[3-35] どいつもこいつも浸食海岸

 異空間の『館』は既に全体が、壁と床が一体化したような曖昧な状態になっていた。

 しっかりと足を踏みしめていなければ上下の区別すら分からなくなってしまいそうなその場所を、ミアランゼはふらつきながら駆け抜けた。

 家具だったと思しき得体の知れない物体が散らばっていた。

 自分が通ってきた景色を辿って……ルネが寝かされているはずの調理場へ。


「無事ですか、ルネ!」


 部屋に入ったところでミアランゼは立ち止まった。

 小さな背中があった。ルネは身を起こしていた。

 月光に燦めく滝のように、艶やかな銀髪がその背中を覆っていた。


 ほどけた即席包帯は血まみれだったけれど、その下の肉体は白く柔らかく滑らかで、血の汚れがいくらか付いてはいても、傷どころか傷痕すら見えなかった。


「怪我が……治っている?」

「無事よ、ミアランゼ。手間を掛けさせてしまったわね」

「……記憶が、戻ったのですか?」

「ええ」


 ルネは言葉少なで、あからさまなほどに涙声だった。


「ルネ……」

「少し放っておいて、ミアランゼ……

 わたしはただ、悪い夢を見ていただけだから……」


 ミアランゼはただ言葉を失う。


 この奇妙な館を探索している間、ルネは全ての悲劇を忘れていた。

 それはむしろ『幸せな夢』と言うべきだろう。

 だけど敢えて『悪い夢』と言ったその気持ちが、ミアランゼにはなんだか分かるような気がした。

 全てを思い出して目覚めた瞬間、絶望しなければならないのだから。

 一度でも苦しいそれを、もう一度味わわなければならないのだから。


 さっきまで帰りを待っていたはずの母が、とっくに死んでいた……殺されていたのだと、思い出してしまったのだから。


 『放っておいて』と言われたけれど、それで良いのだろうかとミアランゼは自問した。

 本当は慰めてほしいのか、それともかえって傷付けることになってしまうのか。

 ミアランゼは、ルネがこんな時に何を考えるか知らなかったから、分からない。


 ――私は、ルネのことを何も知らなかった……


 憧れ、信奉して、尽くすつもりだったのに、ルネのことを分かっていない。

 臣下の立場に甘えていれば、ルネの言う通りに振る舞うだけで良いのだが。

 それではダメだったのだとミアランゼは思った。

 残念ながら、それに気付くのが遅すぎたけれど。


 声を殺してしゃくり上げていたルネは、そのうちやがて立ち上がる。


「……待たせたわね」


 泣き濡れたグチャグチャの顔では無く、ミアランゼが見慣れた冷たく穏やかな表情だった。


 ――あっ。多分今、魔法で涙を消した。


 ミアランゼはちょっとだけ魔力の動きを感じた。

 見栄を張っていると言うべきか、痩せ我慢と言うべきか。


「さっき急に力と記憶が戻ったの。

 ミアランゼ、あなたが何か?」

「はい。出口を見つけました。そして……

 この空間を形成し、姫様を害さんとしていたエルフどもを倒して参りました」

「あなた一人で?」


 驚いた様子のルネを見て、ミアランゼはまんざらでもなかった。

 何もかもルネに頼って夢を預けることしかできなかった自分が、ルネのために不可能を可能にしたのだと。それが誇らしかった。


「全てはルネのお陰です。私は、あなたのためと思うと力が湧いてくるのです」

「よくやったわ。……と言うか呼び方が変わったわね」

「あ! ええと、これは……」


 呼び方を変えさせられて、それが戻っていなかった。

 臣下が主君に気安く呼びかけるなど、場合によっては処刑もありうる。


 だけど『無礼を働いてしまった』とか考えるよりも先に、ミアランゼは寂しく思っていた。

 遠く遠く、遙か彼方のルネへ畏敬の念を捧げるばかりだった。そんなミアランゼにとってすぐ近くに居る彼女に頼られて守るのは思いがけないほど新鮮で感動的な体験だったから。

 そして、何より、ルネの存在を近く感じられたから。


 ルネは、一瞬拗ねるような顔をしたような気がした。


「いいわよ、最初に命じたのはわたしだもの。あなたがわたしをどう呼ぼうと構わないわ。

 ただし他の者の前では気安く呼びかけないように。それはわたしの威信を傷付けるわ」


 ――そうだった、姫様は心を読む力が……これでは私がおねだりをしてしまったかのようで……


 いたたまれない気分になりながらもミアランゼは嬉しかった。

 自分がルネにとって特別な存在になれたような気がして。


「かしこまりました。有り難き幸せに存じます」

「あんな姿を見られた以上、格好付けても仕方ないものね」


 ルネは溜息交じりだった。


 ――ルネの、傲慢で超然とした物腰……これはもしかして演技なのだろうか?

   支配者としての威信を保つため、このように……


 ふと思う。

 もしかしたら、記憶を失っていた時のアレが『素』ではないかと。


「お可愛らしいと思いましたが……」

「ミアランゼ。悪気の無い褒め言葉でも嫌味になることがあるんだって覚えておきなさい」

「申し訳ありませんでした」


 ルネみたいな『感情察知』能力の無いミアランゼでも分かる。ルネは恥じらっていた。


「力も戻っておりますか?」

「ええ。今はあなたの羽根も消えてないでしょ。この空間の強制力が弱まっているのよ、多分。

 ……エヴェリスに分析させておきたいわね。こんな場所がそうそうあるとも思わないけれど、対抗策は欲しいし、どうやって力が封じられたか分かれば……」

「とにかく、今は早く脱出すべきでしょう。

 最初はエルフどもの攻撃のために、外から世界に穴を開けざるを得なかったようですが……

 今は私の攻撃によって世界が破損し道が出来ています」

「そうね。こんな場所に長居はしたくない。行きましょ」


 ルネは足早に部屋を出て行こうとする。

 ミアランゼはその後を追えなかった。


「……ミアランゼ?」


 手足には既に感覚が無かった。


 ◇


 ルネは見た。

 膝を付いたミアランゼの、その足が。漂白された砂の塊のようになって、崩れかけているのを。

 腕にはヒビが入り、その欠片が剥がれ落ちている。

 浜辺の砂山が風に負け、削られていくかのように。


「申し訳、ありません……私はここまでのようです」

「これは……!? あなた、何をしたの!?」

「分かりません……きっと、奇跡を……起こしたのだと……」


 崩れ落ちるミアランゼをルネは膝に抱くように抱えた。

 軽い。

 軽すぎる。

 その身体は存在しているという手応えが無く、ほんの少し力を加えただけで砕けてしまいそうだった。


「姫様……いいえ、ルネ。どうかお聞きください。

 私はあなたのため自らを燃やし尽くしました。……それを幸せなことだと思っています。

 私の願いをあなたに預けようと思ったからではありません。

 ルネ、あなたは私にとって、同じ祈りを抱いて共に歩むべき方であると気が付きました。そして、だからこそお守りせねばと、そう思ったのです……」


 気怠げに、ミアランゼの言葉は徐々に間延びしていく。

 それは別れの言葉だった。

 最期に全てを伝えるために紡がれた言葉だった。


「最後まで共に在れないこと、お詫び申し上げます……」

「待ちなさい! 待って……!」


 ――手放してはいけない。


 ルネは咄嗟にそう思った。

 ミアランゼの中に何かが見いだせそうだった。

 それはルネの道行きに何らかの示唆を与えるのではないかと。


 ただ、もはや何かを悩むような時間さえ無い。

 ミアランゼの腕は中途で折れて床に落ちた衝撃で霧散し、血のように赤い双眸は焼かれたガラス玉みたいに曇り…………


「ギリッギリセェ――――――フッ!!」


 ほぼ下着姿の痴女……もとい魔女が部屋の扉を破るように押し開け、ヘッドスライディングで突っ込んできた。

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