春の黄昏・前編

 その頃、信長は那古野なごや城の城主館に引き籠っていた。


 三河の戦場から帰還して以来、毎日朝から晩まで兵法書を読みむさぼっている。自らに罰を課するかのごとく休みや睡眠を取らず、乳母のお徳が部屋に運んで来た食事にすらほとんど手をつけていない始末であった。


「信長様! 終日ひねもすそのように難しい顔をして書見をなさっていたら、お体の毒ですぞ! 熱田の神々もきっと心配していることでしょう! 外に出て、私と武術の稽古をしましょう! ちょえーーーい‼ ちょわぁーーー‼」


「信長様ぁ~。せっかく私が祝勝の宴を欠席して遊びに来てあげたのですから、ちょっとは構ってくださいよぉ~。さい(サイコロ)を持ってきたから、博打をやりましょう、博打」


 信長が黙々と書物を読んでいる横で、武闘派神職・千秋せんしゅう季忠すえただ、戦国のゆとり社員・佐久間さくま信盛のぶもりがぎゃあぎゃあとうるさく騒いでいる。信長はしばらく無視していたが、やがてため息をつき、本を閉じた。


「お前たち、静かにしろ。俺はもう二度とあのような負け戦を経験せぬように、兵法書を一から読み直しているところなのだ。お前たちも少しは兵法書を読んで勉強を……おい、季忠! 室内で薙刀を振り回そうとするな! 部屋の調度品を壊したら怒るぞ⁉」


「信長様……。いくら初陣で負けたからって、そんなにイライラしなくても……」


「自室でこんなにも騒がれたら、誰でもイライラするわ! たわけッ!」


 信長は、信盛の頭をポカンと叩いた。いちいちイラッとする発言をするゆとり武士である。


 側近の池田いけだ恒興つねおき山口やまぐち教吉のりよしがそばにいたら、こんな阿保どもなど部屋からとっくに追い出してくれているのだが……。

 残念ながら、恒興ははやし秀貞ひでさだの馬を盗んで勝手に城を飛び出した罪で謹慎中、教吉は重傷を負ったために父親の教継のりつぐの領地・鳴海なるみ城で療養中だった。


 季忠と信盛は、初陣で負けてしまった信長が気落ちしていないかと心配して様子を見に来てくれたみたいだが、さすがにちょっとうるさすぎる。


「……まったく、もう。こんな状態では書物など読めぬわ」


「信長様、立ち上がってどちらへ?」


萬松寺ばんしょうじ(那古野城の南にある織田家の菩提寺)に行って、大雲だいうん和尚のもとで坐禅をしてくる」


「では! 私もお供しましょう!」


「あっ、私も行きます。暇だから」


「来 る な ‼ 大伯父上が住職をしている寺で騒がれたら困る!」


 信長が、次第に頭痛がしてきた頭をおさえながらそう怒鳴ると、噂をしていた大伯父の大雲だいうん永瑞えいずいが部屋に現れた。


「失礼するぞ、信長。大声を出して、どうしたのじゃ。初めてのいくさで負けて意気消沈しておるのではと案じて訪ねてみたが……わりと元気ではないか。よかった、よかった。かっかっかっ」


「あっ、これは大雲和尚。こやつらが俺の書見の邪魔をするゆえ、叱っていただけです。

 ……ちょうど、和尚の寺に赴こうとしていたところでした。和尚、一か月ほど寺籠りをさせてくだされ。戦場で不覚を取ったおのれの甘さを徹底的に正すべく、修行がしたいのです」


 室内にいきなり入って来た大雲に対して、信長は礼儀正しく頭を下げてそう頼みこんだ。


 大雲は、そんな信長の生真面目な態度に苦笑しつつ、「そなたは幼い頃から変わらぬのぉ。ちょっとは肩の力を抜け」と優しく語りかけるように言う。


「織田家の嫡男たる者、常におのれに厳しくあらねばならない……。そう自らを律しているそなたの真面目さは立派じゃ。しかし、たまには息抜きをすることも大切じゃぞ? あまりにも度が過ぎた真面目さは、人の心を凝り固まらせてしまう。柔らかく素直な気持ちを失いかねない。『虚襟きょきんあらざれば忠言を入れず』じゃ。おのれの凝り固まった考えを捨て、虚心にならなければ、家臣たちの忠言が耳に入らなくなってしまう。寺籠りなどとじじい臭いことを言っておらず、戦が無い時ぐらいは遊べ遊べ」


「和尚様……」


 頑固な性格の信長も、織田弾正忠家の長老的存在である大雲の言葉には、さすがに大人しく耳を傾けるようだ。大雲に「凝り固まるな」と諭され、自分が初陣の敗戦でいじけて腐りかけてしまっていることにようやく気づくことができた。


「……分かりました。では、気晴らしに責め馬(馬を乗りならして調教すること)でもしてきます」


「あのなぁ、そんなのは遊びとは言わんぞ? やれやれ、信秀の奴め。自分は好色なくせして、息子に男の遊びを何一つ教えてはおらぬのか。……男が『遊ぶ』と言ったら、これじゃよ信長」


 大雲はそう言うと、ニヤリと悪戯っぽい笑みを見せ、パンパンと両の手を叩いた。


 それを合図にして信長の居室にぞろぞろと入って来たのは、なんと五、六人の遊女あそびめたちであった。


 見目麗しい遊女たちは、キャッキャッとはしたなく笑いながら、信長、季忠、信盛を取り巻き、しなだれかかったり、抱きついたりしてくる。


「な……ななな⁉ 坊主が城に遊女を連れ込まないでください!」


「ああ、いけませぬ! 私は神に仕える身、そのようなことは! そのようなことはぁ~!」


「うほっ、いい女たちがたくさんじゃ! お……和尚、一人か二人お持ち帰りしてもいいですか⁉」


 信長たちは三人三様の反応を示し、大雲は面白そうに「ワッハッハッハッ!」と大笑いしている。


 そういえば、すっかり忘れていたが、この和尚はこういう人だった。幼少の信長に恐ろしい牛頭天王ごずてんのうの絵を見せて驚かせ、大喜びするような悪戯ジジイだったのだ……。


「信長よ。そんなに狼狽ろうばいしているところを見ると、さてはおぬし……まだ童貞じゃな? ちょうどいい機会じゃ、ここで童貞を捨てて英気を養え。女の愛撫こそが、戦士の力の源よ。わしは坊主ゆえ残念ながら乱交に加われぬが、しっかりと遊んで次の戦のために力をつけるがいい。あはははは」


「じょ……冗談ではない! 俺には想い人がいるのだ。名も知らぬ女たちと乱交して童貞を捨ててたまるか!」


 信長は顔をなつめのように真っ赤にしてそう叫ぶと、遊女たちを押しのけ、部屋を逃げるように飛び出した。


「おいおい、信長。どこに行く気じゃ?」


「どこでもいいだろう、悪戯ジジイッ!」


 頬や首元にべっとりとついたべにを手の甲で乱暴に拭いながら、信長はドタドタと廊下を駆けて行く。すれ違ったお徳が「の、信長様⁉」と驚いていた。


「信長様ぁー! 私もお供いたしまするーッ! お待ちくだされぇー!」


「うええ⁉ 季忠殿まで顔中に紅をつけて、どうしたのです⁉」


 何がどうなっているのか分からず、お徳が信長の居室に行ってみると、遊女たちに囲まれてウハウハ言っている信盛がいた。大雲は、口うるさいお徳がやって来るのを気配で敏感に察して、素早く雲隠れしてしまったらしい。


「ののの……信盛殿ぉーーー‼ これは何事ですかぁーーーッ‼」


 激怒したお徳によって遊女たちは城から叩き出され、信盛は散々に説教されることになるのだが……。生駒いこま屋敷のかえでの元へ向かっていた信長には、あずかり知らぬことである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る