航海少女マリアンヌ -1st Logbook(ビール編)-

宮嶋いつく

プロローグ ~聖皇歴988年、晩秋

 ティシュリ港に吹き付ける北西の風は、日増しに冷たさを増していくかのようだった。

 北方の山地から吹き下ろしてくる木枯らしに、道路端や公園などの並木から、色づいた葉が風に舞い、地面に落ちていった。

 港のそばにあるいちょう並木から、黄色く色づいたいちょうの葉が風に乗って、南側に湾口を開けたティシュリ港の波止場に向かって飛んでいった。

 いちょうの葉は、波止場にしゃがんで海を眺めていた少女の頭に舞い降りた。

「あっ……なんだ、葉っぱかぁ」

 少女はいちょうの葉を取って、それを風に飛ばした。

 葉は風に乗ってくるくる回転しながら、水面に落ちた。

 打ち寄せる波が、葉を揺らしていた。

 彼女はしばらくそれをじっと見ていたが、また視線を遠く、彼方の水平線のほうに目を向けた。

「お父ちゃん……」

 彼女は小声でつぶやいた。

「お父ちゃん。あたしにもできるよね。お父ちゃんみたいに、広い海に、船で漕ぎ出せるよね」

 まだ幼い顔の彼女の大きな瞳は、遠く水平線の彼方をとらえて離さない。

「どこかできっと会えるよね」

 彼女は、風に吹かれて顔にまとわりついたしょうが色の髪を手で払うと、そっと目を閉じた。

 港に打ち寄せる波の音と風の音を耳にしながら、彼女は一ヶ月前のことを思い返していた。


 軽ガレオン帆船ブレイザー号、ライオネル号、ライジングバード号が出航準備を進めている中、男は少女を抱きしめたあと、これまで幾度となくきいていたことをもう一度きいた。

「マリー、お前は本当に船乗りになるつもりなのか」

 マリーと呼ばれた少女は、こくりとひとつうなずいた。

「うん。お父ちゃんのような立派な船乗り、立派な冒険家になるのがあたしの夢なんだもん」

「海は果てしなく厳しく、果てしなく恐ろしいところだ。幼く、ましてや女であるお前には、船乗りになるのは難しいかもしれない」

 父親は立ち上がり、娘の目をまともに見ながら、諭すように話した。

「将来は宝の山だ。夢という宝がそこにある。それを見いだすまでの道は狭く、険しい」

「……」

「だが、希望を捨てなければ、それは必ず見いだせる。たとえひとかけらの希望も、それは無限大の可能性となる。自分の信じる航路を進め。夢が叶うまで、決してあきらめるな。父さんも、お前の夢が叶うことを祈っている」

 父親の言葉に、少女は力強くうなずいた。

「提督、準備完了です」

 ブレイザー号の中から水夫が顔を出し、男に呼びかけた。

「そうか、今行く。……マリー、父さんは戻ってこないかもしれない。さらばだ」

「お父ちゃん」

 涙声で男の背中に呼びかける少女に背を向けて、男は船に乗り込もうとしたが、また舞い戻り、彼女の前にやってきた。

 男は娘の顔を上げさせた。

「いつまでもめそめそしていてはいけない。いつも笑顔でいるんだ。そうすれば、お前の仲間たちも元気になる。忘れるな」

 そう言い諭してから、男は船に乗り込んだ。

 そして、三隻の傷ついた船は、戦いの海へ乗りだしていった。

 ……

 それから五日後、ぼろぼろになったライオネル号一隻が、ティシュリ港に戻ってきた。その中には、負傷した傭兵たちが大勢乗っていた。

 出迎えた少女に、ライオネル号の船長セレウコス・ニカトールが言った。

「申し訳ない、お嬢ちゃん。ジョゼフの旦那は連れて帰れませんでした」

「お父ちゃんは生きてるの? それとも……」

「……わかりません。だが、助かったとも思えません……」

「なにい! てめえ、大将が死んだとでも言いてえのか!」

 太った戦士が吼え、セレウコスの胸ぐらをつかんだ。太った男は豪傑プットことプトレマイオス・ラゴス。少女の父親の用心棒をしていた男だ。

「あの激しい戦いの中、リュウをはじめ、アレックス、ジョージ、ヒュー、フェルナンド、セリムなんかもみんな戦死した。おまけに旦那は、ラルグを切り捨てたあと、炎上したブレイザー号に取り残された。あの業火の中では、いくら旦那でも生きているとは思えん」

「黙れ! 大将は生きてる! 大将がこんなことで死ぬわけがねぇ!」

 プトレマイオスの怒鳴り声が響く中、少女は気の抜けたような表情で、波止場の留め杭の上に座った。

 海は荒れているらしく、白波が立っていて、水平線も揺れていた。

「お父ちゃん……死んじゃったの……?」

 彼女は水平線のほうを眺めながら、彼女は心の中でつぶやいた。

 大粒の涙が、彼女のほほをつたった。

『ひとかけらの希望も、無限大の可能性を持っている。夢が叶うまで、決してあきらめるな』

 空のかなたから、父親の声がしたような気がした。

『いつまでもめそめそするな。いつでも笑顔でいるんだ』

 声は南の空のほうから、彼女に呼びかけてきていた。

 少女は立ち上がり、涙を払った。そして、南の空を見上げた。

 父親の顔が空に浮かんでいたような気がした。


「ここにいたんですか、お嬢ちゃん」

 少女の背後から声がして、彼女の両肩に広い手が乗りかかった。

 彼女は後ろを振り返った。

 黒褐色の肌をした、長身の筋骨たくましい男が、彼女の後ろに立っていた。

「あ、セル」

 お嬢ちゃんと呼ばれた少女は男の顔を見上げてほほえむと、また海の彼方に視線を戻した。

「いよいよ、あたしも海に出るときが来たのね」

「そうですね。でも、いいんですか?まだ学校も終わってないんでしょう」

「学校はやめたわ。お父ちゃんが消息を絶って、もう学校どころじゃないもん。あたしはお父ちゃんと同じように海に出たいのよ。出たくて出たくてたまらないの」

「怖いとか、そんな気持ちはないんですか?」

 彼女は少し考えるように黙り、

「そりゃ、少しはね。でも、あたしはディカルトの勇者、大冒険家ジョゼフ・シャルマーニュの娘だもん。きっと大丈夫よ。それに、セルたちが助けてくれるなら、ね」

 そう言って、彼女は立ち上がってくるりと反転し、男の顔を見つめた。

「もちろんです。このセレウコス・ニカトールがお嬢ちゃんをお助けいたします。だから、しっかりしてください。マリアンヌ・シャルマーニュ新提督」

 セレウコスはとんと、軽く彼女の肩をたたいた。

「いよいよ明日は出航です。今夜は星の水鳥亭に繰り出しましょう。プットの奴もじいさんも来ているはずです」

「そうね。じゃあ、星の水鳥亭にレッツゴー!」

 マリアンヌは陽気な笑顔を作った。そして、二人は港をあとにして、街のほうに向かって歩いていった。


 星の水鳥亭という酒場は、港近くの大通り沿いにある大衆酒場だ。船乗りや港周辺の労働者などのたまり場で、毎晩にぎわいを見せている。

 二人は酒場のドアを開け、中に入った。

「いらっしゃい。おや、ここは子供の来るところじゃないぞ」

 カウンターの中にいた酒場のおやじがしかめ面をしたが、すぐに笑顔になった。

「なんだ、誰かと思ったらジョゼフ提督のところのお嬢ちゃんか。珍しいねえ」

 マリアンヌはこの店のおやじとは面識がある。この酒場には小さいときから、父親や父親の仲間によく連れてきてもらっていたからだ。

「お嬢ちゃんも海に出るんだってな。親父さんみたいな立派な航海者になれよ。お嬢ちゃんならきっとなれると思うぞ」

 磨き終わったグラスを棚に戻し終えたおやじは、カウンターに身を乗り出して彼女に言った。

「なにがあってもあきらめるんじゃないぞ。ジョゼフ提督は口癖のように『ひとかけらの希望も無限大の可能性』と言っていた。わずかな希望でも、そいつを信じれば無限大の可能性になる。そのことを覚えておきなよ」

「うん。ありがとう、おやじさん」

 彼女は答える。

「あたしもその言葉は何回も聞かされてきたもん。それは、お父ちゃんがあたしに最後に残してくれた言葉なのよ。『ひとかけらの希望も無限大の可能性になる。自分の信じる航路を進め』って。だから、あたしは自分の船に『インフィニティ』って名前を付けたのよ」

「そうか、がんばれよ。わしも陰ながら応援しよう。そうだ。出航祝いだったら、今日はわしのおごりにしてあげよう」

「そんなこと言っていいのか? あのウワバミのプトレマイオス・ラゴスがいるんだぞ。放っておくとあいつはこの店の酒をみんな飲んでしまいかねんぞ」

 セレウコスが尋ねた。

「店の酒をみんな飲ませるほど、わしは馬鹿じゃないよ。それに、嬢ちゃんがこの店の常連になってくれれば元は取れる。ところで、プットならまだ来ていないぞ」

 二人は顔を見合わせた。

「あの酒飲みがまだ来ていないとは珍しいですな」

「カッサンドロスのじいさんもいないわね……。あ、来たわ」

 星の水鳥亭のドアが開いて、一人のでっぷりと太った男と、やせ形の初老の男がやってきた。

 太った男は大きな魚を三尾、両腕に抱えてきていた。

「おう、待ったか。どうでえ、この生きのいいかます。さっき川で捕まえてきたばかりなんだぜぇ」

 でっぷりと太った男は、体長1メートルはあろうかというかわかますを抱え上げ、主人の目の前においた。

「おやじ、こいつを塩焼きにしてくれ。お嬢にうまい奴を丸ごと食わせてえからな」

「ありがとう、プット。でも、あたし一人じゃとてもじゃないけど食べられないわ」

「そん時は俺様が食ってやるぜぇ」

 そう言って、プットと呼ばれた男は豪快に笑った。

 もう一人の初老の男は、一匹のうなぎを必死につかもうとしていた。うなぎはぬるぬると滑るので、なかなか捕まえることができない。

「よっとっと……どうじゃ、この活きのいい大うなぎは。こいつを食えば、また今夜も精力満々じゃ……こりゃ、またんか」

「そのうなぎはどこで捕まえてきたんだ」

「川で釣りをしていたら、つり上げたブーツの中に入っていたんじゃ…わわっ!」

 うなぎはじいさんことカッサンドロスの手を離れ、彼の服の中に潜り込んだ。

「わわわっ! 誰かうなぎを捕ってくれい!」

 じいさんはうなぎを捕ろうとして、その場で踊りだした。少なくとも、周りからはめちゃくちゃに踊っているようにしか見えなかった。

 セレウコスが彼の服の中からうなぎをつかみだし、ジャックナイフでうなぎの頭を突いた。

「ほっ、助かったわい。おやじ、そいつを蒲焼きにしておくれ」

「へいへい、今日は大漁だな」

 主人はうなぎをまな板の上に置いて、調理にかかった。

「さて、今夜は出航祝いだ。宴会と行こうぜぇ。おやじ、ビールを20本ほどまわしてくれ」

「わかったよ。今夜も忙しくなりそうだな」

 酒場のステージでは、軽業師が芸を披露して、客から拍手を受けていた。賭場ではルーレットやカードに興じる客もいた。ビリヤードを楽しむ客もいた。

 いつもと変わらぬ星の水鳥亭の夜になっていた。


 出航前夜の宴会もだいぶん盛り上がってきたときだった。

 宴は急に水を差された。

「やい、小娘」

 幾人かの男たちがマリアンヌのそばに来て、彼女を仁王立ちで見下ろした。

 みな一様にアルコールのにおいをぷんぷん漂わせている。

「酔客だ。相手にしなさんな、お嬢ちゃん」

 セレウコスが彼女に注意した。

「おい、小娘。おめえ、海に出るんだってな?」

 酔客は彼女にからんできた。

「なめた真似するんじゃねえぞ」

「……!」

 彼女の頭の奥に閃光のようなものが走った。

「海は男の世界だ。小娘が出しゃばったまねするんじゃねえ」

「てめえみてえな小娘が海に出るなんて、ちゃんちゃらおかしいぜ」

「女とガキは陸に引っこんどきゃいいんだよ」

「おうおうおう、えらく言いたいこと言ってくれるじゃねえか。ケンカ売ってるんならいくらでも相手してやるぜぇ」

 プトレマイオスが、腕をぽきぽき鳴らしながら立ち上がった。

「へっ、お前らもお前らだ。大の男が三人とも小娘の部下とは、とんだ馬鹿ども揃いだぜ」

「てめえ! 言わせておけば!」

「待って、プット!」

 マリアンヌは酔客に鉄拳を食らわせようとしたプトレマイオスを手で制し、どんとテーブルに手を突いて立ち上がった。

 そして、酔客の顔を真正面に見ると、男の鼻先に人差し指を突きつけた。

「な、なんだよ」

「今に見てらっしゃい。あたしはあんたたちなんかよりも、お父ちゃんよりもずっと立派な航海者になってみせるわ!」

 きっぱりと言い放ったマリアンヌの瞳は燃えて輝いていた。

『それでいいんです、お嬢ちゃん。お嬢ちゃんのその心意気が冷めない限り、必ず立派な航海者になれます。我々は精一杯、お助けいたします』

 セレウコスは彼女の横顔を見つめ、心の中で呼びかけた。

『ふうむ、この嬢ちゃんはなかなか期待が持てそうじゃな。何か大きな将来が待っていそうじゃ。わしも精一杯、働かせてもらおうかの』

 カッサンドロスは心の中で決め、うなぎの蒲焼きにぱくついた。

『なんかよくわからねぇが、やるぜ!』

 プトレマイオスはなんだか気合いがみなぎったような気がしていた。

 そんな仲間たちの温かい心を感じたかどうかはわからないが、彼女は心の中で堅く決心していた。

『そうよ。あたしは誰にも負けない。今はまだなにもわからないけど、がんばって、絶対にお父ちゃんを越えるような大冒険家になってやるわ!』

 酔客たちは、彼女の燃える瞳を見て、なんだか恐ろしくなり、そそくさと星の水鳥亭から出ていった。

 彼女はぐっと拳を握り、それを胸元に持ってきた。そして、それを見つめた。

『そして、立派な航海者になって、お父ちゃんに再会するの。きっと会えるわ』

「お嬢ちゃん。どこに行くんですか」

 セレウコスの呼び止める声を背中に聞きながら、彼女は一人で星の水鳥亭をあとにした。

 人いきれでむせ返るような酒場の中と違い、外には冷たい風が吹いていた。

 空は晴れており、秋の星空が静かに広がっていた。

 彼女は波の打ち寄せる港の岸壁まで歩いた。

 星明かりが、さざ波に揺れる水面に映っていた。

 海の中からは、ほたるいかの淡い光が点いたり消えたりしていた。

 それはまさに光のミュージアム。

 海をじっと見つめながら、彼女は今度は声に出して決意を固めた。

「あたしは絶対に立派な航海者になる。そしてお父ちゃんに負けない冒険家になる。絶対になってみせるわ。そして、お父ちゃんと再会するのよ。きっと会えるわ」

 彼女は淡く光に照らされる水平線に目を凝らした。

 一ヶ月ほど前に、海賊との戦いで、帆船ブレイザー号と共に消息を絶った彼女の父親ジョゼフ。もはや死亡は間違いないと噂されている。だが彼女は、父親は絶対どこかで生きていると信じていた。

「あたしは航海に出るわ。いよいよ明日から。あたしはなにも怖くない。だって、立派な航海者になって、世界の海を冒険するという夢があるんだもん。そして、絶対にあきらめないもん。……待っててね、お父ちゃん」

 彼女はどこにいるか皆目見当のつかない父親に向かって呼びかけ、星空を見上げた。

 流れ星がひとつ、軌跡を描いて流れていった。

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