読み愛、逃げ愛
「あぁ、そのタイミングで頼む」
「スーツケースを用意しろって、こんなものどうするの?」
電話を切った俺は、準備を整えたマリアに向き直る。
白のデニムパンツにベージュ色のタンクトップ、ホワイトのブラウスを重ねてきたマリアは、ショッピングにでも出かけるような出で立ちだった。わざわざ、イヤリングまで着けてきている。
「中身も、あんたの言う通りに用意してきたけど……こんなもの、どうしようって言うのよ? 先生と
一度、解放された俺とマリアは、雲谷先生との決戦に備えての準備時間を許された(マリアも着替えたがっていたこともあり)。
マリアにスーツケースを引かせて、歩き出した俺は、グミをつまみながらつぶやく。
「マリア、俺たちの“勝利”ってなんだ?」
「は……? だから、
「違う。俺と雲谷先生の決着について、だ」
ようやく、理解出来たらしい。慣れないスーツケースに悪戦苦闘しながら、マリアは答える。
「そういう意味なら、あんたの勝利条件は『雲谷先生に愛を認めさせること』でしょ? そうすれば、意固地になってる雲谷先生が、あんたを支配することを諦めて、引いては先生を救うことに繋がるって言ってたじゃない?」
「お前なら、どうやって、先生に愛を認めさせる?」
両手でスーツケースを引きずりながら、マリアは小首を傾げる。
「泣ける動物映画を見せるとか?」
「…………」
「な、なによ、その顔!! 癒やされるし、すんごい愛を感じるんだから!! 飼い主とペットの間の愛情、雲谷先生だって、きっと見れば理解できるわよ!!」
あの
――鉛の心臓は残らなかった……兄は、神の下に召されてなんかいない……ただ、裏切られ、苦しんで死んでいった
だが、そんな段階は、とうの昔に過ぎ去っている。
――この部屋で、普段、なにをしてるんですか?
――カロリーを浪費しないため、横になっている
あの
人形に、愛は解せない。
「……重ねるしかない」
「は?」
「もう、導火線は敷き終わった。後は火を点けるだけだ」
「いや、なに、急に? どういう意味? 意味、わかんないんだけど?」
俺は、マリアに微笑を送る。
「
あの
立ち止まったマリアは、俺を真っ直ぐに見つめる。
最早、引き返す道はないと知っているから、俺は彼女を見つめ返した。
「雷だ」
マリアの手から、スーツケースが離れる。
ゆっくりと、白色のスーツケースは坂を転がっていく。車輪の音を響かせながら。定められているかのように。
運命じみて、俺の前で止まった。
「俺は、22,000,000,000,000,000,000,000,000分の1の男だからな。
きっと、もう一度くらい、雷を落とすくらいはわけないだろ」
「桐谷……あんた……」
「まぁ、それは最終着地点だ。
まずは、目の前の
我に返ったマリアは、慌ててスーツケースを追いかけてくる。既に、俺は歩き始めていて、彼女は不安気に見上げてくる。
「まず、俺は、
「息を吐くようにクズい!!」
「なので、勝負内容を限定的なものにして、その道のプロを用意する。そうすれば、俺の勝利は確定する」
いつもの調子を取り戻した俺を視て、不安が解消されたのか、マリアは嬉しそうに苦笑を浮かべた。
「さすがね、桐谷。さすがは、クズにクズを塗り重ねて、歩んできた人生が血塗られてるだけあるわ」
俺は、歩きながらつぶやく。
「だが――」
「だが、桐谷はそうしないだろうな」
雲谷渚の住んでいるアパートの一室。
狭い室内に詰め込まれている水無月結、フィーネ・アルムホルト、桐谷淑蓮は、アキラの思考をトレースした彼女の言葉に頷く。
「同意見ね。アキラくんは、そんなことをしても解決しないことは理解している」
「桐谷の目的は、私の救済だ。モモ姉の頼みだからな。育ての親の最期の願いを無下にするような真似は出来ない」
「そもそも、なんで、お兄ちゃんを解放しちゃったの? あの時点で、拘束していれば、私たちの勝ちは明白だったのに」
台所のシンクに腰掛けているフィーネは、足をぶらぶらと前後させながらささやく。
「わざとよ、
アキラくんを捕らえたところで、逃げられるのがオチだもの。どれだけ警戒していようとも、フィーたちは、必ず“愛”で絆されて逃げられる。だから、心を縛る必要があるのよ。
この世界で最も堅牢な牢獄は、きっと、“
「見解の不一致だな。愛は、ただの脳内麻薬の分泌だ。いずれ、非科学的な盲信として、世に知れ渡ることになる」
「
フィーネと渚は見つめ合って、ふいと、目を逸らしあった。
「桐谷には、完膚なきまでの敗北を味わわせる。どう足掻いても、敵わないと知らしめて、自ら牢屋の鍵をかけてもらう」
「それで、どうするつもりですか? 渚くんには、アキラくんの行動予測がついてるの?」
渚は、頷く。
「恐らく、アイツの目的は、最初から私との
目を細めながら、彼女はつぶやく。
「桐谷の目的は――」
「はぁ!? 逃げるぅ!?」
「当たり前だろ、勝利宣言はただの囮だ。アホ面しながら勝負を受けて、わざわざ、逃してくれたんだから逃げるに決まってる」
「だから、このスーツケース!? ちょっと、どこに逃げるつもり!?」
俺は、マリアを引き連れて、バスに乗り込む。
ガラ空きの車内で、スーツケースを足元に寄せる。通路を挟んで向こう側、行儀よく座ったマリアへと首を向けた。
「逃げ場所は限られてる。なにせ、相手は、雲谷渚だからな。この前のボランティア活動で、俺たちを助けに来た実績から考えてみても、先生が他者の思考トレースに
きっと、長年の婚活で身に着けた技能だろう」
「あんた、本当にどこに逃げるつもりよ……こんなスーツケースひとつで、ふたり旅って……いや、まぁ、あたしは行くつもりないけど……どうせ、無理矢理、連れて行くんでしょうし……別に良いけど……」
「先生でも、絶対に、見つけられない場所がある」
「え? どこ?」
俺は、満面の笑みを浮かべる。
「あの世」
「つまんな」
鼻で笑って、マリアは席に身を預ける。
「それで、どこに行くつもりなの?」
「桐谷は、私をよく知っている。アイツの性格から言っても、逃げ場所には突拍子もない場所を選ぶ。そうでもなければ、逃げおおせることは出来ないと考えるだろう」
「突拍子もない場所? なにそれぇ、どこ? 妹が勝利した結婚式場?」
「
「フィーは、どうしよっかな……ちょっと、悩む……」
「別に、お前たちの希望は聞いていないが」
ため息を吐いて、咥えた煙草を上下に振る。
一秒、二秒、三秒……雲谷渚は、虚空を見つめたまま、つぶやいた。
「……マズいな」
ジャケットを手に取って、渚は家を飛び出す。すぐさま、ゆいたちが追ってきて、四人は路駐しているレンタカーに飛び乗った。
「渚くん?」
「桐谷は、悪人だ。きっと、痕跡の消し方は、先達を習う」
エンジンをかけて、アクセルを踏み込む。
「悪人が雲隠れする時、まず向かう場所はどこだ?」
三人のヤンデレは、ほぼ同時に顔を強張らせる。
赤色のレンタカーは猛スピードで発進し、目的地へと走り出す。
「「空港だ」」
ふたりは、同時につぶやいて――同じ場所へと向かっていた。
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