16

♢灰蓮♢

そういえば、兄弟がいるのは俺らだけだ。他に血を分けた存在がいる奴はいない。翠のあれはまた違う。俺たちは仲間だが、いざとなったら家族は家族のところに戻る。家族以上の存在なんてあり得ないだろ……あり得ない、よな?

いつもは隣にあるはずの、小さな影を追いかける。どこに行ったんだろう。まあ先生といることは知ってるんだけど。先生には感謝している、ありがたいと思う。瑠璃が迷惑をかけているんだから。先生はそれに、優しいから付き合ってくれているだけ。分かってる……分かってる……! だけど不安なんだ。近くにいないと体が震える。瑠璃が急に消えちゃったら……そんな夢をあの後はよく見た。玻璃がいなくなった時は。

本当に一人ぼっちになっちゃったら、俺はその孤独に耐えられるのか? 無理だ。瑠璃が側にいない時に何かが起こってしまったら。自分の手が届かない場所で瑠璃が消えたら、その場にいた人間を恨んでしまう。例えその人が命を張って瑠璃を助けようとしたのであっても、俺は許すことができないだろう。そんな風になりたくないから、大人しく隣にいてほしい。あんまり厳しく言うと嫌われちゃいそうだから、強くは言えないけど。そんな些細な喧嘩がきっかけで離れてしまったら、後悔してもしきれない。

「子供は純粋ね、真っ直ぐで羨ましいわ」

蘭晶がつまらなそうにカップを傾ける。瑠璃は本当に純粋なのか。 元々あまり話すタイプではなかったが、人数が増えるにつれて更に声を聞くことが減った。隣にいたって、何を考えているのか全然分からない。あの顔の向こうで恐ろしいことを考えているなんて思いたくないけど……きっと心配しすぎなだけで、特に何にも考えてなんかいない、はずだ。

「あたしも、もう少しちっちゃかったら先生に抱っこでもしてもらえたかしら」

蘭晶の独り言が空気に流れていくだけで、特に誰かが相槌を打つこともなかった。紅玉とか柘榴、俺とかが茶化してもいいところだけど、今はそれどころじゃない。ああ、落ち着かない。瑠璃が他の子と一緒にいるのなら、ここまで心は乱れていない。俺はそうか、まだ先生のことを信じきれていないんだ。もう少し様子を見ようと思ったけど、そうも言っていられない。このままでは瑠璃に、キツイ言葉を浴びせてしまうかもしれない。

「何して遊んでいるのかな? 先生って瑠璃の前ではお父さん、みたい」

柘榴の落とした角砂糖が紅茶の中に溶けていく。それをぼうっと目で追いかけていると、自分の手元でもちゃぷんと音が鳴った。柘榴がくすりと笑う。俺の中にも入れたらしい。単純に驚いて、何も言えずにただ顔を眺めてしまっていた。柘榴は笑ったまま姿勢を戻す。ちょっぴり甘くなったはずの紅茶の味は、よく分からなかった。

確かに親子みたいだと、遠くから見ているとそう感じる。不自然じゃない。寧ろ瑠璃には父親が必要だ。本当の親には会わせられない。でも俺では、瑠璃は不満らしい。俺は……瑠璃に捨てられちゃったら、どうしていいか分からないよ。瑠璃無しの、灰蓮としての生き方が分からない。どうやってみんなに話しかけていいのか分からない。

「瑠璃……お兄ちゃん……邪魔、だったか?」

それならそうだって、言ってくれていいんだぞ。何も言わずに離れていっちゃうのは、嫌だよ。

「……玻璃を守れなかった。それを恨んでる?」

教えて。理由を……側に来て。瑠璃。


一人で寝るのは久々だった。いや一人で寝たことなんてなかったんだっけ。もう思い出せない。

明かりを全て消しても、この部屋は完全な闇にはならない。これのおかげで、瑠璃がきちんと寝たかが確認できる。

服の裾を引っ張って、顔を覆った。今日は何も見たくない。もっと暗く、真っ暗にして。

薄々気づいていたけど、目が覚めた時、それをより実感してしまった。思っていたよりも気分はスッキリとしている。なかなか寝付けなかったが、意識が落ちてからは一度も目が醒めることはなかった。いつも目を開けてから真っ先に瑠璃を確認するが、今日はそれをしなかった。無意識にやってしまうんだろうと思っていたのに、意外だった。立ち上がって鏡を覗き込む。いつも通りの姿だ。どうして寂しくないのだろうと、わざわざそんなことを考えて顔を洗った。俺は、普通になれるんだ。なれてしまう、人間だったんだ。

髪を適当に整えていると、ドアが叩かれた。これは瑠璃じゃない。少し緊張しながら返事をした。さっきまでの平常心はさすがに崩れる。

「灰蓮、おはよう」

それに反して先生の顔は穏やかだった。得意のすみませんという表情は相変わらずくっついているけど。

「おはよ、センセ。センセはちゃんと寝れた?」

「……ああ、大丈夫だよ。今日は灰蓮のところに連れていく」

「いいよ別に」

反射的に言っていた。こんな風に反抗的な態度での物言いができるのだと、自分自身が驚いていた。

「灰蓮」

心配するようで、でも教師らしい強い言い方だった。部屋に入って来て、いつの間にか止まっていた俺の手に触れる。離してと怒るべきなのか、何もしないのが正解なのか、考えている間に力が込められた。暖かいというより熱くなっている。

「灰蓮……君は確かにとても良いお兄さんだよ。でもそれ以前に、君だってまだ子供なんだ。もっとワガママを言ってもいいんだよ」

「えっ……」

想定していなかった言葉に、思わず先生の顔を見上げていた。そっと肩に手が触れる。

「瑠璃が側にいないと不安なのは分かるよ。でも灰蓮一人で守らなくてもいいんじゃないかな。皆のことは信頼しているだろう? 私のことも利用してほしい。それから、信じてほしい。ここにいれば、皆でなら大丈夫だ。誰かが瑠璃のことを見守っていてくれる。灰蓮も瑠璃だけじゃなく、皆のことも目に入っているだろう? 一緒に、守っていこう」

「先生……」

暖かい場所に導かれるように、胸元に顔をくっつけた。今まで近いところにいた体温は、自分の手の先か、届いてもお腹までしかない小さなものだった。自分より大きいものは久しぶりなのに、安心できた。先生には嫉妬していたくせに勝手だ。でも、この人ならそんなものも許してくれるんだろう。

「でも俺……分かんないんだ。瑠璃のお兄ちゃん以外の生き方が。それにみんなも、最後には家族のところへ帰っちゃうだろ。瑠璃がいなくちゃ、俺は一人になっちゃう」

「……じゃあ私も一人だね」

長くなった髪に大きな手が触れる。それを梳くように動かした。

「私にはもう家族はいない。ここから出ても、会いに行けるような人物はいない。最後とは具体的に何が起きるのか、それは分からないけど、灰蓮が一人ぼっちになってしまったらそのときは……良かったら私を選んでくれないかな」

「先生……一人なの?」

ああと返した顔が優しかった。泣きそうになっていた俺のせいだろうか。どうして俺の方が悲しくなっているんだろう。

「俺はもうお兄ちゃんじゃなくていいの?」

「灰蓮は瑠璃のことが好きだろう? お兄ちゃんを無理やり辞めるなんてことを、考えたりしなくていいんだよ。ずっと瑠璃の側にいなくちゃとか、瑠璃が怪我をしたら自分のせいだとか、そんなことも思わなくていい。瑠璃のことを想っている、それだけで立派なお兄ちゃんだ」

先生を見上げて、その瞳の中に映っている自分は、笑顔になっていた。ああ、先生ってこういう存在なんだと初めてしっくりきた。

「私は瑠璃のお兄ちゃんではなく、灰蓮として接していくから、灰蓮も自分のことを沢山教えてくれると嬉しい」

「……うん」

なんだか離れるのが名残惜しくて、しばらくくっついていた。今なら瑠璃の気持ちが分かってしまう。この人を、このまま自分の側に。他の人に渡したくない。この時間が終わったら体を包む温もりも消えてしまって、寂しさに苦しむことになる。

そう思っていたけど、先生が部屋を出ても暖かさは残っていた。自分で何度考えても答えが出なかった悩みに簡単に、しかも想像を超えた答えを出してくれた先生。その結末に、心が満たされていた。



教室に向う途中、数名の生徒に囲まれてしまった。眩しいほどの白色。こんなに近くで見るのは初めてだ。私を中心に、輪になるように立たれてしまったので動けない。

「やぁどうも。こんにちは先生」

顎まで伸ばした金色の髪。そこからは自信が満ち溢れていた。彼らのリーダーで間違いないだろう。高圧的な態度だが、彼にはそれが似合っていた。生まれ持ったカリスマ性は紅玉に劣らないかもしれない。

「挨拶が遅れてすみません。タイミングを狙っていたのです。まさかこんなに早く、貴方がこの学校を変えてくれるとは思っていなかったので」

こちらに話しかけてはいるが、私が返事をする必要はないようだ。彼は舞台に立っているかのように、一人で演説している。

「私達もね、餌を待ちぼうけする雛鳥のように、ただ口を開けて過ごしていた訳ではないのです。私供の担任には早急に退場してもらいたい。目に入っていないとはいえ、あの人の呼吸音でさえ……ああ、おぞましい。なぜあのような人間は自分が無価値だと気づかないのか? 気づいた上で我々に嫌がらせをしているのか? まぁ私に楯突かない、その点だけは認めてあげよう。このままどこかへ行ってくれたら、万々歳なのだが!」

「えっと……リシアくん? だっけ」

他の生徒は彼の言いなりらしい。彼以外の人間から声が上がることはなかった。いつもこんな調子なのだろう。

「呼び捨てで構わない。僕に余計な装飾は必要ないよ」

「また話す機会を作るから、今は教室に行ってほしいんだ。先生もお待ちになっていると思うし……」

頭を押さえて、片手を横に伸ばした。押さえている手の下からチラチラとこちらを見ているらしい。

「えっと……」

外側から見ている限りでは、こんなにクセが強い人物だとは分からなかった。

「……まぁいいです。今日は挨拶だけのつもりでしたので。先生にお願いすることは、あの人をどこかへ追いやってほしいということです。厚かましいですよねぇ、これだから鈍い人間は醜い。先生が上手くやってくださったのなら、我々は緑と手を取り同じクラスになりますよ。それから……紅玉達とも仲良く、します」

「本当に?」

「う、上手くいったら……です。例えばこの白が分裂したり、他のクラスに恨まれる、というような遺恨を残さない方法で」

考えてみるよと返すと、一応は満足したようだった。これ以上先生が減っていいのかと心配になったが、彼らがそれを望んでいるなら仕方ないのかもしれない。理不尽な理由から嫌っている訳ではなさそうだし。

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