season3:秋―ものおもうとき―

第一話 インポッシブルなミッションに挑め

1-1 うんこの前で会いましょう

「あの……あたしと、付き合ってください……ッ」

 真っ赤になった顔。上目遣いの潤んだ目。差し出された手は細く、小さい。

 その手を取らない理由があるだろうか? あるとしたら――それはなんだろうと、僕は思考をぐるぐるとさせる。


 そもそもの発端は――一本の電話だった。


※※※


『明日、とある人物に会ってもらいたいのですが』

 電話越しに、高い声が告げてくるのに、僕は「は?」と首を傾げた。傾げたところで、相手である春待には見えやしないのだが、まぁ癖とはそういうものなんだろう。


「誰だよ、とある人物って」

 怪しいことこの上ない指示に、そう訊き返すと「それは……」と春待は口ごもった。

『し……いや、ひ……ん?』

 相手の名前を覚えてないだけかよ。

「あー、もう、分かったから。誰だかは知らないけど、取り敢えず誰かに会う必要があるんだな?」

 珍しく電話を――しかも寝る直前くらいの時間にしてきたかと思ったら、そんな用件とは。


『その通りです。急ですが、予定がないようでよかったです。どうせヒマだろうから大丈夫だとは思っていたのですけど』

 そうだよどうせ暇だから大丈夫だよ悪かったな。

「でも、その誰かさんに会って、どうすれば良いんだ?」

『……まぁ、なにか喋ったりどこかへ行ったりする必要があるみたいなんですが』

 なんだそりゃ。随分曖昧と言うか、ふんわりし過ぎているにもほどがある。あまり、春待らしくない。


『わたしも、依頼を受けた身なのです』

「春待が……?」

 それもまた、今までにあまりなかったことだ。

「依頼って……その、明日会うってやつからか?」

『いえ、それはまた別の方なんですけど』

 すっかりわけが分からなくなってきた僕をよそに、「まぁイイのです」と、春待が勝手に話を切り上げる。

『明日、実際に会えば分かるのです。詳細はまた連絡しますので』

「あ、ちょっと」

 「待って」の言葉を言う前に、ぶちりと電話が切られる。ホーム画面に戻ったスマートフォンを睨みつけ、僕は溜め息をつきながらそれをベッドに放った。


※※※


 次の日。あとから送られてきたメールに書かれていた時間に間に合うよう、僕は余裕をもって家を出た。

 夏休みが終わり、まだ残暑は残っているものの、朝晩は日に日に空気が冷たくなってきた。

「もうすぐ秋かぁ……」

 誰に言うでもなく、なんともなしに呟いてしまうくらいには、見上げた空が高く青い。


 夏のスキー事件以来、僕は一方的に春待を避けていた。いや、喋りはするし、会うこともありはしたが、なんとなく顔をうまく見れずにいた。

 今でも思い出す――唇に触れた、あの冷たくも柔らかい感触。

 分かっている。は、救命処置だ。緊急手段だ。呼吸が止まっている相手にする人工呼吸と一緒だ。

 だから、気にする方がおかしいということも分かっているのだが、礼を言うタイミングすらも逃してしまったせいで、どうにも居心地が悪いのが続いている。今更話題にするのも気後れがするし――と、そんなわけで、今日春待に会ったら、いい加減勇気を出して礼だけでもしなければ、と。ひそかに決意していた。


 日曜の午前中というのは、道を行く人々の数も多く、特に街の中心に向かうほどにその数は増えていった。

 春待が指定してきたのは、市民の公園的な役割も果たしている大通りに造られた、比較的新しいモニュメントの前だった。つるりとした灰色の石を掘ってかたどられたそれは、うねった螺旋らせんと複数の球体が組み合わさった抽象的な作品で、台座には『天使のラッパ』と書かれている。――が、市民からは単に「ぐるぐる像」と呼ばれ、更には小学生からは「うんこ」と親しまれている。存在が認知されているという点では、まぁ当時これを設置した市の目論みは、概ね達成されたと言えるのかもしれない。


 待ち合わせの時間より少し早めについたため、春待の姿はまだない。モニュメントの前では他にも待ち合わせをしている人々がちらほらといて、ちょうど今も、スマホを見ながら立っていた男のもとに、着飾った女性が手を振って駆け寄ってきたところだった。

 そう言えば。春待との付き合いは長いが、こんな街中でこんな風に待ち合わせをするのは初めてのことだ。別の誰かも一緒らしいが、それはそれとして、なんとなくむず痒さを覚えてしまう。

 梅雨頃から言っていた、「恋愛がしてみたい云々」も、最近は飽きてきたのかめっきり聞かなくなってきた。まぁ将来的に無垢姉さんみたいになられても困るけど、触らぬ妖怪に祟りなし。そっとしておこう。


 そう、僕が一人で考えにふけっていると。

「――お待たせしました」

 間近で声がし、反射的に顔を上げる。

 薄手の白いカーディガンに、小さな花が散りばめられた柄のワンピース。はにかんだような笑顔には、茶色縁の眼鏡。

 ――春待じゃない。

「え……っと?」

 人違いか、それとも春待が言っていた、会って欲しい「誰か」なのか。

 目の前の少女は慌てたように「あ、ごめんなさい」と眼鏡をとった。ショートボブの髪が、さらりと揺れる。

 やや伏し目がちの、薄茶色の目。思わず、「あ」と声を上げる僕に、彼女――夕顔詩織さんは、顔を少し赤くして微笑んだ。

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