2-2 ココロ

 そもそも、なんで僕は春待なんかを好きなんだろうか。


 確かに、顔は良い。スタイルも。良い匂いがする。でも、中身は残念だ。とても残念だ。おっさん女子とか、そういう問題じゃない。他人の名前は覚えないし、空気は読めないし、相手の気持ちも分からない。最悪だ。

 人間、見た目が九割とか言うけれど、残り一割がマイナスをぶっちぎっていたら、どうにもならないだろう。そもそも、人間ですらないし。


 春待に命を救われた瞬間から、僕はやつの「下僕」になった。つかいっぱしりみたいなこともいろいろやらされたし、思いつきのわがまにもいっぱい付き合ってきた。最近じゃ、恋をしたいとか言い出したせいで、恋人作りの手伝いまでやらされた。


 ――ベンジャミン・フランクリン効果。結局は、そういうことなのかもしれない。付き合いの長さを考えれば、単純接触の原理をプラスしても良いかもしれない。いちいちハラハラすることも多かったから、吊り橋効果も加えようか。

 まぁ、もうこうなったらなんだって良い。

 仕方ないじゃないか。あの目が輝く度に見惚れてしまうし、甘い香りには気持ちをもってかれそうになってしまうし、なにより、他のやつらの名前を間違う度に、少し優越感を覚えてしまったりするんだから――つまりそれはもう、どうしようもないってことだろ。


 心理学的な効果だろうが錯覚だろうが、なんだって良いさ。僕が春待青を好きなのは――変えられない事実なんだから。

 

※※※


 学生の下校にはまだ早い、平日の昼日中の電車はガラガラで。僕は座席に座りながら、これからのことを考えていた。


 春待を傷つけてしまった。僕の目の前からそれをリカバリーするだけの、行動と覚悟。


「相手は、謝られたからって、桜庭のことを許さなきゃいけない、ってわけじゃないよな」


 高嶺はそう言っていた。あのの言うことを考えるならば。自己満足のための謝罪じゃなくて、春待が許しても良いと思うような――「傷ついた」ことをなかったことにできるくらい、それくらいの誠意が必要……って、ことなんだろう。たぶん。


「……って、言ってもなぁ……」

 それが一体どういうことなのか、というと、僕にはまだ見当もつかない。


 そもそも、僕にああ言われて傷つくとか。どうなんだ実際。ずっと、どうでも良いような態度をとってたくせに。こういうときだけ、ずるいやつだ。


 分かっている、本当は。それ以上に怖いのは――このまま、山に行ったところで、春待に会えないんじゃないかっていうことで。もっと言えば、春待が僕のことを忘れていたら――そもそも春待自身がいなかったら存在しなかったらと、それなのだけれど。


 ぐっと、膝の上で拳を握る。そんなバカなことがあるはず、ない。そう言いきれないのが、苦しい。だって、信じられないバカみたいな目に、もう充分すぎるくらいあってきた。


 ガタン、と電車が揺れる。不意に、眠気が瞼を閉じようとしてきた。もうすぐ、春待山の最寄り駅に着くのに、なんで。寝ている場合なんかじゃない。

 僕はズボンの上から、太ももに爪を立てた。薄っぺらい生地の上からの痛み。それもむなしく、がくりと頭が傾ぐ。電車のガタゴトという音に混じって、どこかで聞いたような鐘の音が、ゴーンと聞こえたような気がして――。


 はっと目を開けると、周囲にはいつ間にかたくさんの乗客たちがいた。向かいの窓から見える空が、暗い。寝過ごした――と、慌てて立ち上がりかけ、違和感に気がつく。


 いつの間にか、制服がスーツに変わっていた。喉元には、ネクタイまでしめている。

「え……っと」

 頭が回りだす前に、停車のアナウンスが流れた。足はまるで習慣に倣うように、勝手に動いて電車を降りる。


 降りたのは、住宅街に近い駅だ。鞄を握りしめ、くたびれた革靴で夜道を歩く。

 そうだ――僕は。いい歳して、学生の頃の夢なんてみて。


 足が向かった先は、他に建ち並ぶ家々となんら変わらない、一軒家で。「ただいま」と中に入ると、ぱたぱたという足音が聞こえてきた。

「あなた、お帰りなさい」

「うん、ただいま。詩織」

 するりと、妻の名前が口から出る。詩織は昔と変わらない笑顔で、にこりと迎えてくれる。


「今日は、もしかしておでん?」

「うん、そろそろ寒くなってきたでしょ。あったまるかなって」

 台所では、ことことと鍋が煮込まれていた。漂ってくる出汁の香りに、腹が鳴る。

「先に食べる?」

「うーん、いや、さっぱりしてから、ゆっくり食べたいな。すぐ出るから」

 「のんびり入ってて良いのに」という笑い声を背中に、風呂へ向かう。ほどよく温まった湯は、心にも身体にも沁みるようで。湯船に深く潜り込みながら、僕ははぁっと息を深くついた。


 夢をみた。学生時代、春待を探した夢。探しに行って――結局、会うこともできず。そのまま今に至る、そんな昔のこと。

 鬱々と過ごす僕のそばに、詩織はそっといてくれた。「忘れられなくても良いから、好きな人のこと」と、そう言って僕を受け入れてくれた。心配だった病気の再発もなく、今は穏やかに幸せな家庭を、二人で築いている。


 風呂を上がり、食卓につくと、詩織がおでんを用意して待っていた。

「良い匂い。美味しそうだね」

「でしょう? ほら、コップ。おつかれさま」

 注がれたビールを見て、僕は少し笑い、そのままコップをテーブルに置く。

「ありがとう、しぃちゃん」

 ビール缶を持った詩織が、きょとんとした顔で僕を見た。

「どうしたの? 急に。そんな、昔の呼び方」

「うん……帰りにさ。学生時代の夢を見て」

「へぇ……」

 詩織は缶をテーブルに起き、鍋のふたを取った。ふわりとした湯気が、鼻先に旨味の匂いを漂わせてくる。汁の色が染み込んだ大根に、卵、三角に切られたコンニャク、ちくわに、ウインナーまで。

「ほら、食べよう。とってあげる。どれ食べたい?」

「……あのさ」

 詩織の言葉には答えず、僕はできるだけ意識して、抑えた声で言った。


「しぃちゃんは、本当に良いだと思うよ」

「え? なに? もう、先から。どうしちゃったの?」

「でもさ。もう、良いんだよ。今のしぃちゃんは、しぃちゃんらしくない」

「……南くん?」

 困った顔をする詩織――いや、しぃちゃん。僕の隣に回ってきて、そっと肩に手を置いた。

「疲れてるの? あなた。昔の夢なんてみたから、混乱してるの? 大丈夫、あたしが、そばにいるから……」

 そう言って、あやすように僕の頭を抱き、そっと唇を近づけてくる。それを――僕は両手で突っぱねた。


「やめてくれ……頼むから、もうしぃちゃんをに使わないでくれ」

「え?」

「しぃちゃんは確かに良いだけど。それは、こんなふうに都合の良い女ってことじゃないから」

 だからで、最後は僕がしぃちゃんに突っぱねられたんだ。それに。

「大体、僕だって。別の女の子をねちねち引きずりながら、こんなふうに尽くしてもらえるほど、良い男じゃないって……そんなの一番自分が知ってるし」

「南、くん」

「時間が巻き戻ったときはまだ、みんなはみんなのままだったけど。逆にはおかしすぎる。おまえ、誰だよ。しぃちゃんじゃないだろ」

「あなた。どうしたの? ほんと……変だよ?」

 怯えた顔で震えるしぃちゃん――思わずほだされそうになるけれど。


 でも、でも。


「っ本当のしぃちゃんは、大変な手術を受けてるんだよ……頑張ってるんだよ! それを、乗り越えようとしてるんだっ! そんなしぃちゃんに、おまえは失礼だろッ!?」

 僕が怒鳴ると、しぃちゃんはびくりと一際大きく身体を震わせてうつむき。

「――でも、理想でしょ?」

 震えながら、しぃちゃんが。しぃちゃんの格好をしたが呟いた。くつくつと、笑いを噛み殺すような音が、震える身体から聞こえてくる。


「ここはね、あなたの無意識にある理想なの。春待青に出逢わなかったら。友人たちも、変わらず優しくしてくれたら。自分を想ってくれる娘が健康で心配する種もなく、そばにいてくれたら」

「そんなの、そんなの、僕は」

「さっきもね。本当は、春待青を探しに行くのが怖かった。会ったって、どうしたら良いのか分からない。もしかしたら、会えないかもしれない」

「やめろ……」

「大体――春待青は化け物だし。会ってどうする? 春待青が夢みるようには、雪女は恋できる存在じゃない。そう、前に春待無垢が言っていた。会って、好きだと伝えてキスでもしてみる? 氷漬けになって永遠にそばにいられるかも。食糧として」

「やめろよッ」


 僕が叫ぶと。はにやにやと笑う顔を上げ、自分を示した。

「だったら、いっそ。会えなくて、キレイな想い出にして。自分を想ってくれる女の子と、一緒になれたら。……あなたのそんな歪んだ無意識が、この未来と、あたしを形作ったの」

「違う……僕は、そんなこと」

「ちらりとも思わなかったって、言える? 夕顔詩織を一番都合よく扱ってるのは、あなたじゃない」

「僕、は」


 言葉が、出てこない。心の中に手を突っ込まれて、ぐるんと裏返されたような。恥ずかしさと苦しさと、自分の嫌らしさへの嫌悪とで、ぐちゃぐちゃして。


 そうだ。僕は春待と会うのが怖かった。会えないかもしれないって、確かに思った。だったら――って、心のどこかで、思っていた……?


「考えるのは、辛いでしよう? 苦しいでしょう? もうやめましょう。やめて、あたしといれば良いじゃない。辛いことなんて投げ出して、あたしと幸せになろうよ――南くん」

 女の顔は、すっかりいつものしぃちゃんの笑顔で。その笑顔で、そっと僕に寄り添ってくる。ピンク色の唇を、またそっと寄せてくる。

 きっとここで、その唇に口づけてしまえば。僕はこんなぐちゃぐちゃな心も、どうしたら良いか分からない現実も投げ出して、幸せになれるん――だろう。


 だけど。それでも。


「……この世界が僕の理想なんだとしたら。僕の理想の高嶺が言ったんだ。傷つけたことと、向き合えって」

 女の顔を正面から睨んで、僕は言った。

「それに、僕は応えることにしたんだ。怖いことはいっぱいある。まだどうしたら良いか分からないことだって。逃げ出したい気持ちだって、多分、あったと思う。それでも」

 そうだよ。自分の気持ちなんて、あっちこっち向いてて、自分でだってよく分かりやしないんだ。

 だけど、それでも。だから!

「最後はどうするか決めなきゃいけないんだ。動かなきゃいけないんだ。動いた先が、本当の答えなんだッ」

 だから僕は選んだ。迷いながらも、怖がりながらも。それでも、会いに行くんだ。

「僕は春待に会う。会って謝って、それで――好きだって、ちゃんと伝えるんだ」

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