八 生来の大器

 乙丑の獄から明治維新、戊辰戦争、廃藩置県……という激動の時代でも少年時代の頭山満は相変わらずの様子でのびのびと過ごした。箱田六輔たちよりも5歳程年少だった彼は戊辰戦争に出兵する3500人の中に入らなかったのである。

 記憶力と頭の良さ、英雄への興味は相変わらずで十歳頃から『三国志』、『水滸伝』、『太閤記』などを次々読破し、やがて『論語』や当時の志士たちの必読書と言われた『靖献遺言』のような思想書にも手を出した。


 気ままに我が道を行く性格もあまり変わらなかった。

 明治元年、十三歳の頃。八郎は母の病気の治癒祈願で筥崎宮に通い、満願の期日を終えた帰りに太宰府天満宮にも参拝した。その際に天満宮の「満」の字が彼の目に止まる。その字を甚く気に入った彼は4年ほど前に「八郎」へと変えた自分の名前を再び改めて「満(みつる)」へと変えた。

 ところが兄弟の四番目(兄2人、姉1人)である彼が「八郎」になった時は快く受け入れた大人たちから「満」の名前に対しては苦言が出た。仏教には「栄枯盛衰、諸行無常」という考えがある。「八は末広がりで縁起が良いが、満ちてしまったら後は欠けていくだけじゃないか」とのことである。

 しかし彼は幼い頃から既に述べてきた通りの人となりだったので家族の反対もものともせず押し切った。実際に後世の我々が大人になってからの彼を見れば、頭山満は満ちても満ちても欠けることなく、まるで風船がいつまでたっても割れないかのごとくにより大きく膨らみ続けたのである。あるいはどこかでその大器が完成していたのかもしれないが、衰えというものを知らず底がどこにあるのかわからないほど大きいままだった。

 頭山満という男はお月様みたいになれる器ではなかったのだ。


 さて、普通に留守番やおつかいをさせても、そんな彼のキャラはそういった細々した仕事を普通にこなすのに向いていない。

 彼が十幾歳の頃の冬、コンニャクを買ってくるように頼まれて10銭硬貨1枚を渡されたことがあった。コンニャク一つの価格がだいたい2厘か3厘。現代の貨幣で考えると1個数十グラム20円~30円のコンニャクを10個か20個買えるように千円札を渡されたといった感じだろうか。

 しかし“普通に考えれば10個か20個で充分だ”とか“常識的に考えれば無茶な買い方はしないだろう”というような暗黙の了解は通用しない少年が筒井乙次郎であり、八郎になっても満になってもそれは変わらない。

 コンニャク屋に着いた彼は十銭玉を無言で店主に差し出すとそのまま黙って商品が出てくるのを待った。

「……これだけのコンニャクをば全部買いなさると?」

 困惑する店主に少年時代の満はウンと頷いた。

 「それじゃ入れ物を出しなさい」と店主がいうと満は襟を大きく開けて、いよいよ啞然とする店主の前で冬の寒さの中、びっしょりと水に濡れて氷のように冷たくなっている大量のコンニャクを次々と胸の中に詰め込んで平然と家に帰った。


 また薪を取りに行くなどという名目で山に入ると、そのまま3日も四日も山籠もりをおっぱじめたことが一度や二度ではなかった。

 「仙人になってみたくて三日三晩飲まず食わずでいるとどうなるか試していた」という息子に母親は「この子は石川五右衛門にでもなる気か」と嘆いたという。


 息子の奔放ぶりに色々頭を悩ませられる母親イソに対して父親の亀策は「言って聞くような奴でもない。好きにさせておこう」と寛容に見守った。亀策も事が起こる前とか、準備段階ではあれこれと水も漏らさぬように配慮する心配性だったが、一方で一度動き出していくら心配したところでどうしようもない状況になれば覚悟を決めてうろたえず、「仔細無し。胸据わって進むなり」の武士道精神で突き進み、過ぎ去ったことにはとやかく言わないという侍魂の気質を持っていた。


 満のやんちゃ腕白で自由奔放な性格は周囲の人々を呆れさせると同時にどこか惹きつけられる愛嬌があった。後に「玄洋社の頭山満」になって以降の彼の評価や周囲の人物の対応を見ていると、生まれながらのカリスマというか人に好かれる才能みたいなものがあったのだろう。時に年長者たちを困らせながらも父や塾の亀井暘洲先生らに愛されて大らかに育てられた。

 大人たちに見守られる中で古典などから英雄の生き様を学び、孔子などの学を身に着け、次第に彼はただ乱暴なばかりではなく、天衣無縫の性格そのままに深い知性と人々の尊敬を集める大きな器を持った人物に脱皮していく。

 数えの16歳まで5尺(およそ151.5センチメートル)やっとで友人たちより小さかったという満の身長はその後1年で5寸(約15.15センチメートル)伸びて、最終的に身長が5尺7寸(172.7271センチメートル前後)、体重は18貫(67.5キログラム)もあろうという巨漢に成長した。兄や姉の物を奪い取る悪ガキだった彼は体の成長と共に心機一転し、我欲を捨てた大人物となることを目指していった。


 ※江戸期から明治期初頭の日本人男性の平均身長は農民の慎ましい食生活の影響もあって155から160センチ程度だった。武家などには頭山満と身長が同じくらいかそれより高い有名人もそこそこいて、肉食に抵抗の少ない薩摩藩出身である大久保利通の背丈は178センチあったという。

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