ひふみの章

ひぃの夜

 突然であるが、〟彼〝に名前はなかった。どこへ行っても自分の正体を知っているモノはいなかった。気がついたら青白く発光しながら、フワフワと宙を漂っていたのである。仲間とは光の明滅で意思を伝え合い、明るい日中は日陰で眠り、暗い時分に活動する、そんな〟何か〝として生きていた。

 〟彼〝の身は、前述の通り淡く光る青白い光の塊で、さながら火の玉であった。似たような怪異に〟人魂〝がおるが、彼らは何かを訴えかけるように強く光る赤い火の玉であるし、地縛霊はもっと暗く恨めしそうな風体で、自ら光を放つことはない。〟彼ら〝のように青白い光を放つそれらは〟何ものでもないモノ〝として存在していたのだった。

 さて、〟彼ら〝は光なので、食事はせずとも生きてはいけるのだが、ろうそくや行燈の灯心、線香の火などを特に好んで食した。中でも特に「百物語」の場で灯されている灯心やろうそくが好みであるようだった。しかし、〟彼ら〝はとても臆病なので、すすんで人々を驚かすようなことはしない。ただ、気配を消してこっそりとろうそくに近づいて、口とおぼしき部分で火をぱくりと飲み込んで素早く逃げる。百物語に夢中になっている人々には、こっそりとやってくるそれに気がつかず、突然火が消えたように見えるため、驚き悲鳴が引き出されることになるのだ。稀に〟彼ら〝が近づいてきたことに気がつく者もおるが、見た目が〟人魂〝のような謎の発光体なのでやはり驚かれる。が、同様に〟彼ら〝も驚いているので、火を食べることもなく直ぐに逃げてしまうという。

 また、〟彼ら〝は火を食べるほどに成長していく。最初は手のひら大でおぼろげな光を放つ頼りない存在であるが、光は次第に明確な〟形〝を持って〟彼ら〝に自我をもたらす。自我が生まれれば〟個〝が生まれる。それは〟彼ら〝のように光だけの身に明らかな個性と特徴を与える。そうして〟形〝と個性を得た〟彼ら〝は人に紛れ、灯火を食らいながらひっそりと生きていたのであった。

 さあ、そんな〟彼〝は今日もろうそくの火を求めてフワフワと、暗く静寂に包まれた屋敷へとやってきた。今晩の屋敷はこぢんまりとした佇まいで、部屋の中にいる人間はたった二人きりであった。百物語は数十人以上で行われることが多いので、このように少ない人数であることは珍しい。しかし、感じるのは上質な火の香りだ。きっと百物語をしてさぞ恐れを抱いていることだろう。

 ……おっと、それよりもろうそくの火だ。自分は仲間の中で一番小さな光だから、たくさん火を食べて早く成長して、日中でも動けるぐらい強い〟個〝を持った光にならなければならない。そうでないとあっという間に弱って消えてしまうに違いない。

〟彼〝はゆらゆらと揺れ動くろうそくに近づいていく。すると、徐々に二人の声がはっきりと聞こえるようになってきた。だが、〟彼〝は人の言葉を音としか捉えられないので、気にせずにフワリフワリと、ろうそくに近づいて口を開けた。ぱくりと閉じれば火は消え、その灯りを失った分、部屋はほんの僅かに暗くなる。

 しかし、そこでいつもと異なる反応が返ってきた。驚きも、恐れも、ないのだ。おかしい、いい火の香りがしたということは、そこそこ百物語の語りも進んで佳境に入っている頃だ。それなのに、恐れも驚きもないということはおかしい。

 〟彼〝はごまのように小さな目をぱちぱちとしばたたかせた。そして、その時初めて目の前で百物語を語っている二人に興味を持ち、まじまじと顔を覗いてみることにした。青白い光がその二人の顔をぼんやりと照らし出していた。

 「螢、か?」

 そんな声がした。

 「螢は黄色い光だ、こんなに青白くは光らないよ。……ということは?」

 「あぁ、きっとそうだ。ようやく会えたな。〟アオイ〝」

 〟アオイ〝 それはなんだろうか?

 音としては聞き取ることができても、その意味を解するほどの知能を〟彼〝は持ち合わせていなかった。そんな〟彼〝を見ながら、二人はさらに続けた。

 「百物語を語れば、怪異を引き寄せる。青白い光は亡者の思念、ずっとさ迷っていたんだな……」

 「かわいそうに、〟アオイ〝」

 あぁ、また同じ響きだ。それは何だろうか。

 もしかして、この二人は自分の正体を知っているのだろうか。誰も知らない、〟何ものでもない〝自分たちの正体を……。気になった〟彼〝は二人からほんの少し距離をとって彼らを観察してみることにした。

 「もう何十年前だ?〟アオイ〝が神隠しにあったのは……」

 「うん、もう随分昔だ。俺たちはまだ成人すらしていない子どもだったし」

 「この部屋だったな」

 「そう、この部屋だった」

 そんなことを二人は交互に話していた。〟彼〝は感じとれなかったが、それはまるで何かを懐かしむような、思い出すような口調だった。

 「〟アオイ〝がいなくなってから、この屋敷は散々な言われ様だったな」

 「そうだそうだ、霊が住んでいるだの、化け物が住んでいるだの……」

 「きっと〟アオイ〝の悪戯だ。あいつは実は生きていて、夜な夜なちょっかい出して遊んでいるんだろう、ってあの時は本気でそう思っていたな」

 「懐かしいな……」

 なぁ、〟アオイ〝

 〟彼〝はそこでようやくそれが何かの存在を表している〟個〝の一部だと気がついた。〟彼〝は彼ら二人を知らないが、どうやら二人は〟彼〝のことを〟アオイ〝という〟個〝と勘違いしているらしかった。…否、勘違いかはわからない。もしかしたら自分が忘れているだけかもしれない。なにしろ、気がついた時には既にこんな外観であったし、その前に自分がどんな姿をしていたのか、〟彼〝の記憶にはない。

 では、〟アオイ〝とはどのような〟個〝であるのか。気になった〟彼〝はろうそくの火を食べることも忘れ、二人の姿をじっと見つめた。すると、その視線に気がついた二人が、今度は〟彼〝のことをまじまじと見つめ返してきた。

 「見られているね、どうも視線のようなものをこの子から感じてならない」

 「確かに。この小さな黒い粒みたいなのが目か?」

 そう言いながら、一人が手を伸ばしてくる。思わず〟彼〝はそそくさと身を引いてしまう。人間に触れたら、触れられたらどうなるのか、わからない。〟彼〝はあわてて部屋の天井まで上昇し、隅の方で小さくなって身をまたたかせた。警戒の光だ、ギラギラと目が痛くなるようなそれを受け、二人は顔を見合わせる。

 「警戒されているのか?俺たち」

 「無理もないよ、もう何十年経っていると思っているんだ?俺たちの容姿も身なりも違うし、当然だろう」

 「それは、確かに……。すまないな」

 後の言葉は〟彼〝の方に向けられていた。二人は気遣うような気持ちで言ったが、〟彼〝にその意味を解するだけの知能はない。〟彼〝はもう火を食べるどころではなくなった。身を小刻みにプルプル震わせながら、天井を通り抜け天井裏に身を潜めてしまう。今までの人間の反応とは全く違う。それが臆病な〟彼〝にはたまらなく恐ろしかったのだ。

 未だろうそくの火は何本か揺れている。二人はその真ん中でふうと息をついた。

 「どうやら、本当に忘れてしまっているようだね。あるいは違うものなのか、どっちかな」

 「いや、俺は〟アオイ〝だと信じるぞ。……そうだ、あいつの形見の品を何か持ってくれば思い出すかもしれない」

 「それは名案だ。よし、また来ようか」

 そう言って二人はろうそくの火を一本ずつ消していき、最後に残ったろうそくの火を提灯の灯心に移した。二人の気配が部屋から去り、屋敷の庭を通って外へと消えていく。

 誰もいなくなった室内は、最後のろうそくの火が今にも消えそうな小さな火で闇を薄く照らしている。〟彼〝は二人の気配が完全に消えた頃、そろそろと天井裏から顔を覗かせた。〟彼〝はフワフワと、少しずつ…、少しずつ、ろうそくの火に近づく。そうして、最初にもそうしたようにぱくりと火を飲み込んだ。その火はいつもの火とは何か一味違うようにも感じられたのだった。

 

 こうして、室内の灯りが全てなくなり、その日の物語は終わりを告げた。

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