしゃったのかな?」


 そう尋ねるビニスティ氏の眼光が鋭く光る。この経済界に強大な力を誇る立派な紳士が怖かった。多種雑多な人々とビジネスの世界で渡り合っているのだ。様々な難局を突破してのし上がってきたのに違いなく、人を見る目も確かだろうと思うと、私のような若輩者の嘘など簡単に見透かされてしまうのではないかと思う。


「部屋でワインを飲み過ぎて船酔いしてただろ」


 咄嗟に気の利いた言葉が出ない私を見かねてか、アーネストが助け船を出してくれた。


「飲み過ぎと船酔いが重なったので、甲板で吐いてたのを介抱していました。赤毛の三等航海士にボディチェックを受けましたよ」


「なるほど」


 ビニスティ氏が腕組みをする横から、デュムーリエ警部が口を出す。


「先ほど午前中もお伺いして、そういうご回答でしたな。では、貴殿あなた方は?」


 私たちはあまりここでは重要視されていないのかもしれない。話題が私から逸れていく。

 警部はアダムス男爵の召し使いたちに詰問を続けた。


「叔母はエリノアさまとクレアさまのお世話をした後すぐに就寝しました」


 クレイグが男らしい低く通りのよいしっかりした声で語り出す。


「アーサーさまのお世話は僕がしております。食堂で夕食を取られた後、喫煙室に立ち寄られ、アーサーさまはお部屋に戻られました。それからシャワーを浴びられる準備を私が整えたのですが、この日はここまでで早めに下がってよいと言われたものですから、寝巻きの用意だけしてお部屋を失礼しました」


「それでは、ここにいる人のなかで最後にアーサーさんを見たのはあなたですね」


「そうだと思います」


「それは何時ごろでしたか?」


「21時頃でした」


「なるほど。他に気になったことはありませんでしたか?」


「いえ、特にはありません」


「……ふむ」


 デュムーリエ警部が判然としない様子で、両腕を胸の前で組み直した。フィデール刑事がペンでメモを取る音だけがさらさらと心地よく聞こえてくる。


「アーサーさんは遺体発見当時、寝巻きで酩酊状態で発見されていますから、殺害されたのは、それ以降となりますな」


 デュムーリエ警部は誰に話すともなしにこう呟き、続けた。


「それでは話を変えまして、二つ目のご質問です。アーサーさんの遺体は船底の倉庫で発見されましたが、どこかに出掛けるとは言っていましたか?」


「いえ、何もおっしゃってはいませんでした」


 クレイグが答える。


「深夜に誰かに会うといったことも?」


「はい、特にありません。アーサーさまが深夜にお酒をお召し上がりになるのは毎日のことで、飲まれたら、いつもはそのまま寝てしまわれます」


「……しかし、昨夜は酒を飲んで、船底まで降り、殺害された、と。しかも寝巻きで。自ら出歩いたのか、それとも誰かに連れ出されたのか……」


 ――被害者が、誰かに連れ出されたとしたらやはり知り合いだろうな


 私は考えた。

 深夜、寝巻きで酩酊状態にあるところを部屋にあげるのだから、気心の知れた人物に違いない。


 ――犯人はこの中にいるのだろうか


 私はここにいる面々の顔をぐるりと見渡した。


 今ここにはいないが、被害者の父親アルベルト・アダムス。

 被害者の母親エリノア・アダムス。

 被害者の妹クレア・アダムス。

 クレアの婚約者マテュー・モラン。

 召し使いサラ。

 同じく召し使いのクレイグ。

 アルベルトの愛人アンジェリカ・ボーフォート。

 アンジェリカの愛人アーネスト・バートラム。

 ……それとも、ここにはいない別の知り合いか?


 警部は呟きながら、再び頭を捻った。

 顎を右手の親指と人差し指でさすりながら、最後の質問を私たちに投げ掛ける。


「最後に、アーサーさんですが……誰かに恨まれているといったことはありませんでしたでしょうか?」


 アダムス家の母娘と召し使いたち、モラン氏までもが一斉にうつむいて沈黙する。……これは誰かに恨まれているという心当たりがあるということなのだろうか。


「アーサーは恨まれやすい性格だったと思います。私も散々、『財産目当てで親父に近づくな』なんていじめられましたし。父親に似て激情家ですし、女遊びは激しいし、泣かせた女は数知れず、泣かせた男も数知れずだと思いますわ」


 全員が話しにくそうな空気を醸し出している中、アンジェリカが私たちの後ろから堂々と口を出した。自分の意見をはっきりと主張する女性である。


「あら!?あなたが夫に近づくのは財産目当て以外に何があるの?」


 ここまで黙っていたアダムス夫人が急に口を開いたかと思うと、アンジェリカに噛みついた。


「あら!?あなたに言われたくないわ!あなただって私と同じようなものでしょ!?」


 噛みつかれたアンジェリカのほうも黙ってはいない。


「お母さま!アンジェリカ!みなさんの前で辞めて!!!」


 クレアは叫んだ後、こらえきれなくなったのだろう。ソファの肘掛けに突っ伏してワッと泣き出した。


「…あぁ、クレア」

「クレア、クレア、大丈夫かい?」


 アダムス夫人とモラン氏がクレアに呼び掛ける。心配なのかサラも顔色を変えて椅子から立ち上がり、よたよたとした足取りでソファの方へ歩いていく。その側をクレイグがついて歩いた。アンジェリカは気まずそうに唇を噛み、その場で少し俯いたまま動かない。


「……お兄さまは!お兄さまは、確かに短気で感情的になりやすいし、他人に厳しいところがあったから、人様の反感は買ってたのかもしれません」


 少し落ち着いたのか、したたり落ちる涙を拭いながら、クレアが頭を上げる。


「でも、お兄さまは私が慈善活動をする手助けもしてくれましたし、本当は気のいい純真な人でしたわ!」


 そこまで言い切るとクレアは再びしゃくりあげて泣いた。アダムス夫人が差し出したハンカチを受け取り、彼女は真っ赤に泣き腫らした瞳を抑える。


「なるほど……分かりました。……今日はいったんここまでにしましょう」


 兄が殺され、父は激昂し、母は父の愛人と口論、そして、その状況に妹が取り乱して号泣している……そんな重苦しい混乱した雰囲気に飲まれ、その場にいた全員がデュムーリエ警部の意見に賛同した。

 クレアのすすり泣きが徐々に小さくなって落ち着きを取り戻し始めたのを待って、誰からともなしにバラバラと席を立ち、三々五々に自室へと戻ろうとしていた。


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