GO TO HELL
「……衣笠由羅にしてやられたわね」
ずぶ濡れになったゆいは、インナーシャツを絞る。
びしゃびしゃと音を立てて、シャツに蓄えられていた水が、地面へと吸い込まれていく。
雨宿り先に選んだ古びたバス停は、前時代的な作りをしていて、屋根なんかはトタンで出来ていた。周囲には田んぼと山しかない。タタタタタタタと、屋根の上で雨粒が踊っている。
木製のベンチに腰掛けたフィーネ・アルムホルトは、お父さん指に描かれた顔を見つめ続けている。まんまと衣笠由羅にノセられて、アキラを取り逃してから、呆けるように気力がない。
「フィーネ、頭」
ハンカチで
「ゆい」
「なに?」
「アレは、本当に
ハワイでの
あの得体の知れなさは、忍者っぽいかもねとゆいも思う。
「貴女の
「ソジーの錯覚」
唐突な情報の横入り、相変わらずの独りよがりに、ゆいはため息を吐く。
「カプグラ症候群のこと? 衣笠由羅が偽物だって言いたいの?」
カプグラ症候群(ソジーの錯覚)と言えば、知人や近親者が瓜二つの偽物と入れ替わったと確信する妄想(もしくは、認知障害)のことだ。
相貌失認との関連性も疑われており、大脳の腹側か背側に位置する視覚路の損傷に起因する……との仮説も出ている。
「私たち、何時、頭を打ったわけ? それとも、妄想でも抱いてるってこと?」
「Nine, Nine.
わかりやすく、Easyに。端的かつ明白な言い方を心がけただけ。日本の
「わたしは、企業に属してないし、奴隷に甘んじるつもりもない。
それで? 格差に溺れると頭を撃ち抜く国のお嬢様は、なにを仰られたいの?」
ぴったりと肌に衣服が張り付いて、艶めかしい肢体が露わになっている彼女は、両手の指を格子状にして――間から、ゆいを覗き込む。
「
愛らしい声音で、フィーネはそうささやいた。
「もしくは、
おぞましいまでの
呼吸ひとつ置いてから、ゆいは答えた。
「つまり、ハワイにいた衣笠由羅と、さっきまでわたしたちを
正解だと言わんばかりに、笑顔の彼女は指を鳴らす。
「性格通りに、言い回しまでまだるっこしいわね。
なんで、そう確信してるわけ? アインシュタインだって、フリードマンとルメートルを否定してハッブルに叩きのめされてるでしょ?」
「確信なんてしてない。だから、最初にカプグラ症候群を持ち出したの。
フィーか由羅か、どちらかが誤っていると言ってるのよ」
ゆいは、気圧の低下で痛んできた頭を押さえる。
つまり、フィーネは、『衣笠由羅は偽物である』という論拠は、自分の妄想、もしくは実際に彼女が偽物……そのどちらかにあると言いたいのだ。
人には、それぞれ、そっくりの姿をした分身が存在するという考え方。
「
少なくとも、わたしの眼から視た衣笠由羅は、どの角度から視ようとも衣笠由羅だった。眼も鼻も口も、ほくろの位置までおんなじよ」
渚くんに言いくるめられたのだろう、ゆいたちに
あの身のこなしの軽さは、見間違いようもなく衣笠由羅のものだ。
「フィーは、パパを創ろうと思ったからわかる……あの女も、アキラくんを創ろうとした同胞だもの……創造者の頭のつくりは、非創造者のものとは異なる……愛が変性すれば、毛先の一本一本まで、雌としての“臭い”が変じる……飽くまでも、コレは“勘”という名の、フィーの脳が導き出した行動分析の結果……」
フィーネ・アルムホルトの口が、きらめく三日月へと移り変わる。
「
剥き出しになる殺意。
少なくとも、フィーネは、ココまでの殺意を衣笠由羅に向けたことはなかった。敵意と殺意は比例するから、本当にフィーネは彼女を別人だと思い込んでいて、時間を刻むごとに敵意を加速させているのかもしれない。
――マジック、見せてやろうか?
かつて、彼女に向けた水無月ゆいの認識が、『雲谷先生』から『渚くん』へと移り変わったかのように。
恐らく、フィーネには“ソレ”が視えている。わたしには視えないなにかが。
「フィーネ、もし、貴女が気になるようであれば、調べてみ――」
「探したぞ」
声。振り向く。
びしょ濡れになった彼女は、煙草を咥えて、手持ち無沙汰に立っていた。顔に張り付いた前髪が、不敵に歪む笑顔を覆い隠し、笑っていない両目に雨を投影する。
したしたと、降り続ける
「水無月、フィーネ」
ちいさく、かぼそく、雲谷渚は言った。
「私と手を組め。
さもなければ――」
満面の笑みは、あまりにも不気味で――
「桐谷彰は死ぬ」
異様なくらいに、美しかった。
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