秀吉の母
もう何年も
家屋はそれなりに大きいので、弥右衛門が織田家の足軽として元気に戦場を走り回っていた頃は、百姓にしてはまあまあいい生活をしていたのかも知れない。しかし、今は見るも無残な荒れ果てようであった。
「こいつはひでぇな……。あんたら近所の農民たちは、助けてやらんのか。こんな家では、育ち盛りの子供たちはさぞかし辛い生活を送っているはずだぞ」
虎若が、ここまで連れて来てくれた農夫二人にそう言うと、二人はニヤッと笑った。
「ちゃんと助けてやっているさ」
「ちょっとした見返りはもらっているがな」
「見返り? それはいったい……」
虎若がそこまで言いかけた時、八歳ぐらいの
いや、出て来た、というよりは、誰かに蹴倒されて家の外へと吹っ飛んだようである。
「うおっ⁉ 坊主、大丈夫か?」
虎若は慌てて小さな体を受け止める。虎若が抱きとめなかったら、童は地面に頭を打って大怪我をするところだったであろう。
「何だよ、お前たち! お前たちも母ちゃんを
童は虎若の腕の中で大暴れして、ガブッと虎若の手を噛んだ。「いてぇ⁉」と叫び、虎若は手から童をはなす。
すると、虎若と一緒にいた中村の農夫二人が童の頭を殴り、蹴り倒した。
「黙れ、クソガキ。俺たちはお前の母親に銭を恵んでやっているんだぞ」
「
あと、あの猿顔の……ええと、何て名前だったかな。とにかく、お前の兄貴は義理の父親と大喧嘩して家を飛び出して以来、行方不明だ。働き手が一人もいないこの家は、俺たち近所の百姓たちに頼るしかねぇんだよ。そんなでかい態度を取ったら、お前の母ちゃんを絞め殺すぞ!」
「うっ……ぐうう……」
大人二人に怒鳴られ、小一郎という名の童は
「こ……小一郎! もうやめなって!」
今度は、十四、五歳の娘――小一郎の姉だろうか――が家から慌てて出て来た。五歳ぐらいの童女も、わんわん泣きながら姉の後を追って走って来る。
「姉ちゃんと一緒に畑仕事に行こう? ね?」
「嫌だ! 姉ちゃんは母ちゃんが村の奴らに虐められて、悔しくないのか?」
「か……母ちゃんは虐められているわけでは……」
姉は小一郎に何と説明するべきか迷った様子で口をつぐむ。わずかに顔が紅潮していた。
あばら屋の中からは、女の
(ま、まさか……)
妙な胸騒ぎを感じた虎若は、意を決してあばら屋の中をのぞきこんだ。
虎若が見た光景は、異常なものだった。三十代半ばか後半と思われる女――弥右衛門の妻・なかが、三人の男とまぐわっていたのである。
家の片隅には、病人らしき男が寝床で横たわっていた。彼がなかの新しい夫の竹阿弥だろうか。重病のようで、顔は青白い。虚ろな目で、眼前で行われているおぞましい行為をじっと見つめていた。妻が同じ屋根の下で汚されていても怒り狂って怒鳴ることもできないほど、心身ともに衰弱してしまっているようだ。
「な……何をやっているんだ、あんたら!」
「落ち着けって、若いの。
「そうそう。でも、こんな貧乏な家には借金を返す余裕はないから、俺たちは代償としてこの女を抱いてやっているのさ」
農夫たちは
なかは、前の夫の弥右衛門が足を怪我して働けなくなった時、織田信秀の
弥右衛門が死ぬと、竹阿弥はなかの家に上がり込んできて、そのまま新しい夫として居座った。
そして、義父である自分に
それからしばらくして、我が子を家から追い出したことに弥右衛門の亡霊が怒ったのか、竹阿弥に天罰が下った。竹阿弥は元々体が弱かったのだが、藤吉郎が出奔して一か月後に重い病に冒されたのである。あれよあれよという前に衰弱していき、それから半年後には寝床から起き上がることすら困難になってしまった。
その頃には、同朋衆を辞した時に信秀からもらった金も使い果たしており、なかと子供たちは再び貧困にあえぐことになった。
大人の男の働き手が一人もいないのだから、また誰かに銭を借りるしかない……。
同郷の人々から「尻軽女」と
(乱世だ……。か弱い者は、とことん
そんな彼女の詳しい事情を知らなくても、虎若にはだいたいの察しはついていた。故郷である
「……こんな人の弱みにつけこむような真似、俺は気に食わねぇ。子供たちが泣いているじゃねぇか」
「おいおい、若いの。そんな恐い顔をするなよ。この尻軽女だって楽しんでやっているんだ。この間なんて、伊勢からやって来た旅人とも寝たんだぜ、この女」
ヘラヘラ笑いながら、農夫が虎若の肩を叩く。その男はすでに素っ裸だった。
カッとなった虎若は、自分に触れた農夫を力の限り殴り飛ばしていた。
「ごふっ……!」
「何をしやがる、この甲斐
そばにいたもう一人の農夫が虎若につかみかかろうとしたが、虎若は「このクソ野郎どもがッ!」と怒鳴りながら、農夫の股間を思いきり蹴った。急所に痛恨の一撃を喰らった農夫は、白目を剥きながら倒れる。
「な、何だ、あの若造は!」
「今いいところなのに邪魔しやがって……」
「袋叩きにしてやる!」
屋内でなかの肉体を
「きったねぇものを見せるんじゃねえ! 目が腐るだろうがッ!」
虎若は、まず先頭の男を恐るべき石頭で頭突きして
十代から足軽稼業で戦場を渡り歩いてきたのである。立場の弱い女をよってたかって犯すような
「ひ、ひ~! なんて奴だ!」
農夫たちは、一目散に逃げだした。気絶している者が二人いたが、そいつらは置き去りにされてしまった。
虎若は勝ち誇ったように笑い、「おととい来やがれ!」と吠える。
「すげぇや、おじさん! 母ちゃんを虐めていた奴らをこてんぱんにやっつけてくれて、ありがとう!」
小一郎が、大喜びしてはしゃいでいる。
「わっはっはっはっ。これぐらいは朝飯前さ。なんてたって、俺は織田家の若様の足軽衆なんだからな。……でも、俺はまだ二十代だから、おじさん呼ばわりはやめろ」
子供が大好きな虎若は、カラカラ笑い、小一郎の頭を撫でてやった。
「さっきはごめんよ、おじさ……お兄さん。俺、あんたも母ちゃんを虐めに来た悪い奴らだと勘違いしちまったんだ」
「俺は弥右衛門さんの友達だ。友達の嫁さんを虐めるわけがねぇよ」
「え? 死んだ父ちゃんの友達なのか?」
「おう。俺は、三年前の美濃攻めで弥右衛門さんと知り合って……痛っ⁉ いたたた⁉」
いきなり背後から尻を蹴られ、虎若は悲鳴を上げた。振り向くと、あられもない姿のなかが憤怒の表情で虎若を睨んでいた。
「な、何するんだ、なかさん」
「余計なことをしないでおくれよ、あんた! 子供と病気の夫を養うためにどうしても銭が必要なんだ!」
「し……しかし、あんなことをしていたら、あの世の弥右衛門さんが悲しむぜ?」
「死んじまった人間のことなんて、気にしていられるか。生きている家族を食わせていく手だてを考えるだけで精いっぱいなんだ。それとも、あんたが責任を取って私たち五人家族を養ってくれるのかい?」
なかは、つかみかからんばかりの剣幕で虎若を罵る。虎若はたじたじとなり、一歩、二歩と後ずさった。
「ご、五人家族? 六人じゃないのか? 藤吉郎っていう子はどうしたんだ? 弥右衛門さんがとても可愛がっていたという話の……」
「あの子だったら、竹阿弥さんが家から追い出しちまったよ。……体がとても小さくて、非力な子だったから、たぶんもう生きてはいないさ。私と弥右衛門さんの最初の子だったのに……。
死んじまったあの子の分まで、私は何とかして残された三人の子を立派に育てあげたいんだよ。そのためだったら、私は何だってしなければいけないんだ」
「……でも、あんた、子供たちは泣いているぜ? 我が子の笑顔を守るのが親の役目じゃねぇか。たしかに子供を守るためなら何でもするべきだが、子供を泣かしちまっているのならそんなことやめるべき……痛い! 痛い! 急所を狙って蹴るなってば!」
「赤の他人が綺麗ごとを並べ立てて説教しないでおくれ。あんたに何が分かるっていうんだ。さっさと去りな!」
なかは、金切り声で
虎若は逃げ回り、「わ、分かった。分かったから、やめてくれ」と訴えた。女に乱暴はしない主義なので、やり返すことができないのである。
「だが、この銭だけは置いていく。あんたらがしばらく食っていけるだけの金額はあるはずだから、受け取ってくれ」
股間蹴りされるのが恐くてなかに近寄れない虎若は、銭がどっさりと入った袋を彼女に向かって放り投げた。
「何だい、これは……?」
なかは、不審そうな顔をして虎若を見つめる。どこかで盗んできたのか、と怪しんだのだ。
「織田の殿様から頂戴した恩賞だよ、恩賞。あんたの旦那の弥右衛門さんは、美濃攻めで自分の命と引き換えに殿様と多くの将兵を助けた。だから、その褒美だ。俺がご家老の
「でも、雑兵への恩賞にしては多すぎるんじゃ……」
「いいから、受け取れ! じゃあな!」
虎若はそう言い残すと、なかが止める間もなく風のごとく走り去った。
(弥右衛門さんの家族の悲惨な生活を見ちまったら、おのれ一人の幸福のことなど考えられなくなっちまったじゃねぇか……)
勝介からもらった恩賞の全て――つまり、全財産をなかに渡してしまっていた。ここに長居すると、「やっぱり、ちょっとだけ返してくれ」と未練たらしく言ってしまいそうだったから、さっさとこの場を去ることにしたのである。
「ちっくしょう! 一文無しになっちまった! また戦場で手柄を立ててやらぁー‼」
虎若は沈みゆく夕日に向かって吠え、涙ぐむ。
なかと子供たちは、小さくなっていく虎若の背中を呆然と見つめていた。
このなかという女性こそが、後に
弟の小一郎は、秀吉の名補佐役・
姉のともは、後に秀吉の養子となって関白職を引き継ぐ豊臣秀次を生む。
そして、末の妹でまだ五歳のあさひ(朝日姫)は、徳川家康の後妻となる運命にあった。
なかと子供たちは、そんな運命が自分たちに待ち受けていることなど、現時点では知るよしもない――。
<秀吉の母・なかと子供たちについて>
なか(大政所)が産んだ秀吉の兄弟姉妹として歴史上有名なのは、弟の豊臣秀長、姉のとも、妹の朝日姫(旭姫)です。
しかし、ルイス・フロイスの『日本史』には、「それ以外にももっと秀吉には兄弟姉妹がいたのではないか?」と思わせる記述があります。
フロイスの『日本史』によると、
「関白(秀吉)の実の兄弟を自称する若者が伊勢から大坂にやって来て、関白と面会した」
とあります。
秀吉は母の大政所に心当たりはあるかと聞き、大政所は「(そんな若者を)産んだ覚えはない」と答えました。若者は即刻斬首され、さらし首にされました。
歴史学者の渡邊大門氏は、「母の大政所は、貧苦にあえぐ中で、複数の男性と関係を持ち、子を産んだ可能性が高い」と著書の『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社 歴史新書)で述べています。
つまり、少年期に家出していた秀吉が知らないところで母親は秀吉の兄弟姉妹を複数人産んでいたと考えられます。天下人にのぼりつめて貧しかった自分の一族の過去を消し去りたい秀吉にしてみたら、これは許容できない事実だったことでしょう。秀吉は、姉のとも、弟の秀長、妹の朝日姫しか肉親とは認めたくありませんでした。
伊勢からやって来た若者(秀吉の弟?)を殺害した三、四か月後。秀吉は「他にも母が産んだ自分の姉妹が尾張の国にいるらしい」という情報をつかみます。秀吉は、その自分の妹と思われる女を「我が姉妹と認めてそれなりの待遇を約束するから、都へ来なさい」と呼び出しました。しかし、これはもちろん秀吉の姦計。女はその言葉を鵜呑みにして上京したところ、ただちに逮捕されて斬首されたそうです。
今作品で秀吉の母が近所の百姓たちと肉体関係を持っている設定にしたのは、このような歴史的背景を参考にしたためです。
(秀吉は母ちゃん大好きっ子だったから、こういう事実を後から知ってしまってショックだったんじゃないでしょうかね……。案外、人たらしだった秀吉がダーク化していった原因の一つなのでは……(^_^;))
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