四十八 イギリス型でもドイツ型でもない明治の六法整備
1882年(明治15年)の3月3日。ちょうど桃の節句の日に伊藤博文は憲法調査のための渡欧を命じられ、憲法制定・国会開設の詔勅からちょうど5ヶ月となる3月14日、岩倉倶定、西園寺公望、伊東巳代治、河島醇、平田東助、吉田正春、山崎直胤、三好退蔵、広橋賢光らの人材を随員として伊藤は日本を旅立つ。
伊藤は幕末の1863年に半年ほどのロンドン留学を経験し(下関砲撃事件を知って帰国)、西園寺公望は2年前の明治13年まで10年近くフランスに留学し、名門校ソルボンヌ(パリ大学)で日本人初の学士になったというが、今回伊藤らはまずベルリン大学の門を叩いた。
英仏両国の憲法については大隈重信・福沢諭吉のコンビと板垣退助・植木枝盛のコンビ辺りが何かしらまとめて来るだろうと見込んでのドイツ留学だったとも言われる。(ついでに、留学の時期はずれているものの伊藤は日本出発前に板垣にも渡欧を勧めていたという)
ナポレオン戦争後のウィーン体制下で五大国と呼ばれたのは英・仏・露・墺(オーストリア)・そして普(プロイセン)及びその後継のドイツ帝国の五ヶ国である。(1818年~1918年)
アメリカはモンロー主義で欧州の国際社会から少し距離を置き独自路線を進みつつまだまだ実力養成中の新興国。ロシア帝国は立憲政治に関してとても先進国とは言えない(かつて隣国ポーランドにヨーロッパ大陸初の近代憲法と言われた五月三日憲法による立憲君主制が出現した際は、絶対王政への脅威として武力で叩き潰しに行っていたぐらいである)。
残る大国といえば英仏墺独だが、英仏はどうせ民権派が熱心に参考にしていることを考えると国費で派遣する憲法調査団としては優先順位が低くなる。
残るはどちらもドイツ語を話すゲルマン人の国で老大国オーストリアと新興のドイツ帝国だが、伊藤博文は10年前に岩倉使節団の一員として西洋諸国を廻った時にドイツ帝国のビスマルクから強い影響を受けていた。
何せ小ドイツ地域として統一したドイツ帝国の建国・国境画定にあたり、ビスマルク指導下のプロイセン王国はまず普丁戦争でオーストリアと組んで北欧の雄デンマーク王国をおよそ5ヶ月で下してドイツ北部(ユトランド南部)の公国をもぎ取り、そこでオーストリア軍の旧態依然とした有様を見るやおよそ2年後にはオーストリアに戦争を仕掛け、普墺戦争ではその戦争を別名「7週間戦争」と名付けられるほどの大勝利を掴み、普墺戦争から約3年後にはドイツ帝国建国の総仕上げとして陸軍大国フランスと普仏戦争を戦い、1年足らずでナポレオン三世を捕虜にする大戦果を得てフランス第二帝政を崩壊に追い込んでしまうのである。
そして一連の戦争でナポレオン戦争以来のヨーロッパの勢力バランスを打ち破ったビスマルクはさらにビスマルク体制と称される巧みな外交で周辺の強国を抑え、後に皇帝ヴィルヘルム二世によってビスマルクが解任されるまで新帝国ドイツの立ち位置を安定させることにも成功した。
明治政府の元老たちがオーストリアやフランスよりもドイツ帝国、あるいはビスマルクに注目したのは当然といって良いだろう。
……というわけで、伊藤博文たちはベルリン大学の国法学者ルドルフ・フォン・グナイスト教授を訪ねた。グナイスト博士はプロイセン上級行政裁判所判事なども務め、他の著名な教え子には社会科学における様々な方法論の整備を成し遂げたマックス・ヴェーバー博士もいるという。
そんな偉い人であるグナイスト教授は、ドイツ帝国の憲法について教えを乞うてきた明治政府の憲法調査団に対してまず一つの軌道修正を提案した。「あなた方の国が連邦制でないのであれば、ドイツ帝国憲法よりもプロイセン王国憲法を学んだ方が良い」と。
実はドイツ地域というのは神聖ローマ帝国の封建制以来21世紀の現代に至るまで連邦国家としての性質が強く、小ドイツ地域を統一しドイツ帝国皇帝となったヴィルヘルム1世はドイツ帝国皇帝兼プロイセン王国国王という位に就くことになった。北ドイツのほとんど――すなわち、ドイツ帝国領土全体の6割以上を占めるプロイセン王国が超巨大な地方自治体として統一後も存続していたのである。
プロイセンのみならず、ドレスデンを首都とするザクセン王国や、プロテスタントが多い北ドイツに対してカトリックが多い南ドイツのバイエルン王国など各地の王国も変わらず存続。その他、大公が統治する大公国、公爵の領地である公国、侯爵が治める侯国、さらに自由都市としてハンブルク、リューベック、ブレーメンの3都市も自治を続け、それぞれドイツ帝国議会に議席を有していた。
無理矢理に日本史で例えるならば、堺や博多が広範な自治権を保つことを許されていたり、伊達や毛利、後北条氏のみならず武田や今川、柴田や長宗我部、龍造寺などといった戦国大名・武将の家が生き残ってその上に改易も減封もほとんど行われていない……といったようなイメージになるのであろうか。
実際の日本の近世以降において武将たちの勢力は徳川幕府により外様大名どころか旗本に至るまでも容赦なく削ぎ落され、江戸300藩と称されるまで分裂。明治になってさらに廃藩置県で整理され、知藩事は新政府から派遣される内務官僚の官選知事へと取って換えられたわけで、改めて連邦国家と中央集権国家とでは国の形や制度の成り立ちが随分と異なるものである。
そんなこんなで、憲法調査の話に戻すと伊藤博文らは既に憲法制定前に中央集権化の改革を進めていたのであるから、歴史的経緯によって連邦国家という国家形態を前提としているドイツ帝国憲法をそのまま学ぶのはかなり益が薄いということを指摘され、日本から来た憲法調査団の面々はグナイストの弟子にあたるアルベルト・モッセからプロイセン王国憲法についての講義を受けることになる。
「プロイセン王国」ならばプロイセン王室の下で歴史や宗教、精神性などを共有するプロイセン国民が一つにまとまっているわけで、新たに近代的国民国家としての脱皮を目指す大日本帝国としてもドイツ帝国の憲法よりは参考にしやすいだろうというわけである。
ところがモッセの講義はプロイセン憲法の条文を始めから終わりまで一つ一つ順番に解説していくというもので、なんとも退屈な教え方であったという。
彼らが詳しく解説できるプロイセン憲法全体の内容を一旦丸ごと飲み込ませることで憲法起草の際の構成や文法の参考にしてもらおうと考えていたのかもしれないが、いかにもプロイセン人らしい融通の利かなさというか……遠い異国の地から来た生徒に対してはいっそ不親切の域に達していた。
伊藤博文などは、英語でなら軽い演説を行えるほどの語学力を身に着けていたそうだがドイツ語となると未だ少し不慣れなところがあったという。国家存亡の危機を脱し切れていないという状況の祖国日本を他の者たちに任せて旅立った憲法調査団の面々にとって、逐条的で退屈な内容の講義を言語に不自由な環境で受けるというのは相当なストレスとなった。
そこへ更に困ったことに、なんと日本の憲法調査団が勉強中のタイミングでベルリン大学の教授たちがバカンスのシーズンに入ってしまったのである。
ドイツ人――特に北方のプロイセン人は規則を遵守する精神性が強いという。それは休みの取り方においても変わらない。終業・帰宅後に仕事に関する急用等があったとしても基本的に次の出勤時まで応答しないし、“この日から休む”と決められたらそれはもう曲げることがないのである。
21世紀の日本においてはこの“休む時は徹底的に休む”ドイツ人の厳格な公私の線引きが働き方改革の参考として憧れの的にもなっているが、早く勉強を進めたくて焦っていた明治の憲法調査団にとってこの厳格ぶりはドイツ人の融通の利かなさというネガティブ面として表れた。
ベルリン大学の教授陣はバカンスのシーズンに入ってしまったが日本の憲法調査団は休んでいるわけにもいかない。とはいえ自分たちだけで予習復習をするだけでは心許なく、彼らはベルリン大学のバカンスシーズン中に教えを授けてくれる他の教授を探し求めた。
するとなんと、ドイツ帝国の隣国のオーストリアでローレンツ・フォン・シュタイン教授が伊藤らの求めに応じてくれることになったのである。ベルリンに比べればアルプスの山脈も近いウィーンではバカンスのスケジュールも違うのか、あるいはシュタイン自身がドイツ北部のキール出身でありながらプロイセンの政策に批判的だったためドイツ帝国の大学を追放されてウィーン大学に流れ着いていたり、彼の学んでいた法学の歴史主義と呼ばれる思想の流派が当時の学会の主流から外れていたりと不遇だったために日本からの調査団に同情的になってくれたのではないかとも言われている。
何はともあれ、ベルリンからの学ぶ対象の乗り換えということでは一応隣国で、同じドイツ語圏であり、世界で五本の指に入ると見做されている老大国の首都で学べるわけでなかなかにマシそうな条件ではあった。
そしてこの想定外の妥協のような移動が、日本の憲法起草作業にとっては運命の出会いとなる。
法学において歴史主義思想を重んじるシュタイン教授は日本人たちにこう告げた。
“憲法というのは、その国の歴史に基づくものでなければ上手く機能することができない。まずわかっておいてほしいのは、私は日本の歴史を知らないので日本の憲法について講義することもできないということだ”
この言葉は遠方から学びに来た憲法調査団にとって非常に誠実な忠告であると同時に、目から鱗を落とすような慧眼の言葉だった。
プロイセンにせよドイツ帝国にせよ、あるいは英国憲法にせよベルギーの憲法にせよ、どれだけ優れた憲法だったとしてもそのまま持ち込んだところで上手くはいかない。自分たちの国の歴史に根を張っていない条文ならば運用の際に齟齬が発生し支障をきたしてしまうのはとうぜんである。
そもそも憲法起草の特に大きな目的の一つが不平等条約の改正である。西洋諸国に日本を対等の文明国と認めさせるための憲法起草であるのに、あからさまに西洋の憲法そのままの条文を自分たちの憲法に書き込んで発表したところで欧米列強を見返すことはできない。
伊藤博文たちはシュタイン教授から憲法の代わりに2ヶ月ほど歴史法学や行政、国家論について学んだという。シュタインの講義を受けた薩摩藩士の海江田信義は「国家有機体説」についてのノートを遺している。
その中の図には人体の各パーツに政府の各部署や大臣の役職らしき言葉が配置されており、頭部には祭祀を司る神祇官と、その下に「親祭」(君主自らが神を祀る式を執り行うこと)の文字が置かれ、図の右側の腕では肩が上院、肘が内務、手の部分が陸軍となって(議会)上院・内務(大臣)・陸軍(大臣)が線で結ばれている。そして左側の腕では肩に下院、肘に外務、手に海軍と書かれて同様に線で結ばれている。
そして頭の「神祇官」「親祭」と両肩の「上院」「下院」から伸びた線は胸の中央上部に大きく書かれた「政府」の文字に結ばれ、「政府」の下は胸から腹・腰にかけて弾正(弾正台。刑部省と共に司法省の前身で、弾正台は検察庁に相当)、宮内、文部、司法、大蔵と線が伸びている。
脚部の一番下は両足のかかと辺りに左右2か所とも「人民」と書き込まれ、図の右の太腿では「農務」、左側の太股では「商務」と、職務内容が国民生活に深く関わると思われる部署が両足の人民と線で結ばれ、両腿の農務・商務は腰の「大蔵」に繋がっている。
そして図の横には「上下血脈一徹。一身同體(“一心同体”ではなく「一身同体」)図の如し」と記される。
ノートを遺した海江田信義は薩摩藩士の中でも保守寄りの人物だったそうで「神祇官」「親祭」及び「弾正」の位置の高さはシュタインの思想より海江田の考えが強く記された部分なのかもしれない。なので両肩を繋いだ胸部中央の「政府」と腰部分の「大蔵」はともかくそれ以外の頭部から腹部までに配置された省庁あるいは大臣の位置関係は後世の我々から見ていまいちピンと来ないところもあるが、両腕両脚の配置はちょっと興味深い。
陸軍は国内の治安維持等に駆り出されることもあり、陸軍大臣と内務大臣が結びつくのはわからなくもない。海軍は遠方への航海を行って他国との交流を行うこともあるだろうから、海軍大臣と外務大臣が結ばれているのも理解できる。
しかし外交をヨーロッパの歴史上活躍した偉大な外交家たちから想像されるような「貴族たちのゲーム」とするのではなく、下院……ひいては庶民たちの世論との結びつきを重視するというところも、もしかすると大大名たちから国政の主導権を奪取せんとした維新の志士たちの考えが表れた配置だという可能性も考えられるだろう。
「大蔵」から下で国民生活との関りが深そうな農務・商務が「人民」と線で結ばれているのも面白い。
「人民」の文字が一番下の足の部分にあることについて、海江田が保守的な立ち位置の人物だったのもあって当時の一部の政治家や官僚が“人民の権利”などに理解を示そうとしなかったような、封建時代の残滓から脱却し切れていない人々の意識の表れと見る考えもあるようだが、こちらも幾分か解釈の余地が残るのではないか。
足の部分に書かれているというのは、「人民」がそこから上の全ての支え、もしくは土台・礎であるという読み取り方もできる。国民によって立つのでなければ、政府も議会も軍隊も司法も皆崩れ落ちてしまうのだ。“政府ありて人民あるに非ず、人民ありて国家政府があるなり”という思想である。
これの手足を逆にして両足を陸海軍が支え人民が手先でプラプラ揺れているような配置よりはよっぽど国民主権的な構図だろうし、図の中の上下を気にしていくと(腕を下ろしている図なので)陸海軍の上に上院下院や外交が来るのはシビリアンコントロール思想の表れなのかというツッコミも入れられそうに思うのだがどうだろう。
話を戻すと、短い間ではあったものの日本から来た調査団はプロイセン憲法の逐条的解説よりかはそこそこ愉快な講義をシュタインから受けられたようだ。シュタイン教授の元を離れる際、海江田信義は「仰ぎ見れば いよいよ高き ひとつ松 わがよるかげと たのみまつらく」とまで詠むほどに心酔していたと言い、伊藤博文もシュタインを明治政府の法律顧問として招聘したいと願ったが、教授は自身の高齢を理由に辞退し代わりの候補者を推薦した。(シュタインは当時60代後半で、天保生まれの海江田よりもさらに17歳ほど年上)
ちなみにシュタインとの対比でボロクソに貶すような扱いになってしまったアルベルト・モッセも3年ほど後に来日することとなる。彼は日本を随分と気に入ってくれたらしく、“すばらしい日本を忘れることはない”とまで書き記しているとか。
当時日本には既に駐ドイツ公使青木周蔵(伊藤博文ら憲法調査団のためにグナイスト博士やシュタイン博士を斡旋した人でもある)の推薦でヘルマン・ロエスレル博士がお雇い外国人として来朝していたが、モッセとロエスレル両氏共に伊藤博文の信任を得て憲法起草やその他法案・制度作成(ロエスレルは商法草案の作成、モッセは地方制度の創設にも貢献したらしい)の中心メンバーに加えられた。
また余談になってしまうがこのロエスレルという名字、音写がなかなかまとまらなかったらしくロヰスレル、ロイスレルとする表記もあれば、レースレル、レスレル、はたまたルスレル、リョースレル、さらにはロェスラー、レースラー、レスラー等々だいぶ混乱していたらしい。あまりの表記ゆれの極まり方に、「ロエスレルとは俺のことかとレースラー言い」なんて句が広まるほどだったという。
閑話休題。
“憲法に関してはロエスレルよりもモッセの方が実質的な影響を与えた「明治憲法の父」である”と見る人もいれば、“憲法草案を作成したのは井上毅だが、その内容の多くはロエスレルの指導によるものである”という人もいる。それぞれの説を主張する人がどの資料を読んだかと、また誰がいわゆる“推し”であるかによる見方の差異なのかもしれない。
またフランスから来日して「日本近代法の父」と称されたボアソナードをドイツから来たロエスレルらと並べて“明治日本の法制度は最初憲法以外はフランス式を目指していたが、憲法がドイツ式になったのに合わせて他の法もドイツ式に転換された”というのも現代日本に広く知られた見方ではなかろうか。
しかしこれにもまた別の異論がある。
憲法草案の作成に大いに尽力したという井上毅は、かつて伊藤博文にドイツ型憲法の導入を提案した保守的な人物でもあったとされるが、保守的なだけに伊藤が持ち帰ったシュタインの言葉 “憲法というのは、その国の歴史に基づくものでなければ上手く機能することができない。日本の歴史を知らなければ日本の憲法について語ることもできない”という教えに最も熱心に従ったのもまた井上だった。
井上毅は東京帝大の日本史学者小中村清矩教授に教えを受け、小中村教授の婿養子である国文学者池辺義象教授を助手として記紀律令格式有職故実など様々な古典の一次資料研究に早朝から夜遅くまで没頭。雪の日にも資料を手放さず、無理がたたって体を壊し、心配した池辺に療養へと連れていかれるもやはり資料を手放さず、療養先で突然「大宝律令にはどういうことが書いてあっただろうか」と口にし、原文を確認するために結局東京へととんぼ返りしてしまう熱中ぶりだった。
指導役お雇い外国人のモッセとロエスレルを除くと、憲法起草の中心となった日本人メンバーの中心は伊藤博文の他に井上毅、伊東巳代治、そして金子堅太郎という面子だったそうだが、井上毅はその中でも「非常の力を与えた」と伊藤博文に太鼓判を押される働きぶりであった。
そして完成した大日本帝国憲法において、例えば「人権」について書かれた部分の章題は「臣民權利義務」とされている。ここで“臣民”という言葉を用いて天皇との繋がりを強調したのは、西洋伝来の先進的思想とされる「人権」に繋がる概念が日本の歴史上においても遥か昔から積み重ねられてきたことを国内外にアピールする意味があった。
アメリカ建国の父たちの中に列せられるアレクサンダー・ハミルトン、ジェームズ・マディソン、ジョン・ジェイの三人が合衆国憲法の制定にあたってその憲法の精神を解説する書『ザ・フェデラリスト』を著述したように、伊藤博文や井上毅も大日本帝国憲法の解説書『憲法義解』を記している。
シュタインの助言を受けて古典の研究を熱心に行った甲斐もあり、そこでは『続日本紀』などで「公民」と書いて“おほみたから(大御宝)”と読まれていることや、『万葉集』で民が自分たちを称して「御民」(読み方は“おたみ”)という風にわざわざ「御」の字をつけるなど、民衆が天皇との特別な絆で結ばれてきたという意識を古文書の裏付けによって強調する。
千年以上前の8世紀から民を「宝」と見做してきたのだから、民権意識の素養について歴史的な蓄積は西洋に負けてはいないし、封建時代の領民の扱いで言えばヨーロッパだって他の地域に対してそれほど偉そうなことを言えたものではない。日本を「半文明国」でしかないと見下して不平等条約を押し付けた欧米列強に対し、冷や水を浴びせる意志が帝国憲法の「臣民」の語には込められていた。
これは同時に国内の、特に封建意識の抜けきらない一部士族たちの「百姓に民権など片腹痛い」という“保守的な”感覚に対して「貴様らの“保守”はこんなにも浅い」と掣肘を食らわせる意図も含まれている。
分けられていた「士」と他の「民」とを再び平等にするのは古の美徳に立ち返ることであり、「中興の美果」である。民権思想は“西洋かぶれ” などではなく日本人が本来持っていた精神性の復旧であり、封建士族たちが民衆を自分たちの下に置いて威張り散らしているのはむしろ朱子学などの“海外思想”から妙な影響を受けて日本古来の美徳を歪めた“最近の外国かぶれ”に過ぎないのだ。
“保守層”の意識改革に、この理論武装は大いに効果を発揮したはずである。
憲法以外の法整備に関しても、西洋の法律を丸ごと無批判に導入したわけではない。
どちらかと言えば東洋の伝統的な法体系(中華法系)の名残を色濃く残している部分もあるという。
もちろん、切腹刑などは日本が国民国家として四民平等を宣言し、そもそも子供の頃から腹の切り方について教育を受けている士族とそうではない農民や商人が一緒の扱いになる中で当然ながら消滅していったが、刑罰の重さ等にアジア的な特徴が残った。
人の身体を傷つけた場合と、物品を盗んだり損壊させた場合の刑罰について、西洋の法では東洋と比較して物品を傷つける場合に対し人体を傷つける場合の罪が重い。
相対的に東洋の法では西洋と比較すれば人体を傷つける場合に対し物品を傷つける場合の罪が重くなる。
西洋の法では体の価値が重い。東洋の法では財物の価値が重い。この刑罰の重さのバランスに関して近代以降の日本の刑法は東洋的な特徴を残しているそうなのだ。
西洋の法体系を学んだ上で、向こうの感覚に合わせて刑罰の方法等ある程度の内容に調整やブラッシュアップを掛けはしただろうが、それまでの法の伝統を全く捨て去ったわけではなかったらしい。
維新開国・文明開化などと並ぶこの時代のスローガン「和魂洋才」を法律にも適用し、幾らかの伝統的な価値観は継承しつつ条文の文体や構成を西洋風に整えたというのが維新政府による法整備の実態だったのだろう。
憲法においても、その他の刑法や民法などの法律においても、明治政府があたかもお雇い外国人を無条件に称賛し列強(特に英仏独)の制度を無批判に導入していたかのようにとらえるのはかなり乱暴な見方と言って良いだろう。
まず比較法学においては英米法、ヨーロッパ大陸法、イスラム法、インド法、中華法系などといった法体系の分類がある。明治の日本がヨーロッパ大陸法を受容したというならそこに中華法系の痕跡は少しも残らなかったのかどうか、選ばれなかった英米法の導入にはどのような問題があったのかという視点についてもう少し語られても良いのではないか。
またヨーロッパ大陸法を受容したにしてもボアソナードらによるフランス型法制度の受容は法学博士穂積陳重(弟の憲法学者穂積八束が天皇主権説の提唱などで有名)らの反対でうまくいかなかったというが、ドイツ型法制度を丸ごと受容した場合でも同等の反発や混乱が起こるはずではないだろうか。
明治の憲法制定や法整備について語る時だけ英米法か大陸法かの大別をすっ飛ばして憲法はイギリスかドイツか、他の法はフランスかドイツかということに拘り始めるのはどういうことだろう。そもそも近代憲法の系統はイギリス型とフランス型とに類別されるといい、プロイセン憲法はイギリス型に属するといわれるのだからイギリスかドイツかと強調されても混乱が広がるばかりである。
シュタインらの教えや、明治の元老たちの追い求めたものが忘れ去られたことで、明治憲法は歴史上の表舞台にありながら現代の一般常識の中では何がなんだかよくわからないままの存在になってしまったように思われる。
そんな明治の憲法・法整備の捉え方について色々語ったところで、今回は一旦区切りとさせていただく。このまま憲法制定前後の話まで行くと長くなりすぎたり、また時系列が大きく前後することになってしまうので……。
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