帰蝶病む

 満月の夜から数日後。


 大桑おおが城下の南泉寺なんせんじでは、快川かいせん紹喜じょうきが慌ただしく登城の支度をしていた。


「師匠、お呼びでしょうか」


「おお、宗乙そういつ。火急の用件です。入りなさい」


 快川にそう促されると、十八歳の若々しい僧侶がきびきびとした所作で部屋に入って来た。


 目元が涼やかで容姿はまあまあ整ってはいるが、濃い眉とへの字口が負けん気の強そうな印象を与える青年僧である。


「火急の用件とは、私の修行の時間を削らねばならぬほど大事な用なのでしょうか」


 坐禅修行の最中に呼び出されたことに不満たらたらな宗乙は、快川の前にドカッと座るなり生意気な口を利いた。才気走った性格でいきがりたい年頃のため、師匠に対してもやや尊大な態度である。


 いつもなら拳骨を一発喰らわせてやるところだが、今は弟子に教育的指導鉄拳制裁をしている場合ではない。快川は「そうです。人の命を救うことほど大事な用はありません」と答えた。


帰蝶きちょう様が突然お倒れになって高熱と咳が止まらぬゆえ、医学の知識がある僧がいたら城に連れて来て欲しい、との頼純よりずみ様のご命令です。

 私も本朝(日本)の医書を何冊か読みかじって多少の知識はありますが、寺にある漢籍を片っ端から読破したあなたには唐土もろこしの医学の心得があったはず。一緒に大桑城へ登城して、帰蝶様を診てあげてください」


「あのお元気な帰蝶様が……」


 帰蝶の名を聞き、宗乙の眉がピクンと動いた。


 可憐な帰蝶姫を恋い慕わぬ者などこの領地にはいない。あまり他人を認めたり褒めたりしたがらない宗乙も、帰蝶のことだけは「美しく、素晴らしい姫様だ」と修行仲間の僧たちに漏らすことがよくあった。帰蝶姫が病気ならばすぐにでも駆けつけたい。


 そうは思いつつも、宗乙は生来のへそ曲がりである。さっきまで不服そうにしていたのにコロッと態度を変えることができない。わざとらしく面倒臭そうな口調で、


「話は分かりました。されど、城には頼純様の侍医がいるでしょうに。なぜ我らが行かねばならぬのですか」


 と、ごねてみせた。


 弟子の性格を重々承知している快川は、


(すぐにでも城へ駆けつけたいくせに……)


 と呆れつつ、「侍医にも熱の原因が分からぬゆえ、頼純様は困り果てているのですよ」と教えてやった。


「なるほど。しかし、僧侶の我らに頼らなくても、他にも薬師くすしは……」


 まだ、ごねるつもりらしい。さすがにもう付き合っていられない。


「宗乙、もう時間が無い。へそ曲がりもたいがいにしなさい。あなたは優秀だが、本当に面倒な若者だ。つべこべ言っていないで、出発しましょう」


 快川は宗乙の言葉を途中で遮ると、まだ腰を上げようとしない宗乙の首根っこをつかみ、その体をズルズル引きずりながら廊下へ出た。


「あっ、あっ、師匠! 弟子をそんな雑に扱わないでください! 自分で歩けます!」


 宗乙は情けない声を上げ、快川にそう訴えた。しかし、快川はそれを無視して山門までへそ曲がりな弟子を引きずって行った。


 この性格にかなり癖のある若き僧こそが、後に伊達だて政宗まさむねの師となって「へそ曲がり流の生き方」を伝授した虎哉こさい宗乙そういつその人である。




            *   *   *




 快川師弟は大桑城に登城したが、帰蝶の謎の病をどうすることもできなかった。


 ただの風邪にしては、咳が激しすぎる。何の前触れもなく苦しみ出したそうだが、原因がさっぱり分からない。本職の医者である頼純の侍医が首をひねっているのだから、医書を数冊読みかじった程度の快川では病名の特定などできるはずがなかったのである。


「く……苦しい……。咳が止まらなくて……げほっ、ごほっ……。い、息が……ごほっ! げほっ! はぁはぁ……。父上ぇ……父上ぇ……」


「帰蝶姫、気をしっかりお持ちください。きっとよくなります。……宗乙よ。そなたはどう思う?」


 猛烈な熱と咳であえぎ苦しむ帰蝶の姿は痛々しすぎて見ていられない。快川はそばに控えている宗乙にそう問うた。


 宗乙は師匠の快川から見ても、逸材と言っていい才覚者である。


 福地虎千代という名だった幼少期から、家の隣の寺から聞こえてくる読経を毎日耳にしている内に完璧に暗誦あんしょうできるようになるほどのずば抜けた記憶力を有していた。


 その非凡さに驚いた父は、息子を岐秀ぎしゅう元伯げんぱく(武田晴信に「信玄」の法名を授けたとされる臨済宗の僧)という高僧に弟子入りさせ、宗乙は僧侶の道を歩むことになったのである。


 十五歳で修行の旅に出て新たに快川紹喜に師事した後も、その門下においてめきめきと頭角を現していった。知的好奇心が旺盛な宗乙は仏典だけでなくあらゆる漢籍を何百と読み漁り、その中には医学書も多く含まれていた。


 だから、(宗乙ならば、あるいは……)と快川は期待したのだ。しかし――。


「……申し訳ありませぬ。このような症状の病は、私が読んだどの医書にも載っていません」


 宗乙は悔しそうに顔を歪め、頭を振った。


 負けん気が強い彼にとっては「自分に分からないことがある」ということを認めるのは大きな苦痛であったし、師匠の期待に応えられなかった自分はまだまだ未熟だと感じていたのである。


「う、ううむ……。博学多識な快川や宗乙にも治療法が分からぬとは……。いったい、どうすればよいのだ。帰蝶はひどい苦しみようだぞ。このままでは、数日内に死んでしまうのではないか?」


 頼純の狼狽うろたえようは凄まじい。快川は彼の手がわなわなと震えていることに気がついた。


 恐怖しているのだろう、帰蝶を失うことを。

 乱世で荒みきった頼純の心を帰蝶は無垢の愛で癒してくれた。彼にとって、帰蝶は自分が生きる意味そのもの……命よりも大事な存在になっていたのである。


(頼純様。あなたは、そこまで帰蝶姫のことを……)


 何とかしてやりたい、と快川は思った。

 しかし、あいにくこの近辺でいにしえの神医・華佗かだのごとき医者がいるという噂は無い。実は半年ほど前までは南泉寺にも腕の立つ僧医がいたのだが、かなりの高齢で春頃に亡くなってしまった。


 京には曲直瀬まなせ道三どうさん(織田信長・足利義輝・毛利元就など多くの戦国武将を診察した)、信濃には永田ながた徳本とくほん(武田家の侍医。製薬会社トクホンの社名の由来となった人物)といった名医がいるらしいが、彼らを美濃に招いて診察してもらう前に帰蝶の命の灯火は儚く消えてしまうだろう。


「どうすれば……。どうすればいいのだ……」


 頼純は、憔悴しょうすいしきっている帰蝶のか細い手を握り、愛する妻の頬に大粒の涙をこぼしていた。帰蝶が発熱してからほとんど眠らずに看病しているため、目は赤々と充血している。


 一方、侍女の深雪みゆきは、さっきから一言も発言せずに虚ろな顔で帰蝶の横顔を見つめていた。幼い主人のことが心配だからだろうが、顔色が酷く悪い。まるで死人のように青ざめている。


 このままでは、帰蝶姫だけでなく看病をしている頼純や深雪まで倒れてしまう――快川がそう懸念していたちょうどその時に、「あの男」が突然現れたのである。


「む……婿むこ殿! 帰蝶の容態はどうなのですか! 可愛い娘を断腸の思いであなたに差し上げたというのに、病気にさせてしまうとは何事です!」


 荒々しい足音とともに帰蝶の寝室に入り込んで来たのは、斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん)だった。意外な人物の登場に、快川と宗乙はギョッと驚いた。


(頼純様が呼んでしまわれたのか。この男を城内に招き入れるとは、なんと危ういことを……)


 快川は顔をわずかに歪めて心の中でそう呟いた。まむしにはどんなことがあっても気を許してはならないとあれほど口を酸っぱくして忠告したのに……と思ったのだ。


 しかし、この頼純の軽率な行動を責めることもできない。

 幼い妻が突然倒れて今にも死にそうな危険な状態なのだから、まだ二十四歳の頼純がどうしていいか分からなくなって妻の父親である利政に助けを求めるのは仕方ないことである。

 帰蝶もうわごとで「父上、父上」と何度も言っていたので、大好きな父親に会わせてやりたいと心優しい頼純は思ったのだろう……。


 快川がそんなことをなるべく顔に出さないように考えている横で、まだ若くて精神的に未熟な宗乙は、


「な、なぜまむしがこの城に……? 頼純様が帰蝶姫の看病で弱っている今こそ攻め時だと思い、大桑城に自ら乗りこんで来たのか?」


 と、狼狽ろうばいのあまり声に出してそう呟いてしまっていた。


 呆れるぐらい地獄耳な利政は、その独り言を耳聡く聞き、宗乙をギロッと睨んだ。

 よほど大慌てで稲葉山城から駆けつけたのか、びんの毛は千々に乱れて両眼が激しく血走っている。鬼気迫る利政のひと睨みに、負けん気の強い宗乙もさすがにゴクリと唾を飲んで恐れおののいた。


「たわけたことを申すな、この糞坊主ッ。大事な娘が病なのだぞ? 父親の俺が死に物狂いで駆けつけて、何が悪いのだッ‼ こんな時にまでくだらぬ陰謀を巡らせるほどこの俺も堕ちてはおらぬわッ‼」


 利政は猛獣のごとく吠え、宗乙を一喝する。そして、呆気にとられていた頼純の侍医を「邪魔だ、どけッ」と言って蹴り倒し、頼純の隣に座った。


「婿殿、これはいかんぞ。早く適切な治療をしなければ帰蝶が死んでしまう」


「……しゅうと殿。誠に申し訳ない。このようなことになるとは……」


「しっかりなされよ。大丈夫じゃ、それがしにお任せあれ。帰蝶は我が愛娘じゃ、それがしが助けまする。

 この子は幼い頃はとても体が弱く、何とか健康な子になって欲しいと願ったそれがしは唐土の医学を学んで自ら薬を処方し、それを帰蝶に飲ませていたのです。それがしならば、帰蝶の体に合った良薬を調合できまする」


「お……おお! なるほど、そうか! 父親である貴殿ならば、娘の体のことは一番知っているはず……。よろしく頼みますぞ、舅殿」


「娘の命を助けるのは父として当然のことでござる。……帰蝶のことを何も知らぬ薬師くすしや坊主たちに診察などをさせたら、逆に病状を悪化させかねぬ。悪いが、頼純様の侍医や快川紹喜殿たちには引き取っていただきましょう。狭い部屋に大勢の役立たずがいたら治療の邪魔じゃ」


「舅殿がそう申すのならば、そうしよう。私は帰蝶が助かるためならば何でもする。何か必要な物があったらすぐに用意させるので、言ってくだされ」


「では、頼純様は狩りに出かけて鶴を獲って来てくだされ。精をつけるために、鳥のあつもの(鳥や魚の肉を具にした吸い物)を食わせてやりたい」


 いつの間にかにこの場を仕切り始めていた利政は、快川と宗乙、頼純の侍医を部屋から追い出し、頼純には鶴を狩って来るように頼んだ。そして、部屋には利政と帰蝶、深雪だけが残ったのである。


「チッ! 私はともかく師匠の快川様を部屋からつまみ出すとは! 許せぬ! 

 ……あの蝮め、絶対に何か企んでいますぞ。そもそも、侍女の深雪殿が稲葉山城から帰還してから三日後に帰蝶姫は倒れたのだ。どうも怪しい。もしかしたら、蝮が深雪殿に命じて帰蝶姫に毒を盛らせたのではありませぬか⁉」


「しっ……。地獄耳の利政殿にまた聞かれます。腹が立つのは分かりますが、根拠の無いことを廊下で喚くのはおやめなさい。あの恐ろしい御仁に睨まれたら、あなたの身が危うい」


 快川は激しく憤っている宗乙をなだめたが、二十歳にもなっていない若者がこの屈辱に耐えられるはずがない。


「根拠はあります! 奴が天下第一の極悪人、外道の極みの斎藤利政だということです! それ以上の決定的な根拠がありますか! 美濃の蝮は娘の帰蝶姫を利用して頼純様のお命を狙っているに違いない! 絶対そうに決まっている!」


 口を慎めと言われたら吠える。厄介なへそ曲がりである。


 これはいくら言っても聞かないなと判断した快川は、無言で宗乙の頬面に拳を叩きつけた。宗乙の体は、快川の僧侶とは思えぬ豪腕によって吹っ飛び、口から歯が一本ポロリと落ちた。


 気絶してようやく大人しくなった宗乙を背負い、快川は城主館を退出した。


(……だが、宗乙が言うことにも一理ある。帰蝶姫が重病で倒れたことがきっかけで、利政殿はまんまと頼純様の居城に上がりこむことができた。これまでは、頼純様が警戒して利政殿を城に招くことなど一度も無かったというのに……。

 あの蝮ならば、娘を犠牲にしてでもおのれの野望を達成しようとするのではないだろうか?)


 激しく嫌な予感がする。


 また美濃に凶事が起きねばよいのだが……と快川は憂慮するのであった。

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