伊賀忍者・後編

「何となく嫌な予感がして石を投げる準備をしていたのだが、俺の勘が当たったようだな。さすがは熱田神宮の大宮司だ。本人が言っている通り、いちおう神々の加護を受けているらしい」


 信長はそう言いながら刀を抜いた。


 忍びを一人討ち取り、眠り火の術を破るなど、あれだけ目立った活躍をしていた季忠が戦闘不能になったのである。敵側の心情としては季忠を殺してやろうと考えて真っ先に狙うに違いない。そう推測した信長は、敵が姿を現した瞬間に石を素早く投擲とうてきできるように身構えていたのである。


 小石と言っても、子供の頃から乳兄弟の池田いけだ恒興つねおきら悪ガキたちと印字いんじ打ち(石を投げて戦うこと)をして遊んでいた信長の速球は馬鹿にできない。厳しい修行で肉体が鍛え上げられている上忍の長門守ですら、一瞬意識が遠のきそうになった。


「……チッ。若造、この俺を負傷させるとはいい度胸だな。そなたから先に殺してやろう」


 長門守は、眉間から滴り落ちる鮮血を舐めながら信長を睨む。その激しい殺意がこもった視線に対して、信長はそれを上回る敵愾心てきがいしんを見せた。


「お前こそ、この織田三郎信長の大事な家臣の命を奪おうとするとはよい度胸だ。俺は、俺の守るべき者たちを守るためならば、どんなことでもする。――季忠を殺そうとしたお前は、絶対に許さぬ。八つ裂きにしてやるから覚悟しろ」


 燃えるような目をした憤怒ふんぬの形相で、処断の宣告を下す。元服したての少年とは考えられないほどの激烈たる気迫が、信長の五体からあふれ出ていた。


「織田……信長だと? 信秀の嫡子自ら竹千代奪還作戦の指揮を執っていたというのか?」


 まさか信秀の嫡男がこんなところにいるとはさすがに思っていなかった長門守は、驚きの声を上げる。つまり、虎七郎と自分たち伊賀忍者をここまで追いつめたのも、目の前の少年の知略だったということだ。


「どうやら、この少年はただ者では……あっ! 待て! 余計な手出しは……!」


 首領である長門守が信長と対峙しているのを見て、木々に潜んでいた数人の伊賀忍者たちが信長に一斉に飛びかかった。

 こんな若造を片付けるのは首領の手をわずらわせるまでもない、と判断したのだろう。だが、それは大いなる過ちであった。


「かぁっ‼」


 信長は怒声とも奇声ともつかぬ声を発し、白刃を振るう。


 信長の周囲で、パッ、パッ、パッと鮮血が赤い蝶のごとく舞い上がり、黒装束の忍びたちは次々と斃れていった。


 それは、信じられない光景だった。またたく間に、信長の足元には四人の忍びの死体が積み重ねられていたのである。他の忍びたちも、信長と切り結んだ末に重軽傷を負っていた。


 こんなことはあり得ない、と長門守は瞠目どうもくした。

 いくら次期当主として父の信秀から剣技を叩きこまれているといっても、しょせんは殿様の剣術である。数々の修羅場をくぐり抜けてきた伊賀の忍びたちに数人がかりで襲われたら、ひとたまりもないはずなのだ。


 しかし、信長が周囲の空気を震わせる咆哮ほうこうを上げた直後、伊賀忍者たちはほんのわずかな時間だが金縛りにかかったかのように動きが鈍くなり、バタバタと斬り伏せられていったのである。

 一喝ひとつで忍びたちの明鏡止水めいきょうしすいの心をかき乱すとは、この信長という少年はいったい何者なのか……。


(どう考えても常軌を逸している。まるで、おのれをあがめぬ人間は皆殺しにしたという牛頭天王ごずてんのうのごとき荒ぶる神が憑いているかのような……)


 ざわりざわりと、ひどく嫌な予感が長門守の胸中に広がった。この少年と戦ってはならない、と自分の心がそう激しく訴えていた。


「死ねッ‼」


 信長は討ち取った下忍たちの死体を踏みつけながら、長門守に迫る。


 長門守は何とか心の動揺を落ち着け、信長が放った一閃を忍刀で受け止めた。


 カッ! と、刃と刃が火花を散らす。重い一撃だった。

 信長と至近距離で目と目が合った。


 その直後、長門守は激しい悪寒に襲われていた。かつて感じたことのない恐怖である。信長と刃を交え、睨まれた刹那せつなに、幻覚が視えたのだ。おのれの生まれ故郷である伊賀の里がこの男が率いる大軍勢によって焼き尽くされる恐ろしい光景が、ハッキリと視えてしまったのだ。


(これは、未来に起こり得る我らの悲劇か? 昔、あの女が俺に告げた夢占いはこのことであったか……)


 古来より人々は夢で神のお告げを聞き、おのれの未来を占ったという。

 室町のこの時代にも、そのような夢占いを信じる風潮がまだ残っていた。


 長門守が若い頃に初めて抱いた女は歩き巫女(決まった神社に属さない巫女。旅の芸人、遊女を兼ねる者もいた)だったが、彼女は男の腕を枕にしながら夢占いをしていた。

 その女に昔、「あなたには刃を交えた相手の器量をはかれる直感のようなものがありますね。それは私の夢占いの力と似ているかも知れません。その力のおかげで、あなたは命拾いすることがあるでしょう」と睦事むつみごとの後に告げられたことがある。


(あの歩き巫女の言った通り、俺は戦った敵の器をおおよそはかることができる。だが、敵の刃を受け止めてこんなにも恐ろしい感覚に襲われたのは初めてだ。この信長という男は、荒ぶる神の化身やも知れぬ。この男と戦ったら、俺は死ぬ……!)


 長門守はバッと飛び下がると、「者共ものども、撤退だ。逃げるぞ」と生き残っている手下たちに怒鳴った。


「信長殿、我らは潔く負けを認めて逃げる。竹千代殿をさらった今川家の隠密は、あの山道をたどって頂上を目指しているゆえ、急いで追いかけられよ」


「何? 逃げるだと? そんなことを今さら言っても、俺は許さんぞ」


「……さらばじゃ‼」


「あっ、待て! 逃げるな! ……何をボーっとしているのだお前たち、あの忍びたちに石を投げつけろ!」


 信長はそう吠えて水野家の兵や百姓たちに石を投げさせたが、忍びたちの逃げ足は尋常なく速い。長門守ら伊賀忍者たちは風のごとく信長の前から消え去って行った。




            *   *   *




「長門守様、御宿虎七郎を裏切って逃げても本当によろしかったのですか? 寿桂尼様から命じられた任務を放棄して逃走したということが知れたら、もう今川家にはいられませんぞ。あの信長という男、年少のわりにはかなりの強敵でしたが、我らの手で討ち取れば大きな手柄になったでしょうに……」


 桶狭間山から疾風の速さで逃げ延びながら、長門守の手下の下忍がそうたずねた。


「あの男は我らには殺せん。アレは、絶対に逆鱗に触れてはならぬ荒ぶる異形の神だ。従う者には慈悲の心で庇護を与え、敵対する者はことごとく憤怒の業火で焼き尽くすであろう。我らが伊賀者であることをあの男に悟られる前に逃げ出さなければ、信長は伊賀の里を目の敵にするところであった……。信長に睨まれてはならぬ、皆殺しにされるぞ」


 たった一度刃を交えただけで、「信長という男の怒りは、荒ぶる神の怒りそのものだ」と長門守は直感していた。この不思議な直感力こそが自分の命を救うことになると歩き巫女は言っていた。長門守は、昔の女である歩き巫女の言葉を信じている。


(織田信長は、俺や伊賀の里を業火で焼き殺しかねないほど危険な敵になり得るということだ。今川家から出奔する道を選んででも、信長と敵対しないようにせねば……)


 今川義元の元で働けなくなるのは惜しいが、後々伊賀の里が信長の脅威にさらされる危険を冒してまで寿桂尼のババアの命令を遂行することはできない。そう割り切るしかない、と長門守は考えていた。


「しかし、今川家を出奔してこれからどうなされるのですか。伊賀の里に戻りますか」


「……どうしたものかな。とりあえず、弟子の山本やまもと勘助かんすけの顔を見るために甲斐かいにいったん立ち寄るか」


 桶狭間山から遥か遠くへと離脱すると、長門守は振り向いて山を睨みながら「恨むなよ、御宿虎七郎。信長の憎しみはお前がその一身に受けてくれ」と呟くのであった。




 ちなみに、長門守の悪い予感はずっと後年に的中する。

 天正伊賀の乱で伊賀忍者たちは織田軍と雌雄を決することになったのだ。


 伊賀忍者たちは猛然と戦い、織田信長に逆らったが、命を助けてもらうことを条件に織田軍を伊賀の里へと手引きした者がいた。


 その手引きした伊賀忍者の一人が、一説によると藤林長門守だという。








※次回の更新は、10月27日(日)午後8時台の予定です。

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