34

そうして気がついたら自分の部屋にいた。蘭晶の問題は解決したはずだ、多分。曖昧なのは、脳が柘榴に集中しているからだろう。様々な感情で彼を見ても、答えが見つからない。

彼の全てが乗っているはずなのに、それを感じさせないぐらい軽かった。暖かさはぷくりとした唇から漏れる息くらいだ。気持ち良さそうに目を閉じ、先ほどから私の指先を玩具のように弄んでいる。無垢な子供のようでありながら、時折妖艶な仕草が混じった。この危ういどっちつかずな性格は、美術品のようでさえあると感じる。

不意にそれを止めると、くすりと微笑んだ。体の向きを変えて、くるりと回る。肩を掴んで、胸が触れそうな距離まで近づいた。

「ねぇ、先生」

頷くような返事をすると、更に笑みを濃くした。

「そう、別に会話がしたい訳じゃないの。こうしてゆったりと過ごしているのが、凄く心地良い。ぴったりとね、お互い何もせず贅沢に時間を無駄に捨てていく。この事は私と貴方しか知らなくて……それが、凄く嬉しい」

背中に手を回し、髪を撫でる。いつ触れてもふわふわとした手触りだ。柘榴の体はどこも誰かが作った人形のようだと、たまにそんなことを思う。

「愛してる……全部……愛してるの」

ガラス細工のような瞳に私が映し出された。そっと零れそうな涙を拭う。

「だからね、いいの。私は貴方の全てが好きだから。行動の一つ一つ、貴方が起こしたことなら愛せる。他の子のところに行ったって……私はそれを好きになってあげるの。だから……帰ってきて。最後は私のところに……」

柔らかな唇が頰に触れる。こんなに美しい彼の愛を一身に受けてしまって良いのだろうかと葛藤したが、柘榴を押し返すような勇気もない。

「ねぇ……指貸して」

薬指を一本、丁寧な手つきで撫でた。それに唇で触れてから、歯を近づける。尖った歯が指に刺さり、血が滲む。それを眺めていると、細い指が目の前に現れた。

「先生も……やって」

傷つけたくないと首を振ると、くすくす笑った。

「ねぇ私、指輪よりこっちが良い。指輪は外せば取れちゃうけど、こうしたらずっと残るもの。……誓ってくれる? 永遠を」

細く白い指に赤が滲む。指が絡まって、血が混ざった。それに満足したのか、だんだん瞳が微睡んでくる。柔らかな体を抱きしめながら、寝息に変わるまで蝋燭を見つめていた。



15

教室一面が白に染まった空間は、彼らに相応しい気高さを表していた。初めは森に囲まれた城を作る予定だったが、途中で雪を降らせる方向にしたらしい。天井から吊るされている金色の星飾りが、白の中で一際輝いていた。

「とても綺麗だ。今の季節にぴったりだね」

全員で並んで、順番に作品を見ていく。私の側に来た白の生徒達は、誇らしそうにこちらを向いていた。

雪は洗剤等を混ぜて作ったらしい。今は明るいけれど、電気を落として、ロウソクの灯りだけにしてみるのもいいだろう。きっと幻想的な雪景色になって、また別の魅力が生まれる。

手を引かれて、隣の教室へ向かった。いつの間にか私に説明をしようと、緑の生徒が隣にいる。

一色ではなく、水色を基調としたグラデーションになっていた。深い青から緑、紫からピンクへと、段々水面に近づいていくように演出されている。白の装飾は星や雪の結晶で揃えられていたが、こちらは様々な小物が使われていた。大きな貝殻や人魚姫の像は、粘土を使った手作りだ。小さな貝や真珠、宝箱は学校のどこかにあったらしい。セロハンとライトで作った海藻類が教室内のあちこちにあって、その影が部屋に漂っていた。こちらも素晴らしい出来だ。

本当に海の中へ入ったみたいだと伝えると、それぞれの苦労話を聞かせてくれた。結構大変だったけど、完成した部屋を見るとやって良かったと思う、そう言ってくれた生徒の肩に手を置く。労いの言葉をかけて、もう一度教室を振り返った。細かい工夫が沢山あるので、まだまだ楽しめそうだ。

この二つに比べてしまうと、やはり黒はシンプルだった。教室内には木の舟が一つ。黒々とした海の中に、浮かんでいるように見えるトリックアートだ。その舟が先に薄らと見える陽に向かって進むのか、それを背にして後退するのかは、それぞれの解釈に委ねられる。まだ朝日が昇る前の空。この世界が希望を表しているのか、そうでないのかは分からない。

光を遮断すると、蛍光塗料で描いた星が現れる。別の顔を覗かせるこの空が、私は気に入っていた。舟から見る満点の星空は、ここでしか味わえない。

結局、優劣などつけられるはずがなかった。彼らも互いに認め合っているようで、発表が終わった後も、教室へ出入りする生徒は少なくなかった。特に琥珀は大きな作品にハマったらしく、再び美術室に通い始めている。

そして私は校長や彼と共に、サプライズを用意していた。生徒達より凄いものを作れはしないが、喜んでほしいという気持ちは込めている。

「ありがとうございます。彼らも喜ぶと思います」

「このぐらいは全然構わねえよ。当日はでっかいケーキ作ってやるからな」

「ふふふ、そういえばここに来てからというもの、そんな行事など忘れていましたねぇ。カレンダーも碌に用意していないのですから」

「まぁ本来の日付に拘る必要も無いと思います。今も正確な日時を把握するのは難しいですし。クリスマスだけでなく、年が変わる前に一区切りとして、彼らに感謝を伝える日にしたいんです」

「こんなに素敵な日が訪れるとは思いませんでしたなぁ。彼らの作品はどれも素晴らしく、先生のおかげで皆生き生きとしています」

この人達の目には、私が良い先生に映っているだろうか。二人が私の奥にしまった、けれど確実に存在する熱に気づいたら、きっとここにはいられなくなるだろう。いや、しかしもう生徒は私に懐いてくれている。ここで私を簡単に追放させることはできるだろうか。もしかしたら数名は私と一緒に来てくれる……なんて、本当にそんなことになってしまったら困る。今からでも……せめて彼らだけには決して見せてはいけない、私の中身を。

今はそうわざわざ宣言しなくても、自然と先生らしい思考になることができていた。誰かに教わった、良い人に見える笑みを浮かべて振り返る。人間とは幾つになっても、何色にも塗り替えられる物のようだ。


ここにも雪は降るらしい。改めて校舎を囲む石の壁を見ていると、不思議な気分になった。この中に入る雪と入らない雪、その違いはなんだろう。単なる確率なのか、それともここにある木や雑草、その生命の一つ一つには意味があるのか。

ひやりとした壁に手を這わす。雪は沢山降っているのに、私の手に付くことはあまりなかった。ふと視線を感じて振り返る。少し不安そうな顔を浮かべているのは、柘榴だった。

「外、気になるの?」

隣に来て同じ様に手をつける。こちらを見て出たくなっちゃった? と聞いた。私は笑って首を振る。まさか、そんなことは思ったことないよ。柘榴はゆっくり手を近づけた。

「冷たくなっちゃう」

「柘榴の方が……」

小さく細く真っ白で、寒いところにいたらすぐに赤く染まってしまう。柘榴はその言葉が嬉しかったのか、笑って手を上げた。雪を捕まえようとしても、それは手の中で溶けてしまう。

「大丈夫。寒くないよ、とっても暖かい」

それなら、良かった。柘榴が私の手を取る。

曇り空だ。それほど暗くはない。空を見上げるには、かなり首を倒さないといけない。だからあまり上を見ることはしなかった。でも今日は何故か、空を見上げていたかった。冬の空気を吸い込んで、息を吐き出したかった。

私も一つの節目、ということだろうか。確かに少し緊張している。彼らは喜んでくれるだろうが、歓声を上げるのは彼のケーキだけかもしれない。楽しめるなら何でもいいが、少し寂しい。

「先生、そろそろ教えてよ。みんなで集まって何するの」

「君にも内緒だよ」

「いじわる……ふふ、なんてね。楽しみにしてる。本当は知りたかったけど。悪いことじゃないんでしょ? 先生嬉しそうだもん」

「そんな風に見えるかな」

膝を曲げて、目線を合わせる。秘密を交わして、手を繋いだまま室内に戻った。柘榴と別れて最後の確認をする。一人で部屋にいると、大きな足音が迫ってきた。こんな音を鳴らすのは一人しかいない。

「どうしましたか、校長」

「あ、あのガラスは先生が?」

「勝手に触ってしまってすみません。ですが直接ガラスにやった訳ではないので、もし気に入らない様なら剥がせるように……」

先生っ! 迫ってきた大きな体が手を包んだ。久々に彼の圧を全身に感じた。

「とんでもない! とても美しいです! 以前から欲しいと思っていたんですよぉ」

彼が毎日通ってる祈りの場、あの窓にステンドグラスのような模様を上から貼り付けた。近くに寄ると工作感満載だが、遠目に見るとそれなりに仕上がっている。一人で黙々と作業して作ったものだ。プレゼントとして思いついたのは最近で、元から許可が下りれば作ろうと思っていた。丁度いいタイミングに完成したからとは、わざわざ言う必要もないだろう。最初のサプライズが上手くいって、自信がついた。部屋で待機して、彼らが訪れるのを待つ。

教室の中心に置かれたツリーの飾りつけは上部だけにしてある。残りは好きなように、彼らにやってもらおうということだ。そろそろ時間だろうと、顔を上げる。呼びに行くのは何だか気恥ずかしくて部屋で待つことにしたのだが、これもこれで落ち着かない。部屋を暖かくし過ぎたかもしれない。窓を開けて換気しようとした時だ。廊下からぞろぞろと足音が聞こえた。僅かに窓を動かして、後ろを確認する。このまま作業していた方が緊張が薄れるかもしれない。いや、きちんと迎えた方が良いのか? 校長はきっとこういう事は得意なのだろう。今は違う準備を任せてしまっているが。

そう迷っているうちに、扉は開いていた。私が何か言う前に、生徒達はツリー下に沢山置いてあるプレゼントに飛びついた。色とりどりの箱だが、中身は同じだ。開けていいのと目を輝かせる様子を見ていると、不安な気持ちは消え去った。リボンが舞い、中から出てきたのはお菓子の詰め合わせだ。定番のジンジャークッキーから、色々な動物のアイシングクッキー、チョコレートやマシュマロなどが入っている。棒付きのチョコレートはテディベアの形になっていたりと、いつもより珍しいお菓子を用意してくれた。

「皆、ちょっと待って。今食べても良いんだけど、お菓子は急がなくても大丈夫だからね。大事に取っておいてほしいな。それよりも今は、とても美味しそうな料理とケーキを用意してもらったから、そっちに行こう」

二段のケーキなんて、私も初めてだった。肉汁が滴るステーキや、様々なピンチョスが宝石のように輝いている。私も生徒達に混ざって、年甲斐なくはしゃいでしまった。こんな風に大勢でパーティーをやることなどなかったから。この場にいる間、居心地が悪いと感じることは一度もなかった。いつもどこかで、人が多いと特に、自分が置いていかれたような気がしていたのに。

ケーキが半分程なくなった頃だった。三人のリーダーがこちらに箱を持ってきた。どうやらテーブルの下に隠していたようだ。何も聞いていなかったので、思わず先生達と顔を見合わせていた。

「先生、今日はありがとうございます。是非、僕達からの贈り物も受け取ってください」

紅玉は私に、リシアは校長に、桜華は彼に手のひらほどの箱を渡した。私は小声で紅玉に話しかける。

「驚いたな、いつから用意していたの?」

「先生達が何かしていた事は、何となく分かっていたからね。僕たちもお礼を用意しようって話していたんだ」

彼らには敵わないと、またも思わされた瞬間だった。

いつの間にか外は暗くなっていた。このまま彼らと過ごしてもいいのだが、今日は彼の部屋へ誘われていた。数人の生徒に呼び止められたが、あまり夜更かしはしないようにと釘を刺しておいた。

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