9.魔物(1)

 翌朝、夜が明けぬうちに侵入者のうちの一人を家に残し、ミーネらと魔物の「食事」を保管してある場所へと向かった。

 我が家を振り返った時、フライハイトは胸騒ぎを覚えた。自分の家、愛しい家族のいる家、暖かく彼を迎える家、それが今は静まりかえり、生きている者の気配を感じさせない。その静けさが恐ろしかった。向こうにあるクラウスの家が、薄明の空を背景にして黒々とした巨大な墓のように見えることが、いっそう恐ろしかった。

 早暁の村は奇妙に静まり返っていた。

 普段ならまだ暗いうちから村の人々は活動を始める。所々、灯のもれている家もあったが、明けの頃にある活気が感じられなかった。人けのない道を使っているとはいえ、フライハイトは違和感を覚えた。視線だけを巡らせて辺りを伺ったが、動くものは何もなく、音さえない。唯一、サムソンの家の前に犬が寝そべっているのを見ただけだった。不審を感じて吠えてくれはしないかと期待したが、いつも眠りこけている老犬は微動だにしなかった。

 何かがおかしい。悪寒がフライハイトの肌をざわめかした。それは先刻感じた胸騒ぎと混じり合って膨張していく。まるで誰も住んでいない見知らぬ村にいるような気がした。

 彼らは葬送の行列のように森の中へ入った。朝霧に包まれた森の中のしっとりと湿った重い空気はかすかに黴の匂いがした。やがて彼らは「食事」の保管場所に着いた。屋根や周囲の木々の枝に止まっているカラスが人の気配を察して、ざわめき始める。フライハイトは彼らの騒がしい声と動きを見ると、それだけは変わらないことに少し安堵を覚えた程だった。

 以前は、家よりもさらに奥に保管場所はあった。しかしヴァールが村を出ていくと、村人はそれが当然であるかのように即座にその家を保管場所にした。

 家の前に男が一人、彼らを待っていた。ミーネを見ると仲間であるらしく、男は無表情にうなずいた。

「いいかな。説明したことは覚えているだろうね」

 ミーネが物わかりの悪い子どもに言い聞かせるような口調で確認した。彼の部下たちが馬小屋から馬を引いてきて馬車に繋いでいるのを見つめながら、フライハイトは頷いた。

「あんたたちをマクラーンへ連れていく。あんたちは魔物に会う。それからあんたたちを連れて村へ帰る。俺は薬の材料を受け取り、家へ帰る」

「そうだ。そうして私たちは村を出る。簡単なことだ」

 ミーネがうっすらと笑みを浮かべた。それは心を現した表情ではなく、この男の普段の顔のようで、柔らかさよりも冷たさを感じさせる微笑だった。その笑みを見つめながら、フライハイトは不審を募らせた。それが、言うように簡単であるなら、何故これほど回りくどいことをするのか。何故、村長に許可を得ようとしないのか。拒絶を恐れたのだとすれば、何故村長を脅して門の鍵を手に入れるのではなく、家族を人質に「当番」を脅して、通常の手順を取らせようとするのか。ただマクラーンの魔物を見るだけなら。

 無論、彼らは魔物にただ会うために来たのではないのだ。彼らは魔物をどうするつもりなのか。

 まだ出発の時間までは間があったが、ミーネを除いた三人の侵入者たちは荷馬車の幌の中に入った。静まり返っている荷台の気配をフライハイトは薄気味悪く感じた。姿を現した最初から、彼らの動きはミーネという持ち主に操られている人形のようで、そこに人としての個は感じられなかった。

 彼らを指揮する男はトゥーゲント親子のかつての家の中に入った。フライハイトは戸口に立って、男が家の中を観察しているのを眺めていた。

 ミーネは既に前日、主のいない荒廃し崩れかけた家屋を調べていたが、再度ここへ入ってもやはり最初のように奇妙な感慨を覚えた。家の中にはがらくたのような粗末な家財道具の残骸と、年月がつくった荒廃の他は何もなく、かつて人が住んでいたとも思えなかった。貧しく惨めな家だと思った。ここでヴァールは生まれて育ったのだ。真っ当な人としての扱いさえ受けずに。可哀相なヴァール。ミーネの頬が歪む。それは苦痛からではなく蔑みから生まれた微笑だった。それでも奇跡はこんな場所からも生まれるものだ。

 ミーネは振り返って、木漏れ日からさしてきた朝の光の中に佇む男を見た。フライハイトはヴァールの過去の中に現れた唯一“生きている”人間だった。その名にまつわる物語は他の多くに比べればほんのささやかで、そしてつまらないものだったが、その名を口にするとき、ヴァールはいつもかすかな躊躇ためらいを見せた。それが滅多にないヴァールの感情の発露だとわかっていたから、よほどその名前が特別なのだろうと感じた。それ故、最初にフライハイトを見た時は、不思議に思ったものだ。まるでヴァールに相応しくない、自分が知っている彼が興味を持ちそうな男ではない、そう思った。今も、ヴァールがフライハイトに抱く特別なものが何か、理解できなかった。

「ヴァールが気になるか?」

 思わせぶりなミーネの問いにフライハイトは反応しなかったが、心のうちはとりとめなくヴァールのことを考えていた。家族の命を脅かすこの男とヴァールとはどのような関係なのか。この悪夢とヴァールはどこかで繋がっているのだろうか。しかし、今は疑問よりも、この男の口からヴァールの名前を聞くことが酷く不愉快だった。

 ヴァール。フライハイトは心の中で呼びかけた。ヴァールはただ一人の友人だ。今でもそう思っている。が、ヴァールのことを思う度、別れの時が蘇り、フライハイトの気持ちを揺らした。

 かつて、フライハイトはヴァールがいつかは村を出ていく予感におののいていた。必ずその日が来ることを知っていた。

 お前は行かないのか。

 それは、思いがけない言葉だった。それを聞くまで、置いていかれるのだという気持ちだけがあった。彼は自分を置いて出ていくのだと、フライハイトは思っていた。できるなら、ずっとブロカーデにいて欲しかったが、この村で生きることのできないヴァールにそれを望むのは、子どもじみたわがままな感情なのだと思っていた。が、かすかな哀しみの混じった声でつぶやかれたその言葉を聞いた時、逆に自分が彼を裏切ったのだと悟った。少なくとも、ヴァールはそう感じているのだと。何故なら、ブロカーデを離れる気はなかったからだ。彼と共に行く気はなかったからだ。

 自分はヴァールの友とは言えないのだろうか。ヴァールは自分を友とはもう思っていないだろうか。ブロカーデの記憶と共に、自分も忌まわしいものでしかないのだろうか。それでもヴァールは自分にとって友に違いはない。

「あいつと君は子どもの頃にマクラーンの魔物を見たそうだな」

 ミーネの何気ない言葉にフライハイトは不意を突かれたような気がした。それはゆっくりと衝撃に変わっていった。

 二人の少年がマクラーンへの興味半分の冒険へ出掛けた事実はすぐに村人の知ることとなったが、そこであったことは誰にも話したことはなかった。何故なら、その時の出来事は二人だけの秘密だと思っていたからだ。口で約束した訳ではない、けれどそれは必要ではなかった。マクラーンでの出来事は二人の中で重要なものとなり、それを共有することで彼らを見えない絆で強く結びつけた。それは二人だけのものだったのだ。

 それをヴァールが誰かに自ら話したことにフライハイトは驚いたのだ。

「彼はそのことを詳しく教えてくれたよ」

 フライハイトのショックを感じ取ったのだろう、ミーネはからかうように言った。

「あんたは、一体何者なのだ?」

 自分が思っている以上に目の前の男とヴァールとの間には強い結びつきがあることを悟り、フライハイトは思わず訊いていた。

「ヴァールは私の良き友だ。私はそう思っている。もっとも向こうはどう思っているか、わからないがね。さあ、そろそろ時間のようだ」

 ミーネが家から出て、馬車の荷台に入るのを見届ける。男の言葉が、今し方自分がヴァールに対して考えていたのと同じであることに、複雑な気持ちを覚えながら、フライハイトも馬車に乗った。

 森にたまっていた朝霧が生き物のように揺蕩たゆたいながら森の陰へと吸い込まれていく。フライハイトは馭者台でかすかに身震いした。一年に一度だけの仕事は、今までの人生の中で一度もなかった仕事になろうとしている。浮かんでくるフェルトや幼い息子の顔を、今は心の隅へ押しやる。

 手綱を操り、馬を動かすことに専念する。森のさらに奥へと進んでいくと、何百年もの間、こちらと向こうとを隔てる壁が現れた。実際の大きさ以上に圧倒されるその壁に沿って馬車を進める。やがて小さな人影が見えてきた。

 ブロカーデの長が彼を待っていた。

 長はこの日、この村で見た初めての村民だった。が、フライハイトはその姿を見た瞬間、安堵ではなく、酷く奇妙な感覚に捕らわれた。昨夜、長に対する自分の記憶の曖昧さに不審を抱いたことを思い出したが、すぐに長については問題なく、全てわかっているという思いが強く起きた。しかし、具体的なことは何も思い浮かばず、それ以上考えようという気もなくなった。ただ、何か忘れ物をしているような違和感だけが残った。

 長は近づいてきたフライハイトをみとめると、何も言わず鉄の門の錠前を外し、扉を開いた。その動きを見ているうちに、フライハイトの心に兆した違和感は消え、それがあったことすら覚えてはいなかった。そうした不可思議な心の動きが何度も繰り返されたことも、記憶には残らなかった。

 軋むような音を立てて扉が開く。完全に開いた後、フライハイトはしばし躊躇した。長が馭者台に座るフライハイトを見上げた。フライハイトは喉まで出かかっている言葉を飲み込みながら、長が何かを感じてくれはしないかと思った。が、逆に長が不審を抱いて発した言葉が、後ろの男たちを刺激することを恐れた。

 手綱を動かし、馬車を進めた。何かを感じたのか、長がわずかに首を傾げるのを目の端でとらえ、かすかな希望を抱きながら、壁の向こうの別世界へと入っていった。けれど、背後で扉が閉まる音を聞く頃には、長のその仕草がこの「当番」の時に必ず繰り返されているものだということを思い出し、淡い希望は朝霧のように消えた。

 長は自分に危惧を抱いているのだとフライハイトは感じていた。子どもの頃にマクラーンへ行ったために、魔物に対して他の村人たちとは違う感情を抱いているのではないかと、疑っている。いつもフライハイトはその疑惑の答えを無表情の中に拒絶した。長だけでなく、誰に対しても、妻や息子に対してさえも。その想いは、自分だけのものだった。

 しかし、今は苦い気持ちが胸に広がっていた。馬を進ませながら、ミーネの言葉を思い返す。自分とヴァールだけが体験した特別な出来事を、今は他人が知っていることに彼は理不尽な怒りを覚え、そしてそのような自分の感情に驚いてもいた。その怒りはミーネではなくヴァールに向けられていたからだ。

 魔物の「家」への道は、今までに数度しか通った事がないにもかかわらず、フライハイトには馴染み深いものだった。あの日から何度も何度も夢に見、起きていても自ら記憶の再生を繰り返したためにこの道はフライハイトの中に刻み込まれていた。

 畏怖と嫌悪と、そして強い魅惑に満ちた場所へ通じる道だった。


 マクラーンへ行ってみようと言い出したのはいつものことながら、ヴァールだった。二人が共に過ごすようになって三年がたち、フライハイトにとってヴァールはなくてはならない存在になっていた。

 大抵、その日の行動や何らかの選択に迫られた時に先に決定を下すのはヴァールだった。彼に従うことにフライハイトは抵抗感がなかった。上下関係ができていた訳ではなく、役割がそうなっていたのだ。異論があれば、フライハイトも意見は言うし、ヴァールもそれを聞いてくれた。結局は説き伏せられてしまうのだが。

 が、さすがにその提案にはぎょっとし、即座に強い拒否を示したが、ヴァールは受け入れなかった。最後には一人で行くと言いだしたのでフライハイトは渋々従ったのだ。

「別に一緒に来いなんて言ってない」

 一緒に行くと言えば言ったで、ヴァールはそんな風にひねくれた事を言ってフライハイトを困らせた。が、内心自分が付き合うことを、ヴァールが喜んでいるのを知っていたので、フライハイトは笑ってみせるだけだった。

 実のところ、フライハイト自身もマクラーンの魔物に対し、村人たちと同じように強い恐怖心と嫌悪を抱いていたが、それと同じ程の少年らしい好奇心もあった。ちょうど、まだ夢物語を信じていたい気持ちと、現実的な理解力を身につけ始めながら、その両方がせめぎ合っている年頃だったせいかもしれない。

 壁の向こうへ行くのは簡単だった。当時は村長の許可は必要ではなく、門の鍵はトゥーゲントが管理していて、ヴァールは父親が鍵をどこに置いてあるのか知っていた。邪魔をするものがあるとすれば、恐怖心くらいだった。が、そのようなものは持ち合わせていないらしいヴァールは門を開け、なんなく壁の向こうへと入った。内心でひどくおびえ、同時にわくわくもしながら、フライハイトはヴァールが相変わらず平静なのに驚いていた。ヴァールには怖いものなどないのかもしれないと考えると、心強く思いながら、同時に自分の臆病に嫌気がさした。

 二人はとりとめのない魔物に関する噂話をしながら、マクラーンを目指した。フライハイトはその時、ヴァールから、魔物が「魔女」と子どもたちに呼ばれてはいても、本当は男か女かわからないこと――現にヴァールの父親は何故か魔物を「彼」と呼ぶのだという――、魔物の邪悪な瞳には人の魂を吸い取る力があるのだということ、都には魔物の血を分けた魔術師が何人もいること、などを聞いた。そのどれもが、フライハイトには初めて耳にした話で、恐ろしくもあり、魅惑的でもある物語だった。

「酔っぱらいの言ったコトだからな、どこまで本当だか」

 ヴァールはまだ少年らしさの抜けない声で大人びた口調で言った。

「魔術師って、魔術を使うのか?」

 フライハイトが問うと、ヴァールは「魔術を使うから魔術師なんだろ」などと言い返したが、詳しく知らないのだと察してそれ以上、訊かなかった。これまでのつきあいの中で、ヴァールがこと知識に関しては、ある種のプライドを持っていて、自分に対してわからない、などとは絶対に言いたがらないことを知っていたからだ。

「魔術師は普通の人間よりも長生きなんだ」

 しかし、ヴァールはフライハイトの配慮に勘づいてか、少し怒ったように言った。フライハイトは目を丸め、素直に驚いてみせた。マクラーンの魔物は五百年もここに住んでいるという。魔物の血を引いているのなら魔術師とやらが長命だったとしても不思議ではないという気がした。

「都で一番の魔術師は前の御世から仕えていて、その頃から姿形が全く変わっていないんだとさ」

「魔術師って王様に仕えているのか?」

「そうさ。王族に仕えるやつだけが、魔術師と認められるんだ。その中でも王の直属の魔術師は一人だけなんだ」

 ヴァールの話が現実のものとは思えなかったが、世界には自分の知らないことの方が遙に多いのだということを、少年はもう知っていた。特にこの友を持ってからは。それに魔術師の話はフライハイトの心を強く捉えた。

 それがどのようなものなのか、どういう力を持っているのか、想像もつかない。何より、魔術師という未知の存在が、魔物の血を引いているということに、フライハイトは驚いていた。魔物は人間ではない。人間が魔物の血を引くことなど、あり得ない。それでは魔術師とは、人ではない存在なのだろうか、そうだとしても魔物は悪い生き物のはずなのに、王族に仕えているというのは変ではないか。

 そのことをヴァールに問うと、

「魔物が悪い生き物とは限らないじゃないか」

 と冷たく返された。それはフライハイトにとって足元を引っ繰り返されるような言葉だった。魔物は悪い生き物、だから魔物と呼ばれるのだ、それは夏が暑く、冬が寒いのと同じぐらい当然のことで、そうではないと考えてみる必要すらないことなのだ。

 フライハイトの驚きと困惑をよそに、怪我のためにおった障害があるにしては速い足取りでヴァールはどんどん先を行く。自分よりまだ頭一つほど背の高い少年にほとんど小走りするようについていきながら、フライハイトはその痩せっぽちの背に問いかけた。

「でも、マクラーンの魔女は?」

 ヴァールがふいに足を止めて息を上げているフライハイトを振り返った。ヴァールのあまり表情のない顔に薄い笑みが浮かんでいるのを見て、魔女は罪を犯して閉じこめられているのではないのか、という言葉を飲み込む。そんな顔をしているヴァールはその英明な頭脳の奥深い場所でフライハイトには理解できないことを考えているのだ。

「これからそれを確かめにいくのさ」

 そう言って、ヴァールはにたっと笑った。フライハイトは何か得体のしれない感覚が体に湧き上がるのを感じた。

 それから二人は黙々とゆるやかな坂を登っていった。無口なフライハイトだけでなく、ヴァールまで黙り込んでいるのは次第に増してくる臭気のせいと、空気の密度まで変わっていくように感じる気配のせいだった。それは自分たちの心が産みだすものというより、現に存在しているもののような気がした。

 前方を塞ぐ丘の稜線が次第に下がっていき、空の割合が多くなっていく。頂上が近づくにつれ、空気がざわざわしているように感じられた。それはマクラーンの丘の上を飛び回る無数のカラスの鳴き声と羽音がつくり出したものだ。

 それらの気配が強くなっていくにつれ、フライハイトの体の中に恐怖がひたひたと満ちてきて、好奇心を上回り始めた。前方を揺るぎない足取りで進む友人の背が次第に離れていく。フライハイトの足は次第にぎこちなくなり、ふいに歩き方がわからなくなるような気がして、彼はそのせいで前に進めないと思った。

 気づくとヴァールが立ち止まって振り返っていた。フライハイトは足がおかしいのだと言おうとしたが、ただ単にそれを理由にしたいだけなのだということに気づいて、黙った。ヴァールは夜明け前の暗青色の瞳でフライハイトを見つめ、何も言わず視線を前方に戻すとさっさと進み始めた。その態度に同行を求める気配がないのは、フライハイトの気持ちを思ってなのだろうが、フライハイトは置いていかれるような気がして、慌てて後を追った。何も考えないようにして、ただヴァールの背中だけを見つめて。

 やがて、丘の頂上に小さく黒い陰のような建物が見えてきた。フライハイトはその頭上にだけ真っ黒な雲がわだかまって渦を巻いているのを見てぞっとした。それは周囲を飛び回るカラスよりもずっと恐ろしいもののような気がした。

 ヴァールはほんの一瞬、足を止めてマクラーンの魔物の住むという「家」を見つめたが、すぐに迷うことなく歩き始めた。フライハイトはやや逡巡した後、結局ついていった。先に進むのは嫌だったが、一人残されるのも、そしてヴァールを一人で行かせるのも嫌だった。

 建物が次第に大きく見えてくるに従い、フライハイトはその頭上にあると思っていた叢雲が丘の向こうの山の辺りにあることに気付いた。そこだけまとまった黒い雲は夕立をもたらす雲のようだった。周囲の空とは違う奇妙に暗い色に、フライハイトの胸は不安をかき立てられ、ざわざわとさざめいた。

 いまや悪臭は耐え難くなり、息をするのも困難な程だった。なるべくその匂いを体の中に入れないよう口で細く息をしながら、二人の少年は恐る恐る足を進め、石で作られた建物に近づいていった。それまで丘の表面は緑が生い茂っていたが、頂上に近づくにつれ、剥き出しの地肌が覗き始め、さらに建物の周囲はどす黒いヘドロのようなもので覆われていた。魔物の「食事」が流れ出してきたものらしく、それは腐敗して強烈な悪臭を放ち、無数の蛆や線虫が這い回っていた。

 さすがにヴァールは歩調を緩め、そっと忍び足でその汚物の上を進んでいった。フライハイトは嘔吐感とほとんど泣きだしたい衝動と戦いながら続いた。

 門からここまでよりも長く感じられた距離をじりじりと進んで、ようやく辿り着いた建物の石壁の表面は、苔のようなもので覆われ、じっとりと湿り、薄気味悪い見慣れぬ虫がぞわぞわとはい回っていた。フライハイトは鳥肌を立てながらそれを見つめた。

 周囲を調べてみたが、その壁面には出入口らしいものも窓もなかった。壁の下部に所々穴が開けられていて、建物の中から腐敗した魔物の「食事」が流れ出していた。拳大の穴は虫の這い回る黒ずんだ内蔵や皮膚のようなものが引っ掛かり、その周囲には気持ちの悪い茸が無数に生えていて、とても顔を近づけて中を覗く気にはなれない。

 フライハイトはヴァールが諦めて帰ろうと言ってくれないかと願ったが、それが虚しい期待であることはわかっていた。けれど石の壁を見上げるヴァールの顔がいつもよりさらに白く、強張っているのを見ると、彼もおびえているのだとわかった。そのことに僅かに安堵を覚え、そして、頼もしく思えていた存在が急に頼り無く思えて不安が増した。ヴァールが出入口を探してさらに移動を始めても、すぐには動けず、出来るならその場にしゃがみ込んで小さな子どものように泣き出したい気がした。

 壁を回り込み、丘の反対側に出た。そこはなだらかな丘陵とは反対に、傾斜が厳しくごつごつした大きな岩が不安定に転がっていた。人が行き来できる場所ではなかった。しかし、そこから見える眺望は美しいものだった。村よりも高い場所にあるためか、遠くに見える連峰は初めて見るものだった。フライハイトは自分たちとその白く霞んで見える山脈の間にきらきらと光るものを見た。それはどこまでも広がり、ある場所は山脈に、別の場所では空へと続いていた。

「ヴァール。あれは何だ?」

 フライハイトはその不思議な眺望をぽかんと眺めながら、それまでの恐怖を一時忘れてしまった。ヴァールはカラスの声と羽音のせいでフライハイトの声がよく聞き取れなかったが、その指がさす方を見て理解した。彼もその初めて見る風景に一度に心を奪われていたからだ。フライハイトと同じく、ヴァールも村を出たことはない。それでも知識はあった。

「多分、“海”とかいう奴だろう」

 少し、自信無げに言った。その声をフライハイトは聞き取れなかった。騒々しいカラスの声に遮られた声をもう一度聞こうとして、フライハイトがヴァールの方へ顔を近づけた時、ふいに風が吹き抜け、同時にビョーという甲高い音がすぐ近くから聞こえた。少年たちは風の冷たさと、奇妙な音に飛び上がるほど驚くと同時に我に返り、自分たちがどこにいるのかを思い出した。

 思わず空を見上げると、山の辺りにあった黒い雲がこちら側の頭上に広がりつつあるのが見えた。その視線を下げていくと、先刻の音がどこから聞こえたのか、二人は気づいた。

 海に面した建物の壁は、丘側と同じようなものだった。が、穿うがたれた穴があった。音は、建物の中からその穴を抜けていった風が鳴ったものらしかった。窓にしては小さく、鉄格子がはめ込まれていた。そしてその穴は、中に入ることはできなくとも、見ることはできる位置にあった。

 二人は視線を合わせ、互いの顔にゆっくりと恐怖が戻ってくるのを見つめあった。ヴァールがつばを飲み込むように喉を上下させたが、そこに通るものは何もないだろうとフライハイトは思った。同じようにつばを飲み込んでみたが、彼の口の中はからからに乾いていたからだ。

 ヴァールはゆっくりと体の向きを変え、その窓に近づいていった。その肩が上下に揺れる。深呼吸をしているようだった。中を覗く前に、ヴァールは確認するようにフライハイトを振り返った。その顔はひどく引きつっていて、瞳には恐れと興奮が混じり合っていた。フライハイトは震えの止まらない唇を噛みしめてヴァールを見つめ返す。ヴァールが頷くと、フライハイトもぎこちなく頷き返した。見たくない、とは言えそうにない。それにフライハイト自身も、今では恐怖より好奇心が勝っていた。

 この小さな窓の向こうに自分を、村を支配し続けている恐怖の源があるのだ。

 それでも、そっとその中を覗き込んだヴァールが、声一つあげないまま全身をぎくりと大きく震わせ、硬直していくのを見ると、それだけでフライハイトは悲鳴を上げて走って逃げたくなった。

 しかしそうはならなかった。彼の意思に反して、或いは彼の中にある別の意思に従って、体はほとんど自動的に動き、フライハイトを窓へと連れていった。ヴァールの反対側に回り込み、彼の背丈だとようやく目だけ覗かせる位置にある窓を見上げた。興奮のために瞬きを忘れているせいで目が痛み、涙がにじんできた。

 この中にマクラーンの魔女がいる。罪を犯し、捕らえられ、数百年の間閉じ込められている魔物がいるのだ。

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