#2 西に向かって漕ぎゆけば

 ディカルト連邦の町並みはえてして雑である。景観もあまり良くない。それはティシュリの街も同様だ。街道は建物と建物の間を曲がりくねっており、住宅地の中に日照権を全く無視した高さのビルが不規則に並ぶ。乱雑ながらくた箱のようだ。

 ティシュリの港町の一角、北の街道に面した一区画に、とりわけ高いビルが建っている。高さもさることながら、そのけばけばしい外観が異様なまでに目立ち、ただでさえ良くないティシュリの街の景観をますます損ねている。

 そのビルの最上階にあるひとつの部屋で、男たちはくつろいでいた。ひとりはワイングラスを片手に窓から港を眺め、ひとりはソファに だらしなく寝ころび、五、六人の黒服、サングラスという出で立ちの男たちは壁際に整列していた。

 ワイングラスを持って格好つけている男は、ベルベットの上下に王子様テイストな絹のブラウス、ブラウスの襟元に絹のリボンをつけている。ソファに寝ころんでいる男は洗い晒しのくたびれたフロックコート、一見して安物とわかる、よれた丸首シャツ、プレスのかかっていないぼろぼろのズボン、ぼさぼさの黒髪に無精ひげという出で立ちだ。一見して立場がわかりそうだ。

「どうやら、ティシュリじゅうのビールがなくなったようだぜ。あちこちの酒場が悲鳴を上げてる」

 ソファに寝ころんだまま、汚い男が顔を手でこすりながら言った。無精ひげだらけのそのいかつい顔には、額と右頬にくっきりと刀傷が残っている。

「いよいよビール醸造組合も困っているだろうね。まったく馬鹿だね。おとなしく我々バニパル=シンジケートの傘下に入っていれば、こんなことにはならなかったろうに。そう思わないかね、ジュリアス君」

 金持ち風の男はそう言って、ワイングラスを傾けた。

「どら息子が、いっちょうまえな格好をしてピーチネクターなんか飲んでんじゃねえよ。で、これからどうするんだ、アッシャーさんよ」

 ジュリアスと呼ばれた男はソファから起きあがって、アッシャーにきいた。

 アッシャーは、ディカルト有数の複合企業組織、バニパル=シンジケートの総帥の御曹司。つまり、ボンボンである。金があることをいいことに遊んでいるどら息子で、ティシュリではたいていの人が知っている。

「とりあえず、我々の傘下に入ることを拒否したビール組合を徹底的に困らせる。で、いよいよと言うところで、我々の傘下に入るという条件で、我々の買い占めた大麦を高値で売りつける。これが成功すれば、ボクはパパにほめられて、チョコレートパフェが食べ放題! うれしいなあ」

 どうやら、大麦買い占めの犯人は、このどら息子のようである。

「で、オレのすることは、あんたの護衛と、相手を脅す役だな。ちゃんと約束の報酬をくれるんだろうな」

 ジュリアスはアッシャーを上目づたいで見た。

「はっはっは、もちろんだとも。これが成功すれば、約束通り、1000金貨ターバルをキャッシュであげるよ」

 1000ターバルは一年間は軽く遊んで暮らせるほどの大金である。さすがは大財閥の御曹司だけあって、大金をぽんと出すことができる。

 そのとき、ばたばたと廊下を走る音がして、黒服の男がひとり、部屋の中に駆け込んできた。

「坊ちゃん、大変です!」

「何かね、騒々しい」

「キャンベル村のビール醸造組合が大麦の仕入れに動きました。航海者を雇って大麦仕入れを依頼したようです」

 黒服の男は荒い息を整えながら言った。

「それは変だな。ビール組合は何回か大麦仕入れに動いて、そのたびに我々が妨害したから、もう動かないと思ってたんだが。それに、連邦内の大麦はみな我々が押さえたから、仕入れはできないはずだし」

 アッシャーは首をひねった。

「もしかしたら、外国産の大麦を仕入れるんじゃねえのか」

 ジュリアスの言葉に、報告に来た黒服の男がうなずいた。

「はい。ビール組合は試験的にコスバイア産大麦を仕入れるようです」

「コスバイア産の大麦をねえ……」

 アッシャーは窓の外のティシュリ港を眺めた。

「君、ビール組合が雇った航海者は誰だか聞いているかね」

「いえ、聞いていません。ただ、ビール組合に偵察に行っていた仲間からの報告だと、しょうが色の長い髪をした、かわいい女の子だったと言うことでしたが」

「女の子?ふーん、ビール組合も物好きだね。小娘の航海者を雇うとは」

 そう言いながら、アッシャーはテーブルの上にワイングラスを置いた。

「とにかく、どんな形だろうとビール組合に大麦を仕入れさせるわけにはいかないからね。すぐに出航しよう。ジュリアス、君はボクのチャーターした戦艦、ブラッディ=ウルフ号の指揮を執ってくれ。ボクは武装商船、ロード=オブ=オーシャン号の指揮を執ろう」

「わかった。それから、ビール組合に雇われた小娘航海者はマリアンヌ・シャルマーニュに違いないぜ」

 ジュリアスは壁に立てかけてあったサーベルをおっとり、立ち上がった。

「マリアンヌ・シャルマーニュ? 聞いたことのない名前だね」

「ティシュリを中心に交易をやっている提督だ。船はインフィニティ号。まあ、あまり有名じゃねえから、腕も大したことねえだろうな」

「ビール組合ももっとましな提督を雇うべきだったね。これなら、余裕で仕入れの妨害ができるよ」

 アッシャーは余裕綽々といった態度で言い放った。

「ふん。だが、油断は禁物だぜ。万一マリアンヌ・シャルマーニュが大麦を仕入れたらどうする?」

「そりゃ、ボクたちのじゃまをするものは排除するさ。かわいそうだけど、船ごと海の藻屑と消えてもらうよりないね」

「ふん、そうでなくちゃな」

 ジュリアスは針のように鋭く冷たい目をして、軽く笑い、アッシャーと連れだって部屋を出ていった。


 インフィニティ号がティシュリ港を出航してから二日後、10月10日。

 風は南東の風で、船はやや追い風を受けて、順調に航行していた。

 天気はからっとした秋晴れで、非常に気持ちがいい。

 朝食の時間が終わり、マリアンヌは船尾甲板の上に置いてある樽の上に腰掛けて、海を眺めていた。

 見張りや操帆、甲板の掃除などといった作業は三交代制で行われる。作業を行う船員は忙しいが、休んでいる船員は、狭い船の中で暇を持て余すことになる。暇な船員たちはそれぞれ、昼寝をしたり、チェスやカードなどを楽しんだり、本を読んだり、筋トレに励んだりして暇をつぶしている。

 マリアンヌは暇だった。当直甲板上で暇だの退屈だのぶつぶつ言っていたら、セレウコスに怒られたので、とりあえず船尾に退いて海を眺めて暇をつぶしていた。

「あーあ、何かすることないかなぁ」

 すぐそばではプトレマイオスが大きないびきをかいて大の字になって寝ころんでいる。彼女は船室に戻って昼寝しようかと思ったが、天気がいいのでそれももったいない気がした。

「あ、そうだ」

 彼女はぽんと手を打ち、樽の上から降りて、急いで船倉に降りていった。そして、模擬戦闘用の剣を二本抱えて、甲板に上がってきた。

「ん、どうしたんですか」

 当直甲板に上がってきた彼女に、セレウコスが声をかけた。

「剣術の練習をしようと思ってね」

「ほう。これは珍しい」

「海の上ではなにがあるかわからないから、剣術ぐらい身につけておけって、セルいつも言ってるでしょ。だから、たまには練習しなきゃね。セル、稽古をつけてくれない?」

「しばし待ってください」

 セレウコスは当直甲板上でデッキチェアに転がって本を読んでいるカッサンドロスのところにいった。

「しばらく船長役を代わってくれ」

「今、読書中で忙しいんじゃ」

「どうせエロ本だろう」

「違うわい。美女艶絵集じゃよ」

「同じだ。ほら、しばらく代われ」

 セレウコスはカッサンドロスを無理やり起こし、船長役を交代してから、マリアンヌのところへ来た。

「始めましょうか。ここは狭いから、上甲板でやりましょう」

「いいよ」

 二人は当直甲板から上甲板に降りて、セレウコスはショートソードを、マリアンヌはサーベルを取って向かい合った。

 間合いを取ってから、マリアンヌはセレウコスの足もとをめがけて、サーベルを横に振った。彼は難なくそれをショートソードで受け止めた。彼女は続けざまに彼の胴を薙ごうとしたが、これも簡単にはじき返された。彼女は素早く切り返して、彼の胸元に剣を突き出したが、難なくかわされた。

「んもう、どうして当たんないの」

「焦ったら負けです」

「焦ってなんか、ないもん」

 マリアンヌはサーベルを矢継ぎ早に繰り出してセレウコスに斬りつけるのだが、防御に専念している彼にはまったく当たらなかった。

 次第に彼女は疲れてきた。

「ようし、こうなったら……」

彼女は後ろに一歩分間合いを取ると、身を低くして、ダッシュでセレウコスの懐に飛び込み、サーベルを突き出した。

 セレウコスはあわてた様子もなく、半身を開いてかわし、彼女の手をつかむと、身体のひねりを利用して投げ飛ばした。

「きゃうっ!」

 彼女の身体は甲板に投げ出され、反対側の船縁に転がって、衝突した。

「い、痛い~」

「隙が大きすぎます。あれではなにしようとしているか、すぐわかってしまいますよ」

 彼女は起きあがり、またサーベルを構えた。

「今度こそ一本とってやるんだから。えーいっ」

 そう言って、セレウコスの胴めがけてサーベルで斬りつけた。これは簡単にはじき返された。彼女はスピードを上げてサーベルを振って、彼に斬りかかり、突きかかるのだが、彼にかわされ続けていた。

「しゃにむに振っていればいいってものじゃありません」

「わかってるもん」

 口ではわかっていると言いながら、それでも彼女はしゃにむにサーベルを振っていた。

「てぇいっ!」

 彼女はセレウコスの横腹めがけて大きくサーベルを振った。それをセレウコスは簡単にかわして、空振りしてわずかに体の泳いだ彼女に向かって、縦にショートソードを振った。

 こんっ

「痛っ」

 刃を入れていない練習用とはいえ、金属製の剣である。セレウコスとしては軽くたたいただけなのだが、彼女は頭を押さえてうずくまった。

「大げさですな。ちょっと当たったくらいで」

「くすん。痛いものは痛いんだもん」

 彼女はちょっと怒った表情で、上目づたいに彼をみると、また剣をとった。

「今度こそ一本とってやるわ」

「はいはい。どうぞ」

 マリアンヌは軽く踏み込んで、加速のついた突きを繰り出した。セレウコスがそれを剣先でかわすと、さらに連続して突きを繰り出した。

 セレウコスはこれまでと違い、彼女の攻撃をかわしながら応戦してきた。彼女は身をかわして彼の攻撃をよけていた。

 だが、歴戦の強者相手ではとてもかなわない。彼女は徐々に押されて、船縁近くまで追いつめられた。

 彼女はふと、背中の方向にある、小さな木製のコンテナを見た。

「……そうだ」

 彼女はしばらくの間セレウコスを引きつけると、後方に退いて間合いを取り、コンテナを足場にしてハイジャンプした。そして、セレウコスを飛び越してその後ろをねらおうとした。

「運動神経だったら負けないもんね!」

「でも、無駄な動きです」

 彼はあわてた様子もなく、マリアンヌが着地しかけるところをねらって足払いをかけた。彼女はバランスを崩して、甲板の上に背中から不時着した。

 倒れた彼女めがけて、彼のショートソードが彼女に襲いかかった。

「きゃあ!」

 彼女は思わず悲鳴を上げて、目をつむってしまった。

 5秒ぐらいしてから彼女が目を開けると、ショートソードの剣先は彼女の鼻先1センチのところで制止していた。

「戦いの時に目をつぶっては駄目です」

 セレウコスが軽く彼女をたしなめ、手を取って彼女を起こした。

「だってぇ……」

「今は練習だからいいですが、これが本当の戦闘だったらお嬢ちゃんの命はありませんよ」

「わかってるわよ」

 マリアンヌはサーベルを拾い上げ、再度構えに入った。

「提督、応援してますぜ」

「船長から一本とってくだせえよ」

「提督、ファイト」

 彼女の練習を眺めていた船員たちがマリアンヌに声援を送った。

「ありがとう、みんな。よーし、がんばるぞ」

 彼女は応援に元気づけられ、気を引き締めてセレウコスに向かって打ちかかった。

 彼女が右足で強く踏み切って、斬りかかってきたところをセレウコスは剣で止めた。すると彼女はすぐさま左足で踏み切って彼に斬りかかった。彼がそれを跳ね返すと、すぐにまた右足で踏み切って斬りかかった。そのテンポはこれまでに比べて一段と速く、攻撃のスピードも素早かった。

 彼女の連続攻撃を彼は身をひいてよけたが、彼女はそこでクイックターンして、サーベルで彼の胴をないだ。

「むっ」

 どんどん速くなってくる彼女の攻撃にセレウコスの対応が一瞬遅れ、彼女のサーベルは彼の胴を打っていた。

「やったあ! セルから一本とれたわ!」

 マリアンヌは飛び跳ねて喜んだ。

「提督、やりましたね」

「あの船長から一本とるなんて、すごいことですぜ」

 彼女を応援していた船員たちが口々に彼女をほめた。

「気分がいいからちょっと休憩ね、セル」

「はい」

 彼女は晴れやかな顔で甲板上に腰を下ろし、船員の持ってきたタオルで汗を拭いた。セレウコスも甲板の上に腰を下ろした。

「ねえ、セル。お父ちゃんも剣術がうまかったの? 海賊退治でも有名だったから、きっと強かったんだと思うけど」

「ジョゼフの旦那は、強者と呼ぶにふさわしい人でした」

 マリアンヌの質問に、セレウコスが答えて言った。

「旦那はジェペニアで一年間剣の修行を積んで、あの国の剣術を習得していました。あの国にはカタナって言う、切れ味のいい武器がありましてね、旦那はそれの使い手でした。東大洋の海賊で、差しで旦那にかなう奴はいませんでした。自分でも旦那にはかないません。旦那と互角に渡り合えたのは、副官の二丁斧のリュウぐらいでしたね」

「リュウおじさんはいかにも強そうだったけど、お父ちゃんはそれと互角だったのかぁ。じゃあ、強かったんだ」

 彼女は甲板上から腰を上げた。

「あたしもお父ちゃんに負けない航海者になるなら、剣術がうまくならなきゃね。さあ、練習再開よ」

「はい。お嬢ちゃんはそのスピードを生かすといいでしょうな。力がないぶん、スピードと正確さで戦えばいい。だが、その前に防御が甘すぎます。今からは防御を徹底的にやりましょう」

「えー、そんなのつまんないよ」

「いやならかまいません。そのかわり、後できっと後悔しますよ。死んで後悔したって遅いんですから」

「もうっ、わかったわよ。防御の練習するわよ」

 ふたりは互いの剣をとると、向き合って構えた。ここからは、セレウコスの攻撃をマリアンヌが防ぐ練習になった。

 ふたりはそれから、日が沈むまで剣の練習をしていた。


 出航してから四日目の10月12日。未明。

 インフィニティ号の船尾にある提督用の船室で寝ていたマリアンヌは、激しい揺れと、波のたたきつける音に起こされた。

「もしかして、嵐になったのかしら?」

 彼女はベッドから起きあがると、船室の格子窓から外の様子を眺めた。

 外は暗くてよくわからなかったが、波が高くなっているのはわかった。激しく風の吹き付ける音や強い雨音が聞こえてきていた。

 彼女の顔が緊張で引き締まった。

 昨日の朝方、これまで吹いていた南東の風がにわかに南西の風に変わり、雨が降り出したので、カッサンドロスが「嵐が来る可能性がある」と言っていた。その言葉が的中したのだ。

 彼女は船室の窓の鎧戸を閉めると、急いで航海時の服を着て、その上に海獣の毛皮でできたコートを着込んで、甲板の上に出た。海獣の毛皮は水をはじくので、雨の時や嵐の時には雨具として効果的に使えるのだ。

 ハッチを開けて甲板に出ると、外は土砂降りの雨と強い風だった。

「ひゃあ、すごい雨」

 船内に水が侵入しないように素早くハッチを閉めて、彼女は風に飛ばされないように索具に捕まりながら、船首のほうに向かった。

 船首の当直甲板上には、すでに船長のセレウコスが立っていた。

「お嬢ちゃん、出てきたんですか」

「うん」

「危険です。ここは自分に任せて船室でおとなしくしていたほうがいいです」

「そうはいかないわ。みんなが嵐の中で船を守ろうとしてるのに、あたしだけ部屋にこもってるわけにいかないわよ」

 セレウコスは黙ってうなずいた。

「すごい嵐になったね。」

「そうですね。おそらく、はぐれタイフーンだと思います」

「はぐれタイフーン?」

「進路がディカルト諸島からはずれたタイフーンのことです。冬に起こる時化と違って、短時間に強烈な風雨をもたらします」

「ふーん。じゃあ、早く通り過ぎるのね」

「そうなることが多いですが、なにぶん激しい嵐ですからな。油断はできません」

 暴風雨が吹きすさぶ中、セレウコスは厳しい顔つきで甲板上にじっと仁王立ちしていた。スキンヘッドの頭から、雨水が瀧のように流れている。

「とりあえず帆をたたんで、現状を維持させています。これ以上時化がひどくならなければ、このままで持ちこたえられるでしょう」

 甲板の上では船員たちが船の装具をロープでつなぎ止める作業をしている。甲板上を波が越えていく中での作業なので、だいぶん難航しているようだ。

「みんな、波に流されないように気をつけて。がんばってね」

「はいっ」

 こういうときにマリアンヌが船員たちに声をかけると、士気が上がって作業に身が入るというものだ。

「この嵐のせいで少し到着が遅くなっちゃうね」

 マリアンヌは残念そうに言った。

「こればかりは仕方ないでしょう」

 4,5メートルはあろうかと思われる高波がインフィニティ号の甲板を洗った。強い横殴りの雨のせいで、視界はほとんどきかない。

「嵐の場合は風より高波が心配です。しっかり見張らないと」

「じゃあ、あたしも見張りをするね」

「はい。気を付けてください」

「わかったわ」

 彼女は船縁にしっかり捕まりながら、海をじっと眺めた。暗がりで視界が効かないが、それでも彼女は目を皿のようにしてじっと見張っていた。

 そのとき、高波が彼女のほうに向かってたたきつけてきた。

「きゃあっ!」

 波は簡単に彼女を飲み込んだ。船縁から手が離れた彼女は波に押されて、船から投げ出されそうになった。

 間一髪、彼女はセレウコスに抱き留められた。

「はあ、あ、ありがと、セル」

「本当に気をつけてください。さっきより波が強まってます」

「うん」

 彼女は足下に注意して、船縁をしっかり握りながら見張りを続けた。何度か彼女の体を波が洗ったが、彼女は何とか踏ん張って波に流されないよう耐え抜いた。

 そのうち夜が明けたらしく、わずかながら空が明るくなってきた。でも、空一面絨毯のように厚い雨雲が広がっているので、かなり暗い。

「お二人さん、ご苦労じゃのう」

 船内からカッサンドロスが、簑笠を着込んで甲板に出てきた。

「じいさん、それなに?」

「これは簑笠というジェペニアの雨具じゃよ。嵐の時はこれが一番じゃろうて」

 カッサンドロスは雲の流れなどを見ながら、

「西南西の風か。波風に押し戻されるかもしれんのう」

「後戻りしちゃうわけ? やだな。あたし、一日でも早くレグラーンの街に行きたいのに」

「なら、暴風に逆らって帆走しますか?」

 セレウコスが彼女にきいてみた。彼女は首を振った。

「それが危険だから、セルは帆をたたんだんでしょ?」

「そうです」

「なら、仕方ないわ。このまま天気が回復するのを待つしかないじゃない」

 彼女はあまり機嫌の良くない表情で答えた。

 セレウコスはカッサンドロスのほうを向いた。

「このまま嵐がひどくなるかもしれない。積み荷を減らして船を軽くしたほうが良くないか」

「ふむ。嬢ちゃん、この船に商品はなにを積んであるんじゃね」

「ティシュリ産のエメラルドが一号船倉にあったと思うわ。でも、小さいコンテナで10箱だから、そんなにかさばる荷物じゃないと思うけど」

 嵐に遭ったときなどに、船の積み荷を減らして船体を軽くすることはよく使われる手段である。その場合、ふつうは交易品から先に処分していく。商品価値のあるものを捨てるのはもったいない話だが、命を落としては元も子もない。

「確かにそんなにかさばるものではないの。この船は波によく耐えるし、安定度が高いから、嵐に遭ってもだいぶん持ちこたえられる。よほどひどくなったときに積み荷を捨てれば良かろうて」

「わかった」

 そう話し合っている間にも、豪雨と波は何度も何度もインフィニティ号に降りかかってくる。海獣の革のコートを着込んでいるマリアンヌの顔も、雨でびしょぬれだ。

「セルはしっかり操船してね。じいさんは観測と見張りをして、セルに指示を出して」

「わかったわい。任せてくれ」

「あと、プットは……。あれ、いないわ」

「プットならまだ船室で寝ていると思いますが」

「甲板作業を手伝ってもらいたいのに。呼んで来なきゃ」

 マリアンヌがハッチに向かって歩こうとしたそのとき、カッサンドロスの声が響いた。

「左舷方向から高波が来るぞい!」

「えっ」

 インフィニティ号に迫ってきた大波が甲板に打ち付けてきた。波を受けた衝撃で船は40度傾いた。

 だが、不用意に甲板の上を歩いていたところだったマリアンヌは、簡単に波に飲み込まれてしまった。

「きゃああ!」

「お嬢ちゃん!」

 波に飲まれて船から放り出された彼女を、セレウコスは甲板から海上へ素早く飛びついて、ひったくるようにして彼女を波から助け出した。そして、船縁をつかんで体を支え、海への墜落を避けた。

「おい、誰か手を貸せ!」

 セレウコスの命令に船員数人が集まって、二人を甲板に引き上げた。

「はあ、はあ、恐かった……。ありがと、セル、みんな」

 少し涙を浮かべた表情の彼女がセレウコスと船員たちに頭を下げた。

「礼なんぞいりません。提督を助けるのは仲間のつとめです」

 セレウコスがそう返したとき、ハッチが開いて、船内にいた船員が飛び出してきた。

「提督! 船長! さっきの波で船体が破損しました!」

「詳しく報告しろ」

「甲板が割れて、船員船室に大量に浸水しました。左舷船体に亀裂と損壊があり、食糧庫に浸水しています」

「板を打ち付けて破損個所を補強しろ。急げ!」

 セレウコスの命令が飛び、報告に来た船員が走って戻っていった。その間にも、荒波が船に畳みかけるように打ち付けてきていて、船体は不気味なきしみをあげていた。

「この船、大丈夫かな……」

 セレウコスの腕の中で、マリアンヌが不安を隠せずにつぶやいた。

「恐いですか?」

「うん……」

 おびえの浮かんだ顔でうなずいた彼女を、彼は少し強く抱いた。

「この船はお嬢ちゃんと我々の船です。何があろうと、絶対に沈ませません」

 そう言って、彼は表情を鋭く引き締めた。

 逆に、マリアンヌのほうは表情を和らげ、ほほえみを見せた。

「うん、そうだよね。あたしたちの船だもん。ごめん。こんな時こそ、あたしがしっかりしなきゃね」

 彼女は立ち上がると、いつもの元気いっぱい、自信たっぷりの強気の顔に戻った。そして、甲板上で懸命に嵐を耐え抜こうとしている船員たちに向かって、大声で叫んだ。

「マストをロープで補強して! 甲板にいらないものは捨ててもかまわないわ! この船はあたしたちみんなの船だから、みんなでがんばって守るわよ!」

「へいっ!」

 船員たちは彼女の言葉に応え、疲れと悪状況を押して作業に力を入れた。

「うむうむ。嬢ちゃん、なかなか立派な提督ぶりじゃよ」

「そう? じいさん」

「うむ。さあ、セル。波をよけていくぞい」

「わかってる。波を見ててくれ」

 マリアンヌ以下航海士、船員たちは一体となって、暴風雨から船を守ろうと必死になって働いた。それぞれが力を絞り出して、船の維持につとめていた。

 だが、暴風雨はいっこうに収まることなく、激しい波と風にインフィニティ号は翻弄され続けた。

「……波が高すぎて、舵がきかない」

 波をよけて航行するため舵を取っていたセレウコスが苦虫をかみつぶしたような顔をした。

「今は……西風じゃのう。潮は北から南か。嬢ちゃん、ここは風に背を向けて、とりあえず流されてみるが良かろう。無理に動いて船が壊れるよりは仕方あるまい」

「それで大丈夫なの?」

 マリアンヌは小首をかしげて、カッサンドロスのほうを見た。

「帆と舵さえ生きておれば、この時化が収まったあとでも進路変更はできるわい。今は船を保たせるのが最優先じゃ」

「そう、わかったわ。セル、船首を東に向けて」

「了解」

 波に揺られて、船は上に下にと激しく揺れている。その波の動きのせいで舵が海面上に浮いてしまうので、うまく進路変更ができないでいたが、かなりの時間のあとに、船は針路を南に向けた。

「ふう、あとは嵐が収まるまで持ちこたえさせなきゃね」

「うむ。精一杯の努力をして、運を天に任せる。人事を尽くして天命を待つじゃよ」

 波に乗る形に進路を取ったので、船の横揺れはだいぶん収まっていた。横転して転覆する心配はだいぶん薄くなっただろう。だが、縦揺れは激しく、船は遊園地のバイキングのような動きをしていた。

 マリアンヌは雨雲の広がった空を眺めた。墨のような雲に覆われ、昼間だというのに夕暮れ時のように薄暗い。雨はまだまだ降り続きそうだった。

「ねえ、じいさん。この嵐、どのくらい続くと思う?」

「さあ、そこまではわからんのう。明日には晴れておるかもしれんし、三日四日続くかもしれん」

「長く続くなんていやだなあ。明日までにならない?」

「わしに言われても困る」

 カッサンドロスの言うとおりだった。

「もううんざりだなあ。少なくともこの雨だけはやんでほしいわ。でないとあたし風邪ひいちゃう」

 彼女は本当にうんざりした顔で言った。

 だが、雨も風も波浪も、いっこうにやみそうになかった。


 空が晴れた。太陽が光を海に注いでいる。

 甲板上の船長用テーブルにうつぶせてうたた寝していたマリアンヌは、マストから落ちてきた雨だれを後頭部にぶちまけられて目が覚めた。フォアマストの下部主帆を点検していた船員がたまっていた雨水を落としたからだ。

「ふひゃっ。なにがどうしたの?」

「やっと起きましたか」

 目を覚ました彼女にセレウコスが言った。

「海が荒れてる中でよく寝ていられますな。かえって感心しますよ」

「あたし、寝てたの?」

 上体を起こしながら彼女はいい、首をちょっと傾げた。まだちょっと寝ぼけた目をしている。

「そういえば、眠たくなったからついうたた寝したような気がする……。でも、嵐が収まりかけた時じゃなかったかしら」

「お嬢ちゃんが寝た後吹き返しがきましてね。それがかなり長く続いたんです。ひどい風雨と波でしたが、お嬢ちゃんはずっと寝続けてました」

「そうだったんだ。まあ、セルたちが船を守ってくれるからって安心してたからかしらね。それにしても、嵐の中で寝てたもんだからもう服がびちょびちょだわ……ふぇ……ふぇ……へっくしゅ」

 彼女は大きなくしゃみをして、身震いした。

「ねえ、今日何日だっけ?」 

「10月15日ですが」

 日付を聞いて彼女は脳の芯から目が覚めた。

「えっ、14日じゃないの?どうしよ。あたし一日以上寝ちゃったわ」

「別にあわてることはないでしょう。それより、着替えてきたらどうです」

「うん、そうする。もう下着までびしょぬれだわ」

 彼女はもう一度へっくちゅと大きなくしゃみをしてから、ハッチの向こうに消えた。

「それにしても、嵐の中でずっと眠りこけていられるとは、大した度胸だ」

 セレウコスは感嘆とあきれの混じった口調で独り言を言い、一呼吸間隔を置いて、ふむとうなった。

『セルたちが船を守っているから安心してた……ねぇ』

 自分たちへの信頼をはっきり示されて悪い気はしない。セレウコスの表情が少しほころんだ。

 ガチャリ

 不意にハッチが開いて、鼻血を派手に流したカッサンドロスが現れた。

「あいたたた……」

「またお嬢ちゃんの着替えをのぞいて、ばれて殴られたのか」

「違う。嬢ちゃんのパンツをかぶっておったのがばれて、蹴りを七発食らったんじゃ。ついでにのぞきもばれたがの。そっちは往復ビンタじゃ」

「威張って言うことじゃないし、否定になってないぞ。鼻血を止めろ」

 カッサンドロスは鼻に脱脂綿を詰め、延髄のあたりを手でとんとん叩いた。

「それにしても、ぴちぴちの若い娘のヌードはいいもんじゃのう」

「自分はその手の話に興味ない」

 セレウコスの返答はにべもなかった。

 ハッチが開いて、着替え終わったマリアンヌが甲板に出てきた。

「お待たせ。二人で何のはなしをしてたの?」

「別になにも話していませんが」

「ほう、今度はホットパンツにTシャツかね。イメージを変えてきたのう」

 着替え終わって出てきた彼女の衣装は、オレンジのTシャツにホットパンツ、足は素足だ。頭にバンダナを海賊風に巻いている。元気な船乗り娘そのものの格好だ。

「いつもの格好が気に入ってるんだけど、変えてみるのも悪くないでしょ」

「うむうむ。だが、この時期にその格好では寒くないかね」

 カッサンドロスの言うとおり、十月ということを考えるとちょっとこの格好は季節はずれだ。

「平気だよ。だってあったかいもん。それに夏の格好ならセルもだよ」

 セレウコスは特に理由がない限り上半身はタンクトップのみだ。はっきり言って、マリアンヌはセレウコスのタンクトップ姿しか見たことがない。

「ふむ……確かに暖かいわい。それにしても、嬢ちゃんはスカートははかないんじゃのう」

「そんなことないよ。街にいるときとかはスカートもはくよ。ズボンのほうが好きだけどね。それに」

 彼女はカッサンドロスの鼻先に指を突きつけた。

「船の上でスカートはくときは絶対にスパッツかタイツを下にはくからね。じいさんはあたしのパンツが見たいからそんなこというんでしょ」

「もちろんじゃ」

 臆面もなくそう言ったカッサンドロスに彼女は一発ミドルキックを入れた。

「それはそうと、船を動かさなきゃ。セル、早く命令を出して」

「いや、今は無理です」

「どうして?」

「凪です。これでは船は動きません」

 そう言われて彼女ははじめて風が止まっていることに気がついた。潮流の動きもないようで、船はただ浮かんでいるだけで、その場から動かない。運行要員の船員たちは上帆や斜帆の点検をするため、マストの最上部近くに登っている。

「そっか。凪じゃあしょうがないわね。それで船の点検とかをしてたのね」

「ええ」

 マリアンヌとしては少しでも早く目的地に着きたいのだが、こればかりはわがままを言ってもしょうがない。おとなしく風が吹くのを待つことにした。

「嬢ちゃんや、どうやら嵐のせいで東南東に50海里ほど押し戻されてしまったようじゃ。早くレグラーンに着きたいなら、ここからまっすぐ西に向かうより、一度南下した方がいいかもしれんぞ」

 蹴りを食らってしばらくうずくまっていたカッサンドロスが、立ち上がって四分儀をのぞき込みながら言った。四分儀は測量機器の一つで、太陽の位置を図って現在位置を割り出す道具である。

「どうして?回り道じゃない」

「南緯28度くらいまで南下すると、貿易風に乗ることができるわい。それに乗れば一息で大陸に近づくことができる。かえって早道じゃよ」

「へえ、そうなんだ」

 貿易風は赤道付近の熱帯域特有の風で、東よりに赤道に向かって吹く。西に向かうには絶好の追い風だ。本来は熱帯域で吹く風だが、春や秋の時期、季節風の影響が少ない時期には亜熱帯域や温帯域にも影響を与えることがある。

「航路としてもそれほど狂いはせんよ。南緯28度の海域を西に行けば、ゲレイ大陸の北海岸をかすめる形でまっすぐニート海に入れる。白ゼナガ川はニート海にそそいでおるから、あとはその河口に入って川をさかのぼればいい」

「なるほどね」

 マリアンヌは納得してうなずいた。

「セル、聞いてた? 風が出たら、南西に進路を向けてね」

「了解」

 とはいえ、まだ凪の状態が続いていた。いつ風が吹き出すのかは予測できない。

 帆の点検を終えた船員たちがマストから降りようとしているとき、不意にハッチが開き、うおーっと大音量の叫び声が甲板上に響きわたった。

「うおー。今日もいい天気だぜぇー」

 甲板に出てきた叫び声の主、プトレマイオスが気持ちよさそうにのびをした。そしてまた、うおー、うおーと雄叫びを繰り返した。土手っ腹で響かせるからか、とにかく音量がでかい。マリアンヌは耳をふさいだ。

「なに、あれ」

「プトレマイオスの朝の雄叫びです。あれをやるとその日一日気分がいいそうです」

「あの大声は戦場向きじゃからのう。普段からあの大声出されたら迷惑じゃな」

 マリアンヌや甲板で作業をしていた船員たちが耳をふさいでいるのもお構いなしで、プトレマイオスは十分ばかり雄叫びを繰り返し、すっきりした顔でマリアンヌたちのところにやってきた。

「プット、今起きてきたの?」

「おう」

「もう、どうして今の今まで寝てたのよ。昨日まで嵐に遭って大変だったんだからね」

 彼女は中っ腹でプトレマイオスに言ったが、全くこたえてないようなのんびりした調子で答えが返ってきた。

「嵐だったのか。道理で船が揺れてたんだな。さーて、寝過ぎて腹が減っちまったぜぇ。飯だ、飯」

 そう言うや、彼はデカパンの中から超強力ラム酒、ネルソンズブラッドをとりだしてぐびぐび飲りながら、船室に降りていった。マリアンヌに止める隙さえ与えなかった。

「まったくもう」

 彼女がふくれっ面をしたとき、マストの上にいた見張り役が叫んだ。

「提督、船長、風が出てきました」

 そよ風程度だったが、北西の風がマリアンヌたちの顔をなでていった。やがて風はメーンマストの上に掲げた旗をはためかせるほどの強さになった。

「吹いてきたね。セル、船を動かして」

「了解。帆走を開始する。ミズンマストの縦帆と全マストの斜帆を全開にしろ。進路を南西に取れ」

 セレウコスの命令通りに船員が動き、船は帆走を再開した。

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