【書籍化記念SS】フラレた後のファンタジー
マルチューン/DRAGON NOVELS
騒がしく
頬に、絶え間なく風が吹き付ける。冷たくはないが温かくもない。これがただの緩い風だったなら、僕はそれに夏の終わりを感じられたのかもしれない。けれどそんな暇もなく、一段と強い風がまた一つ吹いて、思わず一瞬目を閉じてしまった。
「風が、強いな」
声に出してつぶやいてしまう。今日は道中ずっと風に悩まされてきた。向かい風ばかりで歩きにくい。ダンジョンを抜けた後もすんなりといかないのは、いかにも僕らしい話だけど。
僕らは今、魔導都市を目指して街道を歩いている。
目的地である魔導都市まで、最大の難所であるルブラス山は越えたものの、街まではまだ少し歩く必要がある。魔物への警戒はもう必要ないが油断もできない、そんな旅路を黙々と歩いている。
また強めの風が吹いて、今度は目の前で銀の髪が踊った。髪は風に暴れかけて、すぐに小さな手が押さえて、大人しくなった。小さなため息が聞こえる。どうやら目の前の少女が零したものらしかった。
「シエス、疲れた?」
尋ねてみると、僕の前を歩いていた小柄な銀髪の女の子、シェストリア――シエスが、くるりと回ってこちらを向いた。感情の読めない、いつもの無表情。けれど少しだけ眼が眠そうに見える。
「疲れてない」
この娘が頑張り屋で、その上相当に頑固だということは、これまでの旅の中で知っている。まだ僕に遠慮しているだけなのかもしれないけれど、恐らくは生まれつきだろう。シエスが自分から疲れたと言って休憩を求めたことはこれまで一度もなかった。
僕をじいと見つめるシエスから視線を外して、歩く先を見る。街道沿いの少し離れたところに小さな森が見えた。あそこなら風も凌げるだろう。日はまだ高いものの、僕らは山を一つ越えたばかりだ。彼女に無理はさせたくない。
そう思って、僕は後ろで気怠そうに歩いていたもう一人の仲間に声をかけた。
「ガエウス。今日はこの辺にしておこう。あの森で夜営しよう」
「んだァ? 別に構わねえが、やけに早えじゃねえか。嬢ちゃんが駄々でもこねたか?」
軽い調子で、煽るような声。この男はどうしてまた、喧嘩をふっかけるようなことを。僕にとって師匠であり仲間であり、何より気のおけない友である彼――ガエウスは、最近はシエスをからかうのがお気に入りらしかった。冒険者としてはこれ以上なく優秀なのに、性格はひねくれきっていて手に負えない。
シエスは案の定、すぐに振り向いてガエウスを見つめ始めた。変わらず無表情のままで、けれど纏う空気は少しばかり刺々しくなっている。
「こねてない。私はまだ大丈夫。ガエウスの方が、だるそう」
「馬鹿言え。何ならこっから魔導都市まで、走ってってもいいんだぜ? 嬢ちゃんについてこられんのか、疑問だがよぉ」
「私も、走れる――」
「僕が疲れたんだ。風も強いし、鎧も着けたままだからもう脚がくたくただよ」
会話に無理矢理割り込む。こうでもしないと、ガエウスは本当に走り出してしまう気がする。シエスはまだガエウスを見ていて、視線は徐々にじとりとしはじめていた。
「さあ。シエス、行こう」
「……ん」
隣に立って促すと、シエスはガエウスを睨むのをやめて、僕と一緒に歩き出してくれた。杖を片手に、僕の隣をとことこと歩く姿は、なんだか歳相応に見えて可愛らしい。
そんなことを考えてぼんやりとしていたからだろうか、また風が吹いて、シエスの髪が四方に暴れ始めたのを見て、僕はシエスの手が動き出すよりも早く無意識に手を伸ばして、その銀の髪に触れていた。風に負けないように、でもシエスが痛くないように、篭手を着けた掌で慎重に、緩く押さえる。
風が吹き抜けた後で落ち着いてみると、自分の行為がなんだか気まずく思えてくる。シエスは打ち解けてきてくれているとはいえ、まだ出会ったばかりの他人だ。しかも僕が僕の都合で、生きることを押し付けて、無理矢理に連れ回している。出会った時のように、彼女がまだ死にたがっているのかは、分からない。
「ごめん、つい」
シエスの髪から手を離して、謝る。シエスは少し俯いていて、表情は読めない。
「いい。……ありがとう」
声は、普段より少しだけ小さかった。でも口調は出会った頃より、随分と柔らかくなった。僕はその返事がやけに嬉しくて、シエスに続けて何か言おうとして。またひとつ、僕らの横を突風が吹き抜けて、僕の言葉は遮られた。
「んだよ走んねえのか、つまらねえ! 森まで、先行くぜ! 最後に着いたやつが料理番なっ」
駆け抜けたのは突風ではなくガエウスだったらしい。一人だけ楽しげに、勝手なことを言い残して走り去ったガエウスの背中を見ながら、シエスが今度は分かりやすく、大きめのため息をついた。
森に着いて、火をおこして、最低限の寝床を整えた後で。日はまだ沈んでいないどころか、まだ森の中に木漏れ日が差す明るさなのに、ガエウスは手頃な岩に寝転がって、早くもいびきを立て始めた。ちなみにガエウスは夜営の準備を何一つしていない。まあいつものことだ。彼は最初から料理なんてできないし、する気もない。
「もう、寝た」
シエスがガエウスを見ながらつぶやいた。どことなく呆れるような雰囲気。
「ガエウスはあれでいいんだよ。もし魔物か、シエスを狙う追手が来たら、ガエウスは飛び起きる。僕らが敵に気付くよりずっと早く、ね」
シエスはまだガエウスと出会って日が浅いけれど、僕はもう何年も一緒にいて、彼の強さを誰よりも良く知っている。ガエウスがいれば夜襲に怯える必要もない。彼以上に早く敵を察知して、瞬く間に射殺すレンジャーを、僕は知らない。心躍る危険と未知――冒険を求めてやまない、冒険狂いのガエウス。その名は王国中に轟いている。
「ロージャと同じくらい、強いの」
「僕なんかよりずっと強いさ。僕が守って、ガエウスが仕留める。ガエウスが強いから、僕もなんとかやってこれたんだ」
答えながら、無意識のうちに少しだけ嘘をついていた。
本当は、敵を仕留めるのはガエウスではなく、もう一人いた仲間の役割だったのだけれど。彼女のことは、今は思い出したくない。幼馴染の剣士。僕の生きる意味そのものだった女の子。振り返るには、まだ心の整理が何もついていない。そう思うのに、頭の中で彼女の黒髪がちらつき始めて、息苦しくなる。
「ロージャより強い、仲間……」
「さあ、シエスはここで少し休んでいて。僕は薪になりそうな枯れ木を拾ってくるから」
少し無理矢理に明るい声を出して、落ち込みかけた気分を振り払う。座っていた大きめの岩から立ち上がって、枯れ木の多く落ちているところがないか、周囲を眺め始めた時だった。
手をぐいと引かれた。力強くはないけれど、しっかりとした強さ。シエスが、僕の手を握っていた。
「私が、やる。休んでばかりは、不公平」
シエスは僕の手を取ったまま、いつもより強い瞳で僕を見上げていた。意思のこもった眼。
「そんな、別に――」
「ロージャはこのあと、料理もする。私は、できない。だから、薪拾いは私がやる」
有無を言わせぬ調子だった。早めの休みを取ったのはシエスに休んでほしかったからで、彼女が働いて疲れてしまうと元も子もないはずなのに、こちらをじいと見つめる瞳に何も返せない。シエスにも、何か譲れないものがあるらしかった。二人とも黙ってしまって、風に揺れる木々の葉音が妙にうるさく聞こえる。
小さな手を振り払うのは簡単だ。でもそうする気にはなれなかった。出会った頃は何の光も灯っていなかった眼に、今ははっきりと意思が見える。些細なことかもしれないけれど、僕の望んだ変化だ。無視できる訳がない。
「……疲れたって、言ってた。無理しては、駄目」
僕を気遣うような言葉。声の調子も、普段の平坦さが少しだけ薄らいで、揺れているように聞こえた。そのことがやけに嬉しくて。
「やっぱり、シエスは優しいね」
僕はついそんなことを零していた。出会った頃からこの娘はずっと優しかった。絶望の淵にあっても他人を気遣える、優しい女の子。
「……優しくない。分担するのは、普通」
シエスは少し視線を逸した。無表情のままだけれど、照れているのかもしれない。彼女から時々覗く感情に触れるだけで、僕はなんとなく救われた気分になってしまう。
「じゃあ、お願いしようかな。僕はここに座っているから、シエスは近くで、木を集めてきて」
「ん。休んでいて」
任せると、シエスは手を離して、自分の腕の裾を軽くまくった。村娘じみた動作が似合わなくて、なんだか可笑しい。
「片手で持てるくらいの、枯れて軽くなったやつが理想かな」
「探してみる」
シエスはすぐに歩き出して、近くの木のあたりでしゃがみこんで、足元を一心に見つめ始めた。薪集めにしては真剣すぎる気もするものの、シエスは魔導の練習中もひどく真剣だから、根がひどく真面目なんだろう。
いくつかの枯れ木を見つけて、手に取るシエスの横顔は柔らかい雰囲気を纏っていた。僅かに笑っているようにさえ見える、穏やかな横顔。見ているだけで、どうしようもなく胸の奥が温かくなる。
僕とシエスは、偶然出会った。でも僕がシエスの護衛を引き受けたきっかけは、僕が恋人からフラレた辛さを紛らわすためで、僕は間違いなく自分のためにシエスを利用している。シエスは僕の都合に振り回されながら、それでも僕の傍で、僕の願ったように、少しずつ変わり始めている。
気が付くと、シエスがこちらを見ていて、目が合った。シエスは無表情のまま腕をこちらに少しだけ突き出すと、細い腕の中で枯れ木が揺れて、からりと音を立てた。あれは僕に、見せようとしているのかな。もう結構な量を拾っているようだった。僕が笑って頷いてみせると、シエスもこくりと頷いて、彼女はまた足元に視線を落として薪探しを再開しようとした。
その時。僕の背で鋭く、弦の鳴る音がした。背筋が震えて、反射的に立ち上がる。それからすぐに、頭上で何かが折れるような、崩れるような音。
何が起きているのか、まだ良く分からない。敵の気配は感じられない。けれど身体は勝手に動いていて、僕はすぐ脇に立てかけてあった盾を手に取っていた。シエスはまだ何も気付いていない。でも音は、シエスの真上で聞こえた。何かがシエス目がけて落ちてきている。
『力』を意識して、脚に込める。血でも筋でもない何かが僕の中を巡って、脚の芯を通って満ちる。僕が生きる意味を見失って、それでも手に入れた得体の知れない力。魔導を扱えない僕の、ただ一つの超常の力。
『力』を解き放つ。思い切り踏み込むと、地が弾けて、抉れた。そのまま跳ぶ。あり得ない速さで景色が後ろへ流れていく。数歩分あったシエスとの距離が一歩で詰まる。シエスは跳んでくる僕を見て珍しく、分かりやすく目を丸くしているようだった。
シエスの傍で、足を地にめり込ませて、身体を強引に止める。頭上を仰ぎ見て、僕はようやく何が起きたのか理解した。盾を持たない方の腕を掲げて、落ちてきたもの――矢の突き立った木の枝を掴む。
「ガエウス。何のつもりだい」
僕を呆と見上げたままのシエスは一旦置いて、後ろを振り向いた。寝入っていたはずのガエウスは、変わらず寝転びながら手元の弓をくるくると回して、楽しげに笑っていた。
「あァ、手伝ってやろうと思っただけだ」
その笑う顔は、いい歳をした大人とは思えないほどあけすけに、にやけていた。
「手頃な枝だろ。わざわざ落としてやったんだ。感謝しろよ、嬢ちゃん」
がははと笑う声。確かに、軽めの枝で大きさも丁度良い。でも生きた木は燃やしにくいことくらい、ガエウスなら知ってるだろうに。まあ、シエスをからかうのが本当の目的に決まっているだろうけど。文句くらいは言っておこう。
「シエスが怪我したらどうするのさ」
「んなヤワなガキじゃねえだろ。お前はいつも、過保護すぎンだよ」
過保護なものか。彼女は今、僕らの護衛対象で、彼女には自衛の力がない。いくら魔導の才に溢れているといっても、ついこの間まで深窓のご令嬢だったシエスが旅に慣れている訳がない。護衛の僕らがこの旅路で気を抜いていいはずがないんだ。そう言おうとして。
「……」
「んだァ?」
シエスがずいと僕の前に出て、ガエウスと向き合っていた。その表情は僕からは見えないけれど、なんとなく、じとりとした視線でガエウスを見据えている気がした。
「……ガエウスは、子ども」
「んだと、てめえっ」
シエスも結構辛辣なことを言うな。
ガエウスは跳ね起きて、シエスをぎろりと睨み始めた。子供のシエス相手にもすぐ本気になるところは、実際のところ子供っぽいと僕も内心思うものの、口には出さない。
「子どもの相手は、大変」
「面白え、この俺に喧嘩売るたぁ、いい根性してるじゃねえかっ」
ガエウスがじりじりとシエスに近寄る。どう見ても目が本気なので、僕は思わずシエスの前に出てしまっていた。
「二人とも、そのへんで――」
「うるせえ、ロージャは引っ込んでろ! 生意気なガキには躾が必要なンだよっ!」
ついにガエウスはぎゃあぎゃあと騒ぎ始めてしまった。こうなると、しばらく放っておくしかない。ガエウスは昔から喧嘩っ早くて、うるさくて手に負えない。
シエスはいつの間にか僕の背に隠れていて、背の影からガエウスをじいと見ていた。シエスもシエスで頑固だから、このままだろうな。
ガエウスのだみ声と、風に木々が揺れる音を聞き流しながら、僕は不意に、自分が笑っているのに気付いた。喧嘩はするけど傍に仲間がいて、騒がしい旅路。なんだか久しぶりに、自分が仲間と旅をしているということを感じられた気がする。僕が一番好きだった、僕らの平穏。
ふと後ろに回した手が、シエスの細い髪に触れた。また、つい撫でてしまう。けれどシエスは何も言わずに少しだけ力を緩めて、僕の手に頭を預けてくれた。それに気付いて、ガエウスがまた一段とうるさくなる。僕はただ、この平穏が無性に嬉しくて、頬が緩んでしまうのを抑えられなくて。
「てめえ、何ニヤけてやがる、ロージャっ!」
ガエウスに怒られても、しばらく僕はそのままだった。
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