もう一つの失恋・後編

 久し振りに耳にする娘の声――振り向くと、帰蝶が冷然たる眼光まなざしで道三を見下していた。凍てつく氷の視線に、道三は思わずゾクリとする。


(おお、なんと美しい。汚れを知らぬ優しい娘であった頃よりも、ずっと美人だ。わし好みの女に育ってくれたものよ)


 心が闇に染まりきった美女ほど、この世で美しいものはない。それが、道三独特の美的感性である。娘が己の思った通りの女に成長し、彼は満足げにニヤッと微笑んだ。


「き、帰蝶様……。いま何と申されましたか……?」


「尾張に嫁ぐ、と言ったのですよ。彦太郎」


 戸惑う彦太郎に冷たくそう言い放ちつつ、帰蝶は父を睨み続けている。その瞳の奥では、烈しい憎悪の吹雪が吹き荒れていた。それは、常軌を逸した殺人者の眼そのものだった。


(懐剣で道三に斬りかかるつもりではあるまいな)


 頼明よりあき老人はそう危惧きぐしたが、彼女が凶行に走る様子は今のところない。どうやら、帰蝶は「織田家に嫁ぐ」と本気で言っているらしかった。


「姫よ。まことによいのか。他国に嫁げば、美濃に二度と帰って来られぬやも知れぬぞ。そなたの望みは頼純よりずみ様の――」


 仇を討つことではなかったのか、と定明さだあきは言いかけて、慌てて言葉を呑み込んだ。


 頼純の仇とは、すなわち道三のこと。本人がいる前でその話をするのはさすがにまずい。そう考える頭ぐらい、戦闘狂の定明にもある。


 だが、帰蝶は、定明の言葉を引き継ぎ、


「ええ。私の望みは、亡き夫の仇である斎藤道三を討つことです。その望みはまだ捨てていません。まむしが支配する美濃国内にいても何もできないことが分かったので、私は尾張に行くのです」


 と、大胆不敵にも、声高にそう宣言した。父・道三に対する宣戦布告である。これには、頼明老人、定明、定衝、彦太郎ら明智家の人々も呆気にとられ、姫の正気を疑った。


 一方、娘に殺害宣言をされた当の本人の道三はといえば――ハッハッハッと愉快そうに大笑いしている。なぜだかとても嬉しそうで、こちらも正気とは思えない。父娘そろって狂っている。


「なるほど、なるほど。やはり、そうか。帰蝶よ、そなた……これまでも儂を殺すために陰で色々と画策しておったな。昨年の響庭あえば合戦で土岐とき頼純の残党が戦場に突如現れ、織田方に味方したのも、そなたが裏で糸を引いておったのであろう」


「さすがは父上。ご明察です。私が、頼純様の遺臣たちに信秀殿に合力ごうりきするよう指示を出しました。残念ながら、あと一歩のところで殺し損ねてしまいましたが」


「さすがは蝮の娘。天下一、悪知恵の働く姫君じゃわい。普通の女子おなごならば、いくら憎くても、実父の謀殺など企めぬものじゃ。そなたにも儂と同じ悪逆の血が脈々と流れておるのだのぉ。父は嬉しいぞ。ぬわはははは」


「…………」


 道三は、自己愛が偏執的なほど強い男である。子供たちの中でも、自分とよく似てずるく、冷酷な孫四郎まごしろう(次男)や喜平次きへいじ(三男)を我が分身のように愛した。そして、誠実な性格である嫡男の新九郎しんくろう利尚としなお(後の斎藤義龍)に対しては、


 ――まことにこいつは儂の子か?


 と言いたげな冷たい眼差しを向けた。自分に似ても似つかぬ優しい子は、乱世の梟雄きょうゆう・斎藤道三の志は継げぬと考えていたのである。


 だからこそ、「父殺し」という悪逆の極みに走ろうとしつつある帰蝶に対して、初めて父親らしい愛情をこの男はいま抱いていたのである。異常なことだが、それが斎藤道三の親心だった。


「帰蝶よ。そなた……新たに夫となる織田信長を篭絡ろうらくし、前の夫の仇を信長に討たせるつもりだな」


「そうです。織田と斎藤の同盟など、信長が家督を継げば私が解消させてみせます。あなたが娘を婿むこ殺しの道具に使ったように、私は新しい夫を父殺しの道具に使うのです。あなたに教わったやり方で、必ずや我が宿願を果たしてみせます」


「フフフフ。面白い、面白い。それでは賭けをしようではないか。儂は婿殿の信長を実の息子のように可愛がり、織田家を無二の同盟者にしてみせる。そなたは、信長にあれやこれやと儂の悪事を吹き込んで、奴に美濃討伐の兵を挙げさせてみせよ」


 道三は嘲笑あざわらうかのようにそう言い、立ち上がる。そして、娘の頬を優しい手つきで撫でた。


「……いいでしょう。受けて立ちます」


 帰蝶は、殺意の眼光まなざしを父に向けたまま、冷たく微笑んだ。


「ハッハッハッ! それでこそ、斎藤道三の愛娘じゃ!」


 己を殺せるか否かの賭けを娘として、何がそんなに楽しいのか。道三は大笑した。


 彼には、勝算があるのである。密かに人を尾張国にやって調べさせたところ、信長という少年は生真面目で、身内に対して非常に情け深い若殿だという。

 恐らく、信長はひとたびしゅうとと婿の関係になれば、「道三を討つ」という選択肢を捨て去ることだろう。帰蝶がいくら説得しても、義父殺しなどという天の道に外れる行為を彼はけっしてしないはずだ……。




            *   *   *




 翌朝。帰蝶と母の小見おみの方は、道三に連れられて稲葉山城に帰還することになった。


「兄上。帰蝶様をお見送りしなくてもよろしいのですか? あと半刻(約一時間)もせぬうちにお城を出て行かれるそうですよ」


 濡れ縁に座るかすみが、庭でうずくまっている兄の彦太郎にそう言った。


「いや……やめておくよ。私は帰蝶様に嫌われていたみたいだから」


 気弱そうな笑みを浮かべている彦太郎は、地面に落ちていた小さな生き物を拾い、立ち上がる。その手のひらにはすずめひながいた。見たところ、かなり弱っているようだ。


「あっ、可愛い」


「昨夜は雨と風がはげしかったからな。巣から落ちてしまったのだろう。風でだいぶ飛ばされたみたいで、近くには巣が見当たらないんだ」


「まあ、それは可哀想。兄上と私で育ててあげましょうよ」


「……そうだな。この子を帰蝶様だと思って、成鳥になるまで守ってやろう」


 そう言いながら、彦太郎は妹の横に座った。


 彼の心は、昨日から沈んだままである。

 お喋りが災いして帰蝶にはすっかり嫌われてしまったと思っていたが、頼明老人は二人の縁組を考えていてくれたらしい。年がいささか離れ、相性も良くないが、夫婦となって時間をかけてお互いの美点を知っていけば、両想いになれたかも知れないというのに……。道三のせいで、帰蝶が彦太郎の妻となる未来はすっかりついえてしまった。


「人の夢とは、はかないものだなぁ……」


「その通りです、彦太郎。あなたは、理想や夢に大きな期待を持ち過ぎている」


 後ろから声がして、驚いて振り向くと、そこには旅支度を整えた帰蝶が立っていた。


「き、帰蝶様。あの……」


「その雀の雛」


 と、帰蝶は彦太郎の手のひらの上で震えている雛鳥を指差す。


「ずいぶんと衰弱しているようだから、どうせすぐに死にますよ。仮に助かったところで、人間の手で育てられて野生の本能を失った生き物は、自然にはきっと帰れないでしょう」


「そ、そんな……」


「巣から落ち、親鳥とはぐれた時点で、その雛は生存競争に負けてしまったのですよ。弱き者は、死ぬしかない。人の世も、鳥の世も、弱肉強食。無駄なことはせず、捨ててしまいなさい」


「…………」


 彦太郎と霞は、具合が悪そうな雀の雛を無言で見つめ、涙ぐむ。雛鳥が哀れだと思い、捨てるに捨てられぬのであろう。そんな心優しい兄妹を、帰蝶は冷ややかな眼差しで見下ろしていた。


「……帰蝶様。こんな小さな命すら守れぬ私に、明智家の人々や美濃の民たちを守る力などあるのでしょうか」


「前にも言ったでしょう。短命のもとだから綺麗事を夢見がちな瞳で語るのはおやめなさいと。同じ明智一族のよしみで、最後の助言をしてあげます。あなたたち兄妹は、その雀の雛のようになってはいけません。優しいばかりで、他人の悪意に鈍感な弱者は、その雛鳥のごとく巣から蹴落とされてしまいますよ。どんな汚い手を使ってでも、蹴落とされる前に人を蹴落としなさい」


「しかし……それでは仁義の道に背いてしまいます」


「この世に、仁も義も、天道も無い。それはただの幻です。巣から落ちた雛など踏み殺して行く非情さが無ければ、この乱世では生き残れぬのです。いいですか、彦太郎。私の言葉、ゆめゆめ忘れてはなりませぬ」


 そう言い残すと、帰蝶は彦太郎兄妹の前から姿を消した。


 彦太郎が次に彼女と出会うのは、はるか後年――織田信長と足利義昭の上洛作戦が始まる前後のことである。


 彦太郎が拾った雛鳥は、すでに衰弱していたためか、その日の夜の内に死んだ。








<戦国子どもマムシ電話相談~雛鳥は拾っちゃダメ!の巻>


道三「戦国乱世を生きている全国の良い子たち! 元気かなぁ~? 今日もマムシのおじちゃんが、良い子たちの疑問に答えていくよぉ~?」


プルル……プルル……プルル……ガチャ!(電話に出る音)


お市「こんにちは!」


道三「はい、こんにちは! お嬢ちゃんのお名前と年齢を教えてくれるかなぁ~?」


お市「織田お市、3しゃいです! おとーたんは織田信秀です! よろしくお願いしまちゅ!」


道三「ちゃんと自己紹介できて偉いねぇ~! それで、今日はどんな質問かな? あっ、毒薬の盛り方はお子様にはまだ教えられないからごめんねぇ~?」


お市「おかーたんに、『落ちている雛鳥は拾っちゃダメ!』って叱られまちた。どーして拾ったらダメなんでちゅか?」


道三「それはねぇ~……色々と理由があるんだよぉ~? その雛鳥はエサを取りに行った親鳥を待っているのかも知れないし、独り立ちのために飛ぶ練習をしているのかも知れない。遠くで親鳥が見守っている可能性だってある。無闇に人がそばにいくと、親鳥が雛鳥に近づけなくて困っちゃうんだよぉ~? そんな状況で雛鳥を拾うという行為は、親鳥から子供を誘拐しちゃうことになるんだぁ~」


お市「ほえぇぇ……。知らなかった……」


道三「あと、野生の鳥を許可なく捕まえて飼育するのは『鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律』にも違反しちゃうから気をつけてねぇ~?」


お市「ち、ちょうじゅう……?」


道三「二十一世紀の法律だから、戦国時代のお市ちゃんは気にしなくても大丈夫! あっ、そうそう。さっきの雛鳥の豆知識は、ググってたまたまヒットした奈良県の公式ホームページを見ながら言ったことだから、詳しく知りたい人はそっちを見てね~♪」


お市「に……にじゅういっせーき? ぐぐって……ほーむぺぇーじ……?」


道三「今日の戦国子どもマムシ電話相談はここまで! 良い子のみんな、待たねぇ~♪」


信秀「おい、マムシ! うちの三歳の娘がちゃんと分かるように説明しろ!」








※次回の更新は、7月25日(日)午後8時台の予定です。

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