第19話  四月二十日(日) その二 タマゴ 


 諦めない人。


 自分の信念を貫く人。


 そういう強い人を見るたびに、私の心は重くなる。ああ……。どうして自分はこんなに臆病なのだろう……。どうして自分はこんなに情けないのだろう……。自分の弱さを思うたびに、胸がきりきりと締めつけられる。


 だから私は、壬波間心凪みはまここなの部屋を出たとたん、大きな息を吐き出した――。


 彼女は一つ年下の新入生だが、家柄、資産、性格ともに、申し分のない淑女しゅくじょだ。だから仙女せんじょ会は当初、一年生代表である『一代いちだい』への就任を彼女に打診した。しかし彼女は一瞬の迷いもなく辞退した。


『この身は未熟で、重責じゅうせきになえる能力を持ち合わせておりません』――と丁重に断っていたが、詰まるところ、彼女は仙女会に関わり合いを持ちたくなかったのだろう。それは先ほどの態度を見れば一目瞭然いちもくりょうぜんだ。


 逢見麻代おうみまよ甘崎由姫あまさきゆめの家は、日本の政治と経済に絶大な影響力を持っている。その二人に対し、壬波間心凪は真正面から反対意見をぶつけたのだ。それも、自分には何の関係もない男子生徒をかばうために。彼の退学はもはやくつがえせせないというのに、それでもなお、『悪いことは悪い』とはっきり言い切ったのだ。


 ああ――。

 なんという立派な態度なのだろう……。


 しかし――。

 それが本当は逆だということも、私はとっくに気づいている。


 そう。本当はあれが普通なのだ。気に入らないという、ただそれだけの理由で誰かを排除する方が間違っているのだ。つまり壬波間心凪が立派なのではなく、そういう『普通の態度』が立派に見えるほど、私たちが醜いだけなのだ……。



「……おい。しっかりしろ、藤瀧美千留ふじたきみちる眉間みけんにしわが寄っているぞ」


 すぐ近くから凛とした声が飛んできた。


 横を見ると、朱塗しゅぬりのさやに収めた長剣を持つ、セーラー服の女剣士がマンションの外廊下に立っている。幼なじみのさざなみ明日香あすかだ。明日香はいつもの淡々とした表情で、私をまっすぐ見つめている。


「……大丈夫よ。頭はしっかりしてるから」


「そうか? その割には、心ここにあらずという感じがするぞ。壬波間心凪にケンカを売られたのなら、遠慮なく言ってくれ。私が軽く切り捨ててやろう」


「バカなこと言わないで」


 思わず呆れ果てた息が漏れた。


 ここで冗談でも『お願いします』なんて言ったら、この日本刀バカは本当に刃傷沙汰にんじょうざたを起こしかねない気がする。どうせやるなら甘崎由姫をやってちょうだい。


「それより明日香。悪かったわね。こんなところで待たせてしまって」


「別にかまわない。私は美千留の護衛だからな」


「護衛というより、ほとんどストーカーでしょ」


「うむ。侍の基本スキルだからな」


 そんな侍はイヤすぎる。


 たしかに時代劇なんかでは、お殿様が『曲者じゃ! であえ! であえ!』と声を張り上げた瞬間に大勢の侍が飛び出してくるけど、あれが全部ストーカーだとしたら怖すぎる。


「それで明日香。逢見先輩と甘崎さんは先に出たはずだけど、どこに行ったの?」


「あの口の臭い二人なら、とっくに下だ」


 明日香はエレベーターの前で足を止めて、三階下の地上に目を向けた。見ると、二人はおかっぱ頭の女子生徒と立ち話をしている。あれはたしか、一年H組の青伊志あおいしかすみだ。どうやら彼女も、このマンションの住人だったらしい。


 というか、『口が臭い』というのはさすがに言い過ぎでしょ。もっと言ってやってちょうだい。


「そういえば、あの背の低い一年生も、例の十三人の一人だったな」


 立ち話をしている三人を見ながら、明日香がポツリと言った。


 例の十三人というのは、『寿々木深夜すずきしんや』の退学を強く希望する一年H組の生徒たちのことだ。彼女たちは寿々木深夜の退学が認められないのであれば、他のクラスに異動したいと強硬に主張した面倒くさい駄々っ子たちだ。


 そして、彼女たちの意見わがままを甘崎由姫がまとめて、仙女会の要望として学園側にねじ込んだ。その結果、彼の退学が決定したという流れだった。


 その過程において、私も青伊志霞とは少しだけ話をしたことがある。その時に分かったことだが、彼女は相当な男ギライだった。そして非常に残念ながら、仙葉学園女子高等部には、彼女みたいな男ギライが数多く在籍している。そういう差別的で排他的な醜い下地があるせいで、寿々木深夜の退学は決まってしまったのだ。


 しかし――。


 仙女会の一代が甘崎由姫ではなく壬波間心凪だったとしたら、ほぼ間違いなくこんな事態にはならなかったと思う。つまり、上に立つ人間がクズだと、組織は腐るということだ。そして非常に残念ながら、性根の腐った人間は声が大きくて出しゃばりだから、組織のトップになることが多い。さらに言うと、そんなクズに逆らえない私もまたクズなのだ……。


「どうした、美千留。エレベーターに乗らないのか?」


「……うん。もうちょっと待って」


 私はドアが開いたエレベーターに乗らず、逢見先輩と甘崎由姫が立ち去るのを待った。今日はもう、あの口の臭い二人と顔を合わせる気にはとてもなれない。


 今はただ、このまま何事もなく家に帰り、すべてを忘れて小説を読み漁りたい。それがただの現実逃避に過ぎないことはじゅうぶんに分かっている。だけど、目を逸らしたくて仕方がないのだ。


 だって、こんな息苦しい現実なんかより、小説の方がきれいなのだから――。



 それから数分で、逢見先輩と甘崎由姫はそれぞれのリムジン大型乗用車に乗って去っていった。同時に青伊志霞も駅の方へと向かっていく。その背中を見送ってから、私と明日香は近くのバス停でバスに乗り、家路についた。


 お互い、送迎の車くらい親に用意してもらえるのだが、使うことは滅多にない。高校生の行動範囲なんてたかが知れているし、自宅と学園の往復程度ならバスでじゅうぶんだ。わざわざ車を使うまでもない。


「しかし美千留。身の安全を考えると、送迎の車にはそれなりの価値があるだろう」


「そうかしら? こっちには日本刀をぶら下げたボディーガードがいるんだから、誘拐犯だって近寄ってこないと思うけど」


「まあ、相手が人間ならそうかもな」


「なにそれ? どういう意味? まさかこんな街中に、熊が出るとでも言いたいの?」


「いやいや。熊や虎ごときなら、我が愛刀『赤口しゃっこう』の敵ではない」


 いやいやいやいや。野生の熊や虎に人間が勝てるわけないでしょ。


 ――と反射的に思ったが、明日香なら勝てそうな気がするので黙っておいた。この日本刀バカは、たまにとんでもないチカラを発揮することがあるからだ。


 あれはたしか小等部三年生の時だったと思う。この幼なじみは、直径が何メートルもある御神木を日本刀でスッパリ切り倒したことがある。まあ、いま思い返すとあの時は小さい子どもだったから、直径何メートルというのは私の記憶違いだと思うけど。……というか、そうであってほしい。


「ところで美千留。最近、何か変わったことはないか?」


「別に。どっかの侍ストーカーが、家の中まで押しかけてくることぐらいかしら」


「ほほう。それは初耳だ。どれ。私がその不届き者を切り刻んでやろう」


「あら。切腹の乱れ切りなんて、きっと史上初めてね」


「なるほど。ブシブシと腹を切るわけか。まさに武士のかがみだな」


 ああ……どうしよう……。

 明日香がアホになっちゃった……。


 この幼なじみは頑固な堅物で、冗談を口にすることは滅多にない。それなのに、ここ最近はどうも様子がおかしい。なんというか、何かをごまかすかのように口数が多くなった気がする。それになぜか毎日うちに泊まり込んで、四六時中、私のそばを離れようとしないのだ。


 まあ、寝る時に枕を並べる程度ならどうということはないのだが、トイレやお風呂の前にまで立たれるのはさすがにイヤすぎる。だから一度だけ、そうとハッキリ言ったことがある。するとこの日本刀バカは、こう言った。



「分かった。では、一緒に入ろうか」



 うん。訂正するわ。

 最近の明日香は頭がおかしい。



 だけど――。


 よくよく思い返してみると、明日香は昔からこんな感じだったような気もする。私の中の明日香のイメージは、真面目で、堅物で、冗談なんか言わない人間なのだが、本当にそうなのかちょっと自信がなくなってきた。


 もしかすると私は、『明日香はこういう人間だ』と勝手に思い込んでいたのかもしれない。無意識のうちに、明日香という人間から目を逸らしていたのかもしれない。



 諦めない人。


 自分の信念を貫く人。


 そういう強い人を見るたびに、私の心は重くなる。だから昔の私は、死に物狂いで剣の修行に打ち込む明日香を見るのが辛かった。なぜなら、私にはそういう情熱がないからだ。私は今までの人生で、何かに一生懸命に取り組んだことが一度もないからだ。


 だから、今の私が持っているモノは、すべて生まれつきのモノしかない。家柄に、親の資産に、親の地位――。それだけしか持っていない。そして、そういった生まれつきのモノをすべて取り除くと、私という『器』には何も残らない。自分の努力で勝ち取ったモノなんて、何一つとしてないのだ。


 だから、ひたむきに生きている明日香を見ると、自分の価値のなさにイヤでも気づかされてしまう。だから私は、明日香の生き様から目を逸らしていたような気がする。


 そしておそらく――。

 今の私が弱いのは、きっとそのせいなのだ。


 自分でやりたいことを見つけて、必死に取り組んでこなかった。だから壬波間心凪のように、自分の意見を堂々と口にすることができないのだ。



「……ねえ、明日香。人間の価値って、年齢は関係ないのよね……」


「うむ。大事なのは日本刀だ」


 私はドヤ顔の明日香から目を背けた。


 やはり私には、明日香日本刀バカの生き様を理解するなんてできそうにない。なので、今までどおり、このまま目を逸らして生きていこう。


 ――そう思ったとたん、乗客がほとんどいないバスの中で、明日香が急に真剣な声で訊いてきた。


「それより美千留。少々相談があるのだが」


「あら。明日香が相談なんて珍しいわね」


 私は本気でちょっぴり驚いた。どんな困難でも自分のチカラで切り拓いてきた明日香が悩み事を口にするなんて、数年ぶりの大珍事ちんじだ。


「実は最近、かなり手強い敵と対戦して負けてしまったのだ。それで、どうすれば奴らに勝てるのか、一緒に考えてくれないか」


「へぇ。明日香でも勝てない人って、やっぱりいるんだ」


「うむ。しかし、奴らは普通の人間ではない。アレはおそらく、天使と悪魔だ」


「じゃあ、諦めたら?」



 諦めない人。


 自分の信念を貫く人。


 そういう強い人を私は心から尊敬している。

 しかし、何事にも限度はある。


 天使と悪魔に勝つ方法?

 そんなもの、この世にあるわけないじゃない。




***




 人生なんてどうでもいい。


 努力するとか、頑張るとか。

 一生懸命とか、諦めないとか。


 そんなことしたって意味はない。


 どうせニンゲンは死んでしまう。

 けっこうあっさり死んでしまう。


 だから『ジブン』の心には、誰の言葉も響かない。

 だから、このクラスメイトの言葉だって、心の底からどうでもいい――。



「――おい、円堂。円堂朔奈えんどうさくな。聞いているのか?」


 ジブンは思わずため息をいた。


 カウンター席の隣に座るおかっぱ頭の女子が、ジブンを軽くにらんでいるからだ。見た目はけっこうかわいいのに、話すとけっこうめんどくさいヤツだった。たぶん、こういうのを地雷オンナというのだろう。地雷の処理は得意だけど、生きている地雷の処理は習ったことがないから対処に困る。


「……聞いている。つまり、あの男子生徒の退学に賛成しろってことでしょ」


「そうだ。おまえだってあいつのことを快く思っていないはずだ。そもそも、女子高に男子生徒がいること自体――」


 おかっぱ女子が再び熱く語り出したので、ジブンは軽く聞き流すことにした。そもそもジブンは駅前の喫茶店でコーヒーを飲みながら、外をボーッと眺めていただけだ。するとふと、一人の歩行者と目が合った。それがこのおかっぱ女子だった。


 こいつの名前は青伊志あおいしかすみ――。同じ学校のクラスメイトで、座席はジブンの二つ前。しかし、今日まで話したことは一度もない。それなのに、青伊志は店の中に入ってきてジブンの隣に腰を下ろし、一方的にしゃべり始めた。まったく。本当にめんどくさいヤツだ。


 おかげで聞きたくもない話が、近くの女子高生たちのおしゃべりと一緒に耳の中に入ってくる。どうやら同じクラスの『スズキ』って男子を退学にしたいから、ジブンにも賛同してほしい――という内容らしい。だからジブンはこう思った。


 うん。

 こいつはアホだ。


 あのスズキって男子もバカっぽかったが、この青伊志も負けず劣らずバカっぽい。なぜならジブンの経験上、気に入らないヤツを排除したところで大した意味はないからだ。


 だって、気に入らないヤツなんか世界にはゴロゴロいるし、次から次に湧いてくる。いくら排除したところでムダな努力だ。めんどくさいし、意味がない。


 そもそも世界っていうのは、アンタのためにあるんじゃない。誰かのことを排除したいと思うのであれば、それはアンタの頭がオカシイのだ。アンタの考え方が根本的に間違っている。アンタの常識が世界の常識からズレている。アンタの性格がどうしようもなく歪んでいるだけのことだ。


 まったく。なんでそんな簡単なことにも気づけないのか理解できない。バカなのか? アンタはバカか? 大バカか? ――と、声を大にして言ってやりたい。


 だけどまあ――。


 ジブンにはそんなことを言う権利がないし、義務もない。わざわざ教えてやろうとも思わない。だから口に出して言うことはない。


 だって、人生なんてどうでもいいから。どうせニンゲンは死んでしまう。けっこうあっさり死んでしまう。だからジブンには、誰の言葉も届かない。



「――というわけだが、どうなんだ。円堂朔奈。おまえは私の意見に賛成するのか?」


「しない」


 ジブンは即座に言い切った。


「なぜだ。おまえだってあいつのことを馬鹿にしていたじゃないか」


「それとこれとは話が違うでしょ。ジブンはどっちの味方もしない。その男子を排除したければ勝手にどうぞ。だいたい、今の話を聞く限り、その男子の退学はもう決定したんでしょ? だったら、ジブンの賛成なんて必要ないでしょ」


「そうか……。おまえは『事なかれ主義』なんだな」


「まあ、そうかもね」


「分かった。考え方は自由だからな。私の邪魔をしないのであればそれでいい。いきなり話しかけて悪かったな」


 青伊志はそれだけ言うと立ち上がり、さっさと店の外に出ていった。めんどくさいヤツだと思ったけど、どうやら引き際はわきまえているらしい。どんな作戦行動でもそうだが、潮目しおめを読めるニンゲンは強い。青伊志の見た目は小さくてかわいらしいが、案外それなりの苦労をしてきたのかもしれない。



「……今のはクラスメイトですか?」



「まあ、そんなもん」


 青伊志が去った直後、黒いスーツのオンナが音もなく近寄ってきた。長い黒髪をグルグルに巻いてアップに固めた大人のオンナ――ジブンの担当官だ。周囲に気配を溶け込ませる技術は、さすがに年季が入っている。


「いきなり話しかけられて困ってた」


「それはよかった。友人なんか作られると困ります」


 担当官の久須見くすみ時子ときこは淡々と言って、ジブンの隣に腰を下ろす。このオンナはいつもこんな調子だ。冷たい口調がブレたことは一度もない。だけど飲み物はキャラメル・ラテ。けっこう甘いものが好きらしい。


「回覧板を送りました。あとで確認しておいてください」


「はいはい」


 回覧板――ね。世界で一番人目につかない文書を『回覧板』と呼ぶなんて、なかなか面白い冗談だ。


 半径一メートル以内に接近した場合にのみ、ジブンと担当官の携帯端末は無線接続リンクする。同時に強固なセキュリティーで保護された『回覧板』の送受信が開始される。


 万が一、第三者に傍受インターセプトされた場合は、特殊防壁が即座に発動。ガードと同時に回覧板の中身を完全に破壊するという念の入れようだ。


 そこまでして第三者に読ませない回覧板なんて、ほんと笑える。どうせ大した中身じゃないくせに。


「それで、天気は?」


「大雨ですね」


 ジブンの質問プロトコルに、担当官は淡々と答えていく。ほんと、愛想のないオンナで気が楽だ。


「いつ頃から?」


「明日から週末までですね」


「傘は必要?」


「こちらで用意しておきます」


「お給料、上げてくれない?」


「つけ上がるな」


 担当官はそれっきり黙り込んだ。そしてキャラメル・ラテをゆっくり飲み干し、無言のまま去っていく。いつもどおり、必要最小限のやり取りプロトコルのみ。ムダな会話は一切なし。まさに担当官のかがみだ。


 久須見時子という名前も、どうせ偽名だろう。『クズを見てきた』――という感じの名前がピッタリすぎる。年齢はまだ三十手前だったと思うけど、ジブンもあの年まで生き残ることができたら、あんな感じになるのかもしれない。


 そう思うと、さすがにちょっぴりため息が出る。


 だけどまあ、人生なんてどうでもいから、どうでもいいか。


 そんなことより、今日は近くのスーパーで、タマゴワンパック百円の特売をやっている。いつ終わるかしれない人生なんかより、今は食料調達の方が圧倒的に重要だ。そういうわけで、まだお昼を過ぎたばかりだけど、早めに買いに行っておこう。万が一にも売り切れたら、ほんと、シャレにならないから――。



「って、売り切れ……」



 どうしよう……。ほんとにシャレにならなかった……。


 すぐに喫茶店を出てスーパーに直行したのに、特売のタマゴだけが見事に売り切れていた。時計を見ると、時刻は午後の一時すぎ――。


 え? うそでしょ?

 なにこれ? どういうこと?


 なんでこんな時間に売り切れるの? お一人さまワンパックなのに、千パックのタマゴが午後一番に売り切れってどういうこと? みんなそんなにタマゴが好きなの? タマゴのために努力するの? 頑張るの? 一生懸命なの? 諦めないの? 


 え、ほんと、ちょっと待って。どうしよう。


 一週間タマゴなしって厳しくない? でもワンパック二百円のタマゴを買うのはすごいヤダ。同じタマゴなのにお値段二倍って、そんな贅沢ゼッタイできない。でも、ほんと、どうしよう。五キロ先のスーパーでも特売やってるけど、あそこは500パックだからたぶん売り切れてるし、そうすると、あとは基地の方まで行かないと――。



「――ほらよ」



「えっ?」


 いきなり誰かの声が聞こえたとたん、肘に引っかけていたカゴにタマゴがワンパック入れられた。慌てて顔を上げてみると、長い黒髪の女の子が立っている――と思ったら、女の子じゃない。なんとビックリ。例の男子生徒、寿々木深夜だ。


「へ? スズキ? なんでこんなところにいるの?」


「スーパーなんだから、買い物に決まってるだろ。それよりおまえ、タマゴ売り切れてたんだろ? うちは四人で四パック取ってたから、一つやるよ」


「はい……? 四人?」


 一瞬意味がわからなかった。しかし一秒後に理解した。スズキの後ろに三人の女子が立っていて、にこやかに微笑んでいる。一人はかなり小さい女の子で、あとの二人はおそらく中学生だ。この三人がスズキの連れだと思うけど、まさかそれ、ぜんぶ妹……?


「じゃ、オレたちはまだ買い物があるから」


「え? あ、うん。タマゴ、ありがと……」


 ジャージのくせにやたらかわいらしいスズキは、すぐにショッピングカートを押して去っていく。なんというか、本当に変なヤツだ。クラスでは一度もしゃべったことがないのにタマゴをくれた。こんなことをしてくれるニンゲンなんて初めてだ。


 なんだかよくわからないけど、ちょっぴり心臓がむずがゆい。世の中にはヒトのことを悪く言うニンゲンしかいないと思っていたけど、どうやら違ったらしい。そしてたぶん、ああいうヤツが、長生きできないニンゲンなんだと思う――。



 買い物を終えたジブンはスーパーを出て、今月から一人暮らししている駅前のタワーマンションに帰ってきた。家賃は担当官が払ってくれているけど、ジブンには贅沢すぎて、まだかなりの違和感がある。しかし、セキュリティーが確保された部屋なんてそうそう用意できないから、ここで慣れるしかない。


 早速キッチンに入り、安売りの八枚切り食パンを冷凍庫に放り込む。続いてタマゴとカット野菜とヨーグルトを冷蔵庫にしまい込む。これで一週間分の朝ごはんは確保できた。あとは明日の特売で、お昼用の菓子パンを一週間分まとめて買えばミッションコンプリート。夕飯は、担当官が送ってくれた戦闘糧食レーションとビタミン剤がたっぷりあるから問題ない。


 そう。

 人生なんてどうでもいい。

 だから食事もこれでじゅうぶん。


 あとは、仕事の確認だ――。


 面倒だけど、生きていくためには仕事が必要だ。だからジブンはダイニングの椅子に座り、携帯端末で回覧板をチェックする。担当官とのやり取りプロトコルどおりの内容がズラズラと表示されていく。


 天気は大雨。


 ――つまり、血の雨。皆殺し。


 時期は明日から週末まで。


 ――つまり、実行は今週中。急ぎの仕事。


 傘は用意してくれる。


 ――つまり、バックアップの人員と武器弾薬がついてくる。大掛かりなミッションだ。


 だけど、お給料のアップはない。


 ――ま、別にいいけどね。



 そう。

 人生なんてどうでもいい。


 どうせニンゲンはそのうち死ぬ。

 けっこうあっさり殺される。


 別に死にたいとは思ってないけど、殺されるのは怖くない。

 ひと思いに死んでしまえば、もうこんな仕事をしないで済む。


 努力するとか、頑張るとか。

 一生懸命とか、諦めないとか。


 そんな人生は苦しいだけだ。


 だからジブンの心には、誰の言葉も響かない――。



 ――って、あれ?



 なぜか急に、スズキの顔が頭に浮かんだ。


 なんだろ……?


 ジブンってそんなに、タマゴが好きだったかな?



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