六 御維新と福岡の廃藩

 勤皇派を投獄した福岡藩の佐幕派たちは、維新の時まで藩の政権を握った。乙丑の獄が慶応元年。明治維新までおよそ3年の天下である。このタイミングで加藤司書という時代に必要とされる逸材を失った福岡藩にはできることがほとんどなかったし、さすがの佐幕派にも歴史の流ればかりはどうしようもなかった。


 この頃は薩長倒幕派と新体制での生き残りを求める徳川……否、再編される新体制を列候会議とし、その中心的地位を握ろうとする徳川慶喜とそれを打倒せんとする薩長の激しい駆け引きが行われていた。

 坂本龍馬も土佐の大名である山内豊信も、幕府体制を解体することまでは考えられていても、その後できる新しい議会政府の首班には徳川家以外の人間を想像できずにいる。日本の行政を200年担当してきた官僚を配下に収める江戸幕府に対して、朝廷と薩長は全国規模の政権担当能力を持っていない。


 そんな中で慶喜は大政奉還により徳川追撃の大義名分を失わせ、対する大久保と西郷は挑発を繰り返して慶喜の側に弓を引かせようと企てる。そしてついに政争は戦闘となり、慶応4年1月3日、戊辰戦争が勃発した。

 慶喜側の兵力の大きさに戦線は拮抗するが、大久保が岩倉具視に認めさせた「錦の御旗」が薩長軍側に掲げられると土佐・肥前両藩はついに倒幕の覚悟を固めて薩長の側に援軍として駆けつけ、他の諸大名もこれに従い次々と馳せ参じた。


 その頃の福岡藩はというと、佐幕派の次席家老である久野将監(加藤司書と同様にこの「将監」も役職ではなく個人の名前らしい)は正月に「幕府側優位」という報せを受けて海路で大阪に向かう。

 ところが着いた時には形成が逆転して、大阪は官軍となった薩長に占領されていたので、久野は上陸せずにそのまま福岡藩へ帰り、ちょうど帰ってくるのと同じぐらいのタイミングで京都の朝廷から福岡に出動命令が来たのであっさりと寝返って藩兵3500人を送り込んで討幕軍に加勢し、とりあえず新政府側についたという最低限の体裁だけは保った。


 この時、頭山満よりも年上で後に玄洋社歴代の社長となる平岡浩太郎、進藤喜平太、箱田六輔が官軍側に参戦し、江戸、奥羽と進撃した。箱田は乙丑の獄の際、15歳で足軽兵の一人として野村望東尼を流罪先の姫島へ護送する任に就いた人物でもある。

 この3人の戊辰戦争中のエピソードとしては平岡浩太郎のものが面白いだろうか。当時16歳の彼は江戸城が新政府軍に明け渡された後、一時歩哨として江戸城桜田門の警備を担当した。ところがある時門を守る彼らの面前を随分と図体の大きい男が馬に乗ったまま何も言わず通過しようとするということが起きる。

 平岡は「歩哨が守る門を黙って通り抜けるとは怪しからん奴」と食って掛かり、男を押しとどめた。素性を問われた馬上の男は若き平岡の行動に反感を抱いた風でもなく落ち着いて答えた。

「西郷吉之助でごわす」

 その後西郷はわざわざ歩哨の詰め所まで来て平岡を訪ね、先ほどの仕事ぶりは非常に立派であったと称賛した。この一件で西郷に心酔した平岡浩太郎は後に西南戦争でも西郷のいる薩摩へ馳せ参じることになる。


 さて、一先ず佐幕派から寝返り新政府側には参加した福岡藩だったが、それだけで明治の変革を上手く乗り越えられるわけではなかった。なによりも乙丑の獄で尊皇派の優秀な人材を失い過ぎた。

 指導者たりえる上級藩士も含めて21名が切腹、もしくは斬首。これに牢獄の劣悪な衛生環境に何年も幽閉されて獄死した者も加わる。……それ以前にまず、戊辰戦争の開戦1ヶ月後である慶応元年2月3日まで乙丑の獄で流罪・幽閉の判決を受けた40人以上の勤皇党が釈放されてなかった。

 戊辰戦争に派遣された福岡藩兵は一定の数こそ揃えていても、特に指揮官の層に大きな空白を抱えていたのである。藩士たちは奮戦したものの、指揮官不足による藩兵の指揮統制低下や規律の欠如は福岡藩を新政府軍の中で足手まといにし、幕府軍から呆れられ、戦地となった奥羽の住民からも不評を買うレベルだったという。

 乙丑の獄で切腹した藩士建部武彦の息子である武部小四郎の下で平岡浩太郎、進藤喜平太、箱田六輔は明治2年に「福岡藩兵隊就義隊」というものを組織して、どうにか藩兵の指揮統制を向上させようと兵制改革に努めたが新政府からの信用を回復させるまではとてもできなかった。

 いやそもそも、藩内の尊皇派を140人も逮捕し、うち20人以上を刑死させた佐幕派の家老が、新政府側の優勢が明らかになった後のタイミングで朝廷の命令に従い兵を出したという福岡藩のこの動きを見てこれを信用しろという方が無茶な話であった。福岡藩に同情して懸命に擁護してくれた西郷隆盛のような例外を除き、新政府は乙丑の獄の時点で福岡藩が維新の同志から脱落していなくなったようなものと見なしていたのである。

 久野将監ら佐幕派の家老3人は新政府の圧力もあり、“時勢の大局展望を見誤った”という失政の責を取る形で切腹に追いやられ、同時に藩庁にいた23名も遠島以下の処分となった。

 福岡藩はこれでさらに新政府に送る人材も維新後の福岡を導ける人材も無くしてしまったことになる。だが、乙丑の獄と戊辰戦争にまつわる福岡藩の屈辱はここで終わらなかった。


 明治に入って130万両の負債を抱えた福岡藩は、新政府が発行している太政官札を偽造するという不法手段で財政危機を乗り越えようと試みる。元々藩札を発行していたわけだから印刷職人とノウハウは揃っていた。過去には天保銭を偽造した経験もある。

 そもそも維新の混乱の中であちこちの藩が財政危機に陥っており、偽札発行を行った藩も多かった。その中には新政府の中枢であったはずの薩摩藩の名前すらあったという。というか今回の福岡藩の財政危機は戊辰戦争の出費によるものだ。


 “……まあ、仕方ないよね”ぐらいの気持ちで福岡藩はいたのかもしれないが、中央集権型の新体制を目指す明治政府は“仕方ないよね”とは思わなかった。


 例えば太平洋の向こう側にあるアメリカ合衆国という国は通貨発行の権限が半官半民の12銀行に分かれているが、一部ではエイブラハム・リンカーンやジョン・F・ケネディなどという人気の高かった大統領が暗殺されたのはこの通貨発行権を中央政府の下に一手に集中させようと試みた直後のタイミングだったと考える人がいるらしい。

 本当かどうかはさておき、そんな噂までまことしやかに語られる程度には国家政府にとって通貨発行権の確保が重大事なのである。だから福岡藩という微妙な立場の藩が紙幣偽造に関わった時、“ちょうどいいカモだ”とみなした元老も一部にはいたかもしれない。

 明治3年、福岡藩は偽造現場を摘発され大勢の役人が逮捕された。西郷隆盛や三条実美の仲介も空しく、大参事(副知事、地方副長官、家老などに相当する人)や権大参事などといった重役を含めて30名ほどが斬罪や遠島などの刑に処される。

 明治4年7月2日には福岡藩12代藩主で知藩事(藩知事とも言う)だった黒田長知も偽札事件の責任を追及され政府から罷免された。同時期、財政破綻によって西南雄藩・東北佐幕派の別を問わず多くの地域がむしろ自ら進んで政府へ藩の返上を申し出た一方で、福岡藩は同じ財政危機に由来したこの偽札事件による不名誉な処分で全国に正式な廃藩置県が発令されるより12日早い廃藩となったのである。


 ちなみに代わりの知藩事には有栖川宮熾仁親王というちょっと有名な宮様が就任した。近代日本最初の軍歌と言われる「宮さん宮さん」(トンヤレ節、維新マーチ)で歌われる宮さまであり、日本赤十字社(の前身)の設立を後押しするなど明治時代に活躍して様々な功績を残した方だ。

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