街~今日も夜がやってくる

まきや



今日も夜がやってくる。


気温は寒くもなく、暑くもなく。


風は強くも、弱くもない。


今の季節、雨がなければ暗い街を歩き回っていても、身体に苦痛は感じない。


そんな日、私は街に出ていって、その雰囲気を楽しむ事にしている。


この散歩にたいした準備はいらないし、持ち物も最低限でいい。


いつものように、真っ黒なコートを羽織り――といっても一張羅は、これしかないのだが――硬いアスファルトに最初の一歩を踏み出す。


地面からの凹凸がほとんど感じられなかった。それはこの道がまだ新しいから。この街の開発がまだ終わっていないからである。


硬いけれど弾力のある足底を通して触れる、地面の感触が心地よい。


私はしなやかに背を伸ばし、夜の灯りのもとへと進み出た。


住処すみかから最初の細い路地を経て、少し大きな道に出ると、いきなりそこは、レストランやアミューズメント施設の立ち並ぶ、繁華街の真ん中だ。


とたんに耳に入ってくる喧騒と言う名前の音楽。


人声ひとごえは、男女を区分けすることもできず、塊として耳に入り、脳に残らずに消えていく。


人工物から鳴る音はけたたましく、無機質で、繰り返しのパートが多い。


飛び込んでくる映像は目が眩むようで、眩しく、艶やかに、私の細い瞳孔を惹きつける。


そんな街の、終わらない演劇の舞台のような雑踏が、私の孤独を癒やしてくれる。


だから時間つぶしにこうやって、ゆっくりと歩を進めている。


ただここは、人通りも激しい。私のような小柄な身の者にとっては、危険で歩きにくい面もある。


間を縫うように、人混みの少ない方へと歩いていくと、やがて繁華街が終わり、開けた場所に出る。


そこはプロムナードで、駅から大きな娯楽施設の有する観覧車の入り口までを、結んでいた。


観覧車までの道のりの、途中途中に街灯はあるが、明らかに本数が足らない。鉄の柱は意図的に、次の灯りとの間に必ず影の部分が出来るように、設置されていた。


その理由を、私なりに知っている。


よく見ると暗がりになる場所には必ず、それぞれ意匠を凝らしたベンチが置かれていた。サイズは2.5人掛け。


さあ、そこまで言ってもわからないかな。


では証明しよう。それには少し待ってみればいい。


ちょっと道をそれた植栽の裏手に回って、ベンチを観察してみる。


早速来た。


向こうからやってくる。1組の男女。明らかに互いを意識している雰囲気だ。


まだ遠慮があるのか、並んで歩いていても、2人は近づいたり、離れたり。


でも、いい雰囲気じゃないか。


私の見立てだと、彼らは90%、そのベンチに腰をかける。


あと2メートル。


1メートル。


ほら当たった。


男からの誘いで、立ち止まり、座る。


男と女が座れば、それでベンチの面積の2人分を占める。


そして遠慮した2人が空けた互いの隙間が、0.5人分。


合わせてみれば、このベンチのサイズになる。


もしぴったり2人分だと、このベンチに男女が座る確率は下がるだろう。


さらにここに、計画された闇が加わることで、二人の隙間はやがて、ゼロになる。

(もしかしたらマイナスになるかもしれない)


そこまで考えて、このベンチを置いたとすれば、設計者の手腕は見事なものだ。


言い方を変えれば、計画された性とでも述べようか。



なぜそんな卑猥な言い方をするかって?


それもすぐわかるだろう。


ほら耳を立てみれば。


私の背後のさらに奥にある、茂みに覆われた暗い影の間から、聞こえてくる。


あまり上品な声ではない。すでに燃え上がった男と女が野生に戻った事を証明する音だ。


だからここには、いま以上の照明は必要ないだろうね。


外の世界でこんな風に身をさらしていても、誰かに襲われたりする事なんて滅多にない。

(せいぜい、観客が何人か増えるだけさ)


不思議とほとんどの人は、こういう場面には寛容だったりする。


だから私の知っている限り、夜の街でもこのエリアは安全なんだ。


しかし、さっきのベンチといい、このわざとらしく植えられた茂みといい――


少子化対策の一貫ではないのかと、そこまで私は考えてしまう。


まあ種の存続を考えれば、性がコントロールされるべきだという意見に、私は反対はしない。


ただ私ならこんなベンチを設けるような、まどろっこしい真似はしないけれど。



さて、道を進んだ先にある明るい観覧車から、目を配下の闇に移そう。


観覧車の下は、緑の芝生が覆う、広い公園になっている。


施設自体は綺麗に保たれているのだが、実際の事情は異なる。


そこは、美しく空を彩る光の輪から見下ろすには、ちょいと小汚くて問題のあるエリアだった。


なぜなら公園の一角が、夜になると出没する、職にあぶれた放浪者たちのたまり場になっていたからだ。


このエリアは高級マンションやホテルが立ち並び、昼間見る人のほとんどは、観光客や商業関係者である。


残りは高層ビルで働く者たちであり、先に述べたような人種が常駐する余地はないように思える。


なのに彼らは、夜の時間になると(たまに昼間でも)、どこそこから集まってきて、独自の集会を開き、騒ぎを始めるのである。


そして朝になるとまた、いずれかの地へと去っていく。


目指すは屋根のない我が家なのか、治療の受けられる施設なのか…私に知る術はない。


彼らが必ず、どこに行くにも命より大切に持ち歩き、自分や親の名前すら忘れても、決して忘れないものがある。


それがアルコールだ。


彼らはこの酒という液体を身体に流し込むことにより、強烈に襲ってくる寂しさや空腹、そしてストレスから、逃れているという。


残念ながら、下戸どころか酒を飲んだことがない私にとって、彼らの心情をおもんばかることはできない。


いちどこの液体を勧められた場面があったのだが、旨くなく、さらに熱燗だった為、私の敏感な舌が受け付けなかった。


だからこれからも無理だろうと、誓えって言える。


ただ彼らの酒癖に、あまり文句は言えない。なぜなら酒は彼らの警戒心を薄っぺらくし、他者への気前の念を良くする。


そんな彼らのもとに顔を出し、姿をチラつかせたり、ちょっと声をかけたりする。


そうすると、なんだお前も食べたいのかと、つまみを貰えたりするのだ。



私は今晩も頂いたわけまえを口にしながら、再びふらふらと歩いて行く。


そうするうちに、私は工事中の建物が立ち並ぶエリアに入り込んだ。


ここは昼間は騒音で賑やかだが、夜にもなると、全ての人が去り、重機がピタリと止まる。


人気のない巨大なビルや、工事のクレーンが物言わず立ち並ぶさまは、嫌でも人の力の大きさを実感させられる。


まもなく始まる国家的なイベントまでに、この建物たちに明かりが灯り、人の往来が始まるだろう。


そうした光り輝く繁栄の下に、見えない闇に包まれる、私たちのようなあぶれた者がいる。


住む場所を追い出され、日銭に困り、腹をすかせて町をぶらつく。


繁栄を謳歌している立場であれば、想像できまい。


これも街の持つ残酷な側面だ。


土がアスファルトに、木々がコンクリートに変わったからといっても、生きる厳しさは自然のそれと変わりようは無いのだ。


身体を芯からずらす、強烈なビル風に身をすくませ、私はそれ以上奥へ歩いていくのを止めた。



小柄な背格好を活かし、気ままにフェンスの間をくぐり抜け、工事中のビルの裏手に回り込む。


するとそこから、少し場違いな砂浜と、広い海が広がっていた。


この地域は、出島のような構造になっていて、少し歩くと運河や海に突き当たる。


そして南以外どこへ向かっても、道はやがて橋につながるように敷いてあった(南は海しかない)。


私が見ている砂浜は、人工のものだ。


パンフレット片手に説明する人から聞いた。どこぞの有名な観光地の砂をわざわざ運んできたものらしい。


それもそうだ。ここは埋立地だし、浜辺なんてある訳がない。集客の為とはいえ、わざわざ御苦労なことだ。


ただ砂浜を踏みしめる足の感触というものは、悪くない。


私は一歩一歩を楽しみながら浜辺に進み出ると、横たわる流木――もしかしたらこれも人工物かもしれないが――を見つけ、上に座り込んだ。


高い空を見上げると、闇が端から薄く、白み始めていた。もうすぐ夜が明け、朝になろうとしている。


海からの風は流石に強いが、どことなく優しく、私の毛を撫でていく。


波が繰り返し打ち寄せてくる。流石にこの海水は偽物ではないだろう。


でも濁った水や油、浮いているゴミが上下するのを見ていると、人が作った・・・・・景色という意味では、作り物と信じてしまいそうになる。



「ちょっと隣り、いいかな」


風の音で近くの気配に気づかなかった。


私は声をかけられ、首だけを回し、振り返った。


そこには、汚らしい服を身につけた、浮浪者らしき男が立っていた。


最初は警戒するべきかと首をすくめたが、すぐにその必要は無さそうだと分かった。


彼は何日も着替えていないTシャツと、裾の短いズボンを履いていた。


靴はすり減って、中のクッションのがむき出しになっている。


大した荷物も持っていない。というか、右手に持ったビニール袋が全財産のようだった。


そしてその手も小刻みに震えていた。


こんな男が私に何か危険な行為をできるとは思えない。


私がうなずいたので、彼はにぃと笑ってから、私の横に腰を下ろした。


近くに来て初めてわかったのだが、眼の上や頬など、顔が所々赤く、青く腫れていた。


唇から流れたのだろう。血が固まって乾き、顎のあたりにへばり付いていた。


私が怪訝そうに見つめていたので、彼も気がついた。


「ああ、これかい。公園で寝ていたら、不良っぽい集団にいきなり、蹴られたんだ。ひどいもんだろう。若いやつらは時々、こういう事をする」


彼は汚い軍手を付けた手を、持っていたビニール袋に突っ込んで、何かを探し始めた。


「だがこの財産だけは守り通した。これがあれば、俺はどんな辛い世の中でも、正気でいられる」


浮浪者は取り出した紙パックの酒を愛おしそうに撫でた。


背面に付いていたストローを剥がし、小箱に刺しこむと、音を立てて液体を吸い始めた。恍惚とした表情と、ため息が続いた。


私はそんな物に頼らなくても正気でいられるがね。そう言いたかったが、伝えても通じないだろう。


そんな思いにふける私をよそに、彼は勝手に喋り始めた。


「お前さんも生きるのが大変だろう。俺も昔はこんな格好をしていなかった。あの頃はパリッとしたシャツを着て、ネクタイだってしめてた。それで…」


私は男の話を、風の音や寄せる波の崩れる音と同様に、流して聞き始めた。


繰り返す単調な抑揚が、私の心の想いを、深い思考の部屋に閉じ込める。


こうして都会に生きていくのは難しいものだ。


周りは他人ばかりだし、感情を解りあえることなんて滅多にない。


毎日、少しの意見の食い違いが負の感情を生み、ストレスが生まれる。


私も田舎暮らしを考えたこともあった。のんびりとした世界で、たくさんの子供を設け、美味しいものを食べて、やがて土になっていく。


そんな一生も悪くないだろう。


けれど私は、それを選ばなかった。


誰とも心を通わせなくたっていい。


うるさくて、汚くて、危険で、ややこしい。


この環境を受け入れた事実と引きかえに、ここにしかない、美や壮大さや、膨大な蠢く街の何かを常に感じていられる。そして最後は路地裏で死んでいく。


そんな生き方が、私には性にあうようだ。


「…というわけなんだ」


男の話が終着駅に近づいてきた。


私は大きく伸びをした。


「お、夜が終わる」


酔いの回った男の言う通り、海の向こうから今日の太陽の、最初の光が注がれる。


作り出されたのは、美しい景色だった。


波頭がオレンジの光にきらめては消えていった。砂の粒ひとつひとつに、新しい命が宿る。


この星の、街の一日がまた始まろうとしていた。


私と彼だけしかいない、この場所から。


ひときわ大きな波が打ち寄せてきて、音をたてて崩れた。


朝焼けの海に見とれていた浮浪者の男は、ぽつりと言った。


「なあ。俺たちはいつも、孤独の中で生きているけれど、今だけは違うと思わないか」


多分いつもなら、この男が何を言いたかったか、わからなかったかもしれない。


けれど今、この場にいた私には、その意味が分かった。


「これこそが、生きるってことなんだな」


浮浪者はぽつりと漏らした。自分の言葉に勝手に感動し、小さく何度もうなずいて、鼻をすすった。


私は物思いから戻り、口を開いて言った。


「そうだろう、人間よ。我々はふだん何も通じあえない。けれど今だけは――私たち二人は、同じ想いを共有できているのかもしれない」


不思議そうに、浮浪者の男がこちらを向いて、言った。


「なんだ、お前。何をニャゴニャゴ言ってるんだ?」


浮浪者は私の頭の方へ、震えの止まった手を差し出してきた。


私はそこから逃げるように、するりと流木から降りた。感傷的な馴れ合いは好きじゃない。


そのまま歩いて、砂浜から街に向かって戻り始める。


「じゃあな、黒ニャンコ」


背後から風にのって、男の別れの声が届いた。



そろそろ、この散歩を終わりにしよう。


私は波風に髭と尻尾を揺らしながら、住処の細い路地へと帰っていった。




(街~今日も夜がやってくる  おわり)

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