見知らぬ世界のお話
ほがり 仰夜
ムルナーム
星屑が落っこちた。晴天の雨粒は屋根を跳ねる。トタンがバタバタとうるさいので鴉でも暴れているのかと、家主の男が頭を出した。よくあることだ。おい、鴉と呼びかける。顔見知りの鴉ならば聞き入れてくれるだろう。よそでやれ、と言う前に、屋根の端から滴ってきたものを手で受け止めた。陽を受け虹色に輝く雨粒を顔面に受けなくてよかった。パタ、パタと屋根から溢れて、手の平に溜まっていく。溢れそうだったのでもう片方の手も添えようとしたが、僅かに傾けた手の平を雨粒は転がり、葛餅になった。棚から牡丹餅。空から葛餅。思わぬ授かりものは放り投げてしまいたいが、知らぬふりで地面に落とすには危険すぎる。庭も汚したくない。男はそろそろと体を戻し、部屋の窓を閉めた。
雨上がりの水溜りに灯油を落とすと、薄汚れた虹が出来る。零れ落ちる虹に咄嗟に手を伸ばしてしまった男は、受け止めた物体にコンクリートの黒いかおりを重ねてしまった。晴天からの贈り物にしては重苦しい。葛餅は光の干渉か七色を内部に宿し、油膜の奥に暗黒の星を抱えていた。宇宙の陰。売れる物質だろうか。美しいと言えたものか判断しかねて観察を続けていると、暗黒に見つめ返された。
捨てようかな。葛餅の天辺を摘み、持ち上げようと試みる。葛餅は手の平に貼りついて離れようとせず、摘まんだ部分だけが伸びて一本の角になった。形は崩れない。面白い。もう一本角を作ってやった。
「猫だ」
無邪気に粘土遊びをしてしまった我を恥じ、角を整えてやろうとすると、
「それはいいな」
と声が聞こえて手を止めた。暗黒が見つめている。
ムルナームは惑星外猫である。葛餅本人が名乗ったのだから、そうなのだろう。どんな星から来たんだ。何か目的があって来たのか。この星の住人として色々と尋ねなくてはならないが、専門職ではないから適切な対応を知るわけでもなく、猫は自己紹介の後はすっかり沈黙してしまった。たまに「むるなーむ」と鳴く。猫の鳴き声だ。名前ではなく葛餅の鳴き声だったのだろうか。男の独り言に明瞭に答えてみせて、惑星外猫だと流暢な言葉で教えてくれたのだが、幻聴か。誰か、証人を。だめだ。男は一人暮らしで、この部屋に尋ねて来る者といえば人間よりも動物が多い。鴉だとか、雀、猫だとか、動物の通り道になっている。男は旧市街地に住まいを持つ。住宅街ではあるが、川や庭木の緑に囲まれていて、隣家の近さも気にならない。猫か。俺がとんがり角を生やして自信作を猫と呼んだから猫になってしまったのだな。宇宙から零れた雫にこの星の上での立ち位置を与えてしまったんだな。猫か。野に放ってもいいかな。手の平を床に下ろすと猫は自ら転がって、部屋を物色し始めた。窓でも開けておけば勝手に出て行くだろう。男は昼食の準備のために台所に姿を消した。
ムルナームは文句のつけどころが無い猫だった。きままに出掛けては捕まえた小鳥や鼠を見せびらかす。狩りは出来るのに餌をせがむ。好き嫌いが激しく、気分屋でもあり、昨日食べた物を今日は食べなかったりする。出窓に陣取り外を眺め、安全な場所から大鳥を煽る。虫で遊ぶ。暗黒である以外には完璧に猫を演じた。ご近所さんも猫、猫と呼んで煮干しをやっていたし、男も惑星外生命体を猫のようにじゃらして遊んでいた。猫じゃらしが深淵に呑み込まれていった。手元に残った茎の切断面から虹が伸びた。陽だまりの中で日々眠り少し大きくなった。手からはすでに零れる大きさ。どこで何と遊んで来るものだか、ときどき黒い雫を滴らせた鳥の脚を咥えて来る。見せに来るな。お前以外にも降って来たり湧いて来るものがいるという事実を突き付けるな。冗談で言うと、惑星外猫は「生命を信じよ」と言って、ふふんとやや斜めを向いてみせ、格好良く胸を張った。ムルナームの目は宇宙の輝きを宿している。
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