春の黄昏・前編
その頃、信長は
三河の戦場から帰還して以来、毎日朝から晩まで兵法書を読みむさぼっている。自らに罰を課するかのごとく休みや睡眠を取らず、乳母のお徳が部屋に運んで来た食事にすらほとんど手をつけていない始末であった。
「信長様!
「信長様ぁ~。せっかく私が祝勝の宴を欠席して遊びに来てあげたのですから、ちょっとは構ってくださいよぉ~。
信長が黙々と書物を読んでいる横で、武闘派神職・
「お前たち、静かにしろ。俺はもう二度とあのような負け戦を経験せぬように、兵法書を一から読み直しているところなのだ。お前たちも少しは兵法書を読んで勉強を……おい、季忠! 室内で薙刀を振り回そうとするな! 部屋の調度品を壊したら怒るぞ⁉」
「信長様……。いくら初陣で負けたからって、そんなにイライラしなくても……」
「自室でこんなにも騒がれたら、誰でもイライラするわ! たわけッ!」
信長は、信盛の頭をポカンと叩いた。いちいちイラッとする発言をするゆとり武士である。
側近の
残念ながら、恒興は
季忠と信盛は、初陣で負けてしまった信長が気落ちしていないかと心配して様子を見に来てくれたみたいだが、さすがにちょっとうるさすぎる。
「……まったく、もう。こんな状態では書物など読めぬわ」
「信長様、立ち上がってどちらへ?」
「
「では! 私もお供しましょう!」
「あっ、私も行きます。暇だから」
「来 る な ‼ 大伯父上が住職をしている寺で騒がれたら困る!」
信長が、次第に頭痛がしてきた頭をおさえながらそう怒鳴ると、噂をしていた大伯父の
「失礼するぞ、信長。大声を出して、どうしたのじゃ。初めての
「あっ、これは大雲和尚。こやつらが俺の書見の邪魔をするゆえ、叱っていただけです。
……ちょうど、和尚の寺に赴こうとしていたところでした。和尚、一か月ほど寺籠りをさせてくだされ。戦場で不覚を取ったおのれの甘さを徹底的に正すべく、修行がしたいのです」
室内にいきなり入って来た大雲に対して、信長は礼儀正しく頭を下げてそう頼みこんだ。
大雲は、そんな信長の生真面目な態度に苦笑しつつ、「そなたは幼い頃から変わらぬのぉ。ちょっとは肩の力を抜け」と優しく語りかけるように言う。
「織田家の嫡男たる者、常におのれに厳しくあらねばならない……。そう自らを律しているそなたの真面目さは立派じゃ。しかし、たまには息抜きをすることも大切じゃぞ? あまりにも度が過ぎた真面目さは、人の心を凝り固まらせてしまう。柔らかく素直な気持ちを失いかねない。『
「和尚様……」
頑固な性格の信長も、織田弾正忠家の長老的存在である大雲の言葉には、さすがに大人しく耳を傾けるようだ。大雲に「凝り固まるな」と諭され、自分が初陣の敗戦でいじけて腐りかけてしまっていることにようやく気づくことができた。
「……分かりました。では、気晴らしに責め馬(馬を乗りならして調教すること)でもしてきます」
「あのなぁ、そんなのは遊びとは言わんぞ? やれやれ、信秀の奴め。自分は好色なくせして、息子に男の遊びを何一つ教えてはおらぬのか。……男が『遊ぶ』と言ったら、これじゃよ信長」
大雲はそう言うと、ニヤリと悪戯っぽい笑みを見せ、パンパンと両の手を叩いた。
それを合図にして信長の居室にぞろぞろと入って来たのは、なんと五、六人の
見目麗しい遊女たちは、キャッキャッとはしたなく笑いながら、信長、季忠、信盛を取り巻き、しなだれかかったり、抱きついたりしてくる。
「な……ななな⁉ 坊主が城に遊女を連れ込まないでください!」
「ああ、いけませぬ! 私は神に仕える身、そのようなことは! そのようなことはぁ~!」
「うほっ、いい女たちがたくさんじゃ! お……和尚、一人か二人お持ち帰りしてもいいですか⁉」
信長たちは三人三様の反応を示し、大雲は面白そうに「ワッハッハッハッ!」と大笑いしている。
そういえば、すっかり忘れていたが、この和尚はこういう人だった。幼少の信長に恐ろしい
「信長よ。そんなに
「じょ……冗談ではない! 俺には想い人がいるのだ。名も知らぬ女たちと乱交して童貞を捨ててたまるか!」
信長は顔を
「おいおい、信長。どこに行く気じゃ?」
「どこでもいいだろう、悪戯ジジイッ!」
頬や首元にべっとりとついた
「信長様ぁー! 私もお供いたしまするーッ! お待ちくだされぇー!」
「うええ⁉ 季忠殿まで顔中に紅をつけて、どうしたのです⁉」
何がどうなっているのか分からず、お徳が信長の居室に行ってみると、遊女たちに囲まれてウハウハ言っている信盛がいた。大雲は、口うるさいお徳がやって来るのを気配で敏感に察して、素早く雲隠れしてしまったらしい。
「ののの……信盛殿ぉーーー‼ これは何事ですかぁーーーッ‼」
激怒したお徳によって遊女たちは城から叩き出され、信盛は散々に説教されることになるのだが……。
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