第3話 斉木貴之 2
「斉木さん!」
後ろから、三上の声がした。斉木が振り替えると、畑山と同じく去年入社したばかりの三上祐太が斉木の元に駆け寄ってきた。
「なんだ、三上。」
「斉木さん、待ってくださいよ。悪いのは斉木さんじゃないですよ。」
三上は、どうやら、斉木のことを心配して後を追いかけてきたらしい。三上は、平野と二人で営業を担当しているが、還暦間際の平野よりも、斉木のことを随分と慕っていた。
「いや、俺が悪いんだ。平野さんの言う通りだよ。畑山に対する接し方を、もう少し考えてやるべきだった。」
「なに言ってんすか。あんなわがままクソ女のことなんて気にしないでくださいよ。斉木さんがいないとうちの仕事、終わりですよ。」
「おい、俺は別に辞めないぞ。明日からまた働くさ。でもな、三上、勘違いしないでほしいんだが、俺がいなくてもうちは回る。俺にあるのは仕事量だけだ。仕事の内容は、誰がやっても同じになる。うちはそういう仕事しかないんだ。」
「そんなことないです。ホテルとの調整にしたって、斉木さんから畑山になった途端にクレームの嵐だったじゃないですか。それを斉木さんが謝罪しまくって回って丸く収まって。そんなの斉木さんにしかできないですよ。」
「ありがとうな。とりあえず、今日はもう帰る。明日届く試供品は水のペットボトルだ。仕分け、手伝ってくれ。」
「了解っす。畑山たちのこと、何かあったら連絡しますね。」
三上は携帯を顔の横で振りながら、事務所に入っていった。斉木は、ありがたく思いながらも、気を遣わせてしまったことへの申し訳なさを感じた。しかし、やはり三上のお陰で随分と救われた気がしたのは確かだ。三上が来なければ、一人で自己嫌悪の海に沈んでいたことであろう。
「ありがとな。」
斉木はそう呟いて、いつもは使わないエレベーターに乗った。腕時計を見ると、午後二時より少し前だった。
エレベーターを降りた右手にはゴミ収納庫が二つ並ぶ。路面の飲食店のゴミは、この時間いつも溢れていた。ビルの裏手の通用口から出たが、路地は薄暗く、地面に熱がこもっていて、一層ゴミの匂いが漂ってきそうだった。人の姿はなく、閑散としていた。気が滅入りそうな光景だが、それでも斉木の心は晴れやかだった。表通りに出て、そのまま地下鉄の駅まで歩いた。そして、そこから出ている適当なバスに乗った。
家に帰る気はしなかった。かといって、酒を飲むような気分でもなく、ふらりとどこかへ足を伸ばそうと思い立ったのだ。そこで、テレビ番組のように、行きずりの店にでも立ち寄り、少し贅沢なランチでも取ろうと、斉木は考えていた。
車内は扇風機が回っていたが蒸し暑く、斉木はワイシャツのボタンを一つ外した。このバスに乗るのは初めてだった。いつもは地下鉄で移動しているからだ。アパートを決めるときも、バスの路線ではなく地下鉄とJRの路線を考慮して決めた。バスは時間帯が変わるし、バス停の場所が変わることだってある。だから、大学を卒業してからは、バスそのものを避けていた。
行き先は敢えて見ずに乗った。どこに行くのかはわからないが、とにかく今日は、考えるのが嫌になるくらい食って、気分転換をしようと考えたのだ。ほとんど人が乗っていなかった。一番後ろの席に腰を降ろし、携帯を見た。誰からも連絡はなかった。斉木は携帯の電源を落とし、鞄の底に突っ込んだ。そして背もたれに寄りかかり、目を閉じた。畑山の泣き顔と、それを慰める平野の顔が浮かんだが、それらを振り払うかのように固く瞼を瞑った。
◇◇◇◇◇◆◇◇◇◇◇
気がついたのは数分後か、数時間と経ったときだったか、それはわからないが、ひどい悪夢で目が覚めた。夢の内容は覚えてはいない。背中まで汗をかいていた。口の中がねばつき、嫌な味がした。
バスは、道の真ん中で止まっていた。音という音が消え失せ、耳鳴りが響いていた。瞬時に、ただ事ではないと悟った。斉木は窓の外をちらりと確認したが、空は色を無くしていた。辺りは薄暗く、風もない。
バスの前方には、他の乗客がいた。斉木は運転席に行くつもりで席を立ち上がり、手すりに捕まりながら前方へ移動した。親子連れと高齢者、いずれも席に座ったままだった。すれ違い様に表情を見たが、そこには蝋人形かと見間違えるほどに、ぬるっとした顔立ちをしたマネキンのような人間がいるだけだった。母親も子供も老人も、皆魂が抜けたように動かなかった。斉木は思わず声を出しそうになり、右手で口許を押さえた。
運転手も、非常時であるにも関わらず、ピクリとも動きはしなかった。左側から恐る恐る顔を覗き込んだ斉木は、見なければよかったと後悔した。運転手はまるで、目や口に洞のような穴が開いた泥人形だった。おぞましいものを見た。斉木は足早に座席へと戻った。親子連れや老人を見ないようにして。
窓の外は一切が止まっていた。まるで、風景画の中にいるようだった。世界から生の息吹がまるで消え去り、無機質な微睡みの中に放り込まれたようだった。対抗斜線を走る車の運転席に、同じような蝋人形を見つけた。斉木は息苦しさを覚え、たまらず固く目を閉じ、頭を抱え込んだ。
すると瞬く間に、瞼の裏側に、黒色の塊が出現した。塊は徐々に大きくなり、こちらへ迫ってきているかのような錯覚を斉木は覚えた。あれに触れたらまずい、そう思いながらも、斉木は最早目を開けることができなくなっていた。時間にして、ほんの一瞬のことだった。黒い塊は瞼の裏側に一面に広がり、斉木を引っ張り込んだ。斉木は、足が地面から離れ、身体が宙に浮いたような浮揚感を覚えた。そして一気に、黒い塊に飲み込まれた。まるで脳がかき混ぜられ、頭皮から螺旋状に引き剥がされ、小さい穴に吸い込まれるような、痛みは伴わないものの、自らの身体がそういうふうになっていることを感覚で理解できた。斉木は、自らに降りかかるあらゆる恐怖に、目を閉じ歯を食い縛って必死に耐えた。悪寒がして身体が震えだし、頭が全て引き込まれた時点で意識は遠退いた。
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頬で風を感じた。風は、さざ波のように、寄せては返し、意識の深淵から斉木の頭を揺り起こした。その風は、斉木に心地よさをもたらした。意識が徐々にはっきりとしてきたが、それと同時に眠気が襲いかかり、斉木は頭をその場に深く沈めた。
遠くで複数の人の声が聞こえた。目は開かないが、人の声だとはっきりとわかったのは、声が日本語を喋っていたからだ。「暑いから…、」「水持ってきて…、」断片的に聞き取れた。やがて、声の一人が、
「聞こえますか?」
とはっきり言った。斉木は小さく頷いた。
「斉木さん!」
三上の声に似ていた。斉木は、気力を振り絞って目を開けた。まず、見慣れた天井が見えた。本部の事務所だった。事務所の床に仰向けに寝ているようだった。そして、三上、平野、それに荒川が覗き込んでいた。斉木の目が開いたのは一瞬で、あとは強烈な眠気のせいか、再び瞼を閉じてしまった。
「斉木さん、大丈夫か!?」
平野の声だ。おまえのせいでこうなったんだ、とでも言ってやりたいところだったが、そんな余裕はなかった。むしろ平野の声を聞いた瞬間に、斉木は安心仕切ってしまい、思わず頬に微笑が浮かんだ。もっとも、微笑むくらいしかできなかったのだが。腕や足には力が入らず、頭も回らなかった。扇風機が首を振って斉木のほうに風を送っていた。その風が顔に当たる度に、斉木は極楽を感じていた。
「斉木さん、水飲めるか?」
平野が言った。誰かが斉木の首を抱えて起こし、グラスに入った水を斉木の口許に近づけた。グラスを持っていたのは三上だった。斉木は水を口に含むと、すぐに飲み込んだ。喉に粘つくような水だった。たまらず、斉木は咳き込んだが、水がうまいと感じ、三上からグラスを受け取り一気に飲んだ。生き返った。
「斉木さん、今日はもう帰っていいよ。部長命令だ。」
平野が、聞いたことのある台詞を言った。
「ココデスの原稿、明日までだろ?こっちでやっておくから。」
ココデスの原稿なら、荒川に出したばかりだ。斉木は荒川を見たが、荒川は何も言わない。
「原稿なら、荒川さんに」
そこで再び意識が遠退いた。水を飲むために首を起こしていた斉木は、力が抜けて後ろに倒れ込んだ。さっきまで支えてくれた人がすでにいなくて、斉木はゴチンと、頭が地面を打った。痛いとは思ったが、それよりも瞼が開かなかった。
「斉木さん!」
後ろから畑山の声がした。頭が持ち上げられ、柔らかいものの上に置かれた。なんとなく、畑山の太腿のような気がした。
「原稿、ありました!今プリントアウトします!」
斉木のデスクのほうから、三上の大声が聞こえた。原稿なら荒川さんに、そう言おうとしたが、プリントアウトしたのなら別にいいかと思い直し、三上に任せた。しかし、ふと思い立って、斉木は畑山に質問をした。
「畑山さん、今、何時?」
「えっと、十一時五十分です」
その瞬間に、斉木は全てを理解した。
(ああ、そうか。夢か。)
斉木は立ち上がろうとしたが、畑山に制された。
「斉木さん、駄目です。まだ寝ててください。」
畑山は、両手で斉木の頭を撫でた。押さえつけているつもりなのか。しかし、頭を撫でられるその手の感触は心地よく、斉木はそのまま意識が遠退いて行くのを感じた。薄れ行く感覚の中で、斉木は最後の気力を振り絞って畑山に問いかけていた。
「畑山さん、実習生、どうなったかな?」
そしてそのまま、寝た。
◇◇◇◇◇◆◇◇◇◇◇
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