17.流刑地

「ブロカーデの村が出来たのも、今から三十年程前だ」

 さとすようなヴァールの声に、フライハイトは混乱したまま首を振るだけだった。

「一体、何なんだ? 俺には、何が何だか……」

 自分が子どもの頃のような口調で、昔のままにヴァールに問いかけている声をフライハイトは遠くに聞いた。

 ミーネの言葉がふいに蘇る。

 ―――君たちは何も知らない。

「教えてくれ、ヴァール」

 フライハイトの真っ直ぐな眼差しの中に、かすかなおびえがあるのを見て、ヴァールは小さなためいきをついた。

「ブロカーデは、刑務所だ。流刑地と言ってもいい」

「流刑……地?」

 フライハイトはそれが生まれて初めて聞いた言葉であるかのように、その意味がまるで飲み込めなかった。

「そうだ。ブロカーデにあるあの壁な、あれは村をマクラーンの魔物から守っているんじゃない。村は半島にあってあの壁は村の周囲を囲んでいる。マクラーンのある方向だけじゃなく、反対側にもあの壁はある。一部、さっきのように壁のない場所もあるが、しかし断崖になっていて、たやすく人の行き来はできない。つまり、あの壁はブロカーデを周囲から隔絶するためのものだ」

 子どものようにぽかんと口を開き、フライハイトはヴァールの声で語られる信じがたい話をただ唖然としたまま聞いていた。

「村から外へ出られる場所はただ一か所、魔物の食事が運ばれてくる出入口だが、あそこは都から派遣された門番が出入りをチェックしているのさ」

「そんな……、そんな馬鹿な。一体、何故? 何でそんなことに?」

 フライハイトの中に、困惑より恐慌に近いような混乱が起きる。ヴァールが手を伸ばし、フライハイトの腕をなだめるようにつかんだ。

「罪人とされたのは、俺たちの前か、或いはそのもう一つ前の世代の人々だ。三十年前にこの国に内乱が起こった。先王が突然病死した後に、王位を争って第一王子ファステンと第二王子デュランの二つの派に割れた。争いの末、弟のデュランが王位を継承したというわけだ」

 話している間にもヴァールは魔物の腕にとりつけられた鉄の輪を外していく。その様子を、フライハイトはぼんやり見つめていた。

「王子は一人しかいなかったはずだ」

 フライハイトは小さな声で言った。自分でもひどく自信なさげな声に聞こえたが、シェーレで習ったのは、前王の世継ぎの王子は正妃から生まれたデュランただ一人であったというものだ。

「いや、本当は二人だ。デュランは本来、二番目の王子だった。側室から生まれた第一王子ファステンは争いに敗れた後、妃の不義によって生まれた男とされてしまった。実際はどうだか知らないがな。だから正式な歴史として語られているものは、現王デュランが唯一の王子ということになっている。まあその方が国民に納得されやすくはあるからな」

 フライハイトは霞がかかったようなぼんやりした感覚の中でヴァールを見た。夢の中にいるという感覚が増す。そうでなければ、一体何を信じればいいのかわからない。

 反応の無くなったフライハイトの様子に気がかりな視線を向けているヴァールは、しかし彼が話を飲み込めようと込めまいと、一気に話してしまうつもりらしかった。

「王になった弟デュランは、第一王子ファステンと彼を擁護した人間の多くを処刑した。罪の軽いもの、重要な役割を持っていなかった者、ただ単に第一王子の身の回りの世話をしていただとか、馬番だとか、そういった政治に遠く、新しい体制の脅威にはなり得ない者たちは、都を追放され、ブロカーデへ、あの海に囲まれた小さな半島の先っぽへ連れてこられ、閉じ込められた。

 ブロカーデは、今の王の治世でいえば、反逆者が流されてできた村だ。その場所でなら平和に暮らすことは許されたが、半島から出ることは許されなかった」

 ヴァールが静かに言葉を止める。フライハイトは衝撃から立ち直れないまま、マクラーンの魔物を見つめた。泉の水に洗われ、きらきらと月の光を反射する水滴に彩られた顔は、夜の闇の中でもその美しさがわかる。酷たらしい傷が頬を穿うがっていてさえ。

 エテレイン。

 それが魔物の本当の名前だった。「魔物」という通称しかなかったものに名があることを知るのは、少なからぬ抵抗を覚えた。その名をつけた者がいて、その名で生きてきた者がいる。そこに人の営みと、生活と、人生と、感情が、記憶があるのだ。そのような者に為されたことが、そしてそれに荷担していたことが、恐ろしかった。

 ヴァールの語っていることは本当なのだろうか。自分は今夢を見ているのではないのだろうか。目覚めれば妻と子がいる日常に戻れるのではないだろうか。

 けれど、それは叶わぬことだった。

 それまで生きてきた日常が不自然なものだったことを、今になってフライハイトは感じていた。五百年続いているはずの村の歴史も、この国のことも、全て大人たちから教えられたもので、実感は何一つなかった。都や王の話はどこからともなく流れてきても、村以外に他の世界があることに現実感がなかった。

 村の外から入ってきた人間は誰もいない、出ていった人間はヴァール一人、それが異様なことなのだと、今まで考えようとしなかったのは、村を出入りすることが普通ではないという認識が村を支配していたからだ。フライハイトの世界はブロカーデという村の中にしかなかった。そして、それがどれほど奇妙なことか、心のどこかで知っていながら、考えようとしなかった。マクラーンの魔物が何であるかを、考えようとしなかったように。

 そして、魔物は名前を与えられ、目の前に人として存在している。

「何故、俺は……、いや、俺だけじゃない、他の、同じ年代の者はそれを知らない? 何故、親たち大人は誰もそのことを話さなかった?」

 ヴァールは少し考え込むように、泉の中程を見つめた。

「親たちより上の世代は、自分たちがこの先も許されることはないとわかっていた。もしもお前がその立場なら、子どもにそのことを言ったか?」

 答えに迷ったことで、フライハイトは理解した。たとえ、どのような理由があり、時代の状況があったとしても、この国にとって自分たちが流刑地に閉じこめられた罪人であることに違いはない。それを子どもたちも背負わされるのだ。村の中であれば平和に暮らすことができるなら、知らないままでいて欲しいと願う親の気持ちはわかった。

 流刑地に運ばれたほとんどは、権力争いとはあまりかかわり合いがなく、ただ単に巻き込まれた形の者たちで、裏を返せばはっきりした思想も強い信念も持ってはいない普通の人間たちだった。

 もしかすると、国の中心で起きたことを知らず、特別な思想や感情を持たずに生きてきたことで、次の世代は罪を引き継がずに済むかもしれない、或いはさらにその先の世代は許しを得ることができるかもしれない、そうした可能性も考えたのだろう。子どもたちには話さないと、村全体で決めたなら、それに逆らう者はいなかっただろう。

 父もそう考えたのだろうか。

 フライハイトが話を理解し、心の中を整理しようと試みている間に、ヴァールはエテレインの肌にまとわりついているぼろ布を肌から剥いでいった。月明かりの下、白い光の中で、フライハイトは魔物ではなく、魔術師だというエテレインの胸が平らなのを見て取り、驚く。思わず触れて、そこには痛々しい骨の感触があったが、痩せたために失われた訳ではなく、元々の造形が示す性別が現れていた。

「男?」

 戸惑うような声でフライハイトは言った。考えてみれば誰も魔物の性別など知らなかった。ただ、子どもの頃、皆が「魔女」「魔女」と呼んでいたせいで、漠然と女だと思い、一度だけ見たその思いもよらぬ美しい顔から、すっかりそう思い込んでいた。

「魔女と、呼んでいたからな」

 ヴァールがフライハイトの驚きを察して言った。

「子どもにとっては、魔物というより魔女と言った方が、何かもっと身近というか、理解しやすい恐ろしさがあるからな。そう呼ぶことが倣いになっていたんだろう」

 確かに、子どもの頃は「マクラーンの魔物」ではなく「マクラーンの魔女」と呼んでいた。が大人になるにつれ、それは「魔物」に変わっていった。その理由は周囲の大人の社会がそう呼んでいたせいだった。

「奴らは男だと知っていたからな」

 ヴァールが皮肉っぽい笑みを浮かべて言う。奴ら、つまり村の大人たち、彼らはマクラーンの魔物の性別を知っていた。何故なら、彼らは魔物が何者なのか知っていたからだ。

 そう、知っていた。知っていながら、彼らはエテレインを魔物に仕立て上げ、残忍な仕打ちを加えていたのだ。

「マクラーンの魔物というのは、一体、何なのだ?」

 フライハイトがそう訊いた時、エテレインのうなだれた頭がかすかに揺れた。二人はどきりとして互いに顔を見合わせた。ゆらりとその頭が持ち上がる。瞼が震え、ゆっくりと瞳が開かれた。

 しかしそれは半分程で止まり、それ以上は動かなかった。ヴァールがそっとその細い顎をとり、持ち上げた。血の気のない白い顔が月の光に照らされる。確かに、男と承知した上で見ると、その顔は女性的というより中性的、或いは性別を感じさせない形を備えていた。

 半眼に開いた瞳を二人は交互に覗き込んだが、夜の闇の中では黒く見える瞳は焦点をどこにも結んではいなかった。無理矢理長く開かされていたせいか、顎は完全に閉じることがなく、ぽかんと開いたままの口が、さらに魔術師を痴呆染みて見せる。瞳が開くと、その虚ろさが、本来なら整っている造形の美しさ故に、なおさら狂人めいた相貌にしていた。

「壊れてるな」

 ヴァールが感情のこもらない声で言った。

「無理もないか」

 フライハイトが心の中で思ったことをヴァールは口にした。その声にほんの少しだけ哀れんでいる響きがあった。

「何故、この人はこんな仕打ちを?」

 途切れていた問いはフライハイトの心の奥底から湧き出た。何故、これ程の仕打ちを受けなければならなかったのか。村の人々の手によって。

「マクラーンに幽閉され、むごたらしい罰を受けていたこの男は、第一王子派の魔術師だったんだ」

「では、この人もブロカーデの人間と同じ立場ではないか」

 フライハイトの驚きは、瞬時に憤りに変わった。村人、つまりは都を追われた罪人たちは、同じ罪を負った魔術師の刑罰に手を貸していたことになる。

「村の人間たちはそれほど深く内乱に係わっていた訳じゃない。どちらかと言えば、選択権もないまま巻き込まれてしまったんだ。なのに追放された。だから、自分たちを巻き込んだ反逆者である魔術師を憎んだのかもしれないし、王の命令に恭順の姿勢を見せることが必要だったのかもしれない。そもそもあの村は、エテレインを罰するために作られたのだろうからな。村人たちはエテレインに仕置をするためにだけ、存在することを許されたんだ」

 そう言って、ヴァールは小さなためいきを漏らした。そのはき出された息にどのような感情が混じっていたのかフライハイトにはわからなかったが、彼も胸の奥底にわだかまっているものをはき出すように深いためいきを漏らし、やはり自分の心にある感情が自分でもよくわからなかった。

 罪人であり刑吏である村の人々は、そうしなければ生きることを許されなかったのだろう。その仕事はエテレインがいる間は続けなければならない。次の世代にも引き継ぐためには、マクラーンの魔物という物語が必要だったのだ。

「第一王子派の重臣はほとんどが死刑になった。が、魔術師は死を免れた。しかしそれは彼をより苦しめるために、死ぬよりも酷い苦痛を与えるために生かされたんだ」

「王子はどうなったんだ?」

 ヴァールはその問いに、しばし考え込むように黙り込み、視線を魔術師に向けたまま言った。

「追放され、遠い国に亡命したことになっているが、実際には宮殿の地下迷宮に幽閉され、狂ったとも、死んだとも言われている。真偽の程は定かじゃない」

 フライハイトもまた魔術師を見つめていた。エテレインの左の胸、丁度心臓の辺りに奇妙な模様があるのに気づいた。陰になり、よくわからないが、何かの紋章のようだった。焼きごての跡だった。マクラーンへ幽閉される前にも惨い仕打ちを受けたのだろうか。体のあちこちに、長く縛られていたせいでついた細長い痣があり、その部分の皮膚は腐り、んでいた。背中は椅子が当たっていた部分が黒く変色し、壊疽えそを起こしているようだった。それらの傷や、頬のむごたらしい穴には、小さな虫が巣くっていた。普通の人間なら、一週間もすれば腐り落ちてなくなってしまっただろう。しかし、三十年、体中につけられたおびただしい傷は致命的な状態にまで進行せず、命はかろうじて保たれてきたのだ。

「三十年……」

 フライハイトはぶるっと身震いした。

「何故、他の者たちのように死なせてやらなかったのだろう。こうまで彼を苦しめる理由は何だったんだ?」

「魔術師は特別な存在なんだ。王の全ての面の補佐をする国の中枢でもある宰相のようなものだ。むしろ王によっては、魔術師の方が権力を持つことさえあるんだ。丁度、今のようにな」

 そう言われても、フライハイトには今の王制がどのようなものかわからなかったが、どうやら今の政治の実権は現王に仕える魔術師が握っているらしい。

「それ故、争いが起きた時の軋轢あつれきは相当なものがあったのだろう。王子対王子であるのと同格に、魔術師対魔術師の争いでもあった。現王、第二王子だったデュランには、ハイマと呼ばれる先王の魔術師が付いた。先王から仕えてきた魔術師が選んだのなら、それだけでデュランには王の資格があると見ていい。しかし、エテレインは第一王子を選んだ」

 ヴァールがエテレインの左胸の焼き印の跡を見つけてそれを調べるように顔を近づけた。

「デュランの紋章だな」

 焼けて潰れた乳首の辺りに触れながらヴァールがつぶやく。

「この人への仕打ちは、王デュランが?」

 フライハイトは魔術師の肉体に残る憎悪の痕跡をぞっとしながら見つめ、訊いた。これほどの憎悪とは、一体どのようなものなのか。

「エテレインは若くして不世出の魔術師と騒がれる程の才があったと聞く。その彼が自分になびかなかったことへのデュランの意趣返しもあったんだろうが、エテレインをこうまでおとしめたのはハイマだろうな」

「ハイマ?」

 フライハイトがその名を繰り返した時、支えていた魔術師の体がわずかに動いたのを感じた。

 驚いてフライハイトはエテレインの顔を見た。閉じかけていた魔術師の瞼がゆっくりと見開かれた。その瞳に月の白い色が反射する。何も見てはいない暗い瞳の奥に、小さな青い炎のようなものが瞬いているのを、フライハイトは見た。

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