Episode7 中は嫌、外に出して(3)

 ネズミ船長がついにその顔を見せた。


 しかし、”ネズミ船長”という名で呼ばれているらしい、この厳つい顔つきの中年男の外見からはネズミを感じさせる要素など微塵もなかった。ネズミというよりも、いわゆるゴリラ系の顔立ちだ。

 

 それに……私はこの人の顔に見覚えがある。

 どこかで会ったことでもあるのだろうか?

 いいや、今はそんなことはどうでもいい。

 私はここから脱出して、外に出たいだけなのだ。

 私が心の底に沈めた真実だとか、ボンラレクが私が新たに生み出した人格だとか、そんなことを聞いている余裕などない。


 ネズミ船長が椅子から、ゆっくりと立ち上がった。

 漆黒の固そうな髭に包まれたその口を開いたその時――


 バタバタバタバタ、と幾つもの足音が操舵室へと飛び込んできた。

 士騎子、そしてあのキンキン声の年増女たちが総勢10名ほどが。

 女の比率が多いも、全く統一感のない服装と年齢の者たちの顔は皆、怒りと悲しみで歪んでいた。


「……ネズミ船長、アイディールがさっき死んだわ」

 唇をワナワナと震わせながら、士騎子が言う。

 涙を必死でこらえている士騎子の両手と地味なスーツは、必死の救命措置を行おうとした証明であるかのようにアイディールの血で汚れていた。


「ナホ、よくもアイディールを!」

「ナホ、お前は最低最悪の人格だ!」

「ナホ、やっぱりお前なんか”ここ”で生かしておくべきじゃなかった!」


 他の者たちが泣き叫ぶ。


 広がりゆく慟哭と、私への憎しみ。

 しかし、アイディールを実際に殺したのは私じゃなくて、ボンラレクだ。

 実行犯であるボンラレクと、”ここ”から逃げようとしただけの私を同一視するなんて、間違っている。

 私は、ボンラレクじゃないのに!



 アイディールの死の報告を受けたネズミ船長は、フーッと重苦しい息を吐いた。

 そして、海では雷鳴も轟いた。

 私はビクリと後ずさる。

 そして、アイディールの血で口回りを汚しているボンラレクも後ずさった。



「ナホ、そろそろお前が”心の奥底に沈めた真実”を思い出したであろう? ……お前も、お前が生み出したその”殺人ぬいぐるみ”も、そしてわしらも皆、同じ人間の中で生まれた人格の1つなのだ……ここは多重人格者の心の中だ」



 !!!

 ここは私は夢の中なんかじゃなかった!

 心の中の世界!

 多重人格者の心の中だと……?!



「ナホ、わしらの主人格となる者は、ここ数年、ずっと船室に閉じこもっており、これほどの騒ぎになっても出てくることはない。もともと臆病で厭世的な性質の主人格だが、あいつは、このあてのない航海の最期の時まで、ずっと自分の船室に閉じこもったままであろうな」


 信じられない、信じたくない。

 私は私だ。

 私はナホ。27才の女だ。

 康人への思いで胸がいっぱいの女だ。もうすぐ康人の花嫁となる女だ。

 こんなおっさん船長やおばさんの士騎子や生活疲れした年増女とかと同じ心を共有していたなんて思いたくない。 

 さらに言うなら、私の足元の禍々しい血だらけのボンラレクとだって。



「ナホ、わしは主人格が幼い頃に、父親に折檻されて物置に閉じ込められ、真っ暗な物置で自分の足元を這いまわる鼠に怯えていた時に生まれた人格だ。主人格は父を恐れながらも、そんな父であっても愛されたいと願う気持ちがあった。そしてわしが生まれた。わし自身はこの操舵室にいるのが主で、”外へと出る”ことは滅多にないがな」


 ネズミ船長は私の後ろにいる、涙で顔を濡らした者たちへと目をやった。


「ナホ、士騎子は、主人格が人の世の規律や倫理にそって、道を外すことなく、真っ当に生きていきたいという思いより生まれた。そして、隣にいる美輪(みわ)は日々の生活に疲れながらも、うだるような日々の中であってもの小さな幸せを噛みしめて生きていきたいという思いから生まれた」


 あのパッサパサのロングヘアのキンキン声のおばさんは、美輪という名前だったのか?

 主人格の思い――感情によって生まれきた人格たち。

 じゃあ、私が生まれる元となった感情は、康人への恋心……?


「ナホ、わしらはわしらなりに懸命にバランスを取り合っていたんだ。この”あてのない航海”は、極めて不安定な人生という旅ではあったがな。けれども、わしらの主人格が”清掃のアルバイト”として勤めていた会社で、康人という男に一目惚れしてしまったことでお前が生まれてしまった」


 また雷鳴が轟いた。

 雷は血の臭いが仄かにただよう、この操舵室をもピカッと照らした。


「……わ、私が康人を愛してしまったことがいけないというの! 私は康人を愛している! 康人も私を愛している! そうよ、絶対にそうよ! そうなのよ!」


 私は何も悪いことなどしていない。

 私が康人を愛してしまったことが罪だとでもいうのか?


「ナホ、お前が康人を愛してしまっただけなら良かった。恋心は誰にも留めることができない。お前の恋心そのものをどうこう言っているわけじゃない。お前は……」



「ナホ! あなたはエロトマニアなのよ!」

「ナホ! 康人はお前のことなんて愛していないんだ!」

「ナホ! 自分の気持ちだけを押しつける質の悪いストーカーだよ、あんたは!!!」


 ネズミ船長の言葉を遮って、今まで黙っていた他の人格たちがもう我慢できないって感じで喚いた。喚き続けた。


「ナホ! あんたは康人と”康人の彼女”とのマルチプルランドのデートだって尾行して……自分で買ったぬいぐるみを康人からのプレゼントだって脳内変換しているんだよ!」


「ナホ! お前は康人の会社のロッカーを漁って、康人の家の合鍵を作って家に侵入した。康人が彼女のために買った指輪を見つけて……その後、お前は急にこの船に戻っちまったから、人に見られないように、家宅侵入の痕跡を残さないように康人の家を出るのに俺がどれだけ大変だったと思っている! 当のお前は次に外に出た時は、人の苦労も知らずにヘラヘラしやがって!」


「ナホ! 士騎子がやっと見つけてきた清掃の仕事を主人格がなんでクビになったか、知ってる? 覚えている? あんたが会社の休憩室で寝ていた康人の唇にキスして、それが大問題になって解雇されたんでしょ!」


 皆、何を言っているのか?

 康人は私を愛しているというのに。


「ナホ、わしが言おうと思っていたことは他の者たちが全て代弁してくれたから良しとしよう。お前は問題がありすぎる奴だが、わしらはそんなお前をも……同じ船の中にいるわしらだけでなく、他人にまで迷惑をかけているお前をも、一応はわしらとともに生きる者として認めようとしていたんだ。許そうとしていたんだ。わしらは、1人の人間の中で生まれた人格にしか過ぎない。けれども、生きている。わしらに自我や心があるように、お前にも自我や心があるのだからと……お前がずっとこの船の中にいて、”外に出て”他人に危害を加えようとしないならと…………けれども、”お前は”アイディールを殺した。わしらの”お前をこの船の中に留めておきたい”という感情から生まれたアイディールをな」


 ネズミ船長の目が光った。

 ギラリと。奴はさらに一歩近づいてきた。


 ネズミ船長は私を、いや私とボンラレクを殺す気なのか?

 逃げようにも退路はすでに塞がれている。私たちに憎しみの炎を燃え上がらせている士騎子たちによって。


「ネズミ船長! ナホとオイラを皆でリンチする気か?! 卑怯だぞ! キャプテンの風上にも置けない奴め!」


 ボンラレクがチューッと喚く。


「ナホ、そしてナホが生み出した”お前”も。わしはここにいる全員でお前たちをリンチする気はない。他の者の手を汚させる気はない…………わし1人で片をつけるつもりだからな!」


 ネズミ船長の目がまたしても光った。

 鋭い光を宿した瞳の色は、黒から赤へと変わった。血の赤へ。

 皮膚を灰色の体毛が覆いつくしていく。鼠色の毛へ。

 ゴキゴキという音が体から発され、雄叫びをあげんとする筋肉が、ネズミ船長の服をブチブチと弾き飛ばした!


 

「皆、後ろに下がって! 早く!」

 粛清の時間のゴングがもうじき鳴らされる。巻き添えを避けさせるために士騎子が素早く指示を出した。


 奴が”ネズミ船長”と呼ばれる所以、それはネズミに変身できることから来ていたのだ。

 もはや人間と同等サイズで、筋肉隆々の灰色のネズミへと!


 ビタン! 床に手足をついたネズミ船長――処刑ネズミは、キシャーッと鋭い歯を私たちに向かって剥き出しにした。

 

  

「わああああああっ!」

 パニックを起こしたボンラレクが、私の足の甲に飛び乗ってきた。同じ齧歯類とはいえ、体の大きさや歯の鋭さ、全ての点でボンラレクは完全に負けている。



「ナホ、負けちゃだめだ!」

 ボンラレクはそのまま、恐怖のあまり石化してしまった私の体によじ登ってきた。


「ナホ! ナホは強い! ここにいる誰よりも強いんだ! 恋する女のパワーを見せてやれ!」


 恋する女のパワー!?

 でも、そんなことどうやって!?


 腕の中にボンラレクを抱きかかえる形になった私に、前からビュッと風をまとったネズミ船長が飛んできた。


「きゃあ!!」


 揺れる船内でさらに私はバランスを崩した。

 船の傾斜は目まぐるしくかわる。さすがに90度の傾斜にはならないが、30度、45度といった具合に。


 でも、傾斜によってバランスを崩したことは幸いだったのか?

 ネズミ船長の噛みつきを避けることができたのだから。

 しかし、ネズミ船長の歯が私の左の二の腕がかすったがための鋭い痛みは、不思議なことに後から襲ってきた。


――……!!!


 痛い。

 夢の中、いいえ私の心の中にも痛みがある。

 康人の花嫁になる大切な”私の体”に傷がついた!

 それだけじゃない。

 鼠といったら不衛生なイメージを私は持っている。もし、黴菌でも入っていたらどうしてくれるのだ!!!


 船は揺れた。さらに激しく揺れた。

 私やボンラレク、ネズミ船長だけでなく、この不安定な足場での公開処刑の見物人たちも「ぎゃー」「うあああ」などといった悲鳴をあげながらゴロゴロと無様に転がっていていった。


 雷が鳴る。

 幾度も鳴り響く。雷鳴は荒れる大海原の彼方から、徐々にこちらへ近づいてきている!!!


 怖い。でも私は康人に会いたい!

 康人! 康人! 康人! 康人! 康人!


「ナホ、すごいぞ、ナホ! ナホは海を操っている! ナホの怒りや恐怖が海を荒立たせている! ここにいる者には誰もできない! ナホにしかできない!!」


 ”やはり”この海は私の思い通りなのだ!

 康人への思いが、この心より溢れんばかりの私が!


「ナホ、康人に会いたいんだろう! 外に出て、康人の花嫁になりたいんだろう! だったら、あいつらをやっつけろ! ナホこそ、ここの主だ!」


 そうだ。その通りだ。

 船が荒れ狂う海に勝てるわけがない。

 私こそ、ここの主だ。主人格だ。

 こんな陰気な船の操舵室でふんぞり返っているネズミ船長なんかより、そしてこれだけの騒ぎになっても船室から出てこない(足がもつれて出てこれないのかもしれないが)無責任な核となる人格なんかよりも、ずっと主人格にふさわしい。


「ナホ、こしゃくな……っ!」


 ネズミ船長が再び風をまとい、”今だ”と言わんばかりに飛び掛かってきた。

 でも、奴の唾液で光る歯が私の肉を噛み砕くより、”私の海”が幾倍も速かった。

 

 水は時には凶器となる。

 私の海より生じた水柱が、まるで意志を持った蛇のように鴨首をグッともたげたかと思うと、そのまま操舵室へと――ネズミ船長へと――!

 操舵室の窓は突き破られた。

 ガラスの破片はまるできらめく星のように散らばった。

 潮の匂いはより強く全ての者の鼻腔を蹂躙した。


 そして、水という凶器をその背に――いや全身に受けることとなったネズミ船長は潰れた。

 ベチャッだか、グチャッだた何とも言えない気味の悪い音ととおに、濡れて潰れた肉片と化したのだ!


「ナホ! やったぜ! ネズミ船長をやっつけた! ざまあみさらせ! ミンチだ! ネズミのミンチだ!」


 チューチュチュチュッ! と高笑いをするボンラレク。


 血と海水で揺れた床で、ネズミ船長のやけに綺麗なピンク色の手だけがまだピクピクと動いていた。

 その命汚い悍ましさが私をゾッとさせた。


「ナホ! あんた!」


 ダッと走り出てきた士騎子が私に――私の首へとアイディールの血で汚れた手で掴みかかってきた。


「ナホ! あんただけは許さない! 私自身の命に代えてもあんたを……!!!」


 涙と鼻水でグチャグチャになった真っ赤な顔の士騎子が、私の首をギュウウッと締める。フウフウという荒い息とともに締め上げる。


「が……っ……ぐげえ……」


 中年のおばさんの力とはいえ、アイディールに続けてネズミ船長までをも”失った”彼女のリミッターなるものは、もうとうに外れてしまっていた!

 

――!!!


 私が苦しさに喘いだ時、船が一段と強く揺さぶられた。いや、私が揺さぶったのだ。

 ほぼ70度近い傾斜となった操舵室内で、士騎子も私自身も鼠色の固い壁へと叩きつけられた。

 いや、私は士騎子という”肉のクッション”を挟んで壁に叩きつけられた。


 ゴキ、と嫌な音が私の体の下から聞こえた。

 何かとりわけ太い柱が折れたかのような音が。


 士騎子は死んでいた。あっけなく死んでいた。

 首の骨が折れた士騎子は、唇の端から血を垂らし、何も――憎い私すらを映すことができなくなった目を見開いたまま、事切れていた。


 他の人格たちの「士騎子!? わああああー!」という泣き叫ぶ声。

 船長のみならず、副船長ポジションの士騎子までもが”いなくなった”。

 この船の舵を執る者はもういない。


 ボンラレクが私の胸元にピョーン! と飛び込んできた。


「ナホ! 後はこの船からオイラと一緒に脱出するだけだ!」


「だ、脱出って、どうすれば……!」


 この荒れ狂う船内を再び駆け抜け、甲板にでも向かえというのか?

 けれども甲板に出た後は、いったいどうすればいいのか?


「ナホ! 想像するんだ! いや、この船から抜け出して、外へと……”空へとオイラとともに上昇していくイメージ”をナホの中で”創造”するんだ!」



 ギュッと目をつぶった私は想像した。

 胸にボンラレクを抱きかかえたまま、鈍色の空へと上昇していくイメージを”創造”したのだ――



※※※



「ナホ! 成功だ! 目を開けて下を見るんだ!」


 私が目を開いた時、私と腕の中のボンラレクは吹き荒ぶ潮風に身を煽られながらも、宙に浮かんでいた。

 そんな私のつま先よりも遥かに下方に、波にもみくちゃにされている船の姿がある。

 船は私が想像していたよりも、ずっと小さかった。


「ナホ! ナホはあの船をどうしたい? それもナホが創造するんだ!」


 あの船をどうしたいか?

 そんなこと、ボンラレクに言われなくてももう決まっている。


 ネズミ船長は「心の底は世界の果てよりも遠い」などということをかっこつけて言っていた。

 だったら、その世界の果てよりも遠いらしい心の底に、あの船を沈めてやろうじゃないか。

 主人格もはじめ”私以外の全ての人格たち”を海の底へと。

 果てしない海の底へと。


 私とボンラレクの下で、海はより一層激しくゴオオオッと渦巻き始めた。

 渦が船を飲み込む。船は渦へと飲み込まれゆく。


 私の腕の中から下を覗き込んだボンラレクが、チューッチュッチュッとうれしそうに笑う。勝利の高笑いだ。


「ナホ! さあ、このまま上にあがろう。で、まずはナホが先に”外に出る”んだ。オイラが外に出ていた時、オイラはナホへのプレゼントを”オイラのぬいぐるみ”の下に隠している」


「私へのプレゼント?」


「ナホ、そうだよ。きっとナホは驚くぞ!」


 超ハイテンションのボンラレク。


「ナホ、”ここ”にいるのは、もうオイラとナホだけになる! 2人だけで新しく”心の中の世界”を創造していこう! 今度はオイラの大好物のブルー・ド・ジェックス(チーズの一種)で出来た家がいいな」


「…………ごめんね、ボンラレク。それはできないわ」


 それはできない。

 このボンラレクに、私は助けてもらった。

 けれども、私は私以外の者と心の中で共存するなんて、まっぴらごめんなのだ。

 私は1人だけでいい。

 康人に愛されている27才の女、ナホは1人だけでいい。

 そもそも、このボンラレクは”本物のボンラレク”ではない。

 私が康人に愛されている現実世界でのボンラレクが――ぬいぐるみが喋るわけなどないのだから。



「ナホ!? オッ……オイラはナホのために……っ」


 自分の数秒後の運命を悟ったボンラレクの顔が凍りついた。

 けれども、私は構わずにボンラレクをポーンと放り投げた。

 下方で激しく渦巻く波へと向かって。


「あ! ああああああぁぁぁぁぁ――!!!」と叫び続けるボンラレクの姿は瞬く間に小さくなり、やがて渦と同化して見えなくなってしまった。


 すっきりした。

 とっても、すっきりした。

 ”私以外の全ての人格たち”を海の底へと葬り去った私は、旅路の途中ずっと背負っていた重い荷物をやっと下ろすことができたかのような爽快感に包まれていた。


 これで私の心も体も私だけのものになった。

 ううん、正確に言うなら、私の心と体は康人のものでもあるわけだけど。


 康人、康人、康人、康人、康人……

 康人への思いで、私はより強く生きているって感じることができる。

 早く康人に会いたい。

 ううん、私から会いに行く。

 私はやっと外に出ることができるんだから――……



※※※



 外に出ることができた私がまずしたことは、部屋の中に置いてある”ボンラレクのぬいぐるみ”の下を確認することだった。

 現実では喋るわけがないボンラレクの下には、とある空港名と日時が書かれたメモが残されれていた。

 これは私と康人の新婚旅行の――飛行機の搭乗時刻に違いない。


 なんと、行き先はアメリカだ。

 やはり、海外ドラマ好き、とりわけアメリカの海外ドラマ好きの私の希望を康人が聞き入れてくれたのだろう。


 だが、焦ることに、前に私が外に出ていたと記憶している日から数えると、すでに数か月もが経過していた。

 あの忌々しい人格たちは、どれだけ長い間、一世一代の私の恋の邪魔をしていたというのであろうか?

 

 メモに記されている搭乗時刻はあと数時間後だ。

 私が外に出てくるのがもう少し遅かったら、大切な新婚旅行に間に合わなかったというのに!


 私は”渋い色の男物の服が大半を占めている”クローゼットの奥を引っ掻き回し、白いワンピースを取り出した。

 ウェディングドレスのような清らかなワンピースを。


 康人と私は、結婚式の後に新婚旅行という順番ではなく、新婚旅行の後に結婚式という順番を辿るようだが、挙式前ハネムーンもいいかもしれない。


 メイクアップした私は、スーツケースに急いで必要な物を――衣類や洗面用具に始まり、海の向こうでもお料理をするために必要な使い慣れた包丁などを詰め込み始めた。

 ふと、パスポートすら持っていないことに気づいた私だったけど、きっと”それ”も康人が用意してくれているはずだ。


 家を飛び出した私は、空港へと急ぐ。

 道行く人たちが私に目を留め、または振り返り、息を飲んでいた。

 花嫁となる女ならではの輝きに満ち溢れた私は、白いワンピースを翻しながら、全ての人たちの時をも止めてしまっているに違いない。

 これほどに美しい花嫁を持つことができる康人もきっと幸せだろう。


 やっと空港に着いた。

 空港の入り口に康人がいた。

 愛しい康人が私を待っていてくれた!


 ……いや、康人だけじゃない!

 康人の隣には私と同じナホという名前の”あの女”もいたのだ!

 康人と同じ会社に勤めていて、とてつもなくしつこくて自己中で思い込みの激しいストーカーでしかない”あの女”が!


 しかも、あの女は”私のパスポート”だけじゃなくて、”私の指輪”までも左手の薬指にはめて、うれしそうに康人と笑いあっているばかりか、彼の腕にまで馴れ馴れしく手を触れ、私の康人にベタベタと触っている!



 泥棒。

 泥棒には罰を。


 私は包丁を取り出した。

 包丁は料理をするためだけのものじゃない。

 泥棒女にお灸をすえるためのものでもあるのだ。


 近くにいた誰かが甲高い声で――あのキンキン声の美輪みたいな声で叫んだような気がしたが、私は気にせず泥棒女へと足を進めた。


 泥棒女が振り返った。

 康人も振り返った。

 彼らはハッと凍りついた。


 凍りついた泥棒女の首に向かって、私はそのまま横に一直線に包丁の先をシュッとすべらせた。


 喉を押さえた泥棒女は、かすれた呻きとともに空港前の鼠色の床へと倒れ込む。

 女の喉からびちゃびちゃと溢れる赤い血は、パスポートだけでなく左手薬指の指輪までをも汚す。さらに私の白いワンピースまでをも。


 しかし、構うものか!

 私は女からパスポートを取り返した。

 もちろん”私の指輪”も。


 けれども、取り返した指輪は私の左手薬指の第2関節までしか入らなかった。


 どうやら康人は私の指輪のサイズを間違えたらしかった。

 康人ったら、本当にもうドジなんだから。

 でも、許してあげる。

 私は康人のことを愛しているんだから。

 康人だって私を愛しているんだから。


 だが、当の康人はビクビクと痙攣している泥棒女を抱き起こし、「ナホォォ!!」と泣き叫んでいた。

 そして、”海よりも深い私の愛の行為”の見物客たちからの”熱狂の叫び”はより凄まじくなっていった。


「警察だ! 警察を呼べ!!」

「”女装したおっさん”に女の人が刺されたぞ!!!」

「空港の中にいる人は外に出てはいけません! 皆様、中に入ったままでいてください!」


 皆、いったい何を言っているのだろうか?

 私の名前はナホ。年齢は27才。

 やっと指輪を取り返した私はこれから、愛する夫の康人とともに飛行機に乗って新婚旅行に行くだけなのに。




―――完―――

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