[3-44] 酒は呑むべし百薬の長

 シエル=テイラ亡国は既にゲーゼンフォール大森林の乗っ取りに入っていたが、今のところ前線拠点は森の南側、ルガルット王国領内に築かれた岩の砦から移していなかった。

 エルフたちの父祖が眠るという『神域』を無力化するまでは念のため用心しておきたいし、いずれにせよルガルット王国のは必要だから。

 とは言え、ここから広大な大森林を越えて北の前線地帯へ向かうのは骨が折れるので戦力は森側に移しつつあった。


 そんな、赤薔薇の軍旗がはためく岩の城の一室には、無骨で不気味な砦には似つかわしくない、大人の雰囲気を漂わせるバーが設えられている。

 ふわりとした質感の深海色の壁紙を、光量を抑えた魔力灯照明が気怠く照らす。

 その辺の木を勝手に伐採して作った一枚板のカウンターの向こうには、出所不明の酒らしき液体の瓶が並んでいた。


 一般兵が気安く出入りできる場所では当然無く、この場に立ち入れるのは幹部格の少数のみ。

 さらに、オーガたちは物理的にこの場所へ入れないし、リザードマンは同族の者だけで集まりたがる。エルフたちのほとんどはまだこんな場所へ来るどころではない。

 と言うわけで、この場に来るのはもっぱらエヴェリスとトレイシーくらいで、最近はエヴェリスが助手兼実験用の美少年たちを連れ込んではわるいことを教えるようになったくらいだった。


 カウンターの隅っこでは、黒猫が丸くなって眠っている。

 彼女を時折撫でながらキツめの酒をロックで飲んでいたトレイシーは、思いがけず入室する者があって入り口の方を見やった。


「あれま」


 妖精の装束のような、淡くカラフルな……しかし傷つき朽ちた武道着の女がそこに居た。

 艶やかな青黒の髪を頭の両側で団子状にまとめている。

 肌は血の気を失い蒼白で、額に貼り付けた札が顔の大部分を隠していたが、垣間見える部分だけでも少女めいた愛嬌の顔立ちだと分かる。


 かつて冒険者パーティー"零下の晶鎗"に所属していた女格闘家グラップラー・チェンシー。

 ウダノスケに破れて死んだ彼女は、ルネとエヴェリスによってキョンシーへと作り変えられていた。


「珍しいね、チェンシー。ここへ来るなんて」

「トレイシー」

「ま、一杯どうぞ。お米の酒が好きだって言ってたよね? シエル=テイラじゃ滅多に手に入らなかったけど、本場だからいくらでも手に入るみたいね」


 トレイシーはカウンターの内側から勝手にカップを取って、それに酒を注いで差し出した。

 受け取ったチェンシーは、顔に貼られた札の裾を掻き上げて酒を口にする。


「どう?」

「……酔わない」

「ま、そーだよね。しょうがないか」

「あなたもでしょ。子どもの頃から対毒の訓練をしてるから、並みの酒じゃ酔っ払わないって」

「うん。でも美味しいものは美味しいからね」


 二人とも、ちょっと笑う。

 まるで何事も無かったかのように。

 例えば、在りし日のテイラ=ルアーレの酒場で偶然行き会ったかのように。


 しかし、何もかもが変わってしまったのだとトレイシーはもちろん分かっている。


なってから話すの、初めてだっけ」

「……そうね」


 チェンシーとトレイシー。

 二人ともシエル=テイラ王国ではトップクラスの冒険者であり、その繋がりから交流もあった。


 生前から知っている相手が、生ける屍となってすぐそこに居る。

 しかも、同じ主君に使える身として。

 世にも奇妙な話だ。


 長い行軍中、トレイシーはずっと周辺の人里も含めた先行偵察ばかりしていて、その前後も忙しくてそれどころではなかったため、存在を認識していながらもアンデッド化したチェンシーと話したのはこれが初めてだ。

 しかし、仮に根本的な部分で存在をねじ曲げられているとしても、意外なほどに彼女は変質していないという気がした。


「何かあったの?」


 聞いて欲しそうなタイミングを見計らってトレイシーは聞いた。

 普段こんな場所に来ないチェンシーが姿を現したのだ。何か悩みでもあるのか、トラブルにでも見舞われたのだろうとトレイシーは見当を付けていた。


「昔……ケーニス帝国に居た頃の知り合いと戦ったの。一ヶ月前の、あの戦いの時に。

 私を守りたかったって、言ってた」


 それからしばらく時間を掛けて、彼女はぽつりぽつりと話をした。

 帝国での修業時代、姉弟子からの苛烈な虐めに堪えかねて寺院を逃げ出したこと。

 口減らし同然に家を出ていた彼女は帰る場所がなく、逃げるように流れ流れて雪深きかの国へと流れ着いたこと。

 概ね愉快で、仲間にも恵まれた冒険者暮らしを望外の幸せだと思っていたこと。

 そんな中でほんの少し気に掛けていた、お別れすら言えなかったかつての兄弟子のこと……


「……一ヶ月前の戦いで重傷を負わせたけれど、生きていたから……これから西軍との戦いが激化すれば、また出てくると思う。それで気になって……

 あーあ、生きてた頃はもっと単純だったなあ。私の世界。

 依頼クエストがあって、倒すべき敵が居て、殴ればよくて」


 参りきった調子でチェンシーは首を振った。


「今は辛い?」

「幸せなの。とても。姫様にお仕えできることが……

 昔の仲間とか、昔の知り合いとか、全部どうでもよくなっちゃうくらい幸せなの。私はこのために生まれてきて、このために死んだんだなって運命感じちゃうくらい。

 ……自分が道理の通らないこと言ってる自覚はあるのよ? でもね、それさえどうでもいいくらい幸せで」


 幸せである事が辛いのだとでも言うように、彼女は儚く笑う。


 概してアンデッドたちは、己を作った術者に対する絶対の忠誠を植え付けられている。

 ルネに尽くし、その身が果てるまで戦うことは、彼女らにとって理屈を超えた義務感と幸福なのだ。

 それが植え付けられた感情であると理解していても抗うことは決してできない。


「もし紅童ぐどう……石枕せきちんとまた戦うことになれば、私は躊躇わずに殺すよ。もちろん。

 それは幸せなことなの。姫様のお力になれるんだもの。

 ただ……生きてた頃の自分なら絶対にそんなことしなかったんだろうなって考えると……こう、モヤモヤーっと」


 毒に染まった手を頭の上に掲げて、チェンシーはわきわきと動かした。

 己は操られているのだ、と自覚するのは奇妙な気分だろう。

 彼女の場合、そういうことを割り切って開き直れるほど器用ではないのだろうとトレイシーは思っていた。


「ならせめて、石枕さんも仲間に引き入れて二人で姫様にお仕えすればいいんじゃない?

 強い人なら大歓迎だよ、きっと」

「ふふふ……そうだね」


 気休めと知りつつトレイシーは言って、気休めと知りつつチェンシーは頷く。

 別にトレイシーもルネが負けると思っているわけではなく、『多分勝つだろう』程度に思ってはいるのだけれど、思い通りに事が運ぶかは疑問だ。


 ――相手は帝国軍だもんなー。姫様が本格参戦して、次の戦い辺りではそろそろ対策してきそう。

   以前の戦いで能力ネタが割れてる『魅了』防御アクセサリーと、対アンデッドの装備が増えてるのは砦の襲撃でもう確認してるし。

   多分次はオーガを止めに来る。引っ越しで死体が減って、今の姫様軍は切り込みがオーガの重装歩兵任せだから、野戦になったらここが要になるわけだし……

   あと、向こうは特殊戦闘兵とかエース級の死体を奪われてもアンデッドにされないよう何か仕込んでくるかな。


 鮮やかに勝利を収めて、相手のエースを手に入れる見事な勝利となるかは見通せない。

 まあ、未来のことならどうなるか分からないのだからなんだって言える。

 酒の席での与太話くらいは許されるだろう。


「ねえ。トレイシーはどう思ってるの? あなたは私みたいにアンデッドになったわけじゃないけど。

 現状のこととか……姫様のこととか……」


 チェンシーはちょっと言い出しにくそうに質問をした。

 彼女の側もまた、トレイシーの事情を把握しているようだった。望んでこの場に居るわけではないのだと。


「なんかね、正直割と楽しいと思ってるよ。

 姫様はひっどいこともするけど、姫様の敵も良い奴とは限らないわけじゃん? ボクだって、そういうの見て痛快に思ったりしてさ。

 たださー、ボクはやっぱり人の世界捨てきれない。

 姫様がこういう戦いをするのは理解できるよ? 理解できるけど、その結果までは受け容れられない。国とか滅んだら無関係な人たちも酷い目に遭うじゃん。あんまり酷い目に遭う人が増えるのはやだなあって、人並みに思ったりするよボク?」


 パタパタと、可愛らしさを二割増しくらいにする手振りを交えつつ、誤魔化さずあけすけにトレイシーは答えた。


「だからなんて言うか……適当に現状を楽しみつつ、誰かが姫様を止めてくれないかなって祈ってたり。いやー、無責任だなー」

「堂々とそんなこと言っちゃって大丈夫なの?」

「ボクはマジックアイテムの縛りで絶対服従だから、逆に堂々と反抗的なこと言えるんだよネ。

 頭で何考えてても身体は絶対服従だもん」


 『隷従核』を埋め込まれた胸を張って、トレイシーは開き直る。


「威張って言う事じゃないでしょ」

「どーせ近いうちに死ぬと思ってたから、万事いい加減に楽しむのが癖になっちゃってるな。

 あー、ていうかその件もあった。魔女さんがボクを延命してくれるって話。

 これは正直、に付かなきゃあり得なかった未来だね」


 コロコロと笑って、グラスに残った酒をトレイシーは飲み干した。

 幸運と成り行きで命を拾ったのだから、命ある限り心の赴くままに生きようとトレイシーは決めていた。

 即ち、楽しめることを楽しんで、自分が為すべきだと思ったことをするだけだ。


「ま、なるようにしかなんないよ。流れを作るのは姫様だから、ボクらはその中でモヤモヤしたことがあったらお酒でも飲むだけだね」

「そうね。そうかも」

「……ところで」


 トレイシーはバーカウンターの向こう側、数多のボトルを背負って立つ男に目をやる。


 ムーディーな照明の下、白シャツ黒ベストに蝶ネクタイの老紳士グールが銀色のシェイカーを振っていた。


「今更だけど何やってんの、国軍元帥様」


 何故かカウンターに立っているアラスター。

 ツッコんだらいけないのかと思ってトレイシーは黙っていたが我慢の限界だった。


「それが……『代わりのイケオジが見つかるまで時々これをやれ』と参謀殿が仰せで……」

「魔女さん自由すぎない?」

「姫様もご承知のことと」

「姫様ノリ良すぎない?」


 アラスターはシェイカーの中身を二つのカクテルグラスに注いで、気障な所作でカウンター上を滑らせた。

 鮮やかに蒼い液体で満たされた逆三角形のグラスは、トレイシーとチェンシーの前でそれぞれピタリと止まる。


「どうぞ、一時の夢を」

「サマになりすぎてる……」


 黒猫が起き出してグラスを鼻でちょんちょん突き、結露の水滴をペロリと舐め取った。

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