松平広忠包囲網・後編

「……叔父上はどう思われますか?」


 信光のぶみつ以外の意見も聞いてみたくなった信秀は、鼻をほじくっていた秀敏ひでとしに顔を向けて問うた。他の家来たちでは信光が開戦を主張した直後に反対意見は言いにくいだろうと考え、信光よりも目上の秀敏に話を振ったのである。


「ふがっ、わしの意見か?」


 秀敏は、左手の小指にへばりついている鼻くそを右手の指でペシッと弾きながら、とぼけた声でそう言った。近くに座っている内藤ないとう勝介しょうすけが思いきり眉をひそめているのは、おおかた秀敏の鼻くそが着物の袖についたのだろう。


「そうじゃのう……。儂も、三河に攻め込むには絶好の機会だとは思う。

 だが、我らが東進し、今川が西進し続けた結果、両軍が三河で激突してしまう恐れが無きにしも非ずじゃ。三河の山野で松平という子兎を狩るつもりが、今川という大蛇と鉢合わせ……というのは避けたいものじゃな。いくさを起こすにしても、慎重にせねばのぉ」


(さすがは秀敏叔父上。普段はふざけたじいさんだが、口を開けばなかなか鋭いことを言ってくれる)


 信秀はそう感心したが、信光は「三河の山野で大蛇と鉢合わせですと? それこそ、望むところでしょう」と笑った。


「今川義元は、いずれは倒さねばならない敵。邪魔者はいっきに片づけたほうがいいに決まっているではありませんか」


 信光は戦狂いだが、けっして馬鹿というわけではない。大胆不敵なことを口で言いつつも、頭の中では敵を滅ぼすための謀計を常に考えていて、意外と策略家の才もある。だから、信光は「我が軍には今川義元の軍を倒せるだけの実力がある」という彼なりの判断があったうえで、さっきから強気な発言をしているのだろう。


 信秀も、(もしかしたら、今の俺なら今川いまがわ義元よしもとに勝てるかも知れない)と思わぬわけではない。駿河・遠江二か国の大大名に真っ向から勝負を挑んで勝ってみたいという武人としての願望も当然持っている。


 ……だが、信秀は、先年に美濃で斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん)に手痛い敗北を喫したばかりである。万が一、立て続けに敗戦を経験してしまったら、今度こそ尾張国内での信秀の名声が地に堕ちかねないのだ。信光が言う通り、義元はいつか倒さねばならない敵だが、今すぐに義元に一大決戦を挑むのは剣呑けんのんかも知れない。


(松平広忠ごときならば、容易く勝てる自信がある。それに、今川軍の東三河侵攻によって三河国内に動揺が走りつつある今、何もせず静観しているのはもったいない。

 ここは、慎重を期して西三河を少々荒らす程度にとどめておくべきか。それとも、今川軍と正面衝突する危険を冒してでも一気呵成に三河の奥深くまで猛進すべきか……。非常に悩ましいな)


 信秀は、欲を出すか否か迷っていた。


 そんな時に、唐突に口を開いたのが、嫡男の信長である。


「……父上。少しよろしいですか。疑問に思っていることがあるのです」


「む? 何だ、信長。言ってみろ」


 重臣たちはちょっと驚いた顔をして、美貌の若殿を見つめた。

 まだ十三歳の信長は、次期当主としての経験を積むために評定に参加しているものの、いわばお飾りのようなものである。家臣たちのように積極的に発言する義務はないし、発言したくても政治のことがまだよく分からないのでできないだろう、と皆が思っていた。それが、「疑問に思っていることがある」といっぱしなことを言い出したので、何事かと驚いたのだ。


 だが、大人たちはそんなふうに考えてはいるが、信長は根っからの生真面目な性格だ。評定に出ているからには自分も織田家の一員として何らかの有意義な意見や提案を出すべきだ、と真剣に思っていた。だから、ふと疑問に感じたことを積極的に発言しようとしたのである。


「俺は、今川義元がどのような武将なのか知りません。しかし、よほどの愚将ではないかぎり、奴も我らと同じ危惧を抱くはずです。『自分が東三河で軍事行動を起こしたら、西三河で勢力を伸ばしている織田信秀の軍と衝突するのではないか』と……。

 義元も、当面の敵は戸田とだ氏だから、我ら尾張衆と余計な戦はしたくないはず。三河での戦がこう着状態に陥れば、昨年に講和したばかりとはいえ関東の北条氏の動きが気がかりになってくるはずですから」


「うむ。たしかに、信長の言う通りじゃ。今川も、今は我らと無暗に争いたくないだろう」


「俺が義元ならば、三河国内に攻め込む前に父上と争わずに済むように手を打ちます。何の準備もなく、戦を起こしたりはしません」


「そのような策があるというのか?」


「はい。俺だったら、『共に三河を攻めよう』と父上に持ちかけます。つまり、三河攻めを織田家と今川家の共同作戦にするのです」


「な、何っ? 俺が義元と手を組むだと……⁉」


 あまりにも意外な発言に、信秀だけでなく、政秀ら重臣たちも目を見開いて驚愕した。

 信長は、父たちの驚きぶりを特に気にすることもせず、三河国の地図を指差しながら自分の考えを滔々とうとうと語り続ける。


「たとえば、西三河から侵攻した父上はどこそこの川の西側まで、東三河を進軍する義元軍もその川の東側まで……とあらかじめに両軍がどこまで占領してよいか決めておくのです。その境界線を越えない限りはお互いに自由に敵地を攻め取ってもいいと約定やくじょうを結んでおけば、三河国内で織田軍と今川軍が武力衝突してしまう危険を極力回避できるではありませんか。それに、織田と今川が手を結んでいるという事実自体が、松平広忠にとっては大いなる脅威となります。

 ……このような上手い策があるのに、なぜ義元は父上に三河攻めの共同作戦を持ちかけて来ないのか、不思議でならないのです」


「いや、それは……。義元にもそんな発想はないのではありませぬか? 我らは義元のことを鼻から敵だと決めつけていますし、向こうも同じように考えているはずですから」


 内藤勝介が信長の奇想に驚きつつそう言った。はやし秀貞ひでさだもうんうんと頷いて同意する。しかし、平手政秀は「いやいや、分からぬぞ」と同僚たちの顔を見回しながら言った。


「もしかしたら、近い内に今川から使者が来るやも知れぬ。今川家にも、信長様のように柔軟な外交戦略を思いつくことができる人物が一人おるからな。その人物の名は――」


 と、そこまで政秀が語ったちょうどその時である。


「申し上げます」という若い近習の声が評定の間に響き渡った。信秀が、どうした、とたずねると、その若い近習が驚くべき報告を言上したのである。


「たった今、今川家よりの使者として太原たいげん崇孚そうふ雪斎せっさい)様が来着。殿様に面会を願い出ておりまする」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る