頼純と帰蝶

 土岐とき頼純よりずみの死の一か月ほど前――。


 大桑おおが城での夫婦生活にもすっかり慣れた帰蝶きちょうは、頼純と平穏な日々を送っていた。


「頼純様、頼純様! 深雪みゆきと一緒に野の花をたくさん摘んで来ました! ほら、見てください!」


 秋の夕べにしては蒸し暑く感じるある日のこと。

 頼純が南泉寺なんせんじの禅堂で坐禅をしていると、堂内に少女の無邪気なはしゃぎ声が響いた。


 頼純は振り向くことなく、「こら、帰蝶。禅堂では静かにしなさい」と幼な妻を優しく叱る。


「あっ、そうだった。ごめんなさい、頼純様」


 帰蝶はペロッと舌を出しながら謝った。


「……また泥だらけになって帰って来たようだな。そんな姿を快川かいせんに見られたら、この前みたいに叱られるぞ。浴室(寺院の主要な七つの建物・七堂伽藍には浴室もあった)を借りて、身を清めて来なさい」


「え? 私の姿を見ていないのに、なぜ泥だらけになっていると分かるのですか?」


「そりゃ分かるさ。そなたの騒がしい足音とともに、お日様と土の香りが匂ってきたからな」


「頼純様ったら、まるで犬みたい。あははは」


 帰蝶が快活な声で笑うと、頼純はちょっと意地悪そうにニヤッと微笑み、


「犬っころみたいなのはそっちだろう。少し目を離すと、泥だらけになって戻って来るのだから」


 と、からかった。帰蝶は「むぅ~!」と膨れっ面になる。


「私、犬なんかじゃないもん。父上がいつも仰っているわ。私は春のお花畑を可憐に舞う蝶みたいに可愛いって。ねえ、深雪?」


「は、はい。姫様はとてもお美しいです。……でも、姫様ももう十三歳なのですし、気持ちがたかぶると幼子おさなごのごとき口調になる癖はそろそろ直したほうがいいと思います……」


 侍女の深雪は、少しどもりながら、主である姫をやんわりと諌めた。


 極端に大人しくて恥ずかしがり屋な彼女は、誰と言葉を交わす時にも、色白の顔がほんのりと赤くなってしまう。もう一年ほど仕えている帰蝶の夫・頼純の前でも、もじもじとうつむきながら話す始末だった。


 だが、芯は割としっかりとしている少女なので、遠慮しつつも主君に言うべきことは言う。帰蝶がいつまでも童女のように無邪気すぎると、夫の頼純に幼稚な奴だと呆れられるのではと心配しているのだ。


「む、むむぅ~……。私、そんな幼い喋り方していないも……していないわ!」


 深雪が自分に味方をしてくれなかったので、帰蝶はさらに大きく頬を膨らませた。その幼い仕草は、まさに童女そのものである。


「あっ! これ、姫様! そんな泥だらけのお姿で寺の中を歩き回ってはいけませぬと何度も申し上げたでしょう!」


「わ、わ、わ。快川殿に見つかっちゃった。み、深雪! 逃げましょう!」


 快川紹喜じょうきの叱声を耳にした帰蝶は、猫と遭遇して一目散に逃げるねずみのように素早く禅堂から走り去った。少女の軽やかな足音が寺院に響く。

 深雪も巻き添えを喰らって口やかましい快川に叱られるのは嫌なので、「ひ、姫様。お待ちくださぁ~い」と泣きそうな声で姫を追いかけて行った。


「……やれやれ。いつお会いしても天衣無縫てんいむほうな姫君ですなぁ」


 快川は坊主頭を撫でながら、苦笑してそう呟く。修行僧たちに対してはかなり厳格な指導を行う快川も、春の精のごとく天真爛漫な帰蝶を本気で叱りつけることはできないようである。


「快川、許せ。帰蝶は父親の斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん)に甘やかされて育ったのだ。この世のあらゆる醜いものから隔てられてな。だから、子が産める体になっても子供心を失ってはおらぬ」


 坐禅を解いた頼純はゆっくりと立ち上がりながら、快川にそう言った。


 帰蝶は、頼純と祝言を挙げてから二か月ほど経ったある日、初潮を迎えた。しかし、頼純はまだ帰蝶と男女の契りを結んではいない。この世のけがれを全く知らない我が幼な妻に夫婦の睦事むつみごとを教えるのはまだ少し早いような気がして、手を出せずにいたのである。


 この乱世において、帰蝶の純真無垢さは奇跡的と言っていい。なぜあのまむしが娘をこんな純情可憐な少女に育て上げることができたのか不思議で仕方ないが、頼純は帰蝶の無垢な心を大切にしてやりたかったのだ。


「私は父を早くに亡くし、叔父の土岐頼芸よりよし(現在の美濃守護)や斎藤利政との抗争に明け暮れる少年期を過ごしてきた。敵方に暗殺されるのではないかといつも怯え、無邪気に笑えたことなど一度もない。

 ……しかし、帰蝶と出会ってから私の人生は変わった。他愛無い出来事でころころとよく笑う天真爛漫な彼女を見ていると、自分が過酷な戦国の世を生きていることをほんの一瞬だが忘れることができる。あの子につられて、つい私も微笑んでしまうのだ。今では、心の底から笑えるようになった。帰蝶が、地獄の権力闘争を生きてきた私の疲弊しきった心を癒してくれた……。まことに皮肉な話だ、私を救ってくれたのが蝮の愛娘とは」


 頼純はしみじみとした口調でそう語り、快川に笑いかけた。


 貴公子然とした頼純の微笑は、帰蝶が大好きな光源氏を想起させるような美しさと気品さがあり、この場に帰蝶がいたら「私の旦那様はやっぱり光の君みたいだわ。素敵……」と呟きながら頬を赤らめたことであろう。


 微笑みかけられた快川は、四十代半ばの男のため頬を染めたりはしないが、


(この青年も良い顔をするようになったな)


 と、密かに喜んでいた。


 快川は頼純が少年の頃からよく知っており、彼が屈託なく笑っているところを一度も見たことがなかった。それが、愛らしい幼な妻のおかげでようやく笑えるようになったのだ。お転婆で少し困ったところもあるが、帰蝶には感謝すべきだろう。


「帰蝶姫は人の心を和やかにさせる不思議な力があります。下の者たちを慈しむ優しさもあり、ご家来衆や領民たちにも慕われているご様子……。頼純様にとっては吉祥天きっしょうてん(幸福を司る仏教の女神。軍神・毘沙門天びしゃもんてんの妻)のごとき姫君ですな。

 今はまだ子供っぽいところがありますが、いずれは土岐家嫡流の北の方(身分の高い人物の正室の敬称)としてふさわしい女性へと成長なさることでしょう。どうか夫婦仲良く手を携え合い、この美濃の国に平和をもたらしてくださいませ」


「うむ。私もそうありたいと願っている。……だが、美濃国に正しき秩序をもたらすためには、私が大桑城を拠点に力をつけ、叔父の頼芸から美濃守護の座を奪い返さねばならぬ。元々、美濃の守護職は我が父・頼武よりたけのものであったのだからな」


 さっきまで帰蝶を想って微笑んでいた頼純だが、話題が美濃国内の権力争いへ移ると、厳しい表情になっていた。


 現在は室町幕府の仲立ちによって仮初めの平和が訪れてはいる。しかし、頼純と敵対する土岐頼芸は、


(甥の頼純は、必ずや我が地位を奪うべく挙兵するはずだ……)


 と恐れてビクビクしているはずだ。頼純とて、暗殺や毒殺を常に警戒している。些細ささいなことがきっかけで、昨年までの内乱状態に逆戻りする可能性は十分にあった。


「叔父が少しでも不穏な動きを見せれば、私は迷わずに挙兵するぞ。そして、再び戦が起きるまでの間にどれだけ多くの味方を増やせるかが、我らの勝敗を分けることになるであろうな。

 尾張の織田信秀、越前の朝倉あさくら孝景たかかげは確実に私に加勢してくれるはずだ。後は……我がしゅうとの斎藤利政が我が陣営に寝返ってくれたら、私は美濃の国主になれるであろう」


「……斎藤利政殿をお味方に、ですか」


 頼純の言葉を聞いた快川は眉をピクリと動かし、困惑の表情を浮かべた。頼純が忌まわしき蝮の名を口にしたばかりか「我が舅」と呼んだことに驚いているのだ。


「織田殿や朝倉殿はともかく、あの御仁は権謀術数に長けた毒蛇です。帰蝶様のお父上といっても、そう簡単に気を許すべき相手ではないと拙僧は思いますが……」


 快川の言葉はかなり諌めるような口調になっている。「蝮を味方に」と考えるなどとんでもないことだ、と快川は思っているからだ。いや、つい最近までは頼純も同じ考えだったはずだ。


 これまで、斎藤利政のことを最大限に警戒し、恐れていたのは他の誰でもない頼純である。四年前に頼純を美濃から追放した首謀者は利政なのだから、あの蝮を脅威に感じないほうがどうかしている。絶対に、油断するべき相手ではない。


 しかし、それなのに、蝮にさんざん苦しめられてきたはずの頼純が、「利政を味方にしたい」などと言い出したのである。愛する妻の父親だからできれば争いたくないという気持ちが湧いてきたのかも知れないが、その優しさはあまりにも危険すぎると快川は危惧したのであった。


「思い出してください。四年前に頼純様の居城を攻めたのは誰ですか。頼純様を越前に逃がすために戦った城兵たちを皆殺しにしたのは誰ですか。城下の寺に火を放ち、頼純様と親交のあった我ら僧侶たちを路頭に迷わせたのは誰ですか」


「…………全て斎藤利政だ」


 頼純は唸るように声を絞り出し、苦悶の表情でそう答えた。


 そうである。四年前、頼純は危うく利政の軍勢に攻め殺されそうになったのだ。間一髪のところで城の包囲網を脱し、越前朝倉氏の元に身を寄せることができたが、城に残った者たちはことごとく虐殺された。以前にも書いたが、「大桑乱後、集六万戦死骨、これを埋むる也」と記録にもある通りである。


 また、快川紹喜や師の仁岫じんしゅう宗寿そうじゅも戦の巻き添えを食い、利政の軍勢によって南泉寺を燃やされた。美濃の騒乱が落ち着き、現在の南泉寺を再建できるようになるまでの間、頼純と縁深き僧たちは尾張の瑞泉寺ずいせんじに避難していたのだ。


 頼純とその関係者たちは、利政の陰謀によって一度何もかもを失っているのである。いくら愛する帰蝶のためとはいえ、彼女の父――この世で最も恐怖すべき下剋上の鬼と馴れ合おうとするのは自殺行為と言うべきだろう。迂闊に手を差し出したら、毒牙をもって噛みつかれるに決まっている。


「そうであったな……。朝倉宗滴そうてき(朝倉孝景の大叔父)も『蝮は希代の野心家。ゆめゆめ油断めさるな』と度々書状を送って来ている。あの男に気を許すべきではない。

 ……しかし、私が美濃守護の座を勝ち取るために挙兵した時、利政が敵として立ちはだかったら、帰蝶は私と父の間で板挟みになってしまう。それが不憫でならないのだ」


干戈かんかを交えて敵を打ちのめすことだけが君主のいくさではありますまい。

 今はとにかく眠れる龍のごとく力を蓄え、頼芸様や利政殿が老いるのを待ちましょう。その間に頼純様が美濃国内の国人たちや近隣諸国の群雄、それに室町幕府を味方につけて勢力を拡大させれば、十年後には頼芸様・利政殿を圧倒するほどの実力を手に入れることができるはずです。そうすれば、帰蝶姫を悲しませずに、年老いて弱った利政殿を軍門に下すことが可能となるではありませぬか」


 快川の献策は、要するに「今は軽率に動かず、頼純の若さを武器にして蝮が老いぼれるのを待て」ということだ。


 快川紹喜という僧は、後に甲斐武田氏と美濃斎藤氏の同盟を画策するなど外交僧としての活躍も見せることになる人物である。今川家の雪斎せっさいほどではないが政治に対する関心は強く、あらゆる漢籍にも精通しているため、かくのごとき長期的な視野の戦略を提案できたのであった。


 ただ……本当の最上の策は織田や朝倉の力を借りて斎藤利政を討つことなのだろう、と快川は内心思っている。十年間もあの蝮が悪だくみをせずに大人しくしているとは到底考えられないからだ。


 危険極まりない下剋上の鬼は早々に退治するのが頼純のためである。しかし、父を夫に殺されて嘆き悲しむ帰蝶姫の哀れな姿は、快川も見たくはなかった。彼女には無垢な少女のままでいて欲しいと願っているのは、快川も頼純と変わりはない。


「なるほど。十年後でも私はまだまだ若い。対する頼芸と利政の主従はジジイになっている。辛抱強く十年待てば、自然と私に勝機がめぐってくるわけだな。その策ならば、帰蝶を泣かせなくて済む」


 頼純は、快川の助言を受けて力強く頷く。おのれがこれから何を成すべきか道が見えてきたような気がして、気持ちが晴れやかになった。


 しかし、頼純も快川も、この時はまだ気づいてはいなかったのである。

「帰蝶を泣かせたくはないから、いくら憎くても斎藤利政を討伐することはできない」と考えてしまっていること自体が、利政の思う壺なのだということを――。

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