二十四 大久保暗殺と土佐珍道中膝栗毛

 1878(明治11)年5月14日。西郷隆盛の一周忌さえ迎えられないまま大久保利通は暗殺されてしまった。

 早朝、帰県の挨拶に訪れた福島県令山吉盛典を迎えた大久保は2時間ほど歓談。その最後に今後の抱負として述べたのが例の30年構想で、結果的に遺言じみて受け取られるものとなった。その後参内して明治天皇に謁見するため馬車に乗り午前8時に自宅を出発、最短ルートの大通りを迂回して別の道を通っている。

 これは通行人の中に暗殺者が紛れているのではと警戒したからとも幽霊を見てしまったからとも言われる。幽霊というのは、なんでもかつて死に追いやった不穏分子だか政敵だかの一人にそっくりな顔の人物が立っているのを見つけてしまい、怨霊の祟りを恐れて道を変えたのだが、その人物はまさしく大久保がかつて死に追いやった人間の兄弟で、たまたま大久保が近くを通ると知りいっぺんぐらい顔を拝んでみるかと思っていたところ、馬車の方が自分の顔を見た途端大慌てで行き先を変えたので首を傾げたという話である。


 どちらの話が本当にしても、大久保はその警戒心のために本物の暗殺犯と出くわしてしまう。実行犯の中心である島田一郎はかつて板垣退助が開いた愛国社創立大会に武部小四郎らと共に参加していた加賀の士族であり、同じく愛国社創立大会に出席していた睦義猶が斬奸状を起草した。

・国会も憲法も開設せず、民権を抑圧している。

・法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている。

・不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いしている。

・国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こした。

・外国との条約改正を遂行せず、国威を貶めている。

という認識が襲撃の動機だったという。島田らは大久保の遺体に一礼してから撤収し、斬奸状を持って警察に自首した。


 伊藤博文は事件直前に大久保から「今から私は直ぐ参朝するから貴君も直ぐ来て下さい」といった内容の手紙を受け取り、来たところで凶報を告げられたという。

 事件の数日前に大久保から「西郷と口論して、私は西郷に追われて高い崖から落ちた。自分の脳が砕けてピクピク動いているのがアリアリと見えた」という悪夢の話を聞いた前島密は事件現場に駆け付けた際の様子を「頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」と書き残している。

 大久保の下で警察・スパイのトップに立っていた川路利良は当然暗殺計画を把握していたが大いに油断していたらしい。すぐさま現場に飛んで来た川路は手帳を叩いて中に書き記されていた実行犯6名全員の名を指差し、この6人の仕業に違いないと悔し気に涙をこぼしたという。だが暗殺に成功したその足で警察への出頭まで成されてしまっては、事前にわかっていても最早どうしようもない。



 さて、大久保暗殺の報を聞いて福岡の士族たちは集結し話し合った。板垣に“会って話がしたい”と電報を送ると「スグコイ」と返電があり、どうやら追い返されることはなさそうだが、誰を送るべきか。この時すでに板垣が自由民権運動なるものを始めているらしいとは筑前にも伝わっていたが、彼らの間にその自由民権運動というのがどういったものかわかっている人間は一人もいなかった。

 どうしようかと考えた末、学識と人格と肉体の剛健さには充分な定評のある頭山と、開墾社並びに旧筑前3政社きっての乱暴者である奈良原に様子を見に行かせ、とりあえずこの2人に任せれば大丈夫だろうという話になった。

「ともかくもこの二人に板垣の演説を聞いてもろうて、国のためにならぬと思うたならば二人で板垣をタタキ潰してもらおう。もし又、万一、二人が国のためになると思うたならば総出で板垣に加勢してやろう。なに、二人が行けば大丈夫。口先ばっかりの土佐ッポオをタタキ潰して帰って来る位、何でもないじゃろう」

 政府による弾圧の苦難を共にした筑前士族たちは利害得失、主義主張などがどれほど違っても、お互いに相許している気持は一つとなっていた。頭山が遣るというなら俺も遣ろう、奈良原が死ぬというなら俺も死のうといえるほどの信頼関係を互いに持っている。

 さらに言うならば亀井塾で学んだ頭山は土佐立志社と知力で張り合えるし、卑怯なことやおかしな話に与しないことでも頭山と奈良原は信用がおける。もし全てをぶち壊すことになっても武力や乱暴さに関しては心配いらないといううってつけの人材だった。


 しかしそんな2人に福岡から高知までの長旅をさせたので、当たり前のように尋常な行程では済まない。人に頭を下げて尋ねる事が二人とも嫌いな上にキチンとした道も知らないまま、どういうわけか無事に四国の愛媛県に上陸した彼らだが、さすがに土佐の方向が判らなくなり近くにいた農民に声をかけた。

「オイオイ百姓。高知という処はドッチの方角に当るのか」

「コッチの方角やなモシ」

「ウン。そうか」

 こっちの方角だと言われたので、そっちの方角に可能な限り真っ直ぐ進んだ。野だろうが山だろうが、道があろうが無かろうがひたすら真っ直ぐである。道が無ければ切り開けば良い。方角がわかって、そこへ向けて真っ直ぐ進んでいるのだから普通の人が通る道から外れようとも2人は道に迷ったとは思わなかった。自信満々にとんでもないルートを進んでいくその様はいっそ道の方が2人に迷っているとさえ言えた。

 様々な苦労の末、高知市まであと少しというところで目の前に大きな山が立ちはだかる。高知市はその真向いの山向うにあって、道路はその山の根方をぐるっとまわって行くのだが、その山を越えて一直線に行けば三分の一ぐらいの道程に過ぎないらしい……。

「……頭山」

「なんじゃ」

「俺は黒田武士じゃ」

「俺だってそうじゃ」

「曲がるのが嫌いじゃ」

「俺だってそうじゃ」

「……」

「……」

「ゆこう」

「ゆこう」

 そういうことになった。

「うおりゃあ!」

「どっせい!」

 2人で一直線に登り始めたは良いが、その山は想像以上に峻険で、道の無い絶壁だらけのルートであり、どこぞの栄養ドリンクのテレビCMみたいな苦労をしてようやく登りきった頃には2人ともへとへとになりゼエゼエと息を切らす羽目になってしまった。

「……なあ、頭山」

「なんじゃ……」

「……これなら、たとえ四里でも五里でも山の根方をまわった方が早かったかもしれん」

「……ウン。帰りは普通に行こう」

 とにもかくにも、頭山と奈良原は高知に到着した。


「先生、福岡から開墾社の方たちがお見えになりました」

 一人の男が板垣の元を訪れて告げる。板垣とそう歳の変わらない彼の名は熊沢徳太。立志社の小使であり、無学文盲の身ではあるがこの頃各地から立志社に集まる血気盛んな志士たちに応対していた縁の下の力持ちである。

「ああ、この間の電報の。無事にたどり着いたか。それじゃあこれが終わったら会うから、向こうも長旅で腹を空かせているだろうし食事でも出して待ってもらって……」

「もう既に15杯ほど食べております」

「…………そうか。まあ、若い男ならたくさん食べるだろうから何杯かおかわりを――、待って今15杯って言った?」

「すいませーん、おかわりー」

 若干うろたえた板垣の所へ遠くの部屋から若い男の声が届いた。それを聞いた小使が告げる。

「おかわりが16杯目に突入しました」

「今すぐ会いに行く」

 後に頭山はこう語る。“食べようと思えば20杯でもいけた”と。


 ともかく、こうしてついに頭山たちは板垣退助と彼の自由民権運動に出逢うこととなる。

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