二十二 指導者たちの取り調べと刑死
福岡の変の後、警官たちが高場乱の塾に踏み込んだ。逮捕者の多くが人参畑の興志塾で学ぶ身だったことは既に調べがついており、その責任を追及するためだった。
「興志塾塾長高場……たかば、らん?」
「乱を治めるという意味で“おさむ”と読むのだ」
「それはまた随分と男っぽい名前で……」
「貴様にはこの月代を剃った頭が女の髪に見えるのか?」
「…………いえ。いや、ともかく! 塾生から多数の逮捕者を出した件について取り調べの為、署までご同行願いたい!」
「なるほど、承知した」
そう言うと高場は警官たちを置いて一人で先に警察署へ向かって歩き出し、高場を警察署へ連れて行くためにやって来た警官たちが高場の後を慌てて追いかけながら警察署へ向かうという妙な光景が出来上がった。
警官隊を引き連れて歩く不思議な姿に沿道の住民は「高場さん、お出かけですか」と声をかけ、高場もそれに「うむ。ちょっとした野暮用である」と返しながらやがて警察署にたどり着いた。
「さて、そちらの塾生から反乱活動に加担する若者が数多く現れた件についてですが」
「ああ、あんな馬鹿なことをしおって。教師として全く不徳の致すところだ」
「ほう。別にあなたが指示したものではないと」
「当然だ。もし拙者が指揮していたなら叛乱が成功しておる。彼らの不注意で敏速を欠く行動こそ、拙者が関わらなかった何よりの証拠である」
高場乱は立派な門構えの豪邸へ客として招かれた際、“俺の肝っ玉がでか過ぎて門につっかえるたい”と言って断った。この相手を選ばぬ武士の意地はここで政府警察に対しても発揮されたのである。
「……いやいやいや」
「何を言い出すんだこの婆さん」
「コラッお前まで口汚いことを言うんじゃない」
「まったくだ。ジジイと言え」
「え? そこ?」
取調官はオッホン、と咳一咳して高場のペースに脱線しそうなところ何とか気を取り直そうと試みた。
「とにもかくにも、たとえ反乱計画を知らず、意図して扇動したものでもなかったのが事実としても、塾長でありながら門下生から多数の咎人を出したのも事実。管理者としての責任が問われるべきと思えませぬか」
「その旨、ごもっとも。それでは監督不行き届きの罪人として、管下から多数の謀反人を出した福岡県令渡辺清の首と共に拙者の白髪首を斬り落とし、並べて河原に晒していただくというなら大変結構なことだ」
高場は即日釈放された。荻生徂徠の流れを汲む亀井塾において「亀門の三女傑」「亀井四天王」と呼ばれた高場乱に問答で渡り合えというのは尋常の取調官にとってあまりに荷が重すぎた。
師である高場乱が取り調べにおいても平常通りの調子を崩さなかったように、逮捕された越智彦四郎たちもまた武士として、己が刑死する定めに今更狼狽はしなかった。
久光忍太郎は官軍との戦いで重傷を負ったが、法廷にて判事から「傷は癒えたか」との質問を受けると「微傷であるので心配は御無用」と返し、その場に居た者たちを感心させるほどの堂々とした態度だったという。
越智は士族に同情的だった秋月の巡査たちや、処刑が近いことを哀れんだ福岡の監獄医などから酒の差し入れを貰い、詩吟や謡曲、今様、都々逸など気ままに唄って最後の夜を過ごした。
「今、久光らと共に冥土の先駆たらん。思うに諸君は万々死刑を免るべし。望むらくは、国家の為に吾人の意志を継続せられんことを」
越智は獄舎を出る際、後に残される同志たちにそう語って励まし、断頭場で
「咲かて散る 花のためしにならふ身は いつか誠の実を結ふらん」
「あなうれし 心の月の 雲はれて 死出の山路も 踏まよふなし」
の2首の辞世を即興で詠んでから悠々とした態度を保って27歳で刑場の露と消えた。
越智に続いた久光は
「とふ人も 絶えて渚の 捨小舟 浮くも沈むも 波のまにまに」
の辞世を残して25歳でその生涯を閉じた。
久光の次の村上彦十は彼らの中では年長者だったようで享年は35だったという。加藤司書の息子である加藤堅武が村上の後に続いた。享年は26だった。
かつての矯志社の社長であり、越智と共に福岡の変で大隊長となっていた武部小四郎は1ヶ月近くも警察の捕縛を逃れ続けた。逮捕時の様子について、ある説では知人の家に泊まっていたところを十数人の警察に取り囲まれたが警官たちは武部の武勇を怖れて近づけなかったという。いつぞやの金ヶ嶽の協議を解散させようとした70名もの警察隊が矯志社社員に返り討ちにされてしまったというのも影響したのかもしれない。そこで武部は「どうした貴様ら。掛かって来んか」と誘って警官を4,5人も投げ飛ばしてから「ようし、気が済んだ」と清々しくお縄に就いたのだという。
しかし別の所ではさらに派手な逸話も伝えられている。泊まっていた宿へ踏み込まれた武部は即座に脇差を懐へ突っ込むと裏口にあったざるを拝借して海岸に出、なんと潮干狩りに来ていた集団に紛れ込んでその場をやり過ごし、大分まで逃げ延びたというのである。
そしてこのまま鹿児島へ行き西郷軍に合流しよう、と思っていたところに萩の乱への呼応計画や福岡の変に関する容疑で逮捕された矯志社・堅志社の少年たちが拷問を受けているという風聞が飛び込んできた。武部はすぐさま踵を返すと厳重に幾重にも張り巡らされた捜査網・警戒網を逆方向から大手を振って次々と突破していき、一直線に福岡県庁へと投降。謀議は自分の一存によるもので、少年たちは関与していないと主張した。これには全県下の警察が舌を巻いて震駭したという。
どこか盛っているんじゃないかと思うぐらい格好良いエピソードだが、奈良原たちは獄吏か誰かからこの話を聞かされて“あの武部先生ならば”と信じたらしい。
奈良原たちの脳裏にかつて自分たちが同席した不平士族たちの密議での出来事が思い浮かんだ。秘密会議の議題は鹿児島の西郷隆盛に呼応するための挙兵の時機についてだった。
主な出席者は強忍社社長・越智彦四郎、矯志社社長・武部小四郎、堅志社社長・箱田六輔の筑前3政社社長に加えて、後に玄洋社で頭山満や箱田六輔らと行動を共にする武井 忍助おしすけ、それから秋月の乱の首謀者で乃木希典が率いる小倉鎮台兵と激突した宮崎 車之助しゃのすけとその弟の今村百八郎の兄弟。そんな名だたる豪傑の集結する会議に奈良原至以下14,5歳を頭とする血気盛んな少年たちが16名列席していたというのである。
ちなみにこれは征韓論争で西郷さんが鹿児島へ帰国した後ということだが、14,5歳というのが奈良原の年齢だとすると明治6年政変で西郷が下野するよりも前の明治3,4年。福岡藩が廃藩される前後の話となってしまうので、密議が本当にあったとしても当時の奈良原の年齢は17,8歳ぐらいの頃だろう。
ともかく、武部小四郎や宮崎・今村といった奈良原より10歳以上年長の壮士たち(宮崎・今村の兄弟にいたっては1839年と1842年の天保年間生まれ)が並ぶ中でまだ少年の奈良原は勇ましく口を挟んだという。
「時機なぞはいつでもよろしい。とりあえず福岡鎮台を叩き潰せばええのでしょう。そうすれば藩内の不平士族が一気に武器をとって集まって来ましょう」
上は18歳も年上の先輩たちから注目を浴びる中、奈良原は気後れすることなく続けた。
「私どもはいつもお城の石垣を登って御本丸のムクの実を喰いに行きますので、あの中の案内なら、親の家よりも良う知っております。私どもにランプの石油を一缶と火薬を下さい。私ども十六人が、皆、頭から石油を浴びて、左右の袂に火薬を入れたまま石垣を登って番兵の眼をかすめ、兵営や火薬庫に忍び込みます。そうしてマッチで袂に火を放って走りまわりましたならば、そこここから火事になりましょう。火薬庫も破裂しましょう。その時に上の橋と下の橋から斬り込んでおいでになったならば、土百姓や町人の兵隊共は一たまりもありますまい」
その場の少年たちも拍手して奈良原の案に賛同し「遣って下さい遣って下さい」と頼み込んで来るので三十路を過ぎた宮崎と今村まで先輩たちは皆泣かされてしまった。年長者を代表して武部が静かに涙を払い、少年たちを諫止する。
「その志はかたじけないが、日本の前途はまだ暗澹たるものがある。万一吾々が失敗したならばあんた達が、吾々のあとを継いでこの皇国廓清の任に当らねばならぬ。また万一吾々が成功して天下を執る段になっても、吾々が今の薩長土肥のような醜い政権利権の奴隷になるかならぬかという事は、ほかならぬ貴公達に監視してもらわねばならぬ。間違うても今死ぬ事はならぬのだ」
今度は少年たちが泣き出し、16名皆謀議から追い出されてしまったという。
そして、明治10年。武部小四郎は戻ってきたのである。後輩たちを拷問の責め苦から救うために。自分の命をなげうって、若き同志たちに日本の将来を任せるために。かつて少年たちに語った言葉を果たすために。
若き志士たちに同情したらしき獄吏か誰かから武部小四郎が同じ兵営内の別棟の獄舎に入ったと聞かされた堅志社の青少年らは、翌日から朝目覚めるとまず「先生おはようございます」と口の中で挨拶しながらその獄舎の方向へ向かって礼拝するようになった。
だがやがて、武部先生が自分たちの分まで一身に罪を背負って処刑されるのだと想うと少年たちは眠ることもできなくなる。そしてついに5月3日。まだ空に月が残り、晩春だというのに冷気さえ感じるほど涼やかな早朝に、その時が来た。
武部の繋がれた獄舎に向かう提灯と微かな話し声。すわ、と少年たちはその方向へ向かって正座してお辞儀をするように上半身を前に倒し、両腕で体を支えるような姿勢で様子を見守った。泣く声を抑えきれない者もいたという。
そのうちに4,5人程の人影が出てくると、広場の真ん中辺りで武部小四郎らしき影が立ち止まった。その人影が少年たちのいる獄舎の方向を探し求めるように四方を見回したその直後――。
「行くぞオォーーーオオオーーーッ!!!」
大音声の獅子吼が暁の監獄を震わせた。少年らは思わず獄舎の床に平伏すと、とうとう声を上げて泣き出す者も現れ、誰も顔を上げることができなかったという。
奈良原至が聞いた中では最後の武部小四郎の声であるこの咆哮を、彼は一生忘れることが無かった。
全身全霊を込めるような雄叫びを少年たちに届けた武部は、刑場で獄吏にこれまでの丁寧な扱いに感謝の礼を述べてから、「私がよろしいと言うまで刀を振り下ろさないでください」と頼んだ。これは武部自身の覚悟や辞世のためではなく、処刑人が仕事を失敗してしまうことが無いようにという考えである。そして武部は形を整えてこうべを垂れると、執行人へ静かに声をかけた。
「よろしい」
しっかりと形を固められた胴体は首が落ちてなお崩れ落ちることなく、座った姿勢を泰然と保ったという。役人たちは思わず感嘆し、処刑を命じる立場にあった県令の渡辺清までも「徹頭徹尾英雄の典型を具したる偉丈夫なり」と称賛した。
そして一連の福岡士族叛乱の参加者たちに対する判決は、武部小四郎、越智彦四郎、久光忍太郎、村上彦十、加藤堅武の五人が斬罪。
森寛忠、加藤大三郎(加藤堅武の弟)、八木和一、花房庸夫、有馬彦馬、竹内恒三郎、財津十一郎、吉田虎彦、中村直行、森七郎の10人が懲役10年。
白柿禀太郎、森震志、船越間道、渡辺佳虎、武部彦麿の5人が懲役7年。
大木彰之介、久野一栄は5年。
久野伴十郎、徳木楯夫、田分政太郎、大野卯太郎(福岡の変の輜重役)、福田静雄が3年で計22人が重懲役となった。
その他330人が懲役2年、65人が1年、懲役100日が1人、棒鎖100日1人、士族身分からの除族が24人、収贖(刑罰に代わって金品を納めることで贖罪とする)が2人、免罪者31の軽罪宣告、加えて獄中死が43人に自刃を含む戦没者が58とも80余名とも言われる。
そのような数字で西南戦争と別個の事件としての福岡の変は幕を閉じた。
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