第18話竜神の不在

 涼し気な空気に覆われる森の中は芽吹いた新緑が若々しく、地面に控えめにさいた白い野花を風が揺らしていた。


「もう少しだ」


 細い道を鳳に抱かれて向かう先は候家が管理している社である。


 竜神を祀っているという社をどうしても見ておきたいと鳳に頼み込んで連れて来てもらったのだ。


 小さな森の中に存在し、森の入り口には雇われた見張りが二人ほど立っていた。


 入ろうとすると頑なに拒否されて諦めようとしたのだが、鳳が懐を弄り賄賂を渡すとあっさりと通してくれた。


 二人のうち一人は渋ったがもう一人に悪の片棒を担がされたようだ。


「ここは見張りを付けなきゃいけないような場所なの?」


「霊玉を祀っているからな。しかしこの場所は本来ならば民が自由に参拝出来る場所。頑なに拒むような事はなかったはずなんだが」


 出入りされては困る理由があるのかも知れないと鳳は言う。


「あれだな」  


 緩やかに傾斜した道を歩くと見えて来たのは小さな社だ。


「本当に小さいね」


 その社は人の背丈ぐらいしかない小さいものだった。


「この中に霊玉がある」


 広大な敷地内に佇む謙虚な社は霊玉を置く台座としての役割しかない。


 小さいものの、竜神の化身である霊玉を祀る扉に掛かるしめ縄が社としての威厳を醸し出している。


「何もないけど」

「何だって?」


 扉の格の隙間から中を覗き見るがそこには何もない。


 蒼子に続いて鳳も中を覗き込む。


「何故だ? 確かにここに祀られていたのだが……」


 唖然とする鳳の様子からこの場所に霊玉はあったのだろう。


 蒼子は社の周囲をぐるりと見渡す。


 この小さい社にはいささか不釣り合いなほど広々とした敷地は緑が多く、空気は清らかだ。


 しかしどこか虚しさがある。何かが足りない気がするのだ。


 空気も雰囲気も清らかだが、以前訪れた天功の住まい周辺の空気の方が清廉されていて神聖さを肌で感じる事が出来た。


 この場所は何故だかとても寂しく感じる。


 不可解な状況に首を傾げながら来た道を引き返す。


「天功さんがここを管理してたんだよね?」

「何だ、聞いたのか?」


 驚いた表情を見せた鳳が言う。


 頷く蒼子に少し考える仕草を見せて鳳は口を開いた。


「天功の一族が代々この土地を管理していて、天功の代まではこの町で水不足などは起こらなかったんだが……」


 代替わりした途端にこの有様だ。


「天功さんの家族は?」


「奥方は随分昔に亡くなり、一人娘が地主である候旋夏の邸に使用人として残っている。凜抄の侍女だ」


 鳳の言葉に蒼子は眉間にシワを寄せた。


「それってもしかして……」

「あぁ、あの時の侍女だ」


 昨日の佇まいの美しい、可憐な女性が蒼子の脳裏に蘇る。


「それって、どうなの? 苛められたりしているんじゃないの、あの感じだと」


 とてもじゃないが良好な主従関係には見えなかったのだが。


「接し方が乱暴過ぎ」


 壁に身体を打ち付けた詠貴を思い出し、蒼子は言った。


「彼女は何で地主の邸に残ったの? もしかして……」


 口に出したくはないが、あの可憐な容姿だ。

 

 地主は彼女を色欲的に見ているのではないだろうか?


 そんな風に思考した瞬間、蒼子の背筋に冷たいものが走り抜けた。


 肌が粟立ち、怒りと不快感で身体が震えた。


「あの娘は自分から邸においてくれと言ったらしい」


「は? 何で?」


「知らん。だが候旋夏の奥方は恐妻家でな。主人の身の回りは自分の侍女にさせているし、若い娘は近づけないらしく、若い娘は絶対に近付けないよう邸中に目を光らせているらしい」


 金はあるのに若い娘の一人も囲えないと以前ぼやいていた、と鳳は言う。


 その言葉が真実であると信じたい。

 蒼子は少しだけ胸のむかつきが収まった。


「なら、何で……」


「分からないが……離れ難かったのかもしれんな。天功殿と同じように詠貴殿も竜神を崇拝していたからな。天功殿は竜神に娘への加護を願っていた。娘に代替わりしたとしても娘とこの土地と民を見守ってくれるようにと」


「父親と同じように……ねぇ……」


 それだけの理由で自分の家を乗っ取り、父親を追放した者の家に残るのだろうか……?


 いまいち腑に落ちない。

 蒼子はそっと双眸を伏せる。


 この華やかに見える港町はその影に深刻な水不足という問題を抱えている。しかも水不足の裏には作為的に井戸を使えなくした形跡があるという。


 その水不足も地主の代替わりを境に起こったというし……。


 何かある。


 もしかしたらこの場に霊玉がない事にも無関係じゃないかも知れない、と鳳は語る。


 蒼子は鳳から水不足の現状とそれに関する話を聞いて、どうしてもここに来なければならないと思った。


「井戸の裏工作に霊玉の、竜神の不在……竜神の……」


 竜神の不在……?


 無意識の中で気になる事を反復していた。


「竜神の不在?」


 釣られたように鳳も同じ言葉を繰り返す。


「ねぇ、竜神って信じる?」

「俄かには信じがたいと言うのが正直な所だ」

「でも天功さんは信じてるみたいだった」


“竜神様はいるよ”


 あの時の天功の言葉が蘇る。


 まるで本物の竜神を見た事があるような物言いで、その言葉は予想よりも確信に近い強さがあった。


「天功の祖先はその昔、海の波打ち際で竜神を助けたと言われているんだ。その竜神が天功の祖先に加護を与え、その恩恵を天功の代まで繋いで来たと言われている。天功も親の代から言い聞かせられているだろうから天功が竜神を信じていても当然だ。自分の子や町の人間にもそれを説き、水の神に感謝する様にといつも言っていた」


「そんな伝説みたいのがあるのか……なるほど」


 李家が代々地主として社を管理していたという話も納得出来る。


 天功が竜神に対して信仰的なのも併せて納得だ。


「何か思う事はあるか?」


 歩きながら視線だけをこちらに向けた鳳が蒼子に問う。


 抱き上げられた事により目線はほぼ同じ高さになっている。そしてこの距離で視線がぶつかると改めて距離の近さを実感する。


「焦点が短い」

「は?」

「いや、こっちの話」


 思わず口にした言葉を適当に誤魔化して話を戻す。


「今の所、何とも言えない」


 もう一度天功さんに会えれば何か掴めるかも知れない。


 けれど、彼が子供である蒼子にどこまで話してくれるかは疑問だ。


 大人とは子供の前では深刻な話をしたがらないものだ。優しく、良識のある人ほどその傾向は強い。


 そんな風に考えていると道の先から声がする。


「お願いだ! 少しだけで構わないっ」


「駄目だ! 人を通すなと硬く言いつけられている。帰れ!」


 木の陰に隠れてその様子を窺う。


 誰かがこの森に入る事を懇願しているようで、見張りはそれを頑なに拒んでいた。


「揉めてるな」


「大丈夫かな……あの見張りの人、乱暴そうだったけど」


 森の入り口に立っていた見張りの男はガタイが良く、無骨で怖そうな印象を受けた。


「ここにいろ。止めて来る」

「気を付けてね」


 地面に降ろされて背を向けて歩き出した鳳を距離を空けて追いかける。


「頼む! 少しで良い、竜神様に会わせて欲しいっ!」


 竜神様? 


 その言葉に引っ掛かりを感じて緑の合間から必死に訴える人物を見定めた。


「天功さん」


 そこには顔を地に伏せて懇願する天功の姿があった。


「何度来ても無駄だ! 帰れ!」


 苛立ちの籠る見張りの怒声を浴びながらもその場からビクとも動かない。


「少しだけで構わない……頼みます!」

「このっ……!」


 見張りの男の身体が大きく動いた。


「危ない!」


 蹴飛ばされる!


 その様子を見た鳳が瞬時に天功と男の間に割って入るのが見えた。


 次の瞬間、予想もしない光景がそこにあった。


「どうか……お帰り下さい天功様!」


 見張りの男が土下座をしている天功と向かい合うように頭を地面に擦り付けていたのである。


 その異様な光景に蒼子は訳が分からず目を瞬かせた。 


 それは間に入って鳳も同じらしく、天功と見張りを交互に見やっている。


 ゆっくりと顔を上げた天功に対して男は地面に額を擦りつけたまま微動だにしない。


「どうかお許し下さいっ! 貴方様をお通しする訳にはいかないのです!」


 苦し気に言う男の声は少しばかり震えているように思えた。


「どうか、どうかお許し下さい!」


 痛切な男の声に天功は無言で瞼を閉じ、ゆっくりと開かれた瞳には諦めの色が映っていた。


「……今日は帰ろう」


 天功の言葉に男の肩がビクっと跳ねた。


 そして感情を殺すように地面に着いた指が地面を掻く。


「無駄です……何度来られても……」


 小さく呟いた男の声がひやりとした深緑の空気に虚しく溶ける。


 その場に蒼子と鳳は時間に取り残されたかのように立ち尽くす事しか出来なかった。


 ふと地面に視線を注げば痛々しい爪痕が刻まれている。


 地面に残された爪痕がこの問題の深刻さを物語っているようだった。



「見苦しい所を見せたね」


 力なく言う天功に鳳は曖昧に笑む。


「怪我がなくて良かったさ」


 そう言うと湯気の立つお茶に口を付ける。

 適当な茶屋に入り、蒼子と鳳は事の経緯を知る事になった。


「よくあそこへ?」

「あぁ……いつも門前払いだが」

「あの男は誰だ?」


 鳳は訊ねると天功は悲しそうに顔を歪ませて少し間を置いてから口を開いた。


「以前、邸で働いていた子だよ。働き者でね……病気のお母さんの為に毎日遅くまで働いてくれていたんだ」


 どこか遠い目をして天功は語る。


「道理で」


 見張りの男の天功への態度は気掛かりだったがようやく腑に落ちた。


 蒼子は団子を頬張りながら話を聞いていた。

 蒼子が聞きたい事のほとんどを鳳が代弁してくれている。


「一体何故あそこへ?」


「あの場所は私にとって特別な場所なんだよ」


「特別とは?」


「知っているだろう。あそこには竜神様がいる」


「いないよ」



 正直、竜神への信仰心の強い天功に対してこの事を伝えるのは躊躇われた。


 天功の驚愕の表情と鳳の戸惑った顔を前に蒼子ははっきりと断言した。


「そんな事はない!」


 蒼子の言葉に力なく項垂れていた天功に憤りを浮かべる。


「存在を否定している訳じゃない。ただ、あの場所にはいないだけ。決して竜神の存在を疑っている訳じゃないよ」


「あの場所にいない……? そんなはずは……」


 天功の瞳を見据え、蒼子は言う。


 すると一瞬見せた天功の憤りも次第に落ち着きを取り戻した。


「だから聞かせて欲しい。あの場所に何があったのか。貴方にとって竜神とは何なのかを」


 それがこの地の憂いを晴らすための手がかりになるかも知れない。


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