第73話 四百年後の美濃の皆さんに謝れ
永禄五年(1562年)元日。
岐阜城は、各地の織田領から新年の挨拶に訪れた当主達や様子を伺う近隣の国人衆からの使者でごった返していた。
前年、大国美濃を下した破竹の勢いの織田信長に、人が集まって来るのは当然の事だろう。
こんな大勢の人間と一人一人挨拶していたら終わりが見えぬ。
そんなわけで、家臣、使者皆を集め、新年の挨拶を終わらせた後、祝賀の宴が張られた。
当然、希美も久五郎、秀吉等と共に岐阜城を訪れていた。同僚達への挨拶回りも終わり、龍興や坊丸とも合流した希美は、やっと席に腰を落ち着け、食事にありついていた。
信長は遠くで挨拶に訪れた家臣や使者達に囲まれている。
(しめしめ、今のうちにゆっくり食べておこう)
信長が来れば、絶対に絡まれると見越した希美は、正月用に信長に献上した末森産の清酒をくいっと飲み干した。
「社長、良い飲みっぷりだぎゃ」
「おお、気が利くな」
すかさず杯に酒を注ぐ秀吉は、完璧に会社の新年会のサラリーマンだ。こういう所が上司に気に入られるのだろう。
希美もつられてか、『飲み会の席で上司が突如海外への急な人事を打診』という、会社の飲み会あるあるを敢行してしまった。
「なあ、藤吉郎。火山灰が欲しいんだ。船は天王寺屋に頼むからさ、暖かくなったら、ちょっと薩摩に行ってくれない?」
秀吉は、動きを止めた。ぎぎ……と希美を見る。
「薩摩って、あの、ずうっと西の果てにあるという?」
「そんな西遊記みたいな言い方するほど、果てじゃないさ」
「岐阜の町に、えすての店と居酒屋を開く準備の真っ最中ですぎゃ!」
「ひと段落ついてからでいいからさ、頼むよ。藤吉君。薩摩、いい所だよお?ご飯は美味しいし、温泉もある。指宿の砂風呂もよかったなあ」
希美は、秀吉の肩を揉みながら猫なで声を出した。
秀吉は訝しげに希美を見た。
「社長はいつ薩摩に行きなさったんで?」
「み、御仏の御業でね!」
困った時の御仏頼みである。
秀吉「ほええー」と感心したような声を出すと、何やら改まって希美に向き直った。
「社長、実は二つお願いがありますぎゃ」
希美は目を瞬かせて、秀吉を見た。
「どうした?」
「わし、祝言を挙げとうございますぎゃ!」
秀吉の言葉を聞き、希美はちょっと考えた。
(あれ?寧々ちゃんと結婚するの、いつだっけ?)
「まだ、結婚してなかったのか?」
希美の問いに、秀吉は答えた。
「本当は、去年の夏に祝言を挙げようと思っておったんですが、ちょうど社長のとこで働く事が決まった時期で。そん後は、とにかく忙しく、延び延びに」
(やっべ!もしかして、史実では去年の夏に結婚するはずだったのかな?)
仰天した希美は、秀吉に謝った。
「す、すまんな……私のせいで」
「いえ、社長のおかげでわしは侍に取り立てられ、殿の与力として柴田家では家老格で扱ってもらえておるのです。ずっと祝言に反対していた向こうの義母様も、今では早く祝言をと催促するくらいで」
「ええ……なんか、史実と違うな」
「わし、薩摩から帰ったら祝言を挙げようと思ってますぎゃ!!」
「お、おう……それ、死んじゃう予定の人がよく言うやつだよ。もう薩摩行きは後回しでいいから、YOUすぐ祝言挙げちゃいなYO!」
「本当ですぎゃ?!」
嬉しそうに喜ぶ秀吉に、秀吉の隣で飲んでいた利家が歓声を挙げた。
「うひょおーー!目出度いじゃねえか!祝言には呼んでくれよな」
利家にバンバンと背中を叩かれ、苦しそうにしながらも、秀吉は「呼ぶ、呼ぶぎゃ」と目尻が下がっている。
希美はそんな二人を微笑ましく見ながらも、気になっていた事を聞いた。
「ところで、二つ目の願いは何だ?」
秀吉は希美を見ると、平伏した。
「わしは、立派な侍となって祝言を挙げるに当たり、これまでの小者の名前から新たに侍として、名を変えようと思うのですぎゃ」
(ええ?!木下から羽柴に名前が変わるのって、もっとずっと後だったよね?わ、私のせい?!)
驚く希美を余所に、秀吉は続けた。
「社長には引き立ててもらい、えろ教に導いてもらった恩があるぎゃ。だから、社長から゛柴゛の字を一字いただきたいのですぎゃ!何卒!」
「あー、うん。いいよ。持ってって、どうぞ」
「有り難う御座いますぎゃ!後は、わしがいつもお世話になっておる……」
(もう一字は、丹羽長秀の゛羽゛を取って、羽柴になるんだったよね)
「えろ教から、゛えろ゛をもらって、『えろ柴藤吉郎秀吉』と名乗りますぎゃ!!」
希美は、飲みかけた酒を吹き出した。
「ぶっふぉっ!うおぉい!!?」
(えろ柴?!羽は?丹羽長秀の立場は?いや、それより、教科書に『えろ柴秀吉』って載るの?!)
そこへ、一益が口を挟んできた。
「漢字は、゛露゛(あらわ)な使徒に゛会゛えるってんで、『会露えろ』が良いんじゃないか?」
一益の唇は、ぷるぷる震えている。笑いが堪えきれぬようだ。
「『゛露゛な自分と゛会゛える教え』。そんな意味も込められて、良いかもしれませぬな」
河村久五郎も同意した。
(『露なお前に会える教え』だろ!何が良いんだ、あほんだらっ!!)
希美は歯軋りが止まらない。
秀吉は満面の笑みでで頷いた。
「それは良いぎゃ。わしは今日から『会露柴藤吉郎秀吉』ぎゃ!早速、殿にお伺いを……」
「おい!ちょっと待て」
希美が立ち上がる秀吉を止めようとしたその時、「何を騒いでおるか!」と聞き慣れた声が背後から聞こえた。
言わずと知れた、織田信長の登場である。
両隣には、丹羽長秀、池田恒興を引き連れ、苦虫を噛み潰したような表情で、希美を睨んだ。
「「「「「明けましておめでとう御座る」」」」」
皆、一斉に平伏した。
信長は湛然として挨拶を返すと、秀吉に聞いた。
「猿!何があったか、申せ!」
秀吉は答えた。
「はっ、この猿めの新しき名を考えておりましたぁ!」
信長は眉を潜めた。
「新しき名じゃと?」
「ははあっ、柴田様の名から一字いただき、『会露柴藤吉郎秀吉』と名乗りたく!」
「え、えろ柴、じゃとお?」
信長が唖然とした顔をする。
そしてそのまま、(マジか?)というような顔で、希美を見た。
希美は、必死にウィンクで、(却下!却下して!)とアイコンタクトを送ったが、信長は疲れたように一つため息を吐き、その息で言葉を発した。
「好きにせよ……」
(許してもうたあーー!!『会露柴秀吉の天下統一』が教科書に載ったあ!!)
頭を抱える希美の耳に、利家の無駄に元気な声が聞こえた。
「う、羨ましいで御座る……殿っ!某もえろ教徒!『前田』から『会露田』に改めたいで御座る!!」
希美は頭を抱えたまま、床に額をめり込ませた。
「又左!お主!何を申すか!!ガホッゴホッ」
向こうで、利家に少し面差しの似た、真面目そうな細面の男が咳き込みながら立ち上がった。
「兄者、某は『馬うえいく』だと何度言えば……」
「わかっていて、無視しておるのじゃ!この唐変木が!ゲホッ……お主、前田を捨てる気か?!」
利家の兄だった。
利家とは真逆の、非常にまともそうな男である。
「兄者、わしが兄者を、前田を助ける気持ちには一切変わりない!しかし、わしにはわしの道がある。兄者には、跡継ぎとして婿の慶二がおるではないか。わしが前田でなくとも問題は無いはずじゃ!」
利家の言葉に、兄は言い返した。
「お主は頭はあれじゃが、殿の寵深く、名だたる武辺の者じゃ。前田にとって、わしにとっても、必要な男じゃ!」
兄の言葉を聞いた利家は目を見開き、何か思いを巡らせている様子を見せた。
そして、ぽつりと呟いた。
「兄者のようにできぬわしは、疎まれていると思っておった……」
利家の兄は、はっとした顔をした。
「誰かに何か言われたか」
利家が頭を振った。
「いや。だが、皆がわしに思うておる事はわかる。出来損ないじゃ、と。わしには、兄者のようになれん」
いつも明るくノリのいい利家に、そんな懊悩があったのかと、希美は胸を衝かれた。
兄は渋面で言った。
「お主がまともな行動を取らぬからじゃ。だが、お主がまともになりさえすれば、前田の当主はお主だっただろう。わしは体が弱く、お主のように武辺で身を立てる事はできぬ。……わしは、健康で自由に行動できるお主が羨ましかった」
「兄者……」
信長が利家に言った。
「犬、お前が望めば、今すぐ兄を蟄居させて、お前を前田家当主に据える事もできる。それでも、お前は名を変えるか?」
利家は信長を、真っ直ぐ見据えて言った。
「某は兄を蟄居させる事など望みませぬ。兄は武辺者ではないが、頭で戦える武士で御座る。某は、某の道を進むのみ!どうか、某の道にふさわしき名を!」
信長はふっと笑った。
「相わかった。勝手に名乗れ」
利家が吠えた。
「前田馬うえいく利家、これより『会露田馬うえいく利家』となったあ!皆の衆、よろしく頼む!!」
「「「「「応っ!!」」」」」
「『会露田馬うえいく』って、誰だよ。ほぼ原形留めてないじゃねえかよ……」
希美の呟きは、会場の歓声にかき消された。
こんな名がふさわしい道とは、一体……
希美は、ダブふん姿の利家が馬で戦場を駆け回る未来しか見えず、ぶるりと体を震わせた。
四百年後の研究者は語る。
「岐阜や愛知の辺りに『会露』と付く名字や地名が多いのはですね、『会露柴秀吉』と『会露田利家』の改名が影響していると考えられます。当時彼らは、えろ教に傾倒していましたからね。両者とも、えろ教の神とされた柴田勝家を尊敬していましたから。この改名の話が民衆に伝わり、我も我もと『会露』改名がブームになった、と当時の資料は伝えていますね。……ただ、不思議な事に、柴田勝家はこの改名を良しとしていなかったようです。森可成が『会露可成』に改名しようとするのを必死に止めた、と伝わっているんですよ。何故なんでしょうねえ。えろ教を作ったのは自分なのに。ここは専門家の意見が分かれる所です」
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