第3話 四月九日(水) 蓮
オレは落ちているゴミが大キライだ。
誰だってそうだろう。空きカンとか空きビンが地面に転がっているのを見るとため息が出る。ゴミが落ちているということよりも、ゴミをゴミ箱に捨てないヤツがいることに腹が立つ。
だからオレの目はジャストナウ、三角形に吊り上がっている。
「あっ! やだぁ~、ジュースのパック踏んじゃったぁ~」
「きったなぁ~。中身噴き出してるじゃん」
「ふにゃぁ~。早く上履き拭かないと、シミになっちゃうんじゃない?」
三人組の女子生徒が自動販売機の前で何やらキャーキャー騒いでいたから、思わず目を向けてしまったのが失敗だった。どうやらその中の一人が、ゴミ箱の近くに落ちていたジュースのパックを踏み潰したらしい。そのせいで自販機の前には茶色い液体が派手に飛び散り、床を汚しまくっている。しかも踏んだヤツは潰れたパックを足で蹴って壁際に飛ばし、三人でキャーキャー言いながらどこかに行きやがった。
ここがオレの超大作の世界なら、あのウンコ女子どもなんて速攻でダンジョンの死体にしてやるのに。
そう思いながら、オレは再び廊下を歩き出す。ゴミが落ちていようが床が汚れていようが、オレには何の関係もない。それに今は昼休みで、菜々美と美空の飲み物を抱えている。両腕に空きはない。時間にも余裕はない。だからオレは三歩で足を止めて、息を吐いた。
ったく。
ほんと、腹が立つ。
オレは自販機の前にしゃがみ込み、飲み物を床に置いてポケットティッシュを取り出した。そして床の茶色い液体を拭き取り、壁際の潰れたパックを拾ってゴミ箱に放り込んだ。
「……感心」
えっ?
いきなり誰かに頭をなでられて、マジでびびった。
横を見ると、オレよりちょっと背の低い女子が突っ立っている。上履きのラインが赤だから二年生だ。セミロングの黒髪で、表情がちょっと
「ゴミを拾って、床を拭いた。あなた、いい子」
「はあ、どうも……」
「だから、これ、あげる」
はい?
上級生は、いきなりピンク色の塊を差し出してきた。ほとんど押しつけるように渡されたので見てみると、それは折り紙で作ったきれいな花だった。
「これは……スイレン?」
「ううん。それは、
「え? スイレンとハスって違うの?」
「
へぇ、そうだったんだ。
言われてみると、たしかに折り紙の花は少し丸みのあるかわいらしい形をしている。
「
「はあ……。なんだかよく分かんないけど、ありがとうございます」
「それじゃあ、頑張ってね」
表情の
「――あれぇ? どしたの、スズキくん。そのお花」
教室に戻ったら、のんき女子が折り紙に食いついてきた。こいつはどうやらピンクっぽいモノに飛びつく性質があるらしい。たぶん、むっつりスケベなのだろう。
「なんか、ゴミを拾って捨てたら、
「
「さあ? よく知らんが、表情が淡々としたセンパイだった」
「あ、じゃあ、やっぱりそうかも。副会長って、そんな感じの人だったもん」
ふーん。ってことは、昨日は生徒会長で、今日は副会長とバッタリ遭遇か。それじゃあ明日は会計かな?
「なあ、シンヤ。その花、どうするんだ?」
え? 不意に美空が菓子パンをかじりながら訊いてきた。
「どうするって、そりゃあ持って帰るに決まってるだろ」
「だったらさ」
美空はニヤリと笑ってカバンに手を突っ込み、セロテープを取り出した。そして少し千切って輪っかにして、花の底面に貼り付ける。さらにそのまま、オレの頭にペタリとのせた。
「きゃあ~、スズキくん、かっわいぃ~」
「折り紙の花をカバンに入れたら潰れるからな。これで安心して持って帰れるだろ」
「おまえら……。オレで遊んでるだろ」
「いいじゃん。シンヤはどこからどう見ても美少女だからな。これぐらいオシャレしてもバチは当たんないだろ」
「バチは当たらなくても、センセイに怒られたらどうする。まだ午後の授業が残ってるだろ」
「大丈夫、大丈夫。こんなんで怒るニンゲンなんていないだろ」
あっけらかんと笑う美空を、オレはじっとりとにらんだ。
しかし意外にも、美空の予想どおり、午後の授業は無事に終わってしまった。しかもセンセイたちにはカワイイカワイイとめちゃくちゃほめられた。なんだろ。ちょっと複雑。でも、ちょっと嬉しい。
だけど、その気分はすぐに破れた。
帰りのホームルームが終わって校門を出る直前、いきなり甲高い音が耳を
周囲を見渡すと、バス停に並ぶ生徒たちがザワザワとどよめいている。歩道には何十人もの生徒たちが足を止めて突っ立っている。誰もが片道二車線の大通りに目を向けて、半分近くは口元に手を当てている。
理由は明白だった。
道路の真ん中に猫が倒れていた。校門の脇にいた、あの白い猫だ。周囲には黒いシミが飛び散っている。
歩道には、猫に話しかけていた三人組の女子も立ち止まっている。しかし、誰一人としてその場から動こうとしない。猫を助けにいこうとしない。だけどまあ、そりゃそうだ。十六歳や十七歳の子どもに何ができる。しかも道路に倒れている猫はぴくりとも動かない。どう見ても手遅れだ。
だからオレは、家に向かって歩き出した。
そして三歩で足を止めて、頭の上のハスに手を伸ばす。見えないけど、丸みを帯びた花びらが指先でわずかに揺れた。
だからオレは、カバンを捨てて道路を横切った。
すぐさま甲高いブレーキ音とクラクションが空に響く。背中には女子たちの悲鳴が次から次に突き刺さる。しかし、そんなもん知ったことじゃない。オレは車の流れをせき止め、猫を迎えにまっすぐ歩く。そのまま灰色のアスファルトに膝をつき、両手で抱き上げ、抱きしめた。小さい猫は、信じられないほど重かった。
オレは歩道まで戻り、あぐらをかいて座り込んだ。膝の上の白猫はもう動かない。それでも猫はかわいかった。もう女子たちは誰も近寄ってこないけど、本当にかわいい。オレは小さな頭を何度もなでた。そして、小さなまぶたを眠らせた。
それからスマホを取り出し、保健所に連絡した。そして迎えに来た大人たちに猫を託し、頭を下げた。オレの腕を離れた猫は、白い車に乗って淡々と走り去る。見送っていると、目から何かがけっこう垂れた。
オレは――。
落ちているゴミが大キライだ。
誰だってそうだろう。
でもさ。
猫は、ゴミじゃないんだよ。
***
たたた・たーん、たたた・たーん――。
エンジ色の腕章をつけた女子生徒が、陽気な声で鼻歌を歌いながら校舎の階段を駆けのぼっていく。口ずさむ曲はメンデルスゾーンの結婚行進曲。その両手には、青いラインの入った上履きをつまんでいる。
たたた・たん、たたた・たん、
たたた・たん、たたた・たったったったっ――。
長い黒髪をゆったりと結って肩の前に垂らした女子は、曲に合わせて階段を軽快に駆け上がる。そして曲が一番盛り上がるタイミングで屋上のドアを大きく開け放った。
たぁーん! たぁーん!
た・たん・たん・たん・たん!
たぁーん・た・たん・たん・たたん!
たん・たん・たん・たん・たん・たん!
女子生徒はまるでバレリーナのようにつま先で飛び跳ねながら、屋上の真ん中へと進んでいく。するとそこには不思議なモノが置いてあった。ひし形に組まれた薪の山だ。高さは膝丈なのでそれほどでもないが、美しい白木を寸分の狂いもなく組み合わせた薪は、まるで芸術作品のように見える。
「――
薪の前で足を止めた女子が美しい声を大気に放つ。すると、
「……はい」
表情の
「蛙、蛇、
「はい。
舞歌は膝をついたままトレーを差し出す。
蓬子は満足そうに一つうなずいてから上履きを床に置き、細長い針を蛙の標本に突き刺した。そしてごくわずかな細胞片を和紙にゆっくりこすりつける。続けて蛇、
「よろしい。それでは、舞歌。火を
「……はい」
舞歌は重々しく手を動かし、そっと薪に点火する。
その間に蓬子は慣れた手つきで和紙を折っていく。蛙の細胞片をこすりつけた和紙はカエルの形に、蛇はヘビ、
「それではこれより、
蓬子は上履きをつまみ上げ、火の点いた薪の上にそっとのせる。青いラインの入った上履きには『寿々木深夜』と書かれている。炎に舐められた上履きは、端から黒く焦げていき、すぐに黒い煙を上げて燃え始める。それから蓬子はトレーにのせたカエルの折り紙に手を伸ばし、白い指先で優雅につまむ。
するとその時、舞歌が蓬子の手をそっと押さえた。
「……舞歌。なんですか、この手は」
「
「却下します。わたくしを
「……いえ。ですが、お
「話になりません」
蓬子は舞歌の手を優しく包み、脇にどかす。
その時不意に、甲高い音が空に響いた。
「なんの音ですか?」
蓬子は眉を寄せながら屋上のフェンスに近づき、遠くを眺める。すると校門の外、交通量の多い道路を一人の生徒がゆっくりと横切っている。頭にピンクの花飾りをつけた、長い黒髪の生徒だ。
「……あれは、寿々木深夜です」
蓬子の斜め後ろに立った舞歌が淡々と口を開く。
「どうやら、ひき殺された猫を抱きかかえている様子です」
「……見れば分かります」
蓬子は美しい顔をわずかに歪めた。それから、保健所の職員に猫の死体を手渡し、泣きながら家路につく深夜の背中を無言で見送る。すると不意に、舞歌が薄桃色の
「これは……
「……はい」
「
「……よいでしょう」
蓬子は和紙を一枚取り出し、筆を走らせ『
「
「……
「まったく……。あなたは甘すぎるのです」
蓬子は言って、一つため息。
それから和紙で折ったツルを空に飛ばす。
「ですがまあ、よくぞ進言してくれました」
蓬子は舞歌の頭を優しくなでて、そのまま校舎の中に戻っていく。
夕焼けの風に乗ってふわりと宙を漂う折り鶴は、ゆらゆら揺れて、たき火に飛び込む。そして金色に輝く光の粒となり、天に昇ってかき消えた。
それから舞歌は立ち上がり、見えなくなった深夜の背中に目を向ける。そして静かに、心をこぼす。
「……頑張ってね」
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