第46話 少年

 詠貴は井戸の縁を掴み、身体を震わせていた。

 ぼちゃんっと重みのある物が水面に落下した音が響く。


「蒼子ちゃん! 蒼子ちゃん!」


 井戸の底に向かって叫ぶが虚しくも、返って来るのは反響した自分の声だけだった。


「あなた……何てことをっ……!」


 可憐で愛らしく、まだまだ幼い蒼子の姿を思い出し、詠貴の胸が激しく痛んだ。

 

 助けてあげられるのは私しかいなかったのにっ!

 悔しさで唇を噛み、目尻に涙が滲む。


「あははは! いい気分だわ!」


 夜の静寂の中で凜抄の高い声が響き渡る。

 白く塗った肌に唇と瞼に引いた真っ赤な紅が血のようで、恐ろしい獣のように見えた。


「貴女は本当に人間ですか……?」


 好いた男に狂い、幼い子供に嫉妬して井戸に落とすなど、正気の沙汰ではない。

 詠貴の中で怒りが沸々と音を立てて湧き上がる。

 しかし、無力な自分は抵抗する術を持たない。

 凜抄から鋭い視線が向けられ、詠貴は身体を竦ませるがせめてもの抵抗で視線を逸らす事無く凜抄を睨み返した。


 がしっと顔を掴まれ、頬に鋭い痛みが走る。


「詠貴、お前はやっぱり生意気ね。最近は大人しく従順だったから忘れていたわ」


 凜抄の先程折れた爪が詠貴の皮膚に食い込み、頬からタラりと赤い液体

が顎に向かって線を引く。


「桂月も使えないわ。お前の代わりに働くと言うから使ってあげたけど、ろくにお遣いも出来ないなんて」


 その言葉に詠貴の身体が沸騰するように熱くなる。


「桂月に散々汚れ仕事をさせておいてそれを言うの⁉」


 自分のためにこの家に仕えていたのは詠貴も知っていた。

 何度も、何度も、ここを出て行くように言ったが桂月は首を横に振るばかりで決して頷くことはなかった。

 昔から誰にでも親切で、子供の面倒見の良い優しい人だった。


 虫すら殺す事を躊躇うような優しい人だったのに!


「許さないわっ。あんたも、父からこの町を奪ったあの男も!」


 抑えきれない怒りを凜抄にぶつける。


「うるさいわね。父親の不甲斐なさを呪いなさい」


 凜抄に突き飛ばされた詠貴は地面に倒れ込む。


「きゃあっ」


 見上げれば詠貴を嘲笑う凜抄に対して悔しさと虚しさが募る。


「舞優、そこの役立たずとこの女を始末なさい」

「何ですって?」

「役立たずは要らないわ。お前ももう要らないわ。側に置くのに調度良かったけど、生意気な奴は要らないのよ」


 そう吐き捨てて凜抄は衣を翻す。


「おい、俺はガキが死ねばそれで良いんだよ。あとは契約範囲外だ」


 不満そうな声で舞優は言う。


「なら追加料金を出すわ。片付けたら取に来なさい」

「ち、仕方ねーなぁ」


 それを了承の合図と取り、凜抄は一人で母屋に戻っていく。

 鳳を待たせているからか、浮足立っているのがよく分かる。

 凜抄の姿が見えなくなった頃、舞優に向かって詠貴は言った。


「あんたも殺されるわよ」


 あの女は人を使って人を殺める。報酬を与えるから取りに来いと言って処分するのはお決まりの手口だ。

 もしも捕えられた場合は捕えられた者達を処分して口封じを行う。

 信じがたいがそんな仕事を専門的に行う輩がいる。

 自分の身が可愛ければ、今すぐここから去って欲しい。

 蔵の扉の前で倒れている桂月に視線を向ける。

 背中は衣が血を吸って真っ赤に染まり、ピクリとも動かない。


 早く手当をしなければならないのに……。


「馬鹿か? 俺があんな奴に殺される訳ねぇーだろ」


 ケラケラと笑いながら舞優はは桂月の側まで移動する。


「ほっといても死ぬだろ、こいつ」


 地面に落ちた簪をしみじみと見つめた後、放り投げた。


「近寄らないで!」


 詠貴は震える足に力を入れ、桂月の元まで走る。


「桂月! 桂月! お願いだから目を覚まして!」


 触れた桂月の身体は冷えていた。

 顔から唇から色を失い、力なくだらりとした肢体に詠貴は愕然とした。


「お願いよ……桂月……!」


 だから早くこの家を出れば良かったのよ。私のためにこんな酷い場所に残らなくても、私は恨みなんてしないのにっ!


 瞳からぼろぼろと涙が溢れる。


 桂月は子供の頃からいつも側にいてくれた。

 母が亡くなった時も、父が忙しい時も、風邪を引いて心細い時も、詠貴を側で支えてくれた。

 あの優しく、温かい笑顔を思い出して凜抄は胸がちぎれそうになるほど傷んだ。

 桂月がいたからこそ、詠貴はここまでこれたのだ。

 桂月がいなければ、竜神様もこの町の実権も、取り戻しせたとしても意味がない。


 私は……父が治めるこの町を、貴方と一緒に見ていたかったのに……。

 竜神様に見守れながら、私の隣で笑う貴方をずっと側で見ていたかったのに……。


 溢れる涙は堪えず地面や服を濡らしていく。

 唇をきつく噛み締めても、震える手に力を入れても、悲しみは大きくなるばかりで叫び出したいのを堪えるので精一杯だ。


「あーあー、めんどくせぇな。おい、そいつは死ぬ。諦めろ」


 詠貴はまだ温もりのある桂月の身体を抱き締めた。

 徐々に体温を失っており、呼吸も浅くなっているのが分かった。


「さっさと消えろ。お前が死ねばその男も浮かばれねぇだろ」

「嫌よ。桂月を踏み付けにしておいてよく言うわ」


 詠貴は舞優を睨み付けて桂月を掻き抱く。


「あーあー。せっかくの優しさ見せてやったのに」

「あんたの優しさなんて要らないのよ」


 詠貴のはっきりした拒絶の態度に舞優はは小さく舌打ちをして、懐から刃物を取り出す。

 短くて細い刃物が月の光で鋭利な輝きを放つ。


「せめて苦しまずに逝きな」

 鋭利な刃物が詠貴の首筋目がけて振り降ろされる。

 詠貴は覚悟と共に目を瞑る。


 お父様、竜神様、ごめんなさい。

 竜神様、せめて桂月は……私のために傷付いた桂月だけは、お助け下さい!


 心の中で強く祈った。

 しかし、死ぬ覚悟をしたと言うのにいつまで経っても意識があるのはどういうことか。

 無意識に緊張で止めていた息を吐き出し、吸い込んだ空気が冷たいことを自身の肺が教えてくれる。


 詠貴は恐る恐る目を開けると、そこには子供の後ろ姿があった。

 結った黒髪は後ろに垂らした子供が大きな石の付いた錫杖のような物で舞優の刃物を片手で受け止めている。


「大丈夫か?」

 そう言って子供は詠貴の方に首を傾けて問い掛けた。

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