君の世界は颯爽で
「お、来たね。待ってたよ」
手元の分厚い本をぱたんと閉じ、徐に男が立ち上がった。何でもない、至って普通の動作の筈。しかし、俺の体は思うように動かない、否。動いてはくれなかった。
胸の奥底で、本能が紅く輝く警鐘をこれでもかと鳴らしている。ふと横に目をやると、エナとティアの二人共が頰に汗を流し、佇む男を視界に入れたまま固まっているた。恐らく、俺と同じ心情に陥っているのだろう。
扉を開けた先に、巨大なモンスターが待ち構えているならば、それは理解出来る。元より、そういった敵に遭遇する事を前提としてここに飛び込んだのだ。
しかし、突如俺たちの前に姿を現したのは、一見無害で温厚そうな印象を受ける男だった。片眼鏡を右目に掛け、緩やかに笑うその口端から白い歯が見え隠れする。
その一挙一動に、俺たちは否応無く戦慄させられた。
「ずっと見てたんだ。君たちの事。此処は幾分退屈でね。遊び相手も妙な虫しか居ない。全く、息が詰まるよ。まあ、かけたらどうかな」
男が片手を向かい側の椅子に翳す。すると、その椅子はさも誰かが引いたかの様に独りでに動いた。
恐らく、魔法の類い。
「…………断る。お前は一体……何者なんだ? 」
萎縮する喉に鞭打ち、掠れかけた声で男にそう言った。目をぱちくりと開き、男が俺たちを見据える。その眼鏡の奥に見える深緑の瞳は、まるで濁った水溜りのようで。
俺の問いにその不気味な眼球をぱちくりと瞬かせ、陽気な口調で男が言葉を紡ぐ。
「そうか。自己紹介がまだだったね。私の名前はエダナート。是非、エドと呼んでくれたら嬉しい」
「違う」
流暢に語る男を遮り、この部屋に入った瞬間から気になっていた疑問を投げかけた。
「お前は……人間……か?」
「違うよ? それより、早く飲んでくれないと紅茶が冷めてしまう。これはね、私のお気に入りの紅茶なんだ。そんな勿体ない事はしたくない」
何も変わらない、心底喜びを含めた顔で男が俺の問いを否定した。
やはり、人間では無い……。そもそも、ダンジョンのど真ん中、中層部で優雅にティータイムを過ごせる普通の人間などいるものか。
「フェオさん…………どうしましょう……」
今にも泣き出しそうな表情で、ティアが服の袖を引っ張る。この状況、打破するにはどうすれば良いのだろう。
————逃げるか?
ちらりと背後を盗み見る、が、先程まで確かに存在していた扉が忽然と消えていた。俺たちがこの部屋に入るため、そして、唯一無二の出口であるあの扉が。
予想はしていた。敵は優雅にお茶を誘う男。出入口を消されていたってそうおかしくはない。しかし、そうなれば手段は一つ。
————戦う
「フェオ……。何を考えているか知らないけど、多分
、戦うって選択肢は消した方が良いと思う。あいつ、少し見ただけで分かった。僕らとは総魔力量が桁違いだ……」
かっと目を見開き、視界の真ん中にあの男を捉えたまま、エナがそう唸った。
————詰まるところ、八方塞がり。
「ほら、一生突っ立っているつもりかい? 早く座ったらどうかな」
全てのコップに茶色い液体を注ぎ終わった男が、近くの椅子に鎮座した。銀のスプーンで中身を円を書くように混ぜ、きんきんと小気味良い音が響く。
……刺激しない方が吉、か。
下手に反抗して、三人諸共襲われてはたまったものでは無い。最悪でも、俺だけでも逃げ出せればそれでいい。
渋々、男に従われるまま、ふかふかの椅子に腰掛けた。そんな俺の様子を眺め、男がにんまりと口角を上げる。
「さあ、聞かせてくれないか? 君たちの事を————」
♦︎
「へえ……。
「……ああ……俺の目的は違うけどな……」
手元のカップを持ち上げ、中の紅茶を一口啜る。爽やかな香りが口一杯に広がり、鼻から抜けて、後を引く香ばしい味を残して喉を駆け下りていった。
最初は毒でも入っていないか、と勘繰ったものだが、始めにティアに飲ませて確認した結果、そのようなものは入っていないのが確認できた。
まだ完全に信用しきった訳では無い。しかし、相手が襲ってくる様子も無い。此処は様子を見て、この場から退却するのが最善の手だろう。
「ふむ……。けど、おかしな話だね。君たちのレベルはアンバランス過ぎる。君、そう、黒の髪と白い髪の君たち。彼女達のと比べて、君のレベルは些か低過ぎる」
……しかし、このエドと言う男、中々に痛いところを突く。薄々感じてはいた事だ。けれど、違う。俺が低すぎるんじゃない。こいつらが高すぎるんだ。
「……そうだな」
「だが、常人ならざる危機察知能力、とでも言うべき代物。天性のそれを君は持ってる。いや、
危機察知能力、ね……。人より優れているとは言え、所詮一つの才能でしかない。膨大なレベル差を埋める事など出来ない、ちんけな能力だ。
「……なあ。あんた。あんたはこのダンジョン内で何をしてるんだ?」
「…………そうだね。一言で言うと、何もしてない。ただ怠惰に一日一日を過ごしているだけさ。たまに外に出て運動したら、また帰って寝るか書物を漁るかのどちらかなんだ。飽き飽きしたよ。本当に。これも何回読み返した事か……」
そう言って、エドが手元の分厚い本をぱんぱんと叩いた。単なる見間違いかもしれないが、叩く度に表紙が微かに発光しているような気がする。
その時、ティアが微かに悲鳴を上げた。空になったカップがくるくると宙を舞い、床の上で粉々に飛散する。と、同時に光の粒になって消えた。
驚いた。これも魔法の一つなのか。
「ちょっと、フェオさん、フェオさん」
ティアが俺の耳元で囁く。
「なんだよ。ハンカチなら持ってないぞ」
「違いますよ! あ、あれ、多分、
ティアが発した一つの単語により、目の前の本に視線が釘付けになる。あの少し、古ぼけた、小汚い風貌の本が
「なあ、エド。その本は……?」
「ん? これ? 多分、今君たちが求めているものだよ。そう、
屈託の無い笑顔でエドがそう話す。引っ張り込んだだとか、何回も読んだとか、少し聞き捨てならない単語が飛来している。だが、結局の所どうだっていい。目的地が目の前にあるのだ。それを持ってこんな場所を抜け出せば、それで終わり。
「そうか……。なあ、所で、エド。一つ頼みがあるんだが、その本。譲ってくれないか?」
「この本を?」
「ええ。お願いします。その本は危険極まりない物。それには数多の魔法、魔術、そして
「うーん……まあ、良いよ」
苦々しい顔でエドが首を縦に振った。良かった。これでやっとこの悪夢のような場所から出れる。そもそも着いてきてしまったのが間違いだった。常に命を狙われている感覚。二度と味わいたく無い。
「————ッ! フェオ! 下がって! 何かがおかしい!!」
一言も喋らず、押し黙ったままだったエナが、此処で初めて吠えるように口を開いた。瞬間、ぞわりとした寒気が背筋を伝い、椅子をひっくり返して跳躍する。
「はあ……。全く、残念だよ。君たちとは、良い茶飲み仲間になれそうだったのに」
エドの風貌が見る見る内に変わっていく。体の各部位が盛り上がり、黒い毛皮が皮膚を覆い隠すように侵食を始めた。
「私はね。ただただ引きこもっていたんじゃ無い。一つだけ、たった一つだけ役割があったんだ。そう、『番人』。このダンジョンに眠る
エドが変化すると共に、部屋の内装が光の粒となって消えて行く。やがて、エドの体表を毛皮が覆い尽くすと、ただの伽藍堂な空間へと変貌を遂げた。
「さあ、もう一度自己紹介をしようか。愚かな迷える侵入者さん達。私の名前はエダナート。『突然死』のエダナートだ。気楽にエドと呼んでくれたら嬉しい。
さて、冒険譚が欲しいなら死ぬ気で奪ってみるといい」
エドは見上げる程の体長はと変わる。その姿はまるで巨大な二足歩行の狼のようだ。目やにのこびりついた空虚な瞳から、刺すような殺意を感じる。
突如、巨体が視界から掻き消えた。直後、首元に氷の様な物体が当たる感覚がする。崩れる様に屈むと、俺の直ぐ上を鋭い爪が凪いだ。今度は屈んだ背中に冷たさを感じ、転がりながら飛び退くと、地鳴りが聞こえ、俺の体を突風が襲った。
「「フェオ!」さん!」
二人の呼ぶ声が微かに響く。
「くははっ!! 偉いぞ! よく避けた! やはり面白い! 君みたいなレベルの低い雑魚が良くも此処まで……! 最早、驚嘆に値するよ。おっと、君たちはまた突っ立っているだけかな? 彼はあんなに頑張っているんだぞ?」
「くっ————!
巨狼の煽り文句に誘われ、エナがあの虫を仕留めた魔法を掌から弾き飛ばした。淡い光が線となって収束し、醜悪に顔を歪めるエドに向かって伸びる。届く寸前まで余裕の笑みを浮かべていた狼が、再び、視界から消えた。
「なっ————!! どっ、何処に!!」
直後、エナの背後から陽炎の如く現れ、その拳をエナの背中へ叩きつけた。弾かれた様に彼女の小さな体躯が吹き飛び、勢い良く石壁に衝突する。そして、指先一つ動かなくなった。
「あーあ……。おじさん、加減したんだけどな。まあ、トドメって事で————」
エドが軽く笑いながら、倒れているエナへと歩み寄ろうとした刹那、壁一面から太い鎖が現れ、彼の体を雁字搦めに縛り付けた。地面に接したエナの手のひらが淡く発光している。
「ティ……ア…………」
「分かってます!!!」
間髪入れず、ティアが地面に両手を付けた。眩い閃光が文字となって蛇の様にエドの周りを取り巻いたかと思うと、熱風と衝撃波が部屋全体を揺らした。小石が天井からぱらぱらと舞い降り、地面の所々に焦げ跡が見える。
「やった、のか……?」
「それ、こういう場面で言っちゃいけないよ」
背後からそう下卑た声が聞こえ、背中が寒くなる。回避しようとした寸前、鋭い痛みが背中一面に広がった。
「フェオさん!!」
ティアが俺に駆け寄ってくる。その様子を、獲物を見るかの如く眺めるエド。
「はあ……。当たっちゃったか……。まあ、良いや」
切なげに溜息を吐き、エドがまた視界から消える。
気付いた時にはティアが抱えられ、力一杯石壁に投げ付けられていた。
「キャアッ!!」
壁に背を預け、頭を垂らし、動かなくなるティア。
味方は全員やられ、俺は満身創痍。目の前には下劣な魔物がにやついている。
これ以上絶望的な状況があるか。
「後は君だけだけど……。立てる? 」
貼り付けた様な笑みを浮かべ、魔物が俺を覗き込む。
立ってやるさ。立てなくなると分かっていても。
「
倒れ込む形で魔物に拳を突き出し、俺の中で燻る矮小な魔力を有らん限り出し尽くす。が、まるで意味は無かった様だ。直ぐに発光は途切れ————
「ガフッ!!」
痛烈な足蹴りを鳩尾へ叩き込まれ、息も出来ないまま空中へ投げ出された。もんどりうってうつ伏せに倒れる。
地面についた右耳から、ゆっくりと奴の足音が聞こえる。確実に俺を終わらせようと、忍び寄る訳でも無く、堂々と、淡々と、歩み寄ってくる。
嫌だ。嫌だ。こんな所で死にたくなんて無い。
俺は————————
産まれた絶望に苛まれ始めた時、指先に微かな硬い物が触れた。手繰り寄せると、小汚い表紙が目に飛び込んで来る。
これは……
そう、冒険譚。先程、ティアや番人であるはずのエドでさえ銘打った書物。エドが作り出した幻影の部屋。その中のものはひとつ残らず消え去った。しかし、これは形あるもの。エドが作り出したものでは無いのだ。
最早無いに等しい希望に縋り、表紙に手のひらを当てて切に、強く願う。
どうか、あいつを……。俺に、殺させてください、と。
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